藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

卵と言えば・・・・

2021-03-24 01:39:59 | 日記・エッセイ・コラム

 「鶏卵生産大手「アキタフーズ」(広島県福山市)グループの元代表が、元農林水産相で自民党の吉川貴盛衆院議員(70)側に現金を提供し、それが政治資金収支報告書に記載されていない疑いがあることが、関係者への取材で分かった。東京地検特捜部も同様の内容を把握しているもようだ。」と言うニュースを思い出した。 元々「アキタフーズ」は、亀井静香元国会議員の後援者だったはずだが・・・・。そんな事を思いながら記事を読んだ記憶がある。 調べてみたら、亀井静香元国会議員は、後援会の帳簿にきっちりと記入して国に報告していた。 吉川氏どんな裏取引をしたのだろうか。 昨日は、広島県三区の、河井克行議員が、法廷で自ら買収行為を認めたそうだ。 同じ町内に、今は亡き 海徳 貢 と言う自民党の市会議員がいたが、彼は頑として河井克行議員を支援しなかった。 庶民派で、合併前は町長をされていた。 その潔癖さには、私も感服していた。 市の水道局職員が同じ区から、市議会議員に立候補した時、私はその方と面識が有ったので応援に出かけた。 鶯嬢が余りにも拙いので、私がマイクを握って、昔放送班の力量を披露した時、国道54号線で出会ってしまった。 面識があるので、如何にすべきか一瞬迷った時、海徳議員の方から、「偶にはこちらの車で、マイクを握ってくださいな、藤森さん」と声を懸けられてしまった。 面白いというより、自らの周りを常に正しておられた議員だった。 そんな方だから、金で動くような事は無く、堂々と「県会議員は、社民党の大下、市会議員は、私と田尾健一を必ず議会にお送りください。」と マイクを通して公然と発しておられたのには感心した。広島市議会の自民党議員は、十人以上が現金を受け取っているそうだ。 あの潔癖だった海徳議員の跡取りの息子議員もお金を受け取っていたそうだ。 さてさて、関係市会議員は潔く辞職するのかこれからが見ものだ。 


卵が高くないですか?

2021-03-23 10:24:21 | 日記・エッセイ・コラム

 Lの卵が10個198円? 少し前は、168円位だった気がする。 M、Sも高くなった気がしている。 時には、Sの安売りが68円なんてことも有ったが、今ではそんな値段の事は無い。 特に昨年半ばから、ジワジワと値上がりし始めた気がする。 まさか鳥インフルエンザが原因ではなかろうか。 その割には、鶏肉の値段は高くない。 少しばかり疑問に思ったが、スーパーの鶏肉は輸入が大半だった。 そう言えば、中国が台湾に腹を立てて、パイナップルの輸入を禁止したら、世界中から救援の輸入商談が入って来て、以前よりいい条件で取引できているそうだ。 日本も、台湾パイナップルがスーパーに並んでいた。 卵の輸入と言うのは聞いたことが無いのだが、技術的あるいは衛生的に無理なのだろうか。 単価が安い上に壊れやすいから、安価な取引が無理なのだろう。 そう言えば、マヨネーズの輸入品も見たことが無いなー。 ところでオリンピックだが、開催を強行するのは何故なのだろうか。 参加予定国の70%が開催反対だそうだ。 ワクチンを優先的に選手にすることに反発があるそうだ。 中国がワクチンを提供するそうだが、選手と国民とどちらの命が大切なのかとの事らしい。 正に正論である。 中国様、ワクチンは貧困国に提供してくださいな。 オリンピックに来るような、余裕のある国は、自力でワクチンを打ちますよ。

 


