5/23(土)、柳生の里(奈良市)を歩いてきた。昨年10月に発足した「古社寺を歩こう会」の3回目である。過去2回は同僚・知人などの「縁故募集」だったが、今回は初の試みとして、当ブログで参加者を「一般募集」させていただいた。それは、こんな感じだった…。
《来たる5/23(土)、風薫る「柳生(やぎゅう)の里」を訪ねませんか!》《「古社寺を歩こう会」は、会社の先輩・同僚が立ち上げた文化散歩の会です。これまで2回開催し、いずれも15~20人の参加をいただきました。案内役の方と一緒に、月並みな観光名所ではなく、知る人ぞ知るディープな奈良を訪ねる会です》。
※参加者大募集!柳生の里まるごと体験(4/23の当ブログ記事)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/da54f6bc739562c7ac741af95ac8b2ef
参加費用は@3500円だった(昼食代込み・バス代950円×2を除く)。ブログをご覧になって申し込まれたのは11人(9組)、同僚・知人が12人(私を含む)の計23人が今回の「歩こう会」に参加した。ブログ申し込みの11人のうち、9人の方は全くの初対面の方である。
「柳生上」バス停前で、まずは自己紹介
最初は「会ったこともない個人のブログを見て申し込まれる方が、そんなにいるだろうか」と思っていた。しかし「歩こう会」世話役のN先輩は、「1日700人ものアクセスのあるブログで募集したら、応募が殺到する。人数制限を設けなくては」とおっしゃる。心の中では「2~3人か、せいぜい5人までだろう」と思っていたが、一応募集期間を18日、人数は先着10人程度として募集をかけた。すると、なんと12人(10組)もの方に応募いただいたのだ(後にお1人は所用のためキャンセル)。これは驚いたし、とても嬉しかった。だから従来声をかけていた同僚・知人
の募集はややトーンダウンし、何とか人数を調整した。
前置きが長くなったが、5/23の「歩こう会」は朝8時にJRおよび近鉄奈良駅に集合、 「石打(梅の郷 月ヶ瀬温泉)」行きの路線バスに乗り込んだ。はるばる堺市からの参加者もいらっしゃり、早い時間の集合は大変お気の毒であった(バスの本数が極端に少ないのだ)。
奈良交通「柳生上(やぎゅうかみ)」バス停で下車。ここからは徒歩で柳生の里を回る。ガイド役の近藤直子さんと合流して自己紹介のあと、最初の訪問地である「柳の森」へ。柳生観光協会の案内板によると《柳生という地名は、大昔この場所に誰かが杖を立てておいたところが、その杖から芽が出てやがてそれが柳の大木となりそこから柳生と言う地名となり、この地が「柳生の森」と呼ばれている》とある。今はその大木の何代目かが枝を広げていた。
めざす芳徳寺(ほうとくじ)へは旧参道から登った。途中「古楓橋(もみじばし)」という橋があり、橋のたもとには、名前の通りこんなに太いもみじの古木があった。今も青々とした葉を茂らせている。
古楓橋(架け替え後の新橋)の上から撮影。6月にはホタルが飛び交う
古楓橋を渡り、急な石段(霊源坂)を登って芳徳寺へ。Wikipedia「芳徳寺」によると《奈良市にある臨済宗大徳寺派の寺院》《柳生藩主柳生氏の菩提寺。柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える》《霊源坂の中ほど東側の地が石舟斎宗厳の居住地とされる》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E5%BE%B3%E5%AF%BA
霊源坂を案内される近藤直子さん(中央)。とてもチャーミングな女性である
熱心にノートをとる同僚のMくん(左端)
芳徳寺は《寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩(むねのり)の開基、沢庵宗彭(たくあんそうほう)の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した》。
芳徳寺本堂
本堂では、ご住職の橋本紹尚師にお話を聞かせていただいた
境内は鮮やかな緑に包まれている
《廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた》。
《柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ》。
柳生宗矩の墓
柳生 俊睦(やぎゅう・としちか 8代藩主柳生俊則の三男)の墓。お酒好きで、墓石も徳利型だ
境内に正木坂剣禅道場がある。今回はここで柳生新陰流の演武と剣道体験をさせていただいた。Wikipediaには、この道場は《昭和38年(1963年)に当時の住職・橋本定芳により開設された剣道と座禅の道場。柳生十兵衛三厳の正木坂道場に習って命名された。橋本が手がけた中でも、40年以上にわたり開設にまで力を尽くした一大事業であり、宇垣一成、徳富蘇峰、犬養毅、長谷川伸、吉川英治ら数多くの政治家や文化人、経済人の賛同の元、全国から資金を集めて行われた》。
《奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一条院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移された。座禅と剣道を一体とした指導が行われており、全日本剣道連盟による全国指導者講習会や、県下の剣道大会の会場に利用されている》。
Wikipedia「新陰流(しんかげりゅう)」によると《新陰流は、上泉信綱により1560年代に成立した剣術の流派。上泉信綱は新陰流とも新影流とも書いている》《新陰流は上泉伊勢守より「無刀取り」の公案を課せられた柳生宗厳に伝えられ、柳生氏によって伝承されたため柳生新陰流の名で広く一般に知れ渡っている》。
この日は「柳生二蓋笠(にがいがさ)会」の畑峯会長や池之側浩さんたちにご指導いただいた。
※柳生二蓋笠会のホームページ
http://yagyushinkageryu.com/
※池之側さんが主宰される「柳生天狗堂」のホームページ
http://homepage.mac.com/ikenogawa/
柳生心陰流の演武を拝見した後、参加者全員が竹刀を持って剣道体験。聞いているときは「なるほど」と思うが、なかなかうまく手と足が動かなくて苦労する。
指導を受けるN先輩。チャンバラ好きだったのだろうか、とても飲み込みが早い
このあとは、近藤直子さんが営む「アジア食堂Rupa(ルパ)」でランチ。Rupaさんの話を書くと字数制限を超えるので、後日に回させいただく、悪しからず。
疱瘡地蔵
食事の後は柳生陣屋跡を経て、疱瘡地蔵(ほうそうじぞう=正長元年柳生徳政碑)へ。この地蔵像の向かって右下に「正長元年ヨリサキ者(ハ)カンヘ四カンカウにヲ井メアルヘカラス」と彫られている。つまり正長元年(1428年=「石には」文字と覚える)以前の神戸4郷の負い目(借金)は一切なくなった、という意味である。
ここからはひたすら山道を歩き坂を登り、延喜式内社・天乃石立神社に着いた(あめのいわちじんじゃ。地元では「あまのいわだてじんじゃ」と呼ぶ)に着いた。「岩石祭祀学提唱地」のHPによると《目を見張るのは、神社の裾に落ち込んでいる渓谷に数多の巨石が累積している景観です。この渓谷は岩戸谷・戸岩谷・万年渓の名を持ちます。自然成因によって谷間へ岩群が寄り集まった結果ですが、岩の全面には苔がびっしりと生い茂り、人の手が介入していない場であることが神域の神聖性を否応なく高めています》。
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yagyu.html
「岩石祭祀学提唱地」ホームページより
この神社の祭神は4柱で、《全ての神が天岩戸伝説にちなむ神々です》《天乃石立神社の創建由来も、天照大神を外に引き出そうと手力雄命(テヂカラノオノミコト)が天岩戸を思い切り開けた時、天岩戸を構成していた岩々が勢い余って地上に落ちたのが、天之石立神社の岩群であるとの言い伝えです。天乃石立神社の社伝は完全に天岩戸伝承の影響下にあり、例えば地元独特の伝承というような異伝がありません》《天乃石立神社の4柱はそれぞれが1体ずつ岩石にまつられており、そのため本殿はありません。拝殿のみです》。
向かって左が前立磐。右が後立磐
前立磐だけでも、こんなに大きい
左奥はきんちゃく岩(1953年の豪雨で落ちてきた)、手前が前伏磐
