小出裕章氏が、非常に優秀な学者であることに異存はない。人間性も優れているように見える。姿勢が非常に謙虚だ。嘘をつかない。背伸びしない。強圧的なことを言わない。まるで学者の鑑ではないか……。
https://hiroakikoide.wordpress.com/
だが、私は彼を信用しきれない。原発の真実を述べ続けた姿勢には敬意を表する。しかし、彼は京都大学の熊取原子炉に依存して生活してきた。
「京大熊取六人衆」というグループがいて、国内反原発派のよりどころでもあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E5%8F%96%E5%85%AD%E4%BA%BA%E8%A1%86
彼らは、国家権力に盲従したわけではない。原発の危険性を訴え続け、日本政府や原子力村から弾圧を受けてきた。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/2462
それでも、私は「京大熊取原発」を運転し続けることに本質的な疑問を抱いてきた。
https://www.rri.kyoto-u.ac.jp/facilities/kur
たかが出力5Mw、住宅街のなかでありながら、GDFREAKで見ても、大きな被害は見えない。しかし、確実に環境放射能汚染が起きているはずだ。とりわけ、希ガス類やヨウ素だ。キセノン133・クリプトン85は、運転する以上、必ず出てくるはずだ。しかも、測定しようがない。
https://jp.gdfreak.com/public/detail/jp010120004010127361/1
「これくらいなら許される」と思いたいところだが、この施設を利用して育った研究者の大半が、原子力産業に吸収されてゆく。こんな施設は、日本の未来、子供たちの未来にとって、本当に役に立つとは思えず、有害無益な代物に見える。
結局、何のために運営されるのかといえば、学問という虚構の価値観を共有する巨大な集団のなかで、自分の価値を見いだしたい人たちが、自己満足のために運営する施設だ。
それが、人類の未来、子供たちの未来という、より本質的な価値観から演繹されている論理上にあるとは思えない。
こんな権威で人を屈服させたがるような施設が、子供たちの未来、人々の役に立ったことなどない。本当の心ある価値観を求める人にとっては、無用の長物なのだ。
いったい、この施設が何を生み出したというのだ?
私は、チェルノブイリ事故後の、六人衆の一角、今中哲治氏の活躍に敬意を表しながら、彼がチェルノブイリ事故による犠牲総数が18000名と試算したことに、激しく憤った。
それではアーネスト・スタングラスやECRRが指摘していた胎児・新生児に対する被曝ダメージ、それに10年を超えるようなスパンを持った発癌潜伏期間がまるで考慮されていないと思った。
「いったい、誰のための研究なのか?」と思った。
同じ意味で、半世紀前、名古屋で「反原発キノコの会」を主宰して、チェルノブイリ支援を続けてきた河田昌東氏にも強い疑問を感じる。
彼は生物学者なので、ゲノム解析にX線を使っていた。ある講演会で、彼は、研究用の被曝について正当化する発言をした。
ゲノム解析に、妊婦研究員が参加したが、「年間5ミリシーベルトを超える被曝はなかったから安全だ」と発言したのだ。
だが、広島長崎の被曝者のデータを解析したABCC=放影研の報告書によれば、5ミリシーベルト(5ミリグレイ)以上の原爆ガンマ線を被曝した胎児の4.4%に重度知的障害が現れたと書かれている。
https://www.rerf.or.jp/programs/roadmap/health_effects/uteroexp/physment/
妊娠8週~15週の器官形成期には、サリドマイド禍で分かるように、胎児は放射線や化学物質の刺激に対して60才大人の100万倍以上の敏感さがある。
絶対に、自分の放射線感受性を基準に、胎児を考えてはならないのだ。
これも、学者という巨大な価値観集団のなかで、いつのまにか一番大切なことを忘れてしまっているのではないかと思った。
河田氏は、半世紀近く前、名古屋市科学館に展示してあったイエローケーキが危険だと文句をつけて撤去させたことがあったが、そんな被曝問題の感受性を、自分の依存する「科学」という価値観集団のなかで見失ってしまったのだと、私は思った。
