藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」   今年初めてのお目もじ

2013-06-03 16:45:50 | インポート

001 今年初めてのタテハチョウの訪問である。例年ならば、この時期には「深山スミレ」の葉は、タテハチョウの幼虫で食い尽くされているが、今年は青々と茂っていた。

始めての来蝶者が、「豹紋タテハ」とは珍しい。 この近辺ではあまり見かけない種である。

008 見事な「豹柄」を見せてくれた。

「豹柄」の着衣は「大阪人」が好むという事を聞いたことがあるが、本当であろうか。

「明石家さんま」さんにでも、一度聞いてみたいものである。

ところで我が家の「茜」奥様が、昨晩から「広島復興平和博覧会」の事を、根掘り葉掘り聞いてくる。

その博覧会は、どうも頂いた本の中に書かれていたらしく、それが昭和三十三年の五月から8月末まで、平和公園と、広島城跡地を中心に開かれたのを、自分も見た記憶があると言う。 しかし、その時期が自分の記憶と一致しないらしい。 その年に「広島城」がコンクリートで再建され、平和公園や、本道り商店街等で幾つかのイベントが開かれた。 

その年の四月に私が、私立の中学校に進学した年なので、記憶が鮮明である。 加えて、この年から「神楽」の題目の中に、天皇家を題材にした物が復活し始めた。 例えば、「天岩戸」等の題目である。 長く進駐軍に封印されていた題目だ。 「傷痍軍人」が、未だ街角でアコーデオンを弾きながら軍歌を歌い幾ばくかのお金を受け取っていた時代の事である。 「救世軍」の「社会鍋」の活動も活発に行われていた。

そもそも我が妻「茜」様の記憶では、誰に連れられて「広島」に来たのかさえ、記憶にないらしい。 どうも子供の頃の記憶が少ないのに、本人は少しショックを受けているようである。 平和な家庭で何事もなく育てば、あまり記憶すべき事項などないのが当たり前である。 私の過ごした幼少期は波乱万丈、進駐軍と暴力団との「市街戦さながらの銃撃戦」や、「一家心中事件」など忘れようとしても忘れられない事件が多すぎただけである。 鉄道自殺など日常茶飯事であった。 

「仁義なき戦い」が開幕する直前であった。いや既に始まっていたように記憶している。

コメント
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