YouTubeを眺めていたら、霧社事件に触れたコンテンツがあった。
運動会中の親子が首を落とされる! 霧社事件 2021/11/03
https://www.youtube.com/watch?v=BBmNfO2srRM
台湾を日本が統治するようになった理由は、1895年、日清戦争の勝利の結果、行われた講話会議=下関条約によって、清国領土を割譲されたからである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
しかし、清朝も、1683年から統治を宣言していたものの、山岳地帯の先住民は強力な戦闘力を持って清朝派遣代官たちには手に負えず「化外の民」と呼んで、事実上、自治地帯として放置されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
日本が、最初に台湾と深くかかわるようになったのは、1871年、宮古島島民が暴風に流されて、台湾北部に漂着したとき、先住民によって54名が殺害され、日本政府が清朝に抗議したところ「化外の民であるから清国は与り知らぬ」と回答があり、これを受けて、明治新政府が、初めての対外軍事侵攻に踏み切った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6%E5%B3%B6%E6%B0%91%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
当時の台湾先住民たち(生蕃)は、2000年以上前から台湾島に住み着いた土着民だが、非常に残酷な首狩り殺人の風習を残していることでも知られていた。
私の記憶では1970年前後まで首狩り習慣が残っていた。人肉食の習慣があって、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。
最初に台湾討伐(生蕃)を命じられたのは1873年、副島種臣だった。
しかし、実際に軍事行動に出たのは1874年、西郷従道だった。西郷は、明治政府軍の精鋭とともに上陸し、多数の先住民を殺害したが、全容を知る資料はない。
ただ、この事件が、1895年の台湾統治の直接の契機になったともいわれている。
日本統治時代の台湾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE
日本による台湾統治は、当時の欧米先進国が先を争って未開国に侵攻し、植民地化を繰り返していた風潮のなかで、日本もまた「遅れてきた帝国主義」を発現し、猛烈な国土侵略拡大政策を行った。
台湾の場合は、医官だった後藤新平の存在が大きい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
1898年、児玉源太郎が台湾総督府長官に就任するとともに、後藤新平を右腕として台湾統治の事実上の骨格を定めた。
後藤は、台湾のアヘン吸引習慣について、「暫禁策」を提示し、高率の税金をかけることで、吸引者を減らそうとしたと表向きに語られているが、実際には、アヘンが「金のなる木」であることに目をつけ、裏側で、アヘン利権を一手に握り、台湾住民(主にアヘン吸引習慣を持った大陸系住民)に売りつけていた。
この頃の後藤新平や児玉源太郎ら、台湾統治の高官たちの姿勢は、頗る日本人に対する優越性お強要と現地人に対する軽視、見下しがあり、内地から派遣された警察官たちの傲慢な姿勢が目立ったといわれる。
これが誇り高き台湾高地部族の怒りをかっていた。
そんななかで1930年、とうとう霧社事件と呼ばれる先住民蜂起が起こった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
霧社セデック族村落のタダオ・モーナが1930年10月7日に起こした日本人巡査殴打事件が事件の引き金になった。
当時の日本人警察官は、高圧的姿勢で先住民を支配しようとした者が多く、「首狩り族」として恐れられていた先住民セデック族の多くが反感を抱いていた。
巡査が酒を勧めようとしたセデック族若者の手をステッキで叩いたことにより、セデック族全体が憤り、日本人に対する日頃の恨みを晴らすべく蜂起した。
1930年10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの村の300人ほどが霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。当時の公学校には一般市民の日本人と漢人(大陸からの移住者)の家族子弟が集まっており、部族民は和装の日本人を標的として襲撃、結果日本人132人と和装の台湾人2人余りが惨殺された。犠牲者は首を切り落とされた。
駐留日本軍や警察は武力による鎮圧を開始した。日本側は2日後の10月29日には早くも霧社を奪回した。霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。
このときのセデック族の山岳戦闘能力が、あまりにも高く、日本軍は手も足も出ない状態になったので、航空機による毒ガス散布まで行ったといわれる。