河田氏は、フクイチ事故の講演でも、やたらに低線量被曝の安全性を強調するようになっていた。彼は、いつのまにか、被曝弱者の代理人ではなくなっていた。
あれほどチェルノブイリ現地の子供たちの支援を行って高く評価されていたのに、「低線量被曝が安全だ」と言い出した瞬間、自分の半生の実績をゴミために投げ込んでしまった。
また、医師の多くが、「医療用の被曝は被曝ではない」という悪魔の信仰に洗脳されていることに驚かされる。
とりわけ、X線CTは、通常一回あたり50ミリシーベルトの被曝があり、担当医が変わると、「自分のデータ」が欲しい医師は、新しくCTを撮影したがるので、累積で数百ミリシーベルトの被曝を与えてしまうことが少なくない。
例えば、間質肺炎では、CT以外に何枚も単板撮影を繰り返す。来院の節目に進行具合を確認するために撮影するのだ。
転院でもすれば、前のデータがないので、全部新しく撮影し直すことになる。ところが、被曝発癌の潜伏期間が10年もあるので、ほとんどの場合、因果関係の追求が不可能なのをよいことに、医師は「累積被曝の危険性」を決して顧みようとしない。
ほとんどの医師が「医療被曝は安全」という迷信に凝り固まっている。
https://www.hosp.med.osaka-u.ac.jp/home/hp-radio/info.html
https://www.marianna-u.ac.jp/Radiology/patient/17310/017439.html
「100ミリシーベルトまで安全」という、原子力産業がでっちあげたデマを信仰しているのだ。だが、実際には、医師は「良い写真が欲しい」という欲から撮影したがり、軽く100ミリを超える累積被曝になってしまうことが多い。
「肺疾患は肺癌になりやすい」ことが知られているが、実は原因はX線撮影被曝にある強い疑いがあるのだ。
だから、私は、そんな医師の「呪われた特性」を知っているから、決して医療に頼らない。でも、医療の本質的な「被曝軽視」という間違いが定着していることを大半の患者が知らないので、医師を無条件に信用して無用な被曝を重ね、病気を悪化させてゆくのだ。
医者の多くが、東電フクイチ事故の放射能被曝を極端に甘く考えている事情が、このことなのだ。
だいたい、「専門家」と自称したがるのは、「全体像を軽視している」と自白しているようなものだ。私には「哲学」がありませんと言っているようなものだ。
私は、「非の打ち所のない素晴らしい設計」というプラントを知っているが、残念なことに、設計がどんなに素晴らしくとも、施工が同じように完璧に行われるかといえば、絶対にそうではない。
施工では、あらゆるミスが繰り返される。私は、検査員として多くのミス・欠陥に遭遇している。逆に、施工はミスのカタマリであり、完全なる施工など幻想以外に存在しないことを思い知らされている。
それは、プラントばかりか、宮大工の造営でも起きる。完全無比の建築造営など存在しない。頭領は、一つの現場で、いくつのミスが出るが、最初から予想して、その後始末を考えながら仕事をしている。
超高級な檜の柱に、他の職人が傷をつける。これは、そういうものなので、傷が出やすい場所に予防手当をするのだが、それでも傷がつくし、サイズが合わないこともある。
こんなとき、どうやってごまかすかが棟梁の真の技術なのだ。
プラントでも同じで、サイズ違いのフランジをどうやって接合するかが監督の技量ということになる。それが「人間の仕事」なのだ。
こういうのを「ゴマカシ施工」というのだが、これが皆無のプラントは皆無である。
そして、それが大事故の発端となる。
フクイチでメルトダウンを起こした原子炉の一つに「ジェット計測配管」の切断があって、ここから80気圧で冷却水が噴出してメルトダウンをもたらした。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-841.html?all
この報告では、何号機でそれが起きたのか書かれていないのが残念だが、設計ミスなら複数の原子炉で同じ現象が起きていた可能性がある。
一カ所だけなら、おそらく溶接欠陥だろう。ステンレス小径配管の溶接は最高度の困難な技術を必要とするが、フクイチの建設時に溶接業者のレベルが低かったとの報告がある。
たぶん、フクイチの設計は素晴らしく高度なものだっただろうが、施工がついてゆかないことが容易に分かる。