《柳生新陰流開祖の柳生宗厳が、この神社一帯で身体的・精神的修行を行なっていたことを伝える聖跡があります。それが、天乃石立神社から少し奥まったところに存在する「一刀石」です。一刀石は長さ8m、幅7m、高さ2mの饅頭形の花崗岩で、縦に亀裂が走り岩石が真っ二つに割れています》。
近藤さんの息子さん
《言い伝えによると、柳生宗厳がある夜修行していると天狗が現れたので対決し、この天狗を一刀両断した感触があったので戦いを止めたが、翌日その場に見に行ってみると、そこには真っ二つに裂けた大岩があるだけだったそうです。天狗と宗厳の霊威を「伝説」というかたちで語る聖跡です》。
旧柳生藩家老屋敷
最後に立ち寄ったのは旧柳生藩家老屋敷。《柳生藩の財政立て直しを行った、家老小山田主鈴の旧屋敷。豪壮な石垣がみごとで、天保12年(1841)尾張石工が築いたと刻まれています。昭和39年作家山岡荘八氏の所有となり、氏の小説「春の坂道」(NHKでドラマ化)の構想を練った屋敷として注目を集め、氏の亡き後は、その意志により、奈良市へ寄贈されました》(奈良市のHPより)。
バスの時刻を早めたため(当初予定より40分早く出る臨時バスに変更)、旧柳生藩家老屋敷は外から眺めるだけにしていただいて、バス停で解散式。十兵衛食堂で草団子や漬物などのお土産を買い込んだ。近藤さんはカナダからテレビ局が来たとのことで、まもなくお店に戻られた。Rupaさんも国際的に認知されるようになってきたのだ。
「ネットの双方向性が社会を変える」と言われて、もう10年になる。その後に出現したブログは「個人が新聞社とテレビ局を持つような画期的なツール」とさえ言われた。
今回のブログによる募集で、たくさんの方にご応募いただいただき、その影響力の大きさに驚いた。これからは、もっと真面目に取り組まなければ…。
近藤さん、大変お世話をおかけいたしました。そして「歩こう会」に参加いただいた皆さま、本当に有り難うございました。これからもこの会を続けて参りますので、ぜひまたご参加下さい。今回参加されなかった当ブログ読者の皆さまも、次回はぜひお申し込みを!
※トップ写真は参加者全員の集合写真。芳徳寺前で。
《来たる5/23(土)、風薫る「柳生(やぎゅう)の里」を訪ねませんか!》《「古社寺を歩こう会」は、会社の先輩・同僚が立ち上げた文化散歩の会です。これまで2回開催し、いずれも15~20人の参加をいただきました。案内役の方と一緒に、月並みな観光名所ではなく、知る人ぞ知るディープな奈良を訪ねる会です》。
※参加者大募集!柳生の里まるごと体験(4/23の当ブログ記事)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/da54f6bc739562c7ac741af95ac8b2ef
参加費用は@3500円だった(昼食代込み・バス代950円×2を除く)。ブログをご覧になって申し込まれたのは11人(9組)、同僚・知人が12人(私を含む)の計23人が今回の「歩こう会」に参加した。ブログ申し込みの11人のうち、9人の方は全くの初対面の方である。
「柳生上」バス停前で、まずは自己紹介
最初は「会ったこともない個人のブログを見て申し込まれる方が、そんなにいるだろうか」と思っていた。しかし「歩こう会」世話役のN先輩は、「1日700人ものアクセスのあるブログで募集したら、応募が殺到する。人数制限を設けなくては」とおっしゃる。心の中では「2~3人か、せいぜい5人までだろう」と思っていたが、一応募集期間を18日、人数は先着10人程度として募集をかけた。すると、なんと12人(10組)もの方に応募いただいたのだ(後にお1人は所用のためキャンセル)。これは驚いたし、とても嬉しかった。だから従来声をかけていた同僚・知人
の募集はややトーンダウンし、何とか人数を調整した。
前置きが長くなったが、5/23の「歩こう会」は朝8時にJRおよび近鉄奈良駅に集合、 「石打(梅の郷 月ヶ瀬温泉)」行きの路線バスに乗り込んだ。はるばる堺市からの参加者もいらっしゃり、早い時間の集合は大変お気の毒であった(バスの本数が極端に少ないのだ)。
