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老いて記憶を失う前に書き留めておかねばならないこと

2021年07月10日 | 未分類
 私は、子供の頃から頃から読書が好きで、ずいぶんいろいろな本を読んだが、青年時代に夢中になったのは、宮本常一や柳田国男の民俗学モノだった。
 とくに、宮本の代表作ともいえる「忘れられた日本人=土佐源氏」にはずいぶん感動させられた。
 これこそ、真の歴史=民衆史だと体中に熱い思いを抱いた。
https://story.nakagawa-masashichi.jp/56730

 というのも、民衆史を嘲笑する権力史の親玉である東大史学部教授=平泉澄の「豚に歴史があるのか?」という言葉に、脳味噌が爆発しそうなほどの怒りを感じていたからだ。
  https://ameblo.jp/itifuan/entry-11389198896.html

 現在の天皇史観=皇国史観は、平泉澄(勝山平泉寺の神主)が戦前にでっちあげたもので、「神武以来の万世一系」という御神体の前に、戦後歴史学は硬直的敬礼を強いられ、「天皇の権威を神格化する」ことだけに大勢の史学者が血道を上げてきた。
 YouTubeで右翼系コンテンツの主流になっている、櫻井よしこ・青山繁晴・武田邦彦らのチャンネル桜も、思想の基本が皇国史観なのだ。

 この右翼グループが、「天皇が朝鮮からやってきた」という真実を強硬に虚偽と決めつけ、江上波夫が提唱した革命的な真相暴露、「騎馬民族征服王朝説」に糞尿をかけまくり、汚れたドブに墜とした。
 だが、私が、反江上説を唱えるチャンネル桜に論戦を仕掛けても、誰一人、AD300年前後(応神14年)、朝鮮半島、百済の国から120県(20万人)の弓月氏(秦氏)が日本列島に移住(帰化)したという記述に対しまともに答えることのできた者はいなかった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B

 答えられるはずがなかった。チャンネル桜や右翼系皇国史観の誰一人として、上のリンクにある、百済からの帰化事件を知らなかったのだ。
 知っていたとしても、説明できないにちがいない。
 https://www.youtube.com/watch?v=j14IfcwBOSY&ab_channel=%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%80%8D%E7%B5%8C%E4%B8%96%E6%B8%88%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E%E4%B8%89%E6%A9%8B%E8%B2%B4%E6%98%8E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
 (コメント欄に私のイチャモンが残っているが、削除しなかった三橋氏の良心を褒めておきたい)

 天皇は、武寧王以降の時代に、百済から(国ぐるみで)大量にやってきた帰化人のなかから誕生した。女真族の武寧王は、濊族・エベンキ族の残酷な新羅によって朝鮮から追放されたのだ。
 神武以来、大化の改新まで「天皇」という呼称は存在せず、「大君」と称した。

 Ad700年近い天武あたりになって、(壬申の乱を経て)やっと天皇という呼称が登場したが、これは藤原不比等や天武による焚書・歴史改竄と明らかに関係している。
 なお、大和朝廷を乗っ取ったのは、おそらく武寧王の子供たちではないかと考えているのだが、それは、たぶん継体天皇である。これは長くなるので別の機会に。

 まあ、そんな枝葉末節は置いておいて、大切なことは、本当の歴史は、決して歴史書や権力史などではなく、民衆史であり、それを研究する学問こそ「民俗学」なのだと言いたいのだ。
 だから天皇など、どうでもいい。あれは、我々と何一つ変わらない「タダの人」にすぎない。天皇の意味は、民族集団のアイデンティティという性質だけなのだ。

 民俗学の観点からは、中国古典や史書を持ち出す必要もなく、「馬とともに生きる人々」 「稲とともに生きる人々」のように生活の視点から、我々は、どこから来て、どこに行くのか? というテーゼに容易に答えることができる。

 「馬とともに生きる」なら、必ず内股からこすれを守るズボン(袴)や、風圧から髪を守るミズラのようなヘアスタイルが発達する。「稲とともに生きる」なら、泥田のなかで裾からげのできる「呉服」や稲を刈るための鎌が発達する。水田耕作は、餅や納豆、味噌の食文化を作り出す。
 こうして、民衆の生活を細かく観察していれば、「どこから来て、どこに向かうのか?」という命題が手に取るように見えてくる。