「木を見て森を見ず」という言葉があるが、たった一本の木に問題が起きても、森全部が破壊されるような現象について、「専門家」は無力だ。
自分の専門分野しか理解ができない。専門家と言った瞬間、専門外について無知であることを告白したに等しいのだ。
私が間質性肺炎を患って、医療に頼ろうとしても、医療体制は、患者の心、「この患者さんの命を救いたい」という赤ひげ医療を、とうの昔に、どこかに置き忘れてしまっている。
そこにあるのは、医療訴訟に備えたマニュアル化医療しかない。「後で責任を追及されない予防措置」が、患者を治したいという心に勝ってしまっているのだ。
看護婦さんの方が、よほど赤ひげ医療の価値観を大切にしている人が多い。
だから、私は、自分で自分を治療する道しか遺されていない。「専門家」が信用できないのだ。
逆に、私は専門家でもないのに放射線被曝について語っているので、権威にすがる人々からは、無視され嘲笑されることが多い。
私の発言に対し、専門家や高学歴を自慢する人々は、一切無視し、相手にしない。だが、私には長く深い知見があるので、彼らの間違いがすぐに分かる。
例えば、東大の権威にすがる「べくれてねが」がそうだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-792.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-793.html
私に対しては、一貫して「無視」の態度しか見せない。たまに、とんでもない優越感から超専門的な批判をする人物もいるが、細かい間違いにとりあっていると、こちらまで大局観を失ってしまうので放置しているが、ほとんどの場合、私に対して「専門家」からの態度は「無視」である。
私としては、論戦に応じてもいいのだが、彼らには哲学的大局観がないので、どうにも話が噛み合わない。
一番大切なのは「専門家」ではない。子供たちの未来を健全に保つ意思である。
「人間のために科学と技術に貢献する精神性」である。
これがない前提では、何を話しても無意味なのだ。
https://hiroakikoide.wordpress.com/
だが、私は彼を信用しきれない。原発の真実を述べ続けた姿勢には敬意を表する。しかし、彼は京都大学の熊取原子炉に依存して生活してきた。
「京大熊取六人衆」というグループがいて、国内反原発派のよりどころでもあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E5%8F%96%E5%85%AD%E4%BA%BA%E8%A1%86
彼らは、国家権力に盲従したわけではない。原発の危険性を訴え続け、日本政府や原子力村から弾圧を受けてきた。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/2462
それでも、私は「京大熊取原発」を運転し続けることに本質的な疑問を抱いてきた。
https://www.rri.kyoto-u.ac.jp/facilities/kur
たかが出力5Mw、住宅街のなかでありながら、GDFREAKで見ても、大きな被害は見えない。しかし、確実に環境放射能汚染が起きているはずだ。とりわけ、希ガス類やヨウ素だ。キセノン133・クリプトン85は、運転する以上、必ず出てくるはずだ。しかも、測定しようがない。
https://jp.gdfreak.com/public/detail/jp010120004010127361/1
「これくらいなら許される」と思いたいところだが、この施設を利用して育った研究者の大半が、原子力産業に吸収されてゆく。こんな施設は、日本の未来、子供たちの未来にとって、本当に役に立つとは思えず、有害無益な代物に見える。
結局、何のために運営されるのかといえば、学問という虚構の価値観を共有する巨大な集団のなかで、自分の価値を見いだしたい人たちが、自己満足のために運営する施設だ。
それが、人類の未来、子供たちの未来という、より本質的な価値観から演繹されている論理上にあるとは思えない。
こんな権威で人を屈服させたがるような施設が、子供たちの未来、人々の役に立ったことなどない。本当の心ある価値観を求める人にとっては、無用の長物なのだ。
いったい、この施設が何を生み出したというのだ?