捕らぬ狸の・・・・・

2021-03-22 03:44:00 | 日記・エッセイ・コラム

 昔の人は、面白い格言を多く残している。 今年のオリンピックを強行したい理由の中には、色々な理由があるようだ。 その中の一つが、前売り券の払い戻しである様だ。 総金額が幾らになるのか、調べても見えて来ないが、相当な金額になるはずである。 それにスポンサー料。 使ってしまったお金は、戻ってこない。 渡辺直美ちゃんを豚に仕立てた開会式を企画した馬鹿が居るし、彼の仕掛けは前回オリンピックの引継ぎ式の時すでに、品の無さは露呈していた。 一国の総理を、マリオに見立てるなど、戦前だと銃殺刑である。 漫画チックな発想から始まった今回のオリンピック立候補、こんな結末に成ろうとは、正に漫画であろう。 使ったお金はすべて国民の血税なのだ。 政治家や、アスリート団体は痛くもかゆくもなかろう。 万国博覧会も似たり寄ったりの結果となる可能性がある。 嘗ての時代と今では、情報量のやり取りが半端ではない。 宇宙科学探査や古代探査には、多額の費用が掛るし、企業活動身の新規開発費用が多大に必要な時代となった。 その元を、珍けな万博を開催したくらいでは、人は集まりはし無かろうにと心配している。 目玉商品は何だろうか・・・・。 見えてこないなー・・・・。


不思議な現象

2021-03-20 12:27:33 | 日記・エッセイ・コラム

 ここ二か月近く、迷惑メールが激減した。 正規なメール十件に対して迷惑メールは一件くらいに成った。 以前はその逆だったが、数か月前から減りはじめ、この二か月は激減である。 コロナが増えたら、迷惑メールが減ったなんて何だか関連が有りそうな気がしないでもない。 悪い手口で儲けてやろうという連中が、何らかの理由でやりにくくなっている様だ。 それに加えて、迷惑電話も激減した。 うさん臭い話など誰も乗らなくなったのだろうか。 本日の広島の天気予報は外れであった。 早くから雨が降るというので、墓参は控えてが全然雨は降って来ない。 むしろ時々雲が切れている。 天気予報の外れも、近年珍しい物のうちの一つではなかろうか。 あちらこちらからは、卒業式の話が聞こえてくるが、我が孫殿の卒業式はやらないそうだ。 中高一貫性私学は、遣っても遣らなくても、あまり関係ない。 私の時もそうだったが、放送部に入っていた連中は、式典の裏方で緞帳の隅から覗いていた。 そんなものだったが、高校卒業時は、部活後輩が盛大に祝ったものだ。 中にはみんなで担がれて、プールに放り込まれた先輩もいた。 勿論、着替え一式準備の上である。 吉川晃司は、中退して芸能界に身を転じたが、同級生からは同窓会には、呼びつけられている。 同級生でお金を出し合って、彼のレコードを買って、みんなで聞いていたからである。 同学年で100枚くらいは必ず買っていたそうだ。 そんな「修道魂」を、今もかたくなに守っている学校である事は間違いない様だ。


