藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

あの日、あの時

2021-03-18 16:09:37 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和40年1月15日、広島の旧県立体育館での成人式。 出入り口でビラ配りされていた。 市の教育委員会が、新成人に「政治教養講座」を開催するので、参加しませんかと言うビラだった。 配っていた男性は、品の良い若い職員で、他にも、年代が近い若者もいた。 後に判った事だが、昭和19年生まれの方々が、前年同じようにビラで釣り込まれて、「政治教養講座」を受講し、その後、自分たちで会を作り、学習会を続けている「十九鯉(とくりかい)」のメンバーだった。 19年生まれで、鯉城の里広島の青年を表す会名だった。 当日そのビラを友人と共に受け取った私達は、第一回目の講座に行ってみた。 なんとその一回目の講座が、当時広島大学に「門哲(もんてつ)」有りと言われていた 門 秀一教授だった。 不条理の哲学の提唱者で「バラの気の、バラの花作何事の、不思議なけれど」との言葉と共に、大学の授業では、常に大講堂で授業が行われていて、出席簿なし、氏名の記入帳が有るだけ。 一定回数参加者は、自動的に単位が認証されるといい、全くの部外者の私でさえ知っている名前だった。 もっとも私の場合は、高校生の時、母校で開催されていた弁論大会「全関西高校生弁論大会」の審査員長として御出で頂いていたので見知っていた。 放送班の一員として、立ち会ってもいたのだ。 四年ぶりの再会だったが、先生の講義を聞くのは初めてだった。 こうして始まった講座は、中国新聞 論説委員 紺野 公市氏 広島家庭裁判所 調査員 舟木善夫氏(後に京都家裁所長) フランス文学者 松浦 寛広大教授 広島の名刹 三滝寺住職 佐藤 榮真氏 これらの方々の講義を、月二回 二月から十二月まで受けたのだった。 間では、自分たちだけで、自主的にキャンプを企画し、ハイキング、山登りと青春を謳歌した。 それらの行事の時、歌を歌いたいとの希望で、当時歌集と言えば「野ばら社」の歌集から、ガリ版で歌詞を写し取り、夜な夜な公民館の片隅で印刷し、私の友人がコーラス部で且つ、教会の聖歌隊に入っていたので歌唱御指導役になり、大声で歌ったものだ。 門 秀一先生は会の終わりに、十五分間だけ「フォークダンスがしたい」と言うご希望があり、当時は広島市の一事務員であった、満田女子の指導で楽しんでいた。(その理由は、結婚の時、奥様から他の女性の手を触ってはいけないと申し渡されていたが、フォークダンスだけは許可されているというユーモアからだった。) 彼女は今や、「全日本ホークダンス協会」の会長である。 当時そこに集まっていた若者(昭和20年生まれ)の数は80名ほど。 そうした集団に籍が有った為、広島県の主催する「広島県青年指導者研修会」に参加する事となって、二週間、九州の地で研修させて頂いた。 その報告書が出来上がった時、当時の文部大臣「灘尾 弘吉」の広島事務所に、県の教育委員会から申し付かり、始めて大臣と言う人種と口をきいた経験をさせていただいた。(その時、会社勤めの青年には、宿泊研修が義務化されている、「国立の青年の家」等利用できない。 都市の青年の為の施設づくりをして欲しいと、苦言を言った。阿蘇、大雪山、中央、と「国立の青年の家」が作られて、頭文字が、A,B,Cと続いたので、次は江田島と言う噂が流れていた。事実、昭和42年開館した。)。後のこの若者集団は「羽立会(はたちかい)」(20年生まれと、満二十歳に会を作った)と名付けて、その活動が、「日本一の青年学級」と呼ばれることとなった。 この会に御出で頂いた講師は、大江健三郎氏を始め、広島市長、・・・・挙げて行くと切りがない。 三年間、実に充実した期間を過ごさせていただいた。  何故、今日この話を書いたかと言うと、NHKの「みんなの歌」60周年のビデオを見て思い出したのは、講義の終わりに、全員で歌を歌って終わる事が、定例に成っていた。 その歌に是非とも、「みんなの歌を入れて欲しい」との意見が出て来て、NHK広島支局へ、みんなの歌の楽譜と歌詞が頂けないかと、申し込んだことが有るのです。 広島市の教育委員会からも是非にお願いして欲しいと教育長へお願いに行ったのでした。 その後、NHKから歌集が送られてきて、みんなで悦び、ガリ切をして印刷したことを思い出したからでした。 志村 建世様とは、その頃から何だか、運命的繋がりが出来ていた気がしています。 そう言えば、NHKから、成人式の日に、式典をお手伝いしている我々が取材を受け、仲間の一人の女の子が、TVの向こうの灘尾 弘吉文部大臣に、先日、我々の仲間が、大臣にお会いした時、「都市型の青年の家」を建てて欲しいとお願い下のですが、広島の若者が学び、「平和的文化都市広島」建設に役立つ人材育成の場として欲しいと、お願いしたのでした。 その一週間後、急遽、「広島市青少年センター」の建設が決まったのだった。 私は、市長から大目玉。 半分は喜んでおられた事は間違いない。 落成式典で、文部大臣と、市長が握手をされた時、私は涙が止まらなくなったのを思い出す。

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