本稿も余り細部に踏み込む事は前進できなくなりますので適宜省略が有り得ますが、ポイントは極力投稿者の能力が許す範囲で述べたいと思います。又投稿者自体も当然絶対と言う事は有り得ませんので、ミス等気がついた方がおられたら記入をお願いします。兌換再開後、全体の景気状況としては、1820年頃より、好況局面となり、1822~1823年まで持続した。その後中南米への投資が進み、価格の上昇と証券価格の上昇が起きた。イングランド銀行の金属準備(1853年まで銀が含まれる)は19世紀前半期で多い時で大よそ千数百ポンドであったが、1824年始まり頃は1400万ポンドであったが、1824年の終わり頃、為替が逆調になり、金の流出が始まった。1825年の2月頃には900万ポンド弱になった。その頃、国債価格の下落が起こり、夏ごろには生産の縮小と取引所でのパニックが起きた。並行して金準備は下落し、10月ごろには300万ポンド程度にまでなった。全体として恐慌の傾向となり、信用に対する援助が求められるようになったがイングランド銀行は必ずしも当初はそれらに応じず、手形等を突き帰していた。又地方銀行でも取り付け騒ぎが在ったがイングランド銀行は特に救済もしなかった。
-ここで若干イングランド銀行の性質に触れておきますと、同行は1694年の議会の条例により設立された株式銀行であり、1946年の法令により国がその全株式を所有するまで配当を行っていた。従って学説的にはいつ同行が中央銀行足りえたかの論文等は多数ある、つまりは途中までは自行の利益を考えていたと言う事である。
又、その後に問題となるバンクレートであるが、利率については中世より宗教的事情等により高利禁止法があった。それによれば1714年に5%と決められその後、それは1854年に撤廃されるまで続いた。
その後信用不安が続き12月13日にレートを5%に“上げた“。このレートを上げると言う行為は金融政策を知っている方なら皆思うと思うのですが、要するに今とは逆な行動と言う事です。19世紀を通じて以後恐慌時にはレートを上げるという行動は続きます。これが何故現代は逆になったのかと言う事は極めて重要なポイントであると思いますがそれは今後、明らかに出来ればと思います。尚来週は投稿者外出の為お休みさせて頂きます。 参照:クラパム イングランド銀行等
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