このところ、ブログを書き終えた後の暇な時間に、ネットでGYAOの番組を見ることが増えた。
私は、若い頃はテレビを保有していなかったので、NHKの集金人が、「あるに決まってるから支払え」と押しかけてきたとき、激怒して叩き出したほど、TVには関心がなかった。
ごくたまに、TVを視聴するようになったのは50歳過ぎてからだ。うちのアンテナでは谷間なのでNHKは写らない。テレ朝しか見られない。希にTBSが写るのだが、これは大きな地震前兆として捉えている。(後背スキャッター現象)
現在は、GYAOで、これまでまるで関心のなかった海外ドラマを中心に見ているのだが、日本TVドラマと比較してレベルの高さに唸らされている。
最近、感心したドラマというと、スウェーデンのドラマ、刑事バーランダー、イギリスヨークシャーのDCI BANCS、イギリスのライン・オブ・デューティなどだ。
これらを視聴すると、大量にある日本での同種番組である相棒とか科捜研の女とかのレベルが低すぎて、もう視聴する意欲も失ってしまう。
https://gyao.yahoo.co.jp/ct/drama
「科捜研の女」なんかは、私は沢口靖子のファンではあるが、番組設定の幼稚さばかりが眼についてリアリティを感じられなくて、とても見ていられない。
例えば、殺害現場の遺体の血の色だ。誰でも知っているとおり、血液は酸化してどす黒く変色してゆく。遺体は死後硬直を起こすと、血液が引力で下に沈むので、紫斑現象が起きる。
だが、日本のTVドラマでは、意図的にリアリティを排除して、まるで染料のような血液になっている。
血液が体内で地面側に偏るので、上側は真っ白になる。さらに腐敗が進むと、独特の変色が起きる。
日本ドラマで、そうした遺体の変化をリアルに表現している映像は、ほとんど見かけない。時代劇でも、剣で切られたのに、返り血を浴びないのは日本くらいなものだろう。
焼死すると、人間の筋肉は収縮し、性交時の女性のような姿になる。頭部を射撃・打撃されると、内圧で眼球が飛び出すなど、遺体の特徴がたくさんあるので、事故・事件遺体は、普通の遺体とはまるで違う。
この表現映像が、あまりに幼稚というか、意図的に読者へのインパクトに厚い安全フィルターをかけた番組ばかりなので、ホンモノの現場にいるようなリアリティ、実在感が極めて乏しく、ドラマのなかに感情移入できないのだ。
そんな番組ばかり知っていて、日本のドラマ水準にうんざりしてきた身で英国ドラマを見ると、緻密なリアリティ、現実感に引き込まれ、迫力がまるで違う。
刑事バーランダーもバンクスも、映像にどんどん引き込まれる力があって、自分がまるで、その現場に立ち会っているような興奮を感じるのだ。
もう日本ドラマとの実力差は歴然としていて、イギリスドラマの水準の高さに畏敬の念を感じるしかない。
逆に、日本の刑事ドラマは、制作者が吉本喜劇と勘違いしているような、幼稚で軽薄な笑いが、ドラマの根底を腐らせている。
刑事ドラマは何よりもリアリティが命のはずだが、今のドラマは、その逆を行っている。「なんだ、この質の低い演劇は……」と呆れるしかない。
だが、日本だって、半世紀前までは、イギリスドラマに負けていなかった。
黒澤明の時代、たくさんの「映像の巨匠たち」がいた。
黒澤明・大島渚・市川崑・今村昌平・山田洋次・マキノ雅弘・溝口健二・小津安二郎、どの人をとっても、世界に通用するドラマを作り出せる監督が目白押しだったのだ。
あの頃の映画・ドラマには、映像内にぐいぐい引き込まれる臨場感、リアリティに溢れていて、映画館から出てきたとき、「チケット代損した」との挫折感など、まるでなくて、「いいもの見た」という高揚感だけが残ったのだ。
今、仮に「科捜研の女」を金を出して映画館で見たいかというと、そんな人はほとんどいないだろう。浮ついた笑いが損失感を際立たせるだけだ。
私が金を出すなら、「自分が、その現場にいる」という強烈なリアリティを感じるドラマだけだ。軽薄な「笑いとり」なんか、ドラマの質を著しく貶めるだけだ。
そんな番組が、現在のTV界にどれほどある? ほぼ皆無ではないか?
なぜ、こうなってしまったのだ?
