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「ちびさん」のご主人

ねこ好きなお父さんの気ままな日記です。
最近は、お城の他に甲冑と火縄銃に嵌まっております

絶版本、見つけた

2012-06-24 23:12:17 | 城、城跡、歴史
今日は、昼過ぎから県立図書館と万歩書店に行ってきました。

万歩書店というのは、岡山の人なら分かると思いますが、古本屋さんです。

結構、絶版になった本などの掘り出し物を見つけることができる大型の古本屋です。

で、今から8年前に、学研から出版されていた「よみがえる日本の城」シリーズを見つけました。


このシリーズ、以前にも“真説 安土城”や“城を復元する”を、やはりここ万歩書店で購入しましたが、今回は“岡山城 備中松山城 津山城”を見つけました。

CG、イラスト、模型などで徹底再現されておりかなり読み応えのするシリーズです。
でもなぜか、重版がかからないのです。


岡山城の天守閣の復元透視イラストも興味深いです。

これだけの資料があるのに、鉄筋での復元はもったいないような気がするのですが、
現在の岡山城天守閣が着工されたころ、昭和39年ごろは、鉄筋での復元がブームだった頃、名古屋城などもこの頃のはずですよね。
どう考えてももったいない気がします。



ここ最近になっての復元は、木造が増えてはきていますが、建築基準法が邪魔をするのでしょうね~。

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岡山後楽園 御舟入跡

2012-06-17 22:47:16 | 城、城跡、歴史
先日、地方新聞で紹介されていました“岡山後楽園 御舟入跡”の現地説明会に行ってきました。

場所は岡山城から、月見橋を渡った現在の南門入口すぐのところです。



通常は、“御舟入跡”という立て札から先には入れなかった竹林の中にあります。

写真右の土砂は今回の発掘で掘り出された土砂

この“御舟入”跡は岡山藩主が岡山城と後楽園を舟で往来する際に使われた舟着き場の後です。



地下3.5mの所から、1.2メートルの護岸石垣が出てきたそうです。
その上に13段の雁木が、絵図に描かれていたように発見されました。



“雁木”の最下段は長さ10mあり、上に向かってハの字になっており、最上段の“雁木”は3m。その上に、“御成御門”があったそうですが、今回の発掘調査では、明治時代の土手に覆われていて、発見されていないそうです。



「この護岸石垣の基礎部分は“胴木”が入っているの?」

この、“護岸石垣”の底には、城の石垣の基礎のような“胴木”が敷かれてはおらず
玉砂利が敷き詰められた上に、石垣が形成されているそうです。
その理由としては、城の石垣ほどの自重が掛からない為ではないかということでした。

「藩主専用のということは、お付きの人はここから上がってないの?」

「文献によると、御成御門でお出迎えをしたという記録はあるのですが...。」とのことでした。

この“御舟入”元禄二年(1689)綱政がはじめて後楽園を訪れた頃の絵図に初めて出てきます。
その後、享保元年(1712)の絵図には、“御成御門”も描かれているそうです。

ただ今回の発掘された遺構の正確な年代は、はっきりしていないそうです。
現地説明会で話されていた職員の方の話では、年代測定に不可欠な生活を連想させる物(食器など)が、出てこない(藩主専用の“御舟入”の為に生活ごみなどは落ちているはずもなく...)為に、年代測定は不明だそうです。ただ、江戸時代の遺構には間違いないのだそうです。

今回このような完全な形で残ったのも、3.5mの土砂におかげで戦災にも遭わずに形をとどめたことはラッキーな事だともいわれておりました。
実際現在の後楽園内の建物は、すべてが復元ですから...。

ちょっとマニアックな質問にも答えて頂き、有意義な時間を過ごせました。
吉備文化財センターの職員の方、ありがとうございました。

こちらの遺構、今週の金曜日までは見学可能だそうです。
ただし雨の日はシートに覆われているそうです。

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織田家長屋門

2012-06-16 17:23:03 | 城、城跡、歴史
明石城跡の内堀そばに“織田家長屋門”があります。



何故に、明石で“織田”?と思ったのですが。

調べてみると、津田信益に行きつきました。彼は犬山城主であった織田信清の子で織田信長の従甥にあたります。


犬山城天守

父 信清は、生涯を通して信長に反抗したが、その息子である信益は信長に罪を許され、天正9年(1581年)、連枝衆として馬揃に加わっています。
天正10年(1582年)、本能寺の変直前の信長上洛の際、蒲生賢秀らと共に安土城本丸の留守衆に名を連ねています。(信長公記)

