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ダビンチ・コード

2025年07月22日 | これから何が起きるのか?

 トムハンクス主演のこの映画は、2006年に公開された。私が視聴したのは、DVDを購入した数年後だった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 幻想的な宗教サスペンスで、緻密で論理的な構成であり、優れた映画だと思った。
 私は、この映画の核心的課題は、劇中に紹介される「トマス福音書」の一説だと思った。視聴しながら久々に興奮させられた。

 トマス福音書とは、ペテロ福音書と同じで、新約聖書に含まれない外伝である。だからキリスト教徒のなかでも、ほとんど知られていない。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8
(ウィキ=1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるため、この名で呼ばれる。新約聖書には含まれない外典)

 映画の中で現れるトマス福音書の一節は、部屋のなかに血のようなもので、アラム語で書かれていた。トマス福音書、第77章である。
 「薪を割ってもそこにいる。石を退けてもそこにいる。石造りの建物に私はいない」
 これはキリストの言葉だという。

 ところが、この映画公開後、トマス福音書が世界に知られるようになると、このうち「石造りの建物に私はいない」という言葉が消されてしまった。
 【77 イエスが言った、「1 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
2 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」】

 この言葉は、実は「キリスト教」の存在そのものを根底から否定する意味があるので、世界中のキリスト教徒や映画評論家から、一斉に激しく攻撃された。
 https://christiananswers.net/japanese/q-aig/aig-davinci-jpn.html

 だが、死海文書の発見などから、イエスキリストの本当の姿が知られるようになると、イエスの所属した「エッセネ派・クムラン教団」の綱領的本質が、モーゼの十戒にあり、イエスは偶像化を招くキリスト教団を激しく否定していたことが明らかされるようになった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%8D%E6%B4%BE

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E6%B5%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

 死海文書の内容も、トマス福音書と同じで、キリスト教団の偶像化を本質的に否定するものであり、十戒の精神からいえば、キリスト像やマリア像を崇拝させ、巨大な教会伽藍を建設し、キリスト教そのものを偶像化させるキリスト教団が、十戒第二項を真正面から否定するものであり、どれほど屁理屈で隠蔽しようとしても、その本質はイエスの思想から程遠い、「反キリスト」というべきものであることを示していた。
 https://bible-cafe.com/story/305

 死海文書が発見され、その中身が伝わると大慌てしたのがバチカンで、それは、キリスト教団が民衆を騙す虚構にすぎないという正体を示す記述だったので、総力を挙げて死海文書の公開を阻むようになった。
 いきさつは、上の死海文書リンクにも紹介されている。
 噂では、ファティマ第三予言も、キリスト教団そのものを否定するもので、バチカンが公開を阻止しているのだという。

 同じ意味で、トマス福音書の「石造りの建物に私はいない」というイエス自身の教会否定の記述も隠蔽され、書き換えられてしまった。
 https://wordbyword.holy.jp/gospel%20of%20thomas.html
 日本でも、旧約聖書がシルクロードを経て伝わり、神道になったのだが、十戒の精神が伝わり三種の神器のうち「八咫鏡」が契約の箱における十戒を刻んだ石板の象徴と解釈されている。

 そこで、日本神道にも十戒の精神が受け継がれ、崇拝対象としての偶像を作ることが否定されている。
 神道の場合は、拝む対象として、偶像ではなく、拝む人自身を映し出す「鏡」が採用された。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%8F%A1

 トマス福音書や死海文書をまともに受け取ると、現在の24億人のキリスト教徒が依存している「教会キリスト教」が、キリストの真の精神を破壊する虚構にすぎないということになり、バチカンもプロテスタントも存在する意味を完全に失うのである。

 ダビンチ・コードという映画は、それほど恐ろしい意味を含んでいた。そりゃ、世界中のキリスト教神学者が一斉に攻撃するわけだ。
 実は、釈迦の教えにも似たような問題がある。

 それは比丘尼との問答集のなかで、比丘尼から「霊界にきちんと対応するべきでしょうか」と問われ、釈迦が、霊界のことは考える必要がない(不記)と答えた問題である。
 霊界の大司教様だと思い込んでいた釈迦が、実は、霊界など知る必要がないと答えたのだ。(引用先を見つけられなかった)

 「そんなことより、毎日をしっかり生きていなさい」
 と釈迦は比丘尼に回答した。
 あたかも霊界の代理人であるかのようにふるまう自称霊能者が多いなかで、霊界など何も考える必要がない。ただ自分の人生について考えなさいというわけだ。
 私は、これを見て、「やっぱり釈迦は本物だった」と確信した。

