本題を前に26日の布袋寅泰さんの名古屋センチュリーホールの電子チケット無事に何とか受け取ることが出来ました。(その代わり設定で四苦八苦しました。)
17日にKANさんが亡くなったというニュースが流れました。
彼は東京に住む仲良しのいとこと同学年で、昨年の60歳のお誕生日に振り袖を着て撮影したというエピソードの持ち主で、告別式に本当ならこの写真の等身大パネルを置く予定が祭壇に写真が飾られていたという。
KANさんと言えば「愛は勝つ」ですが、この曲がヒットした平成3年は大手菓子メーカー勤務3年目で、バブルが弾けたとは言えども平和ボケ出来る環境でした。
その年の2月に会社のイベントで故萩原流行さんが主演のミュージカル鑑賞とパーティーと東京ディズニーランドの旅行があって贅沢三昧でした。
ボーナスもたくさん貰えました。
東京ディズニーランドも会社のイベントを含めて3回行っていました。
CDやレーザーディスクも毎月10000円ほど名古屋のヤマギワ(今のソフマップ)で買っていました。
服もデパートでしか買いませんでした。
父が会社経営をしていたので軽自動車から日産パルサーになりました。
しかし…。
中学高校と自由がなく、人間関係に苦しんだ私は職場に居場所はありませんでした。
母が干渉する人だったので一方的に自分は愛されていないと思っていました。
特に中3の時に担任の先生が厳しくて、自分は辛いことに耐えれたから強い子なんだと思っても抑圧された反動が出てしまいました。
馬鹿騒ぎして面白い子として扱って貰いたかった反面、会社に不満を持っていました。
その年の12月に職場の食事会に自分が誘われなかったことから自分は職場でいらない人間だと思いこんでしまいました。
後でそれは誤解だったのですが、騒動を起こしてしまいました。
当時の職場は12月は休めないのですが、2日休んで名古屋の松坂屋で高いセーターを買ってしまいました。
今だったら首案件です。
でも、両親はズル休みしたことを責めませんでした。
大江千里さんのライブを観に大阪城ホールに行くためにズル休みしたときもです。
平成3年という年はバブルが弾け、湾岸戦争が起きた年でもありました。その影響が翌年に出ました。
父の仕事も阪神大震災後に影響が出ました。
そういう年だったからこそ「愛は勝つ」はヒットしたのではと思います。
この曲がヒットした20年後に東日本大震災が起き、コロナの感染で日本中が沈んでいるときには応援歌になりました。
大江千里さんの好きな私に取ってKANさんと槇原敬之さんは脅威的存在でもありました。千里さん自身平成2年で人気の限界を感じたとインタビューで話していました。
最後にKANさんの御冥福をお祈りします。