その、信益の長女 奈和(長寿院)は結城秀康の側室となり、のちの越前大野藩主となる六男の松平直良を産んでいます。

長男 津田信総(九郎次郎)、三男 津田信勝(図書)は松平直良に仕え、信勝は松平直良の勧めにより織田氏を復姓。

松平直良は越前木本藩主となり、越前勝山藩主、越前大野藩主と代々藩主を務め、三男の松平直明が後を継ぎ、明石藩6万石で入封。

以来、織田信勝の家系の者を家老として重用したそうです。


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明石城  石垣

2012-06-15 16:04:40 | 城、城跡、歴史
以前は、上に乗った建造物に目がいきましたが、いつの頃からか、石垣大好きに。

おそらく依然読んだ、佐々木譲 「天下城」からかもしれません。
この話は、安土城築城と織田信長を、穴太衆の棟梁の目から見た作品でした。

それ以来城跡の“石垣”をみると、ワクワクしてしまうのです。



明石城本丸への大手道脇の石垣



この石垣の反り



建てられなかった天守閣につながる石垣

この石垣の規模をみるだけでも、かなりの大きさの城であったと思われます。






石垣から望む“坤櫓(ひつじさる)”

石垣だけみても、各城跡によって、表情が違い“ワクワク”させられるのです。


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明石城  坤櫓(ひつじさる)

2012-06-14 22:27:37 | 城、城跡、歴史
巽櫓からも見えておりました、“坤櫓(ひつじさる)”

こちらのほうは、次回は9月に内部公開の予定とか。



“巽櫓”と“坤櫓(ひつじさる)”の間の帯郭。創建当時回廊のようにつながっていたとか。
城内からの失火で、焼失したとのお話も伺いました。



こちらは、“巽櫓”よりも若干大きめ

ボランティアガイドの方の話では、四国丸亀城よりも大きいとか言われる方がいらっしゃるそうです。

今回“巽櫓”を見る限り、“巽櫓”でも十分大きいように感じました。
四国丸亀城の天守閣は、内部が柱だらけだったような記憶があります。

その“坤櫓(ひつじさる)”のそばに、天守閣は建てられなかったものの、立派な天守台があります。



天守台の大きさからみてもかなりの立派な天守閣が建ちそうです。

その天守台からみた“坤櫓(ひつじさる)”



こちらは、ぐるっと回って下から見上げた“坤櫓(ひつじさる)”



城跡ってどの角度からみても、飽きませんね~

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明石城  巽櫓

2012-06-13 23:06:18 | 城、城跡、歴史
明石城内を散策。

この城は、元和三年(1617)、小笠原忠実が信州松本より国替えとなり、現在の明石城より南西にあった船上城に入ったことから、明石藩が始まったそうです。

現在の明石城は元和四年に徳川弐代将軍秀忠が、西国諸藩への備えとして築城を命じ、元和五年の正月から石垣普請が始り、同年九月より櫓他の作事が始まったそうです。

その時に使われた用材は、一国一城令で廃城となった伏見城、三木城などの資材が使われました。

広場を抜けると、本丸への石段が見えてきます。



さらに進むと



ここの石垣、見事な算木積みです。

この石段を登りきると“巽櫓(たつみやぐら)が見えてきました。



今月は,巽櫓の内部を一階部分に限って公開中でした。

ちなみに、7、8、1、2月を除く偶数月が“巽櫓”の公開月だそうです。





左の筋交い部分は、明治の大修理時に追加補強されて部分だそうで、それ以外は創建当時の部材だそうです。

ボランティアガイドの方の話では、この筋交いがあったために、阪神淡路の震災時にも倒壊することなく残ったと話されておりました。


“巽櫓”から望むもう一つの櫓“坤櫓(さるひつじ)”

この明石城は天守台は築かれましたが、実際に天守は建てられずこの坤櫓が天守閣の代用をしていたそうです。
築城時には四隅にあった櫓も、現在はこの二基のみで国の重要文化財に指定されているそうです。