私は、1980年代以降、社会に蔓延した「事なかれ主義」にその理由を求める。
「問題を起こしたくない」 「スポンサーの意向」の二つの制約が、ドラマ制作者たちを雁字搦めに縛り付けているのだ。
別の角度でいえば、電通のせいだ。
メディアを支配し、体制維持に奉仕させる電通の圧力に屈しているから、こういうことになる。
電通は、戦前、麻薬王(ヘロイン密売王)里見甫が創始した満州・朝鮮におけるスパイ組織であり、麻薬密売組織であり、情報統制組織であった。その体質が80年経た今でも、リアルに生き残っている。
自民党は、CIAの指示どおり電通を使って情報操作し、日本の保守右翼政権を維持してきたのだ。
電通が行ってきたものは、自民党体制の本質を隠蔽し、保守政権を無意識に支持するよう仕向ける、さまざまな情報操作であり。体制に対して反逆する者を排除し、容認する「事なかれ主義」を蔓延させることだった。
こうした「事なかれ主義」は、右側どころか、左寄りのメディアや共産党、阿修羅掲示板などにも見られ、体制に鋭く切り込む視点を排除しているかのようだ。
だから、原子力村が金銭支援している立憲民主党が大手を振って「野党」であるかのようにのさばり、山本太郎が排除されているのだ。
「事なかれ主義」とは何か?
それは、一言でいえば、「個性の排除」だ。現在のメディア界、言論界を見渡して、体制に真正面から食いつく個性が、どこにある?
みんな、一様の金太郎飴言論ではないか? 世間が容認するのは「一定の学歴・資格・経験」であり「体制への順応性」だけだ。
私が、自分個人の認識に依って立つ反原発言論を20年間以上も行ってきても、私が世間に評価されることなどほとんどない。逆に、徹底的に小馬鹿にされ、誹謗中傷され、捏造された学歴を嘲笑されている。
フクイチ事故を徹底的に批判する言論を行っていたら、私の個人的資質や学歴や、実家の情報やらを誹謗する人間のクズが大量に出てきた。
多くの場合、それは電通の下請け関係者によるものだ。
私の発信情報は、グーグル検索でも意図的に排除されている。私と同様に、個性によって立つ、真実の情報を発信する者の大半が、私と同じような扱いを受け、「相手にされない」ことで、社会から排除されている。
こんな社会では、「事なかれ主義」のクズしか出てこない。メディアにおいて、視聴者に衝撃を与えるようなインパクトが最初から排除されているのだから、刺激的で臨場感のある映画やドラマなど作りようがないのだ。
「フクイチ事故は最初の一ヶ月で数千人を殺害した」と真実を叫ぶ者は、私のように社会から追放され、何事もなかったかのような嘘を書いている馬鹿だけがメディアに登場している。
こんな馬鹿げた社会で、まともな、人を感動させられるドラマが、どうやって作れるのだ!
少しはイギリスドラマのリアリティを学べ! 真実を語れ!
遺体も血糊も真正面から写せ、嘘の映像を作るな!
私は、若い頃はテレビを保有していなかったので、NHKの集金人が、「あるに決まってるから支払え」と押しかけてきたとき、激怒して叩き出したほど、TVには関心がなかった。
ごくたまに、TVを視聴するようになったのは50歳過ぎてからだ。うちのアンテナでは谷間なのでNHKは写らない。テレ朝しか見られない。希にTBSが写るのだが、これは大きな地震前兆として捉えている。(後背スキャッター現象)
現在は、GYAOで、これまでまるで関心のなかった海外ドラマを中心に見ているのだが、日本TVドラマと比較してレベルの高さに唸らされている。
最近、感心したドラマというと、スウェーデンのドラマ、刑事バーランダー、イギリスヨークシャーのDCI BANCS、イギリスのライン・オブ・デューティなどだ。
これらを視聴すると、大量にある日本での同種番組である相棒とか科捜研の女とかのレベルが低すぎて、もう視聴する意欲も失ってしまう。
https://gyao.yahoo.co.jp/ct/drama
「科捜研の女」なんかは、私は沢口靖子のファンではあるが、番組設定の幼稚さばかりが眼についてリアリティを感じられなくて、とても見ていられない。
例えば、殺害現場の遺体の血の色だ。誰でも知っているとおり、血液は酸化してどす黒く変色してゆく。遺体は死後硬直を起こすと、血液が引力で下に沈むので、紫斑現象が起きる。
だが、日本のTVドラマでは、意図的にリアリティを排除して、まるで染料のような血液になっている。
血液が体内で地面側に偏るので、上側は真っ白になる。さらに腐敗が進むと、独特の変色が起きる。
日本ドラマで、そうした遺体の変化をリアルに表現している映像は、ほとんど見かけない。時代劇でも、剣で切られたのに、返り血を浴びないのは日本くらいなものだろう。
焼死すると、人間の筋肉は収縮し、性交時の女性のような姿になる。頭部を射撃・打撃されると、内圧で眼球が飛び出すなど、遺体の特徴がたくさんあるので、事故・事件遺体は、普通の遺体とはまるで違う。
