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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 福島県伊達市

2024年08月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

伊達市(だてし)は福島県の北部に位置する市です。2006年1月1日、伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が新設合併して発足。市名は郡名に由来して命名。伊達郡桑折町、国見町、川俣町、相馬郡飯舘村、福島市、相馬市に、また県を跨いで宮城県:白石市、伊具郡丸森町に隣接。東に阿武隈山系の霊山、西には吾妻連峰、北方には宮城県境の山々が遠望できる福島盆地北東部のおよそ半分を占め、江戸時代以降は養蚕業の地として発展してきました。市の西部を阿武隈川が流れ、市の中心部周辺は平坦地の砂質壤土で耕地に適し、市の南部及び東部には南北に500mから800m程の阿武隈高地が連なっています。「市の木:赤松」「市の花:桃」「市の鳥:セキレイ」を制定。

キャッチフレーズは「人と緑と歴史が結び合う ひかり輝く田園空間・伊達市」

マンホールには「ももの花」「だて」の文字。全体に「市の花:もも」がデザインされています。

2006年3月16日制定の市章は「伊達の歴史・伝統を象徴する、弦月と兜をモチーフとしたデザインです。シンプルな円形は旧5町の調和と発展を意味し、「伊達織りなす未来ひとつの心」の将来像のもと、和をもって協力し合う人々の姿を表現しています。」公式HPより

伊達氏発祥の地「伊達市」をPRするため誕生した『第17代伊達政宗と正妻:愛姫』。え!?顔出しじゃぁ顔が見えない? ごもっとも😅、それでは幟旗で登場して貰いましょう。そう、「伊達のはだてじゃない」のです。

撮影日:2015年6月22日~23日

 


福島市民家園~其の二~ in 福島県福島市上名倉大石前

2024年08月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

昨日に続いての福島民家園、名前の分かるものは詳細が書けますが、歳月の流れは無常で、中には「これ・・・どこだった??😱」という建物もあります。

そういう場合は・・・・・で誤魔化す😅

市指定有形文化財「旧筧家宿店」。江戸末期~明治10年代に、旧会津街道と旧米沢街道の分岐点に「宿店」として建築。

一階の「みせ」部分のしとみ戸、二階外壁の漆喰による「商人宿」の文字、襖絵などに宿店としての特色が見られます。

国指定重要文化財「旧広瀬座」。伊達郡梁川町の広瀬川川岸に当時の唯一の大衆娯楽施設として、明治20年(推定)に町内の有志によって建てられた芝居小屋です。

全般に比較的簡素で古い形式ですが、小屋組には明治中期の建築を反映して、梁の長い洋風な造り(真束小屋)が採用。

舞台中央は回り舞台でその床下には奈落があり、花道・ぶどう棚・ちょぼ席など芝居小屋として必要なものはひと通り備えています。

時代の流れにより昭和24年に映画館として改装され、新たな娯楽施設となりましたが、テレビの登場で次第に廃れ・・。更に広瀬川のたび重なる氾濫で被害を受け、昭和61年の洪水のあと、川幅を広げるために取り壊しが決定。しかし、貴重な芝居小屋を後世に残すため、民家園で復原されました。

市指定有形文化財「旧小野家」は、明治6~7年に建てられた養蚕農家。

足場式中二階と屋根裏も蚕室として利用され、明かりを取り入れる工夫として、半切妻屋根になっており、屋内空間のほとんどが養蚕のための造りとなっています。この半切妻屋根は県北地方の養蚕農家の代表的な特徴です。

福島市民家園の道路向かいにある「巨石広場」。ここには広場名の由来となった直径80mにも達する「室石」と呼ばれる巨石があり、「大黒天」「金比羅天」が祀られています。

その昔、『室石将監』という妖怪がこの一帯で悪さを繰り返していました。困った村人1,000人が4日間の祈祷を続け、遂に妖怪を改心させた際、村人たちの歓喜絶叫がこだまし、巨石が割れたと伝えられています。こうしてみると生き物がうずくまっている様にも見える巨石、様々な物語が生まれてきそうです。