 私には、民俗学の視点からだけで、呉越戦争の敗者であった水郷蘇州・呉の住人が、敗残国民皆殺しの坑刑を逃れて、大量の船に乗って東シナ海をこぎ出し、台湾・朝鮮南岸、そして九州北部(有明海)に上陸して、邪馬台国を造り、弥生人文化を造った。
 初代ヤマト王君は、呉の太伯の弟、李歴こそが神武になり、卑弥呼の墳墓は、おそらく柳川市役所の下にあるという具合に脳裏に歴史を見ているのだ。
 こんな歴史は、平泉皇国史観に洗脳され欺されている者たちには見えるはずがない。

 さて、話は変わるが、私の父について少しだけ書き残しておきたい。
 父、幸男は知立市の造酒屋の息子に生まれた。実家は祖父齢松の放蕩のせいで倒産した。知立から陸軍に徴兵されたが、師団名は分からない。
 生前、介護施設にいた父親の、古い記憶をいろいろと聞き出したのだが、今思えば、具体的な師団名など固有名詞を記録しておくべきだったと後悔している。

 父は、中支戦線からビルマを経てインパール作戦に投入された。愛知県出身徴兵者の多くがインパール作戦で死亡(数万人ともいわれる)しているが、父は少しだけ英語ができたせいで、初期に通訳として英軍に捕獲され、体重30Kgになって舞鶴に帰還することができた。
 帰還後は、古巣の国鉄に帰り、SL機関士として勤務後、労働争議で起訴され、愛知国労書記長や愛労評事務局長などを歴任した。

 戦争従軍の模様をいろいろ聞き出したのだが、毒ガス班にいたと漏らしたのを追及してからは口を閉ざしてしまった。労組幹部の建前上、まずい情報だったかもしれない。
 南京大虐殺の時期に、近郊を通ってビルマに向かっているのだが、彼は南京事件について、ほとんど何も知らなかった。ちょうど河村たかし名古屋市長の実父も、同じ時期に、同じルートでビルマに向かったと書かれていたので、もしかしたら同じ師団にいたのかもしれない。

 南京大虐殺について、分かったことを書いておくと、これは1937年7月29日に、北京郊外の通州で、日本人婦女子300名が虐殺された事件から始まっている。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 犯行集団は、冀東防共自治政府保安隊という中国人民兵だった。なぜ、猟奇的な大虐殺を行ったかといえば、日本軍・日本人に恐怖を与える目的があった。
 これを背後で指令したのは、国民党軍司令官であるとともに、青幇頭目だった蒋介石だといわれる。

 なぜ、日本人婦女子ばかり通州に集まっていたのか? それは、通州が日本軍の麻薬生産基地だったからだ。
 当時のことだから阿片だろうと思うだろうが違う。通州基地で製造していたのはモルヒネ・ヘロインであった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 https://the-cosmological-fort.hatenablog.com/entry/2018/08/19/170617

 この工場は、誰の指揮によって建設されたのか? 分かっている限りでは、上海麻薬王と呼ばれた里見甫、昭和通商という会社を指揮して朝鮮・満州で麻薬を売りさばいていた岸信介である。他にも多数の陸軍統制派幹部が関与していて、日本軍の現在価値で4000兆円に上る軍備費用を担うために造られた。
 当時(今でも)、麻薬ほど換金性が高く利益率が大きい商品は他になかった。

 通州で生産されたヘロインは、北京や上海、満州などで売りさばかれたが、これが中国の古いヤクザ組織、麻薬シンジケートだった青幇の利権を大きい侵害することになった。
 頭目だった蒋介石は、日本軍通州麻薬基地への壊滅的攻撃を指示した。しかし、国民党を直接矢面に立たせないよう、影響力を行使できた冀東防共自治政府保安隊を利用したのである。

 この事件の一報を聞き、調査の結果、蒋介石の指示が明らかになったことで、方面軍の第十軍幹部は怒り狂った。司令官は柳川平助、現場指揮官は田辺盛武といわれるが、上海方面軍でも蒋介石に煮え湯を飲まされていたので、兵を叱咤して復讐心に燃えた。
 日本軍は、南京城攻略戦を行い投降した国民党軍兵士と市民30万人を大虐殺したとされる。
 ちょうど、通州事件から南京事件に至る詳細な経過が描かれた文春サイトを見つけたので掲載しておく。