あの日、あの時

2021-03-18 16:09:37 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和40年1月15日、広島の旧県立体育館での成人式。 出入り口でビラ配りされていた。 市の教育委員会が、新成人に「政治教養講座」を開催するので、参加しませんかと言うビラだった。 配っていた男性は、品の良い若い職員で、他にも、年代が近い若者もいた。 後に判った事だが、昭和19年生まれの方々が、前年同じようにビラで釣り込まれて、「政治教養講座」を受講し、その後、自分たちで会を作り、学習会を続けている「十九鯉(とくりかい)」のメンバーだった。 19年生まれで、鯉城の里広島の青年を表す会名だった。 当日そのビラを友人と共に受け取った私達は、第一回目の講座に行ってみた。 なんとその一回目の講座が、当時広島大学に「門哲(もんてつ)」有りと言われていた 門 秀一教授だった。 不条理の哲学の提唱者で「バラの気の、バラの花作何事の、不思議なけれど」との言葉と共に、大学の授業では、常に大講堂で授業が行われていて、出席簿なし、氏名の記入帳が有るだけ。 一定回数参加者は、自動的に単位が認証されるといい、全くの部外者の私でさえ知っている名前だった。 もっとも私の場合は、高校生の時、母校で開催されていた弁論大会「全関西高校生弁論大会」の審査員長として御出で頂いていたので見知っていた。 放送班の一員として、立ち会ってもいたのだ。 四年ぶりの再会だったが、先生の講義を聞くのは初めてだった。 こうして始まった講座は、中国新聞 論説委員 紺野 公市氏 広島家庭裁判所 調査員 舟木善夫氏(後に京都家裁所長) フランス文学者 松浦 寛広大教授 広島の名刹 三滝寺住職 佐藤 榮真氏 これらの方々の講義を、月二回 二月から十二月まで受けたのだった。 間では、自分たちだけで、自主的にキャンプを企画し、ハイキング、山登りと青春を謳歌した。 それらの行事の時、歌を歌いたいとの希望で、当時歌集と言えば「野ばら社」の歌集から、ガリ版で歌詞を写し取り、夜な夜な公民館の片隅で印刷し、私の友人がコーラス部で且つ、教会の聖歌隊に入っていたので歌唱御指導役になり、大声で歌ったものだ。 門 秀一先生は会の終わりに、十五分間だけ「フォークダンスがしたい」と言うご希望があり、当時は広島市の一事務員であった、満田女子の指導で楽しんでいた。(その理由は、結婚の時、奥様から他の女性の手を触ってはいけないと申し渡されていたが、フォークダンスだけは許可されているというユーモアからだった。) 彼女は今や、「全日本ホークダンス協会」の会長である。 当時そこに集まっていた若者(昭和20年生まれ)の数は80名ほど。 そうした集団に籍が有った為、広島県の主催する「広島県青年指導者研修会」に参加する事となって、二週間、九州の地で研修させて頂いた。 その報告書が出来上がった時、当時の文部大臣「灘尾 弘吉」の広島事務所に、県の教育委員会から申し付かり、始めて大臣と言う人種と口をきいた経験をさせていただいた。(その時、会社勤めの青年には、宿泊研修が義務化されている、「国立の青年の家」等利用できない。 都市の青年の為の施設づくりをして欲しいと、苦言を言った。阿蘇、大雪山、中央、と「国立の青年の家」が作られて、頭文字が、A,B,Cと続いたので、次は江田島と言う噂が流れていた。事実、昭和42年開館した。)。後のこの若者集団は「羽立会(はたちかい)」(20年生まれと、満二十歳に会を作った)と名付けて、その活動が、「日本一の青年学級」と呼ばれることとなった。 この会に御出で頂いた講師は、大江健三郎氏を始め、広島市長、・・・・挙げて行くと切りがない。 三年間、実に充実した期間を過ごさせていただいた。  何故、今日この話を書いたかと言うと、NHKの「みんなの歌」60周年のビデオを見て思い出したのは、講義の終わりに、全員で歌を歌って終わる事が、定例に成っていた。 その歌に是非とも、「みんなの歌を入れて欲しい」との意見が出て来て、NHK広島支局へ、みんなの歌の楽譜と歌詞が頂けないかと、申し込んだことが有るのです。 広島市の教育委員会からも是非にお願いして欲しいと教育長へお願いに行ったのでした。 その後、NHKから歌集が送られてきて、みんなで悦び、ガリ切をして印刷したことを思い出したからでした。 志村 建世様とは、その頃から何だか、運命的繋がりが出来ていた気がしています。 そう言えば、NHKから、成人式の日に、式典をお手伝いしている我々が取材を受け、仲間の一人の女の子が、TVの向こうの灘尾 弘吉文部大臣に、先日、我々の仲間が、大臣にお会いした時、「都市型の青年の家」を建てて欲しいとお願い下のですが、広島の若者が学び、「平和的文化都市広島」建設に役立つ人材育成の場として欲しいと、お願いしたのでした。 その一週間後、急遽、「広島市青少年センター」の建設が決まったのだった。 私は、市長から大目玉。 半分は喜んでおられた事は間違いない。 落成式典で、文部大臣と、市長が握手をされた時、私は涙が止まらなくなったのを思い出す。