 そこで、キリストや釈迦の代理人を装っている宗教団体、自分を「キリストの生まれ変わり」と称した宗教者が無数にいるなかで、ウソ、虚構の権威に騙されて。荘厳な教会建物に圧倒され、教祖様を信じている人たちに私は言っておかねばならない。

 イエスが教義として取り上げたのはモーゼの十戒のみだった。それ以外のいかなる権威もイエスは引用したことがない。
 とりわけ十戒の第二項「偶像崇拝の禁止」について、新約聖書にも取り上げられているが、イエスの所属したクムラン教団では、いかなる権威、人々に幻想を抱かせる権威、偶像を断固として拒否していた。

 だから、人々を荘厳な教会建造物や、キリスト像、マリア像のような偶像を崇拝させることで、成立しているキリスト教団は、完全にニセモノであり、それは破壊されるべきものだった。
 バチカンなど、人々を欺くことを目的にした、存在してはならない、闇の権力組織だったのだ。
 教祖が自分をキリストの生まれ変わりと称した、幸福の科学や、オウム真理教、統一教会なども、すべて正真正銘のニセモノだった。
 その意味では、権威の大好きな創価学会や、たくさんの新興宗教も同じなのだ。

 そもそも、日本社会もまた神道の戒律である、虚構の権威=偶像崇拝を禁止する社会だったはずなのだが、奈良時代から、たくさんの仏教芸術家が登場しし、ものすごい傑作仏像を大量に世に送り出した。
 それらが人々を感動させ、恐れさせるのを見て、これこそ史上最高の権威とする権威競争=偶像競争が起こってしまった。
 その代表格が、聖武天皇による奈良の大仏である。
 https://art-lies.pupu.jp/2025/05/16/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E5%A6%82%E6%9D%A5%E3%81%A8%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E4%BB%8F%EF%BD%9C%E5%A5%88%E8%89%AF%E3%81%AE%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E3%81%AB%E8%BE%BC%E3%82%81/

 私の個人的見解をいえば、天武天皇と藤原不比等が結託して、百済から騎馬民族(ツングース系のユダヤ人末裔)が日本列島に大規模に移住し、大和朝廷を乗っ取った事実を、焚書や日本書紀の捏造によって記録から消し去ってしまった。
 そこで、騎馬民族の天皇家を正当化する目的で、人々を畏怖させ、歴史の歪曲を正当化する偶像が必要になり、それが奈良大仏であると私は考えている。

 現代の政治家たちも、そして日本を支配する階級の人たちも、偶像化が大好きで、権威への信仰が売り物にされて、日本社会が成立している。
 たとえば東大信仰や、序列権威信仰である。天皇信仰など最たるものだ。天皇家など偶像そのものであり、十戒第二項で真っ先に否定されるべきものだ。

 ほとんどの人々が、権威や偶像に騙されて生活しているのが現実で、「東大生だから頭がいい、日本を動かす能力がある」と信じ込んでいて、だから東大卒を並べた財務省が信仰にあぐらをかいて、自分たちは日本の支配者だと勘違いしている。
 池田大作など、信者を騙して権威を作るために、408種もの肩書を用意したそうだ。
 https://www.dailyshincho.jp/article/2023/12081103/

 現実はどうかといえば、東大卒の財務官僚といえども、皇族といえども、特権階級を自称しようとも、我々底辺の庶民と本質的に変わるものなど何一つない。
 自分をキリストの生まれ変わりと称した、麻原彰晃や大川隆法は、今や人々の記憶に残っているだろうか?
 死んでなお人々の記憶に生き続けている人は、いったいどういう人なのか?
 少なくとも、ローマ教皇も、日本の最高権威者も、人々から忘れ去られる運命しかない。

 家柄や学歴など、すべて虚構にすぎず、偶像にすぎないのだ。
 だが、学歴もない、権威もない私のブログは、どれほど意味のあることが書いてあっても、ほとんど世間から見向きもされず、リピーター読者のアクセス数は、どんどん減ってゆく一途だ。
 まあ、ろくな人生を送っていないから仕方ないのだが…。因果応報か? 

 もしかして、私が東大卒で何かの権威を持っていたなら、それに騙されて、もう少しアクセス数が伸びたかもしれない…。
 偶像を作って、それが人々を救済するかのような幻想を抱かせるのは、それほど困難なことではない。今の、日本の官僚たちは、自分たちに権威を持たせるために、皇室の権威を利用している。何一つ意味のない元号制度を続ける日本政府の官僚たちは、天皇歴を利用しようとする魂胆が見え透いている。

 世界は、バチカンのような、天皇家のような、アメリカ大統領のような偶像に支配されているのだ。世界は十戒二項を破り続けている。
 このことを理解しない限り、我々が社会の桎梏から解放されることはない。


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