奈良交通「柳生上(やぎゅうかみ)」バス停で下車。ここからは徒歩で柳生の里を回る。ガイド役の近藤直子さんと合流して自己紹介のあと、最初の訪問地である「柳の森」へ。柳生観光協会の案内板によると《柳生という地名は、大昔この場所に誰かが杖を立てておいたところが、その杖から芽が出てやがてそれが柳の大木となりそこから柳生と言う地名となり、この地が「柳生の森」と呼ばれている》とある。今はその大木の何代目かが枝を広げていた。
めざす芳徳寺(ほうとくじ)へは旧参道から登った。途中「古楓橋(もみじばし)」という橋があり、橋のたもとには、名前の通りこんなに太いもみじの古木があった。今も青々とした葉を茂らせている。
古楓橋(架け替え後の新橋)の上から撮影。6月にはホタルが飛び交う
古楓橋を渡り、急な石段(霊源坂)を登って芳徳寺へ。Wikipedia「芳徳寺」によると《奈良市にある臨済宗大徳寺派の寺院》《柳生藩主柳生氏の菩提寺。柳生の地区を一望できる高台に位置し、門前の坂の途中に正木坂剣禅道場を構える》《霊源坂の中ほど東側の地が石舟斎宗厳の居住地とされる》。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E5%BE%B3%E5%AF%BA
霊源坂を案内される近藤直子さん(中央)。とてもチャーミングな女性である
熱心にノートをとる同僚のMくん(左端)
芳徳寺は《寛永15年(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩(むねのり)の開基、沢庵宗彭(たくあんそうほう)の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した》。
芳徳寺本堂
本堂では、ご住職の橋本紹尚師にお話を聞かせていただいた
境内は鮮やかな緑に包まれている
《廃藩後は荒廃して山門や梵鐘も売却され、明治末期には無住の寺となったが、大正11年(1922年)に柳生家の末裔である元台湾銀行頭取の柳生一義が資金を遺贈し、本堂が再建された。その後、大正15年(1926年)6月に副住職として赴任した橋本定芳(昭和5年(1930年)には住職に就任)は、芳徳寺の再興に奔走。橋本は柳生新陰流の普及に努めた他、昭和3年(1928年)には境内に大和青少年道場(現在の成美学寮)を開設し、知的障害児の保護育成に尽力するなど、多方面の事業を手がけた》。
《柳生家の墓地は元々は中宮寺(現・奈良市柳生下町)にあったが、芳徳寺の創建に伴って改葬され、芳徳寺裏の墓地に柳生藩主・柳生氏一族代々の墓石が80基あまりが並ぶ》。
柳生宗矩の墓
柳生 俊睦(やぎゅう・としちか 8代藩主柳生俊則の三男)の墓。お酒好きで、墓石も徳利型だ
境内に正木坂剣禅道場がある。今回はここで柳生新陰流の演武と剣道体験をさせていただいた。Wikipediaには、この道場は《昭和38年(1963年)に当時の住職・橋本定芳により開設された剣道と座禅の道場。柳生十兵衛三厳の正木坂道場に習って命名された。橋本が手がけた中でも、40年以上にわたり開設にまで力を尽くした一大事業であり、宇垣一成、徳富蘇峰、犬養毅、長谷川伸、吉川英治ら数多くの政治家や文化人、経済人の賛同の元、全国から資金を集めて行われた》。
《奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一条院の建物を移築したもので、正面入口は京都所司代の玄関から移された。座禅と剣道を一体とした指導が行われており、全日本剣道連盟による全国指導者講習会や、県下の剣道大会の会場に利用されている》。
Wikipedia「新陰流(しんかげりゅう)」によると《新陰流は、上泉信綱により1560年代に成立した剣術の流派。上泉信綱は新陰流とも新影流とも書いている》《新陰流は上泉伊勢守より「無刀取り」の公案を課せられた柳生宗厳に伝えられ、柳生氏によって伝承されたため柳生新陰流の名で広く一般に知れ渡っている》。
この日は「柳生二蓋笠(にがいがさ)会」の畑峯会長や池之側浩さんたちにご指導いただいた。
※柳生二蓋笠会のホームページ
http://yagyushinkageryu.com/
※池之側さんが主宰される「柳生天狗堂」のホームページ
http://homepage.mac.com/ikenogawa/
柳生心陰流の演武を拝見した後、参加者全員が竹刀を持って剣道体験。聞いているときは「なるほど」と思うが、なかなかうまく手と足が動かなくて苦労する。