この表現映像が、あまりに幼稚というか、意図的に読者へのインパクトに厚い安全フィルターをかけた番組ばかりなので、ホンモノの現場にいるようなリアリティ、実在感が極めて乏しく、ドラマのなかに感情移入できないのだ。
そんな番組ばかり知っていて、日本のドラマ水準にうんざりしてきた身で英国ドラマを見ると、緻密なリアリティ、現実感に引き込まれ、迫力がまるで違う。
刑事バーランダーもバンクスも、映像にどんどん引き込まれる力があって、自分がまるで、その現場に立ち会っているような興奮を感じるのだ。
もう日本ドラマとの実力差は歴然としていて、イギリスドラマの水準の高さに畏敬の念を感じるしかない。
逆に、日本の刑事ドラマは、制作者が吉本喜劇と勘違いしているような、幼稚で軽薄な笑いが、ドラマの根底を腐らせている。
刑事ドラマは何よりもリアリティが命のはずだが、今のドラマは、その逆を行っている。「なんだ、この質の低い演劇は……」と呆れるしかない。
だが、日本だって、半世紀前までは、イギリスドラマに負けていなかった。
黒澤明の時代、たくさんの「映像の巨匠たち」がいた。
黒澤明・大島渚・市川崑・今村昌平・山田洋次・マキノ雅弘・溝口健二・小津安二郎、どの人をとっても、世界に通用するドラマを作り出せる監督が目白押しだったのだ。
あの頃の映画・ドラマには、映像内にぐいぐい引き込まれる臨場感、リアリティに溢れていて、映画館から出てきたとき、「チケット代損した」との挫折感など、まるでなくて、「いいもの見た」という高揚感だけが残ったのだ。
今、仮に「科捜研の女」を金を出して映画館で見たいかというと、そんな人はほとんどいないだろう。浮ついた笑いが損失感を際立たせるだけだ。
私が金を出すなら、「自分が、その現場にいる」という強烈なリアリティを感じるドラマだけだ。軽薄な「笑いとり」なんか、ドラマの質を著しく貶めるだけだ。
そんな番組が、現在のTV界にどれほどある? ほぼ皆無ではないか?
なぜ、こうなってしまったのだ?
私は、1980年代以降、社会に蔓延した「事なかれ主義」にその理由を求める。
「問題を起こしたくない」 「スポンサーの意向」の二つの制約が、ドラマ制作者たちを雁字搦めに縛り付けているのだ。
別の角度でいえば、電通のせいだ。
メディアを支配し、体制維持に奉仕させる電通の圧力に屈しているから、こういうことになる。
電通は、戦前、麻薬王(ヘロイン密売王)里見甫が創始した満州・朝鮮におけるスパイ組織であり、麻薬密売組織であり、情報統制組織であった。その体質が80年経た今でも、リアルに生き残っている。
自民党は、CIAの指示どおり電通を使って情報操作し、日本の保守右翼政権を維持してきたのだ。
電通が行ってきたものは、自民党体制の本質を隠蔽し、保守政権を無意識に支持するよう仕向ける、さまざまな情報操作であり。体制に対して反逆する者を排除し、容認する「事なかれ主義」を蔓延させることだった。
こうした「事なかれ主義」は、右側どころか、左寄りのメディアや共産党、阿修羅掲示板などにも見られ、体制に鋭く切り込む視点を排除しているかのようだ。
だから、原子力村が金銭支援している立憲民主党が大手を振って「野党」であるかのようにのさばり、山本太郎が排除されているのだ。
「事なかれ主義」とは何か?
それは、一言でいえば、「個性の排除」だ。現在のメディア界、言論界を見渡して、体制に真正面から食いつく個性が、どこにある?
みんな、一様の金太郎飴言論ではないか? 世間が容認するのは「一定の学歴・資格・経験」であり「体制への順応性」だけだ。
私が、自分個人の認識に依って立つ反原発言論を20年間以上も行ってきても、私が世間に評価されることなどほとんどない。逆に、徹底的に小馬鹿にされ、誹謗中傷され、捏造された学歴を嘲笑されている。
フクイチ事故を徹底的に批判する言論を行っていたら、私の個人的資質や学歴や、実家の情報やらを誹謗する人間のクズが大量に出てきた。
多くの場合、それは電通の下請け関係者によるものだ。
私の発信情報は、グーグル検索でも意図的に排除されている。私と同様に、個性によって立つ、真実の情報を発信する者の大半が、私と同じような扱いを受け、「相手にされない」ことで、社会から排除されている。
こんな社会では、「事なかれ主義」のクズしか出てこない。メディアにおいて、視聴者に衝撃を与えるようなインパクトが最初から排除されているのだから、刺激的で臨場感のある映画やドラマなど作りようがないのだ。
「フクイチ事故は最初の一ヶ月で数千人を殺害した」と真実を叫ぶ者は、私のように社会から追放され、何事もなかったかのような嘘を書いている馬鹿だけがメディアに登場している。
こんな馬鹿げた社会で、まともな、人を感動させられるドラマが、どうやって作れるのだ!
少しはイギリスドラマのリアリティを学べ! 真実を語れ!
遺体も血糊も真正面から写せ、嘘の映像を作るな!