戦闘の中で、700人ほどの蜂起軍が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった。一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった。
全国大衆党の衆議院議員であった河上丈太郎と河野密は訪台して事件を調査し、1931年6月に全国大衆党は帝国議会で当局の対応を批判した。昭和天皇までもが「事件の根本には原住民に対する侮蔑がある」と漏らした。
台湾総督府は事件後、原住民に対する政策の方針を修正していく。明石元二郎や八田與一らの献身的な成果の上に、原住民に対する同化教育と同時に、適農地区への定住化と米作の普及が試みられた。
このときの努力が、戦後、台湾の親日感情につながっている。
また、天皇と帝国に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので、太平洋戦争(大東亜戦争)時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多く存在した。一説によると霧社事件での山岳戦でセデック族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われる。こうした事例は映画『サヨンの鐘』にも描かれ、皇民化教育の成果として謳われた。
蜂起したセデック族は、大半が虐殺されたが、その後、強力な親和策が採られたことにより、たくさんの先住民が、日本に帰化することになった。
現在、生きていれば90~100歳にもなるが、日本で仕事に就いて、同化している旧台湾先住民は、あるいは数十万人の単位になるかもしれない。
私は、名古屋で仕事をしていたとき、同僚の中村さんが高砂族であることを知った。日本語もネイティブであった。
容姿は、まるで日本人と変わらない。実は台湾先住民の多くが、日本人的風貌をもっていて、大陸系の移住者よりも、むしろ日本的であるといわれた。生活民俗も、納豆や味噌など日本人と違和感がなかった。
理由は、たぶん2500年前、呉(蘇州)が越に敗北したときに、船で台湾に逃亡した人々の末裔だからと考えている。
呉は水郷地帯で、船で生活する民族だった。越に敗北して皆殺しにされる前に、外海に逃げ出した。
一部は台湾にゆき、山東半島南岸、朝鮮半島南岸、そして九州有明海にたどり着いたのだ。
神武天皇は、呉の創始者、太伯の弟の李歴と、中国史で説明されているが、当たらずとも遠からずだろう。彼らが弥生人文明(稲作文明)を日本に持ち込んだのだ。
運動会中の親子が首を落とされる! 霧社事件 2021/11/03
https://www.youtube.com/watch?v=BBmNfO2srRM
台湾を日本が統治するようになった理由は、1895年、日清戦争の勝利の結果、行われた講話会議=下関条約によって、清国領土を割譲されたからである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84
しかし、清朝も、1683年から統治を宣言していたものの、山岳地帯の先住民は強力な戦闘力を持って清朝派遣代官たちには手に負えず「化外の民」と呼んで、事実上、自治地帯として放置されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
日本が、最初に台湾と深くかかわるようになったのは、1871年、宮古島島民が暴風に流されて、台湾北部に漂着したとき、先住民によって54名が殺害され、日本政府が清朝に抗議したところ「化外の民であるから清国は与り知らぬ」と回答があり、これを受けて、明治新政府が、初めての対外軍事侵攻に踏み切った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E5%B3%B6%E5%B3%B6%E6%B0%91%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
当時の台湾先住民たち(生蕃)は、2000年以上前から台湾島に住み着いた土着民だが、非常に残酷な首狩り殺人の風習を残していることでも知られていた。
私の記憶では1970年前後まで首狩り習慣が残っていた。人肉食の習慣があって、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。
最初に台湾討伐(生蕃)を命じられたのは1873年、副島種臣だった。
しかし、実際に軍事行動に出たのは1874年、西郷従道だった。西郷は、明治政府軍の精鋭とともに上陸し、多数の先住民を殺害したが、全容を知る資料はない。
ただ、この事件が、1895年の台湾統治の直接の契機になったともいわれている。
日本統治時代の台湾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE
日本による台湾統治は、当時の欧米先進国が先を争って未開国に侵攻し、植民地化を繰り返していた風潮のなかで、日本もまた「遅れてきた帝国主義」を発現し、猛烈な国土侵略拡大政策を行った。