民家園に引き返し、駐車場に向かう途次に見かけた「御大典記念碑」。先ほど訪れた「西 土湯温泉」の文字が刻まれています。

絶滅危惧種に指定されている「くまがいそう」・・残念ですが花の時期は終わっています。思い起こすと・・いつも葉っぱしか見た事が無い😭

これからサンスカイつちゆ:こけしの湯で汗を流し、今夜の車泊地「道の駅:つちゆ」までくねくね道を走らなければなりません。そろそろ焦らないと・・😅 ・・で、福島三名湯の最後「高湯温泉」は未訪問に決定💧。

🌸明日は川俣町のご当地マンホール紹介です

訪問日:2016年6月24日


福島市民家園~其の一~ in 福島県福島市上名倉大石前

2024年08月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

福島市上名倉大石前、荒川の流れに沿うように展開される「福島市民家園」。地域に伝承されてきた生活遺産を大切に保護し活用するための文化財保存施設:および教育施設として、昭和57年8月「あづま総合運動公園」内に開園。

敷地約11万㎡の園内には江戸時代中期から明治時代にかけての県北地方の民家を中心に、芝居小屋、商人宿、料亭、板倉、会津地方の民家等が移築復原されています。広い敷地内と限られた時間、全部を網羅は出来ませんでしたが、とても濃い時間体験をする事が出来ました。

入り口横の展示館には、生活・生産用具・祭祀に関連する品々を展示。当時の環境や生活の様子などを再現しています。

試着ならぬ試担ぎ。背負ってる私より、背負われてるカゴの方が大きい、大きいけれど、これでは何にも入れられない🥶

屋敷神

「火伏の儀式 棟上げ式は家の永続と繁栄を祈る儀式であり、大工の棟梁の指揮で行う。棟に飾る矢羽は災害から守る魔除け。扇は幸福を招く。五色の吹き流しは祭神を表現。まき餅に大根の輪切りを混ぜるのは「棟上げの餅は火で焼くな」といい、胸(棟)が焼けないように祈る為である」

四方に建てられた竹笹に巡らされた注連縄の結界。この風景が何を表す物だったのか、説明を残し忘れてしまって不明ですが、印象に残る展示でした。

「橋銭小屋」は川にかけられた橋の出費を補うために、通行人から「橋銭」を徴収した小屋番用の小屋。橋銭が五厘であったために、五厘橋(ごりんばし)と呼ばれていました。

県指定重要文化財「旧奈良輪家」、江戸時代中期、福島市街の南郊に建っていた上層農民(村階層)の住居と思われます。

土間がかなり広く、奥には一部屋の「座敷」があることが特色。また、側面と背面は厚い土塗りの大壁で、内部は暗く閉ざされており、開口部が閉鎖的であることなど、古い民家の要素を持っています。「御亭主殿、そこに座ってても、全然違和感ないのがスゴイ😅」

旧奈良輪家の前にある「車井戸」。桶を網でしばり車を通して水を汲みあげる仕組みで、「つるべ」という名は「瓶を釣って」水を汲む事から「釣る瓶」と言います。・・・「ホンマ・・違和感ないなぁ😓」

県指定重要文化財「旧菅野家」。建築年代は旧奈良輪家より少し遅れた江戸時代中期に建てられた、福島市の一般的な農家住居。

「土間」の広さ、正面を除く大壁造り、「座敷」「納戸」の境の閉鎖形式など、県北地方の古い形式をよく伝えています。

県指定重要文化財「旧阿部家」。江戸時代中期に建てられた、福島市の普通農家住居です。ここでは日常生活の中心となる「中の間」が、床板を張らない「土座」であることが特色。軒も低く、開口部が少なく南側を除く三面は厚い土壁でおおわれた大壁造りになっています。