指導を受けるN先輩。チャンバラ好きだったのだろうか、とても飲み込みが早い
このあとは、近藤直子さんが営む「アジア食堂Rupa(ルパ)」でランチ。Rupaさんの話を書くと字数制限を超えるので、後日に回させいただく、悪しからず。
疱瘡地蔵
食事の後は柳生陣屋跡を経て、疱瘡地蔵(ほうそうじぞう=正長元年柳生徳政碑)へ。この地蔵像の向かって右下に「正長元年ヨリサキ者(ハ)カンヘ四カンカウにヲ井メアルヘカラス」と彫られている。つまり正長元年(1428年=「石には」文字と覚える)以前の神戸4郷の負い目(借金)は一切なくなった、という意味である。
ここからはひたすら山道を歩き坂を登り、延喜式内社・天乃石立神社に着いた(あめのいわちじんじゃ。地元では「あまのいわだてじんじゃ」と呼ぶ)に着いた。「岩石祭祀学提唱地」のHPによると《目を見張るのは、神社の裾に落ち込んでいる渓谷に数多の巨石が累積している景観です。この渓谷は岩戸谷・戸岩谷・万年渓の名を持ちます。自然成因によって谷間へ岩群が寄り集まった結果ですが、岩の全面には苔がびっしりと生い茂り、人の手が介入していない場であることが神域の神聖性を否応なく高めています》。
http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yagyu.html
「岩石祭祀学提唱地」ホームページより
この神社の祭神は4柱で、《全ての神が天岩戸伝説にちなむ神々です》《天乃石立神社の創建由来も、天照大神を外に引き出そうと手力雄命(テヂカラノオノミコト)が天岩戸を思い切り開けた時、天岩戸を構成していた岩々が勢い余って地上に落ちたのが、天之石立神社の岩群であるとの言い伝えです。天乃石立神社の社伝は完全に天岩戸伝承の影響下にあり、例えば地元独特の伝承というような異伝がありません》《天乃石立神社の4柱はそれぞれが1体ずつ岩石にまつられており、そのため本殿はありません。拝殿のみです》。
向かって左が前立磐。右が後立磐
前立磐だけでも、こんなに大きい
左奥はきんちゃく岩(1953年の豪雨で落ちてきた)、手前が前伏磐
《柳生新陰流開祖の柳生宗厳が、この神社一帯で身体的・精神的修行を行なっていたことを伝える聖跡があります。それが、天乃石立神社から少し奥まったところに存在する「一刀石」です。一刀石は長さ8m、幅7m、高さ2mの饅頭形の花崗岩で、縦に亀裂が走り岩石が真っ二つに割れています》。
近藤さんの息子さん
《言い伝えによると、柳生宗厳がある夜修行していると天狗が現れたので対決し、この天狗を一刀両断した感触があったので戦いを止めたが、翌日その場に見に行ってみると、そこには真っ二つに裂けた大岩があるだけだったそうです。天狗と宗厳の霊威を「伝説」というかたちで語る聖跡です》。
旧柳生藩家老屋敷
最後に立ち寄ったのは旧柳生藩家老屋敷。《柳生藩の財政立て直しを行った、家老小山田主鈴の旧屋敷。豪壮な石垣がみごとで、天保12年(1841)尾張石工が築いたと刻まれています。昭和39年作家山岡荘八氏の所有となり、氏の小説「春の坂道」(NHKでドラマ化)の構想を練った屋敷として注目を集め、氏の亡き後は、その意志により、奈良市へ寄贈されました》(奈良市のHPより)。
バスの時刻を早めたため(当初予定より40分早く出る臨時バスに変更)、旧柳生藩家老屋敷は外から眺めるだけにしていただいて、バス停で解散式。十兵衛食堂で草団子や漬物などのお土産を買い込んだ。近藤さんはカナダからテレビ局が来たとのことで、まもなくお店に戻られた。Rupaさんも国際的に認知されるようになってきたのだ。
「ネットの双方向性が社会を変える」と言われて、もう10年になる。その後に出現したブログは「個人が新聞社とテレビ局を持つような画期的なツール」とさえ言われた。
今回のブログによる募集で、たくさんの方にご応募いただいただき、その影響力の大きさに驚いた。これからは、もっと真面目に取り組まなければ…。
近藤さん、大変お世話をおかけいたしました。そして「歩こう会」に参加いただいた皆さま、本当に有り難うございました。これからもこの会を続けて参りますので、ぜひまたご参加下さい。今回参加されなかった当ブログ読者の皆さまも、次回はぜひお申し込みを!
※トップ写真は参加者全員の集合写真。芳徳寺前で。