台湾の場合は、医官だった後藤新平の存在が大きい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
1898年、児玉源太郎が台湾総督府長官に就任するとともに、後藤新平を右腕として台湾統治の事実上の骨格を定めた。
後藤は、台湾のアヘン吸引習慣について、「暫禁策」を提示し、高率の税金をかけることで、吸引者を減らそうとしたと表向きに語られているが、実際には、アヘンが「金のなる木」であることに目をつけ、裏側で、アヘン利権を一手に握り、台湾住民(主にアヘン吸引習慣を持った大陸系住民)に売りつけていた。
この頃の後藤新平や児玉源太郎ら、台湾統治の高官たちの姿勢は、頗る日本人に対する優越性お強要と現地人に対する軽視、見下しがあり、内地から派遣された警察官たちの傲慢な姿勢が目立ったといわれる。
これが誇り高き台湾高地部族の怒りをかっていた。
そんななかで1930年、とうとう霧社事件と呼ばれる先住民蜂起が起こった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6
霧社セデック族村落のタダオ・モーナが1930年10月7日に起こした日本人巡査殴打事件が事件の引き金になった。
当時の日本人警察官は、高圧的姿勢で先住民を支配しようとした者が多く、「首狩り族」として恐れられていた先住民セデック族の多くが反感を抱いていた。
巡査が酒を勧めようとしたセデック族若者の手をステッキで叩いたことにより、セデック族全体が憤り、日本人に対する日頃の恨みを晴らすべく蜂起した。
1930年10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの村の300人ほどが霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。当時の公学校には一般市民の日本人と漢人(大陸からの移住者)の家族子弟が集まっており、部族民は和装の日本人を標的として襲撃、結果日本人132人と和装の台湾人2人余りが惨殺された。犠牲者は首を切り落とされた。
駐留日本軍や警察は武力による鎮圧を開始した。日本側は2日後の10月29日には早くも霧社を奪回した。霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。
このときのセデック族の山岳戦闘能力が、あまりにも高く、日本軍は手も足も出ない状態になったので、航空機による毒ガス散布まで行ったといわれる。
戦闘の中で、700人ほどの蜂起軍が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。特にモーナのマヘボ社では壮丁の妻が戦闘のなかで全員自殺する事態となった。一方、鎮圧側の戦死者は日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃21人であった。
全国大衆党の衆議院議員であった河上丈太郎と河野密は訪台して事件を調査し、1931年6月に全国大衆党は帝国議会で当局の対応を批判した。昭和天皇までもが「事件の根本には原住民に対する侮蔑がある」と漏らした。
台湾総督府は事件後、原住民に対する政策の方針を修正していく。明石元二郎や八田與一らの献身的な成果の上に、原住民に対する同化教育と同時に、適農地区への定住化と米作の普及が試みられた。
このときの努力が、戦後、台湾の親日感情につながっている。
また、天皇と帝国に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので、太平洋戦争(大東亜戦争)時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多く存在した。一説によると霧社事件での山岳戦でセデック族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われる。こうした事例は映画『サヨンの鐘』にも描かれ、皇民化教育の成果として謳われた。
蜂起したセデック族は、大半が虐殺されたが、その後、強力な親和策が採られたことにより、たくさんの先住民が、日本に帰化することになった。
現在、生きていれば90~100歳にもなるが、日本で仕事に就いて、同化している旧台湾先住民は、あるいは数十万人の単位になるかもしれない。
私は、名古屋で仕事をしていたとき、同僚の中村さんが高砂族であることを知った。日本語もネイティブであった。
容姿は、まるで日本人と変わらない。実は台湾先住民の多くが、日本人的風貌をもっていて、大陸系の移住者よりも、むしろ日本的であるといわれた。生活民俗も、納豆や味噌など日本人と違和感がなかった。
理由は、たぶん2500年前、呉(蘇州)が越に敗北したときに、船で台湾に逃亡した人々の末裔だからと考えている。
呉は水郷地帯で、船で生活する民族だった。越に敗北して皆殺しにされる前に、外海に逃げ出した。
一部は台湾にゆき、山東半島南岸、朝鮮半島南岸、そして九州有明海にたどり着いたのだ。
神武天皇は、呉の創始者、太伯の弟の李歴と、中国史で説明されているが、当たらずとも遠からずだろう。彼らが弥生人文明(稲作文明)を日本に持ち込んだのだ。