屋敷の一隅、特に鬼門(北東隅)に、石や木、わら屋根の祠があり、屋敷の守護神となる氏神や先祖の神、特に信仰する神の分霊が祀られていました。

そう言えば展示館にも、当時の背景写真と一緒に、同じような石祠が祀られています。

筒状の藁苞の中に納められているのはどのような神様でしょう?拡大すると「考える人」のような仕草で、自然石なら驚きの造形です。

🌸🍀興味深い建物、そこに根ざした風土の数々・・・続きは明日に。

訪問日:2016年6月24日


土湯(つちゆ)温泉~土湯こけし~ in 福島県福島市土湯温泉町

2024年08月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

さて、土湯温泉と言えば、何といっても「土湯こけし」。紹介ページには「クジラ目、たれ鼻におちょぼ口、大きな髪飾り(かせ)のこけしがずらりと並ぶ様は、圧巻」

「クジラ目、たれ鼻」って・・・😅

居並ぶ土湯こけし達。どれも同じように見えて、一つ一つ手作業で生み出される表情はすべて微妙に異なっており、その一体ごとが唯一の表情を見せて私たちを見返します。

しかし・・・流石にこれだけ並ぶと、圧巻を通り越して異様な雰囲気さえ感じさせます。真夜中に一斉にこの子たちが動きだしたら・・って、ホラー映画の見過ぎ。こけしさん、ごめんね!!💦

ワイワイと楽しんでおりますが、表の写真を残しておかなかった為、工房の名前は失念してしまいました。記憶に在るのは荒川橋の近くであった事。グーグルさんに聞いても、すっかり様変わりした景色は既に見知らぬ町並みに変わっていました。

棚にぎっしりと並べられた大小さまざまな「土湯こけし」。HPによると「土湯系こけしは、胴は細く頭部は比較的小さい。胴はロクロ線模様。線と線の間に花や蝶を描くこともある。土湯こけし独特の返しロクロという技法もある。構造は下はめ込み。頭頂に「蛇の目」といわれる黒い輪を描く。前髪と鬢の間には「かせ」という赤い髪飾りを描く。」よし、これで、偽物をつかまされる事は無い👍!

土湯こけしが集合して作られた長大な胴体を持つ「土湯こけし」は土産話に最適の被写体。優に2mは超えています。そして後方にこっそりと控えているのは行灯型土湯こけし。

可愛らしい雛段に並ぶ「土湯こけし雛」

ねぇ、折角「土湯こけし発祥の地」に来たのだもの。記念にお一方お連れ帰りしたいので、お支払い担当、よろしくお願いしま~す😀

ご亭主殿のお財布が少し軽くなったところで、ラストの足湯は「下ノ湯」。少々お疲れ気味の二人ですが、それでも名残惜しくてさらっと手湯だけ。

傍らの土湯こけし提灯の可愛らしさと、手にしたお土産入りの袋の重さににすっかりご機嫌の私。同じ顔をして見せてのリクエストだって笑って答えちゃいますよ😆

東日本大震災の発生を受け、「こけし育む 健康・湯の里 土湯温泉」を基本コンセプトに、町の復興と土湯温泉の地域ブランド再生に取り組まれてこられた地域の方々に。こんなにも楽しい一時を私たちは過ごさせて頂きました。二人の力など微々たるものですが、ずっと、ずっと応援しています。楽しい時間を有難うございました。 

訪問日:2015年6月24日

 


土湯(つちゆ)温泉~其の一~ in 福島県福島市土湯温泉町

2024年08月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

福島市土湯温泉町下ノ町、市内から西約16kmの荒川の谷あいに広がる自然豊かな温泉地「土湯(つちゆ)温泉」

春には仁井田沼一面に10万株の水芭蕉が咲き乱れ、秋は渓谷沿いの紅葉で賑わい、古くから湯治場として栄えてきた土湯温泉。その歴史は古く、旅の途中で病の床についた秦河勝の夢枕に立たれた「聖徳太子が、岩代国に突き湯あり」とお告げをしたのが始まりという説。温泉街を見下ろす場所には、聖徳太子を祀った「聖徳太子堂」があります。また更に遡って神代の時代、「大穴貴命が鉾で突くと湯が湧いてきた」のが始まりという説もあります。

