スラヴォイ・ジジェク著『ラカンはこう読め!』から引用。<o:p></o:p>
もう何十年も前からラカン派の間では、〈大文字の他者〉の知がもつ重要な役割を例証する古典的なジョークが流布している。自分を穀物のタネだと思いこんでいる男が精神病院に連れてこられる。医師たちは彼に、彼がタネではなく人間であることを懸命に納得させようとする。男は治癒し(自分がタネではなく人間だという確信がもてるようになり)、退院するが、すぐに震えながら病院に戻ってくる。外にニワトリがいて、彼は自分が食われてしまうのではないかと恐怖に震えている。医師は言う。「ねえ、きみ、自分がタネじゃなくて人間だということをよく知っているだろ?」患者は答える。「もちろん私は知っていますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか?」。ここに精神分析治療の真の核がある。症候の無意識的真理を患者に納得させるだけでは十分ではないのだ。無意識そのものにこの真理を引き受けさせなければならないのである。<o:p></o:p>
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ちなみに〈大文字の他者〉とは「象徴界」のこと。どこからどうみても立派な、完璧な他者。象徴界とは「シニフィアン(言葉の「音」)」の世界なので、あるのは純粋に構造だけで、だからそこでの出来事も、意味じゃなくて構造にしたがって起こることになる。その作用は人間生活の全般に及ぶが、意識されるより、「無意識」であることがずっと多い。<o:p></o:p>
もしこれが不在だとしたら、人びとが頼れる社会的絆(信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約)がなくなってしまうということになり、とても恐ろしいことになるのだ。<o:p></o:p>
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ここでは明かせませんがある場所でご一緒させてもらいました。
一緒にうどんを食べたことがあります。突然ですいません。ときたまのぞかせていただいてます。
昔ラカンの虚焦点という概念を理解するのに苦労しました。