 無残……日本人虐殺の「通州事件」はなぜ起こってしまったのか?――生き残った記者が激白する地獄の現場 安藤 利男2019/07/28
 https://bunshun.jp/articles/-/13055

 「恨み深し!」刺激的に伝えられた残虐な”通州事件”は南京虐殺の引き金だったのか?2019/07/28
 https://bunshun.jp/articles/-/13054

 南京陥落当時、上海派遣軍と中支那方面軍の兼任参謀だった長勇中佐(昭和陸軍の「皇道派」に属し、最後は沖縄防衛の第32軍参謀長として1945年6月23日、牛島満司令官とともに自決)が1938年に旧知の田中隆吉中佐に語ったところによると、投降してきた中国兵30万人について、軍司令官に無断で殺害命令を出した際、「自分は(支那)事変当初通州に於て行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと喜んだ」という(田中隆吉「裁かれる歴史」)。

 津田道夫「南京大虐殺と日本人の精神構造」は、「南京アトロシティーズを通州事件の報復だなどというのは、当時の現地軍高級将校の思考構造をよく示している」と指摘するが。

 橋川文三編著「日本の百年7 アジア解放の夢」は「このときの通州守備隊は、その後華中作戦に転じ、報復心にもえて南京虐殺に参加したといわれる」と書くが、はっきりしたことは分からない。
 古屋哲夫「日中戦争」は、事件は「反日感情が日本の勢力圏でも広く浸透していることを示すもの」との見方を示している。実際、前年36年11月には、綏遠省(現内モンゴル)で、日本の傀儡勢力の軍が中国軍に敗北した「綏遠事件」が起き、中国の民衆が熱狂。抗日の気運が盛り上がった。 
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 一部引用以上

  上のリンク内には、長勇中佐(陸軍皇道派・第32軍参謀長)が、軍司令官に無断で30万人皆殺しを指示したと書かれている。
このとき、日本軍による報復虐殺に強く反対したのは、松井石根中支方面軍団長(大将)である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9

 だが、陸軍きっての教養人である松井石根は孫文や蒋介石とも懇意な親中国派であったため、他の幹部から警戒され、指令権を無視された。結局、敗戦後は、南京大虐殺の責任を負って処刑された。
 松井は尾張藩士の直系で、私の実家の近所の人だったが、穏やかな人格者だったといわれる。最期まで中国人に対する優越感を諫めていた。

 河村たかし市長は、松井と同じ尾張藩士の子孫だが、「南京大虐殺は存在していない」と、チャンネル桜と同じ主張をして、右翼的立場を鮮明にしているが、彼は、元々、無理筋の右翼ではなく、高校時代は割合革新的立場だったのに、なぜ南京事件を否定するようになったのかといえば、おそらく彼の実父が、南京大虐殺と同時期に、南京近郊にいたが、大虐殺の情報をまったく知らなかったと聞いて、「南京事件はなかった」と思い込んでしまったのだろう。

 だが、第十軍は、松井石根大将の指令を完全に無視して暴走をし、南京城内にいた国民党軍と市民を皆殺しにした。これは独走、暴走であって、この情報を外部には固く秘密にしたのだ。だから、私の父も、近くにいたのに何も知らなかった。

 こんな情報も、たまたま実父から中支戦線の状況を聞き出しながら理解したことで、もう生き残っている兵士もほとんどいないが、少しでも聞き取ったことを後世のために書き残していかねばと思った。

 徴兵され戦争に駆り出された私の父親世代は、生きていれば100才前後だが、すでに大半の人が逝去されている。しかし、従軍者でなければ分からない情報を豊富に持っていた。これを聞き取って、少しでも書き残すことは、私たちの世代の義務ではあるが、その伝承者である我々自体が、もう認知症世代にさしかかって、記憶もおぼつかなくなっている。

 父親の話のなかには、戦前のビルマの山村社会の素晴らしさを称えたものも多く、民俗学上、すこぶる興味をそそられるものがあった。
 例えば、戦前のビルマ高地族は、女性たちがひどく美しく魅力的であったこととか、ビルマからヒマラヤ高地に向かう途上のシッキム地方には、レプチャという日本人の源流の一つが存在したとか、まだ知られていない情報もたくさんあった。

 私は、人が政治的思惑で適当に捏造できるような史書を信用するよりも、実体験のなかで記憶している情報を土台にした史学=民俗学を大切にする方が、未来にとって、はるかに役に立つと信じている。