源泉は温泉街から約2キロメートル先にあり、約130度前後の温泉蒸気と温泉水が吹き上がっています。湧出する温泉は熱すぎるため、吾妻山麓の湧き水を加え、 約60から65度の温泉にしてから各旅館などに供給。豊富な湧出量を誇り、多種類の泉質を持つ全国でも珍しい温泉と言われています。

温泉街には4か所の足湯が設けられており、気軽に温泉気分を味わう事も出来ます。「東北三大こけし発祥の地」の名前通り、「巨大:土湯こけし」と「顔出しこけし」に出迎えられての土湯温泉、スタートです😊

正直な感想を言うと・・・顔出しこけしは無い方が良い気がする😅

荒川に架かるアーチ橋。川床の風景に焦げ茶のアーチがとてもよく似合って、こんな時は、画才のある人が羨ましいと思ってみたり。

巨大こけしさんの目線・斜め先には「東鴉川(ひがしからすがわ)第一堰堤」。昭和23年(1948)に造られ、昭和26年(1951)に増築。2008年7月、歴史的景観に寄与するとして、登録有形文化財に指定されました。

文化庁HPに「阿武隈川水系荒川右支東鴉川の最下流部、荒川との合流点に近い土湯温泉地区に築かれる。堤長56m、堤高7.5m規模の重力式コンクリート造堰堤。表面は下流側布積、上流側谷積とする砂防堰堤で、温泉街の歴史的景観に寄与する」

道なりに進むと、先ほどよりも更に巨大な土湯こけしが橋守をする「荒川大橋」。

まずは「荒川大橋」のたもとにある「かじかの湯」で、土湯温泉・最初のほっこり。東北とは言っても福島の6月はやはりそれなりに暑い😅 しかも今日は、昨日と打って変わっての上天気。ほっこりではなく普通に汗が噴き出る💦

続いての足湯は、月乃湯橋のたもとにある、東屋風の足湯「月の湯ぶじぇ」足湯に浸かっていると眼下に流れる川のせせらぎが心地良く響いてきます。木陰の所為かさほど暑くも、熱くも無く😅、眼下に流れる川のせせらぎを聞き、周辺の景色を眺めながらのんびりくつろぐことができました。

さやさやとせせらぎの音に癒されたら、次は熊野神社の石段を上がったところにある「偲いの湯」

折角足湯巡りをしようと楽しみにしていたのですが、流石に冬場と違ってこの暑さではそんな気になれません。でも折角来たのだから、せめて手湯なりと😓 

熊野神社の赤い鳥居・・ごめんなさい。石段を上がる気力が有りません。と言う事で鳥居前の拝礼で失礼します🙏🙏

熱い手湯で少々のぼせ気味の二人😆 しばらく休憩を決め込んでのんびりと。ああそれにしても福島・・よくぞここ迄来られたなと、改めて感慨に浸っています。さて残る足湯はあと一つ・・ですが、続きはまた明日😅。

訪問日:2015年6月24日

 


中野不動尊 in 福島県福島市飯坂町

2024年08月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

福島市飯坂町中野堰坂に門を構える曹洞宗寺院「中野山大正寺」『不動明王』を本尊とします。曹洞宗大本山:永平寺(福井県)の直末寺で、日本三大不動尊の一つに数えられ、「中野不動尊」の名で親しまれています。

