藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

ブリ大根

2017-12-13 13:26:52 | 日記・エッセイ・コラム

奥様の作った「ゆずジャム」、お友達に配ったら、お返しに大根三本届いた。 そのうちの一本の五分の一が昨夜の鯵の刺身のつまとなった。 残りを午前中湯がく事20分。 

それからおもむろに、「ブリ鎌」を取り出してきて、 熱湯に潜らして、汚れや余分の油を抜き、しょうゆ、みりん、酒、砂糖、水でだし汁を作り、大根を煮ること二十分。 その後「ブリ鎌」を加えて十分煮たら、

ブリ大根の出来上がり。 昼食は、中華スープ、昨夜の残りの鯵の刺身、ブリ大根、大根葉の煮つけ。 豪華な昼飯となった。 おまけに、庭で取れた山芋のトロロと来れば、申し分なし。 さてさて今夜の食事は何としようぞ。


満州からの引き上げ

2017-12-13 09:03:53 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は叔母の夢を見た。 戦前叔母は、宮島の名物旅館「亀福」で、仲居として働いていた。 「亀福」は、石原慎太郎のの母親の里である。 あわせて、「チチヤス」(日本で最初にヨーグルトを売り出した)の経営者であった野村家の経営であった。 満州奉天ホテルが開業して間も無く、フロアー責任者が宮島を訪れ、「亀福」に宿泊。 そのとき担当したのが叔母であったそうだ。 そのとき叔母の接客にほれ込んだ奉天ホテルのフロアー責任者が、引抜をかけて奉天へ連れて行ったそうである。 叔母は、小股の切れ上がった美人で会ったが、何よりけれんみがない人柄が誰からも好かれた人であった。 満州に、知人や結婚相手がいなくて単身渡満をした女性では二人目であったらしい。 ここからが小説のような話なのだ。 満州航空設立の総会が奉天ホテルで開かれ、当時の裏社会の人脈と繋がりが出来たそうである。 満州航空発足二年後、満を持して陸軍きっての名パイロット「丹原 芳人」が、霞ヶ浦から満州航空に入社してきたそうだ。 陸軍の思い入れがそこに存在していたそうである。 着任地は、ハルピン飛行場であったそうである。 飛行場長兼満州航空航空測量部長だったそである。 その丹原 芳人氏が、奉天、ハルピン間の定期運行について、一週間に二度、奉天ホテルに宿泊し、私の叔母に一目ぼれ。 口説く事半年、口説き落としてハルピンへ連れて行ったそうである。 それを聞いた会社が考えたことは、ハルピン河西街36番地に、白系ロシア人が所有していた部屋数26の住宅を買い与えたそうである。 そこで、下宿屋を経営していたそうだ。 住人の多くは三ヶ月に一度くらいしか帰ってこなかったと当時のことを話してくれた。 住人は、中国語、朝鮮語、ロシア語に堪能で、表面上はセールスマンとされたが、どう「見てもスパイとしか思えなかった」と語っていたもを思い出す。 そんな叔母が、昭和23年10月、満州から引き上げてきた。 引き上げ船は「宗谷」であった。 私が見た大型船の始めである。 私の人生の記憶はこの日から始まった。 興奮する私に母親が船名を「宗谷」と教えてくれた。 後に南極観測船となった時、あの日のことを鮮明に思い出した。 当直地は「宇品」。 多くの兵士が海外に送られていった「宇品」である。 「港」という、唱歌は、宇品を歌ったものである。 引き上げてきた叔母は結核にかかっていた。 旦那の「丹原 芳人」は、ソ連参戦と同時に会社幹部と共に満州を脱出、米子経由で広島に降り立ったそうだ。 叔母が引き上げてきた聞き、故郷岡山から叔母を迎えに来た。 その後、子どもが出来なかったおばとは分かれたが、私に事あるごと訪ねてくれた。 昭和25年から6年に掛けて、私は岡山の丹原一族の元で生活した。 私を養子に欲しかったそうだが、父親が承諾しなかった。そんなこんなで、叔母は戦後引揚者として苦労したことだけが、私の記憶に残っている。

戦争は二度とごめんである。 小学校で、幾人ものケロイドや、片腕のない上級生を多く見てきた私は、保守政治は許せないのだ。 経済活動に名を借りた、私利私欲。 階級を作ることによって、搾取することの面白さにおぼれて人間など信用していない。 迎撃ミサイルに2000億円を使うという政府。 使い道ならご相談いただければ、使って見せますよ。 皆さんもそう思いませんか