1945年の帝国陸軍第五師団本部の写真である。 灰田勝彦氏の父は、現在の広島市南区出身で、明治の時期ハワイへ移民し、医師として成功された方だそうである。
父親を亡くされ故郷に墓を建てる為帰郷中、関東大震災に遭遇し日本に永住しなければならなくなったらしい。
その縁で、「広島カープを優勝させる会」を結成されたことは苞に有名である。
そんなことを考えながら広島西練兵場を検索したところ、左の写真が出てきた。 おそらくアメリカ軍のBー29が、原爆投下直前に撮影したもののようである。
同じ項目の中に、原爆被災後の写真も掲載されていた。
第五師団本部と言っても、上級将校は、現在私が住んでいる可部町の、「可部高等女学校」に疎開し難を逃れ、一般将兵が犠牲となった。 特に師団本部に駆り出されていた、高等女学校の生徒の中で、地下無線室で被爆し、生き残った生徒の手で打電された無線を、小倉の聯隊が聞き取り、広島が壊滅したことを国が知ったのである。
広島城の堀を挟んで建つ兵舎や、施設は一発の原爆で灰燼に帰したことが一目にして解る。
この写真の左が西で、戦前は西練兵場と呼ばれていた。 北側、写真上部が工兵隊、トラックが写っているが、現在は基町高等学校と、元町小学校である。
爆心地から、直線で300~600m。全ての建物が破壊されたことが解る。
この写真を見ながら、福島の事を考えていた。 水素爆発した原発は、外壁を吹き飛ばし、作業中の人間が亡くなった事を国会議員の方で知らない方があるようだ。
そんな議員は、バッチを外してもらいたい。
そもそも建築基準法では、爆発の恐れのある物質を貯蔵もしくは使用する場合、近隣への防災の為に屋根部分を構造的に弱くして、万が一の場合屋根が吹き飛ぶことにより、隣接地の安全を確保することになっている。 スリーマイルド島の原発のように、円筒形の遮蔽壁の中に建設される。 しかし、日本では原発は爆発物とは看做されず、各階の床が最大の強度を持つように作られ、使用済み核燃料棒や、これから使う燃料棒の貯蔵庫として使用されている。
私は島根鹿島原発1号機の建設に携わった事で、原発の構造は頭の中に叩き込まれている。 炉心の耐火耐熱工事や、外壁工事を担当したので良く解っている。 誰も出来ないから私のところに「お鉢」が回ってきた。
一番恐ろしいのは、「原発」は大量生産品ではなく、個々の設計で作られる所である。つまり「原発の熟練工」など居ないのである。 一回限りの仕事など、どこがどうなっているのかなど、誰も知らない。 部分的には知っているが、全体を誰も把握した者などいるはずがない。 それほど複雑怪奇なものが安全な訳が無い。
原子力委員の給与を「椴法華村」の「かわぐちえいこう」氏が気にされていたので、以前調べた事項をコメント欄に送っておいた。 年収2000万円を軽く超える金額が支給されているのだ。それでも事故が発生しても何の罪にも問われない。 こんな美味しい仕事など、日本国中「金のわらじ」を履いて探してもないだろう。