「治承3年(1179)春、『恵明道人(えみょうどうにん)』が1匹の羚羊(かもしか)に導かれ当地に入山し、そこで神のお告げによって三日月不動明王を祀り九字の火を点したのが始まりとされる。明治36年(1903))に永平寺64世貫首『森田悟由』の手により、中野不動尊本堂の大正寺を建立。江戸以北、特にみちのく地方では昔より「日本三不動の一つ」と伝えられてきた。三不動にはもう一つの意味があり、本堂の「厄除不動明王」、祈祷殿の「眼守不動明王」、奥の院洞窟内「三ヶ月不動明王」の三不動明王が祀られている事から「日本三不動」と言われてきた。日本における「六三除け」の祈祷発祥の地とされる。」

「六三(ろくさん)」とは、九星の巡り合わせによって人の身体九ヶ所に生じる不調で、年齢や性別により場所が異なると言われています。この厄を払う祈祷を「六三除け」といい「中野不動尊本堂:大正寺」にて執り行なわれます。

大正寺唐破風天井の彩色画

総欅造りの「祈祷殿」には、『眼守不動明王』が祀られます。

脇扉の彫刻は「紫雲を従える不動明王」、対には(おそらく)「未敷蓮華(みふれんげ)を持つ聖観音菩薩」

祈祷殿の参道石段脇にて聖域を守護されるのは、福島狛犬さん一対。阿吽ともに大きな飾り毬に手を添えています。

石段の右手には「とげぬき地蔵像」「岩屋の清水」。棘は五欲・三毒・四苦の三障を指し「サワリのとげを抜く」ことから、足にさわりがあれば地蔵尊の足を、腰にサワリがあれば腰をたわしで磨く習わしがあります。また足元には奥の院の洞窟から湧き出る清水が引かれており、地蔵尊に手向ければ三毒が取り除かれ、飲用すれば活気が出ると言われています。

奥の院に聳える三層朱塗りの「大日堂」は、昭和54年(1979)の開山800年を記念して建立。

最上層堂内には『大日如来』を御本尊とし、脇立に不動明王と愛染明王が並び、大間両側には三万巻の般若心経を納経。本尊である大日如来像は 20年に一度開帳される秘仏とされています。

下層入り口は唐破風重層の「寂光門(じゃっこうもん)」。「洞窟巡り」の出入口となっています。元々は、洞窟の中に「三ヶ月不動明王」を祀り、九字の聖火が灯されたのが当山のはじまりと伝えられる・・いわば中野不動堂の始まりの地。左に小さく見える門は「顕霊門(けんれいもん)」

洞窟内の単座には、不動明王の眷属(弟子)である三十六童子が祀られており、おおよそ10分ほどですべてを巡る事が出来ます。心なしか気持ちが温かくゆったりと感じられるのは御仏の加護でしょうか🙏🙏

恵明道人が一匹の「かもしか」に導かれて入った、当山で最も古い信仰の地「不動の滝」。毎年2月に行なわれる「歳祭り」では。梵天をかかえた修行者がこの滝に打たれて心身を浄める「水行」が行なわれます。

「あんど釜」・・・昔この地方に疫病が流行り、住職は不動明王のお示しでこの釜で薬草を煎じ病人に飲ませた所、たちまち治り人々はみな安堵した。いらい誰言うとなく「あんど釜」と言われるようになった。

幾体もの石仏に見送られて🙏🙏

参拝日:2015年6月23日

🌸🍀明日は「飯坂温泉」と共に福島市三名湯の一つに数えられる「土湯温泉」の紹介です。


飯坂温泉~旧堀切邸~ in 福島県福島市飯坂

2024年08月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

飯坂温泉の街歩き、続いて訪ねるのは飯坂温泉の観光交流拠点として2010年5月に開館した「旧堀切邸」。貸し切り状態の土塀沿いの道、心配した雨も止んで傘が荷物になってきました😅

旧堀切邸は、江戸時代から続いていた豪農・豪商の旧家。公式HPによれば「天正6年(1578)に梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国から当時の上飯坂村に移住、名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700㎡)あまりを開作」し、農業・養蚕に力を入れていきました。また、村を流れる赤川がたびたび氾濫し被害がでるため、「堀を切って」赤川の流れを変え、埋め立てた場所を田圃や宅地にしたことから、ここの地名を「堀切」とし、治善のことを「堀切」と呼ぶようになりました。敷地面積は約1,230坪(約4,000㎡)あり、明治13年以前には現在の約2倍以上の面積があったと伝えられています。」