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見つけました~

2012-06-07 23:59:16 | 城、城跡、歴史
今週の日曜日、本源禅寺へ出かけた後、鶴山公園に回って見つけました。

ペーパークラフト“日本名城シリーズ”復元津山城



どうも、HPからの販売に先駆けて地元津山ではすでに発売されていたようです。

定価1,260円

復元されている備中櫓ではなく、天守北西を中心にしたモデルのようです。
早速作りたいのですが、帰宅時間の関係でもうしばらく、お預けです。

それともう一つ、


こんなDVDもみつけました。

元は津山城築城400年記念事業協賛者へのプレゼントだったようで、備中櫓の中で流れておりました。

こちらの方は、鑑賞済み。

津山城の歴史や構造が興味深く描かれています。
特に後半の、“津山城再現コンピュータグラフィクス(CG)では、森藩時代後期の津山城や城下町の様子が再現されています。

この中に出てくる、大書院の“紫陽花の間”の障子下の襖絵は、以前長法寺で見た襖絵。
そろそろ紫陽花の季節。確か今年は23日あたりからではなかったでしょうか、長法寺の紫陽花まつり。




どちらも、
鶴山公園下の観光案内書におかれています。

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本源禅寺へ

2012-06-03 20:33:34 | 城、城跡、歴史
昨日は6月2日、旧暦ではまだ先ですが、“本能寺の変”があった日

今日は昼過ぎから、津山市にある臨済宗「本源禅寺」へ行ってきました。

ここには、森家大名の墓があります。

津山藩主初代 森忠政(六男)の兄には、あの乱丸(三男)、坊丸(四男)、力丸(五男)がいます。



現在の位置に移ったのは、慶長十二年(一六〇七)年で、中興開基は、津山藩主初代 森忠政公だそうです。現在は臨済宗妙心寺派の禅寺です。

以来こちらのお寺は、森家の菩提寺として今に至っているそうです。

森忠政公は、織田信長の重臣美濃兼山城主森可成の六男として兼山で生まれ、天正十二年に次兄 長可が長久手の戦いで戦死すると、十五歳にして兼山城主になり家督を継ぎました。


県指定の御成門


県指定の御霊廟

7月7日が忠政公の命日だそうで、毎年御霊廟の御開帳があるそうです。

霊廟には、忠政公をはじめとして津山藩主四代、父可成、兄長可、乱丸、坊丸、力丸、忠政公奥方等、森家、関家、松平家の全二十九基の御霊碑が安置されているそうです。

中国地方って、歴史上でかなり重要な地域だったのでしょうね。
最近頓にそう思います。

7月には、もう一度訪れてみるかな~

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岡山城へ登城

2012-04-15 21:13:31 | 城、城跡、歴史
本日は岡山城に登城いたしました。



現在、岡山城にて行われている岡山城春季特別展「城の攻めと守り―武具が物語る武家社会の本質」に、いつもお世話になっております、備州岡山城鉄砲隊の方々が本日居られるとのことで、登城してまいりました。



甲冑の着付け体験もやっておりましたぞ。
“朱武者”殿にも勧められましたが、時間の都合で今回は...
それでも興味は十分にあるのですが...。


岡山城周辺の桜も、そろそろ散り始めておりましたが、それでもまだまだ人出は多かったです。





石垣と櫻、いいですね~。



となりの後楽園では、ヤエベニシダレ満開だそうです。

今年も、何とかソメイヨシノに出会えました。

県北はこれからでしょうか?
先日行った“津山城跡”は満開とのことですが。


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津山城跡はまだつぼみ

2012-04-09 02:26:25 | 城、城跡、歴史
昨日は、津山城跡に行ってきましたが、桜はまだほとんどが蕾。

それでも桜まつりの期間中とあって多くの人で賑わっておりました。



本当ならば、満開の桜越しに見る「備中櫓」のはずなのですが。



それでも、天気はお花見日和でした。

この桜の時期だけは、タイミングが難しいです。
なかなか満開のソメイヨシノには出会えません。

でも例年なら、もう満開のはずですが。




城内の一角には菜の花も...。

「つわものどもが夢のあと」そんな雰囲気の津山城跡。


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