私は、チェルノブイリ事故後の、六人衆の一角、今中哲治氏の活躍に敬意を表しながら、彼がチェルノブイリ事故による犠牲総数が18000名と試算したことに、激しく憤った。
それではアーネスト・スタングラスやECRRが指摘していた胎児・新生児に対する被曝ダメージ、それに10年を超えるようなスパンを持った発癌潜伏期間がまるで考慮されていないと思った。
「いったい、誰のための研究なのか?」と思った。
同じ意味で、半世紀前、名古屋で「反原発キノコの会」を主宰して、チェルノブイリ支援を続けてきた河田昌東氏にも強い疑問を感じる。
彼は生物学者なので、ゲノム解析にX線を使っていた。ある講演会で、彼は、研究用の被曝について正当化する発言をした。
ゲノム解析に、妊婦研究員が参加したが、「年間5ミリシーベルトを超える被曝はなかったから安全だ」と発言したのだ。
だが、広島長崎の被曝者のデータを解析したABCC=放影研の報告書によれば、5ミリシーベルト(5ミリグレイ)以上の原爆ガンマ線を被曝した胎児の4.4%に重度知的障害が現れたと書かれている。
https://www.rerf.or.jp/programs/roadmap/health_effects/uteroexp/physment/
妊娠8週~15週の器官形成期には、サリドマイド禍で分かるように、胎児は放射線や化学物質の刺激に対して60才大人の100万倍以上の敏感さがある。
絶対に、自分の放射線感受性を基準に、胎児を考えてはならないのだ。
これも、学者という巨大な価値観集団のなかで、いつのまにか一番大切なことを忘れてしまっているのではないかと思った。
河田氏は、半世紀近く前、名古屋市科学館に展示してあったイエローケーキが危険だと文句をつけて撤去させたことがあったが、そんな被曝問題の感受性を、自分の依存する「科学」という価値観集団のなかで見失ってしまったのだと、私は思った。
河田氏は、フクイチ事故の講演でも、やたらに低線量被曝の安全性を強調するようになっていた。彼は、いつのまにか、被曝弱者の代理人ではなくなっていた。
あれほどチェルノブイリ現地の子供たちの支援を行って高く評価されていたのに、「低線量被曝が安全だ」と言い出した瞬間、自分の半生の実績をゴミために投げ込んでしまった。
また、医師の多くが、「医療用の被曝は被曝ではない」という悪魔の信仰に洗脳されていることに驚かされる。
とりわけ、X線CTは、通常一回あたり50ミリシーベルトの被曝があり、担当医が変わると、「自分のデータ」が欲しい医師は、新しくCTを撮影したがるので、累積で数百ミリシーベルトの被曝を与えてしまうことが少なくない。
例えば、間質肺炎では、CT以外に何枚も単板撮影を繰り返す。来院の節目に進行具合を確認するために撮影するのだ。
転院でもすれば、前のデータがないので、全部新しく撮影し直すことになる。ところが、被曝発癌の潜伏期間が10年もあるので、ほとんどの場合、因果関係の追求が不可能なのをよいことに、医師は「累積被曝の危険性」を決して顧みようとしない。
ほとんどの医師が「医療被曝は安全」という迷信に凝り固まっている。
https://www.hosp.med.osaka-u.ac.jp/home/hp-radio/info.html
https://www.marianna-u.ac.jp/Radiology/patient/17310/017439.html
「100ミリシーベルトまで安全」という、原子力産業がでっちあげたデマを信仰しているのだ。だが、実際には、医師は「良い写真が欲しい」という欲から撮影したがり、軽く100ミリを超える累積被曝になってしまうことが多い。
「肺疾患は肺癌になりやすい」ことが知られているが、実は原因はX線撮影被曝にある強い疑いがあるのだ。
だから、私は、そんな医師の「呪われた特性」を知っているから、決して医療に頼らない。でも、医療の本質的な「被曝軽視」という間違いが定着していることを大半の患者が知らないので、医師を無条件に信用して無用な被曝を重ね、病気を悪化させてゆくのだ。
医者の多くが、東電フクイチ事故の放射能被曝を極端に甘く考えている事情が、このことなのだ。