安永4年(1745)建築の「十間蔵」。桁行が10間(約18m)あり、主に米蔵として使われ、時には酒蔵としても使用されていました。建立年代が判明するものとして、福島県内最大最古の土蔵であり、2007年に福島市の有形文化財に指定されています。

「十間蔵」に向かい合うように造られた「足湯」「手湯」施設。疲れた足をゆっくりと温めながら見るお庭の景色は、また格別。

近代和風住宅の「主屋」。こんなお部屋でゆっくりとお茶でも頂きながらゆったり寛いで温泉を楽しむ・・・なんて贅沢、何時になったら出来るようになるんだろうね~😓ね~ぇ😓


旧堀切邸を後にするのは心残りですが、さりとて私たちは旅の途中。名残惜しくとも次に向かわねば。最後の立ち寄りは「共同浴場:波来(はこ)湯」

HPには「2011年に改築された「波来湯」は、開湯以来1,200年もの歴史があるとされており、おおよその開業年代が分かる共同浴場としては飯坂温泉最古の共同浴場といっても過言ではありません。」

十綱橋近くの摺上川沿いに並ぶ旅館街、水に映る姿の美しさに思わず足が止まり、その不思議な光景に目を奪われる。

それは何とも不思議な光景。

あっ!「芭蕉と曾良 入浴の地」碑、見っけ!!

何でも芭蕉さんが飯坂に寄り道したのはご贔屓の義経ゆかりの「医王寺」参詣の為だったとか。生憎と宿は土間に筵を敷いただけの灯火もない薄汚い貧乏家であったと書き残していますが・・ねぇ~、素朴な疑問なんですが、他に宿は無かったのですか??

十綱の渡しの近くにあった「城址 古舘」碑。案内には「この館は文治五年に伊達朝宗の四子・伊達為家が築城。四代伊賀守政信のとき飯坂氏と改称した。代々伊達家に仕えていたが天正十七年に亡くなって後、その娘「飯坂局」が伊達政宗に従って米沢に移るまで、約三百年間此処に共住した」

🌸🍀明日は「日本三大不動」で知られる「中野不動尊」の紹介です。

訪問日:2015年6月23日

 


飯坂温泉~其の一~ in 福島県福島市飯坂

2024年08月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

福島市内からさほど遠くない飯坂町十綱町に、鳴子・秋保とともに奥州三名湯に数えられる飯坂温泉があります。電車を使えば福島駅から飯坂温泉駅まで23分、車でも22分という距離は、地理に詳しくない余所者にも実に魅力的。

山間の小さな温泉街と違って、周辺は普通に町(笑)。整備された道沿いにはこれもまた普通の都会の景色が広がり、本当に温泉街に来たのかと疑いたくなる程。

ですが、ほんの少し目線を変えると、十綱橋のポケットパークには芭蕉さん。その前には日本最初のラジウム発見の地:記念碑等々・・遠方からの来訪者の好奇心をくすぐる演出がそこかしこに😊

交通の便が良く住環境も整備された町なかの温泉地ですが、その歴史は古く、2世紀頃、日本武尊が東夷東征の際に病にかかり「佐波子湯」に浸かった所たちまち元気になったという伝承や、平安時代に編纂された「拾遺和歌集」に【あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか】と詠まれた歌もあり、「さばこ」という名前が既に定着していたことも伺えます。(1889年に建築された鯖湖湯跡碑)

冒頭の『松尾芭蕉』は、奥の細道の中で弟子の曾良と「飯塚(飯坂)」の粗末な苫屋に泊り、湯に入った事を記し、近現代では『昭和天皇』をはじめ、皇族の皆様も訪れています。また昭和12年(1937)には『ヘレン・ケラー』も宿泊。よほど飯坂温泉がお気に召したのか、その後2度も訪れています。

