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松永久秀の命日法要、今年は10月8日(月・休)/王寺町の達磨寺(だるまじ)(毎日新聞奈良版「ディスカバー!奈良」第84回」)

2018年10月05日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、「ディスカバー!奈良」を連載している。9月27日(木)付で掲載されたのは「松永久秀の命日法要/王寺町の達磨寺」、執筆されたのは王寺町在住、カラオケ名人でソムリエの会が誇る美魔女・松永佳緒莉(かおり)さん。
※トップ写真は、松永久秀の命日法要

松永久秀は巷間、梟雄(きょうゆう)とか極悪人とかいわれるが、最近はそうでもなかったという説が登場している。『日本大百科全書』「松永久秀」によると、

 松永久秀 歪められた戦国の“梟雄
 天野忠幸
 宮帯出版社

まつながひさひで[1510―1577]戦国時代の武将。山城国あるいは摂津国に生まれた。三好長慶(みよしながよし)の家臣で、初め右筆(ゆうひつ)として仕えた。1553年(天文22)摂津滝山(たきやま)城(神戸市中央区葺合(ふきあい)町)主を命ぜられ、八部(やたべ)・菟原(うはら)郡を支配。

59年(永禄2)大和平定のため大和信貴山城(奈良県生駒郡平群町)主となる。翌60年弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、幕府御供衆(おともしゅう)に列せられる。同年8月郡山城(奈良県大和郡山市)を攻落したのを皮切りに、大和の諸城を次々に陥落させ、62年奈良北部に天守閣をもつ多聞山(たもんやま)城(奈良市法蓮町)を造営し大和を支配した。

64年長慶が死去すると、一族の三好長逸(ながゆき)・政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち)のいわゆる三好三人衆とともに長慶の養子義継(よしつぐ)を補佐、65年将軍足利義輝(よしてる)を三好三人衆らと暗殺し、義輝の実弟一乗院覚慶(後の将軍義昭(よしあき))を奈良に幽閉した。

長慶の政権を継いだのは、三好義継と三好三人衆および久秀の三者の連合体であり、久秀が1人実権を握ったのではない。久秀は大和一国の戦国期権力であった。しかし、この連合も三好三人衆との内訌(ないこう)で分裂していく。

66年久秀は、和泉・河内・摂津の各地で三好三人衆に敗れ、67年大和に逃げ帰り、同年10月には東大寺に布陣した三好三人衆を攻撃して大仏殿を焼き払った。翌68年入京した織田信長の軍門に降(くだ)って大和一国を安堵(あんど)されるが、77年(天正5)8月信長に背き、信貴山城を攻められ、10月、子久通(ひさみち)とともに自殺した。[矢田俊文]


日本人で初めて爆死した人ともいわれ、まさに波乱万丈を絵にかいたような人生だったのだ。では、松永さん(ご親戚ではないと思うが)の記事全文を紹介したい。


達磨寺本堂

王寺町の達磨寺には戦国武将、松永久秀のものとされるお墓があり、今年は10月8日に「松永久秀命日法要」が営まれます。王寺町のマスコットキャラクターで聖徳太子の愛犬と称されている雪丸も参列します。

達磨寺は『日本書紀』の片岡山飢人伝説が始まりとされます。聖徳太子が片岡山で助けた飢人が、達磨大師の化身だったと伝えられるようになり、達磨大師のお墓の上に創建されました。

本堂の西側には、松永久秀のお墓があります。東大寺の大仏を焼いた極悪人のイメージがある久秀ですが、最近の研究で、それは江戸時代の儒学者によって創作された虚像ではないかともいわれています。達磨寺も久秀に焼かれた寺院の一つなのですが、なぜか久秀のお墓を守っています。

お寺では、敵方であった筒井順慶が久秀の遺体をここに葬ったとも伝わっており、墓前で手を合わせば、久秀の真の姿に近づくことができるかもしれません。境内には雪丸の石像や「達磨寺古墳群」もみられます。

■メモ JR王寺駅南口より徒歩15分(奈良まほろばソムリエの会 松永佳緒莉)。


コメント (6)
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