だいたい、「専門家」と自称したがるのは、「全体像を軽視している」と自白しているようなものだ。私には「哲学」がありませんと言っているようなものだ。
私は、「非の打ち所のない素晴らしい設計」というプラントを知っているが、残念なことに、設計がどんなに素晴らしくとも、施工が同じように完璧に行われるかといえば、絶対にそうではない。
施工では、あらゆるミスが繰り返される。私は、検査員として多くのミス・欠陥に遭遇している。逆に、施工はミスのカタマリであり、完全なる施工など幻想以外に存在しないことを思い知らされている。
それは、プラントばかりか、宮大工の造営でも起きる。完全無比の建築造営など存在しない。頭領は、一つの現場で、いくつのミスが出るが、最初から予想して、その後始末を考えながら仕事をしている。
超高級な檜の柱に、他の職人が傷をつける。これは、そういうものなので、傷が出やすい場所に予防手当をするのだが、それでも傷がつくし、サイズが合わないこともある。
こんなとき、どうやってごまかすかが棟梁の真の技術なのだ。
プラントでも同じで、サイズ違いのフランジをどうやって接合するかが監督の技量ということになる。それが「人間の仕事」なのだ。
こういうのを「ゴマカシ施工」というのだが、これが皆無のプラントは皆無である。
そして、それが大事故の発端となる。
フクイチでメルトダウンを起こした原子炉の一つに「ジェット計測配管」の切断があって、ここから80気圧で冷却水が噴出してメルトダウンをもたらした。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-841.html?all
この報告では、何号機でそれが起きたのか書かれていないのが残念だが、設計ミスなら複数の原子炉で同じ現象が起きていた可能性がある。
一カ所だけなら、おそらく溶接欠陥だろう。ステンレス小径配管の溶接は最高度の困難な技術を必要とするが、フクイチの建設時に溶接業者のレベルが低かったとの報告がある。
たぶん、フクイチの設計は素晴らしく高度なものだっただろうが、施工がついてゆかないことが容易に分かる。
「木を見て森を見ず」という言葉があるが、たった一本の木に問題が起きても、森全部が破壊されるような現象について、「専門家」は無力だ。
自分の専門分野しか理解ができない。専門家と言った瞬間、専門外について無知であることを告白したに等しいのだ。
私が間質性肺炎を患って、医療に頼ろうとしても、医療体制は、患者の心、「この患者さんの命を救いたい」という赤ひげ医療を、とうの昔に、どこかに置き忘れてしまっている。
そこにあるのは、医療訴訟に備えたマニュアル化医療しかない。「後で責任を追及されない予防措置」が、患者を治したいという心に勝ってしまっているのだ。
看護婦さんの方が、よほど赤ひげ医療の価値観を大切にしている人が多い。
だから、私は、自分で自分を治療する道しか遺されていない。「専門家」が信用できないのだ。
逆に、私は専門家でもないのに放射線被曝について語っているので、権威にすがる人々からは、無視され嘲笑されることが多い。
私の発言に対し、専門家や高学歴を自慢する人々は、一切無視し、相手にしない。だが、私には長く深い知見があるので、彼らの間違いがすぐに分かる。
例えば、東大の権威にすがる「べくれてねが」がそうだ。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-792.html
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-793.html
私に対しては、一貫して「無視」の態度しか見せない。たまに、とんでもない優越感から超専門的な批判をする人物もいるが、細かい間違いにとりあっていると、こちらまで大局観を失ってしまうので放置しているが、ほとんどの場合、私に対して「専門家」からの態度は「無視」である。
私としては、論戦に応じてもいいのだが、彼らには哲学的大局観がないので、どうにも話が噛み合わない。
一番大切なのは「専門家」ではない。子供たちの未来を健全に保つ意思である。
「人間のために科学と技術に貢献する精神性」である。
これがない前提では、何を話しても無意味なのだ。