さて、飯坂温泉と言えば何といっても有名なのが「鯖湖湯」ご当地マンホールのデザインにも使われており、温泉ファン以外の人(私たち)にも人気です。

名の由来は、西行法師がこの湯を訪れた際に詠んだ【あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さわこ)の見ゆる 山の彼方か】から、「左波子=鯖湖」の名が定着したとも云われています。

明治22年(1889)に建築され、古くから日本最古の木造建築共同浴場として親しまれてきた鯖湖湯でしたが、老朽化により取り壊され、1993年に30m離れた現在地に当時の姿を再現して改築されました。

「飯坂温泉発祥之地」碑が立てられていたのは、明治15年(1882)創業の「ほりえや旅館」。与謝野晶子・正岡子規の文学碑もあります。

【 わが浸る 寒水石の湯槽にも 月のさし入る飯阪の里 与謝野晶子】

【 夕立や人聲こもる 温泉の煙 正岡子規】

敷地内に祀られる「鯖湖神社」。傍らには、身体の癒したい所に温泉をかけると良くなると伝えられる「泉仏 お湯かけ薬師如来」。お薬師様にお湯をかけ、共に生きる人の無病息災を願います。そう言えば・・と、唐突に思い出すのは、大阪市ミナミの法善寺横丁には「水かけ不動さん」がいて水をかけた記憶が・・😊

鯖湖神社の横で存在感を示す、屋根付き樽の「分湯槽」。こちらの源泉温度は51度で泉質は単純温泉(アルカリ性低張性温泉)。

分湯槽は、源泉の口から外湯や宿泊施設へ温泉を分ける大きな容器みたいなもので、外湯や、源泉を持たない施設へ配湯する役割をしています。

存在感を放つ「分湯槽」は、温泉街に架かる橋の親柱のデザインにも使われています😀

魅力的な建物と言えば、国の登録有形文化財に指定されている「なかむら屋旅館」。江戸末期建築の「江戸館」、明治時代中期建築の「明治館」の二棟からなり、白壁土蔵造りの木造三階建てとして地域のシンボル的存在となっています。

「平成23年3月の東日本大震災で大規模半壊の被害を受けましたが、その後4期工事を経て元の姿に修復された事が評価され、平成28年には第32回福島県建築文化賞において復興賞を受賞。」公式HPより。

美しい景観は守る人が居てこそ美しく保てるもの。被災当時を想像するしかない余所者の私たちですが、その事実に心から敬意を表させて頂きます。

🌸🍀飯坂温泉街のそぞろ歩き、明日に続きます。

訪問日:2015年6月23日


羽黒(はぐろ)神社 in 福島県福島市御山谷

2024年08月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

福島市御山谷に鎮座される「羽黒(はぐろ)神社」。御祭神は『渟中太命(ぬなかふとのみこと)』

「福島市御山堂殿に鎮座される黒沼神社の摂社とされる。古くは稲倉魂命を祀ったものとされていたが、神仏習合した羽黒権現として信夫山伏の中核をなしてきた。古くは羽黒大権現と言われ、信夫、伊達一帯の総鎮守として信仰を集めてきた。弘化二年上棟の流造本殿は昭和52年の火災で焼失。」

駐車場を出てほんの少し坂道を上がり、石段を登って・・唐突に展開される石の道・・・に、しばし呆然。それでも福島県は遠い・・・ここまで来て引きかえせば多分二度目は無いだろう・・横に鎮座されていた山神社のお社に頭を下げ、私には危なっかし過ぎる石の道を登ります。

追い越し先を行くご亭主殿は、この道が間違っていない事を確認し、半ば不安そうに何度も立ち止まってはふり返り、私が来るのを待っています。

名月や  物にさわらぬ  牛の角 明月】、御神坂の途中に見かけた歌碑は、江戸後期の信夫山の御山村名主で、高名な俳人でもあった『西坂珠屑(しゅせつ)』の句。嘉永6年、珠屑の弟子達によって羽黒権現の下の大石に刻んで奉納されました。

