藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

体内被曝者

2020-08-07 09:31:56 | 日記・エッセイ・コラム

 広島の街は、8月6日前後から、「くまぜみ」の声が溢れてきます。 どこか「読経」に聞こへます。 さて、母親のお腹の中で被爆した子供の悲劇は、また格別なものが有る。 妊娠初期に被爆した子供の中に、「小頭症」と言う、特殊な原爆の犠牲者がいる。 人数はあまり多くないが、私が成長した町(己斐)には、二人いた。 その内の一人は、洋品店の子供だったが、学齢期になっても、自宅の二階窓から毎朝私たちが登校するのを眺めていた。 五体満足の様で、そうでないのだった。 頭脳が発達せず小さいのだ。 彼女が自宅から脱走してはいけないので、常に二階で生活していた。 日に当たる事が無い為に、真っ白な肌の色をしていて、何処か別世界の人間の感じがした。 戦後広島には、原爆の影響を研究するために、通称「ABCC」(Atomic Bomb Casualty Commission)と呼ばれた研究施設が、アメリカ軍の手で作られた。その施設は、被爆者の健康に関する資料を手に入れるために作られたが、治療には参加しなかった。 一年に一度ジープが、選抜した被爆者を迎えに来た。 検査が終わると、「サンドイッチ」が提供されたが、其れだけであった。 私も二、三度行ったが何だかモルモット代わりにされていた感じであった。 その後、幟町中学生の「佐々木貞子さん」が、白血病で亡くなった。 回復を祈って薬紙で毎日「折り鶴」を折って、千羽折り上がると、病気が平癒すると言われたが、願いも空しく、亡くなった。 その死後、幟町中学校の校門前に二人の青年が立って、貞子さんの死を悼み「祈念像」を立てようと呼びかけ始めた。 全国の小中学校生の一円募金の始まりだった。 確か昭和三十三年五月五日に除幕式が行われったと記憶している。 その日は私も参加した。 その原爆の像に取り付けられた平和を祈る「鐘」は、湯川秀樹博士から送られたものだ。 原爆犠牲者慰霊碑と、平和の灯と、原爆ドームは、一直線上に有るが、なぜか原爆の子の像だけ外されている。 此の事は今日でも広島市が批判される一つだ。

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