大変だなと覚悟を決めた参道も、途次途次に奉納された碑などを見ながら、気が付けば石段参道。少し明るく開けた先に朱の色が見えてきました。

広い境内の中央。朱塗りの美しい拝殿に無事に辿り着く事が出来ました。現代医学&ご亭主殿と御祭神のお陰でこうして参拝できた事に深く感謝🙏。

参拝を終えて改めて見渡す境内。中でもひときわ異彩を放つのが、鉄塔から吊り下げられた「日本一の大わらじ」。長さ12m、幅1.2、重さ2t。もうこの単位自体に現実味がわきませんが、これを担ぐのに成人男性100人ほどの力が必要との事😅 とにかく巨大です。

江戸時代から400年にわたって受け継がれ、毎年2月に開催される羽黒神社の例祭「信夫三山暁まいり」。その昔、羽黒神社の仁王門に安置されていた仁王様の足の大きさに合わせた大わらじを奉納したことが由来とされ、稲わら約3,000束を使い、2週間かけて作られます。

「大わらじ奉納の鉄塔建立」の碑。奉納された大わらじは神社脇の大杉に吊るされていましたが、昭和51年8月の羽黒神社の焼失と共に大杉も焼けてしまっい、代わりとなる鉄塔を建立した事が記されています。

境内に奉納されている石祠、二十三夜塔などに並んで中央に、寛永元年(1624)建立の「安江繁家公徳碑」。上杉時代の福島奉行を勤め、良政によって郷民に慕われた人物と伝えられています。

「道祖神碑」「石祠」等々・・

無事に参拝を終えて元来た道を引きかえした所で、最初は目につかなかった「仁王門跡」の碑を見つけました。羽黒神社の仁王門が建っていたのはこのあたりで、いつの頃からか、このわずかな土地を仁王門平とよぶようになったそうです。

駐車場近くまで戻り、見慣れたクロネコさんに何故かしらホッとして、改めて気が付く「一の宮明神」😲。ねぇ・・来るときに見かけた??いや、どうだっただろう?? 礼を失しないように、改めて拝礼🙏🙏。

今更に気が付いて唖然としたこと・・福島県護国神社参拝の際、偶然お見掛けして画像に残した神社の社号標に「縣社 黒沼神社」。権力闘争に敗れ『渟中太命』と共にこの地に逃れてきた『石姫皇后』が配祀されている神社だったという事実😱😱 なぜ、鳥居を潜らなかったのか!!😭

参拝日:2015年6月23日

🌸🍀明日は奥州三名湯に数えられる「飯坂温泉」の紹介です。


福島縣護國神社 in 福島県福島市駒山

2024年08月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

福島市駒山、信夫山に鎮座される「福島護国神社」。御祭神は 『護國の御英霊 天照大御神』

「創建当時は官祭信夫山招魂社と命名され、後に指定官祭福島招魂社と改称。昭和14年、官祭福島縣護國神社となり英霊68,500余柱が祀られます。終戦後、GHQの占領下におかれ存亡の危機に立たされた当時の人々は、伊勢の神宮・天照大御神をお祀りし、大霊神社と一時的に名称を変更。昭和27年の主権を経て同年9月、大霊神社から福島縣護國神社と名称を戻し、今に至る。」公式HPより

参道真っ直ぐの正面、信夫山の深い緑を従えて鎮まられる御社殿。

護国の御霊に手を合わせられる幸せに、心から感謝申しあげます🙏🙏

国歌に謡われる「細(さざれ)石」。千代に八千代に巌となりて・・苔の生す迄

「慰霊の碑」

「悠久平和の碑」

ちょっと珍しい「泥棒除」絵馬を見つけました。寺社の建造物を盗む罰当たりに効果があると良いのですが😊

参拝日:2015年6月23日