道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

範頼の見た景色

2022年05月11日 | 歴史探索
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も18回を数え、物語はこれから佳境に入ろうというところだろう。

同ドラマの登場人物のひとり、頼朝の異母弟源範頼は、遠江国の〈蒲御厨(かばのみくりや)(現浜松市東区大蒲町を中心とする地域)〉で生まれた。それにより、元服前は蒲冠者(かばのかじゃ)、元服後は蒲殿(かばどの)と呼ばれていた。

父義朝の死後、後白川院に仕える公家〈藤原範季〉の養育を受ける身になった範頼は、伊勢神宮とも関係深い遠江蒲神明宮の神職でもある豪族蒲氏の庇護の下、頼朝や義経よりも、恵まれた環境で成人した。

範頼の別邸が風光明媚な佐鳴湖畔(現浜松市中区)に在ったことは、以前「源範頼の別邸跡」でご案内した。
範頼が見た当時も、佐鳴湖の風光は、このようであったかも知れない。

源義仲と平家を追討する遠征では、頼朝の代官を務め、追討軍の総大将として、独断専行にはしりがちな軍事の天才義経を立て、巧みな統率力を発揮した。九州征伐では兵糧不足に悩みながらも、見事任を果たしている。頼朝にとって、これほど信頼できる有能な弟も居ないと思うが、後に甲斐源氏と親密であったことから、頼朝の疑惑を払拭できなかったらしい。

遠江は保元の乱の頃以来、甲斐源氏の安田義定の勢力圏内にあった。武田信光と安田義定は、頼朝の旗揚げ以来範頼の軍の中核であって、義仲と平家の追討戦で大いに活躍したのだから、甲斐源氏は範頼にとって切っても切れない関係である。その紐帯を、頼朝に疑われてはかなわない。

頼朝という人は、義経・範頼など異母弟たちが着実に力をつけ、朝廷に信認されることを徹底して嫌っていた。これは、頼朝本人の意思なのか、舅時政・妻政子の意向なのか、本当のところはわからない。

義経と違って、範頼が頼朝に叛意を抱いたことは微塵も無く、証拠もないはずだが、謀反の疑いで修善寺に幽閉され、後に誅殺されたとも流亡したとも伝えられている。但し、妻子は無事だったらしい。

頼朝が義仲・義経・範頼の叛意に過敏なのは表向きのことで、頼朝自身は内心些かも疑っていなかったのではないか?讒言を信じるほど愚かでもない。
頼朝という人は、一般に猜疑心が強い性格と見られているが、クレバーな人は客観性があるから、無闇に疑心暗鬼には陥らないだろう。
彼の性格は、自我を脅かされ易く、年齢の近いライバルとも目される優れた才能をもつ個性と出会うと、自我が揺らいでしまうのではないか。対手に自分に無い長所を認めると、もてる知力の全てを傾けて追い落とさないではいられなくなるようだ。謀叛の濡れ衣は、単なる方便である。自分にとって替わる可能性をもつ有力な従弟・異母弟を、順次抹殺したのは、権力の維持の為というより、自我が脅かされた結果であると考えてみたい。

つまり彼は合理的判断でなく、情緒的
判断で事を処理したのである。彼を一流の政治家と見る向きは多いが、これをどう考えたらよいのだろう。思慮でなく、情緒では政治はできない。彼の死に暗殺の可能性が払拭できないのは、それと関わって来るのではないか。

頼朝という人は、身内に冷酷な所業をする人で、それが彼自身と後継者に安泰な生涯を送らせなかった大きな理由だと思う。

我が子千幡(後の実朝)が生まれると、その鍾愛ぶりは異様なまで、股肱の御家人たちひとりひとりに抱かせたという振る舞いは、彼が如何に肉親の愛に飢えていたか、想像するに余りある。異母弟たちや従弟、叔父たちに抱く感情との大きな落差が其処に顕れている。絶対に自我を脅かさない肉親、それが我が子だったのだろう。

脅かされ易い自我とは、どういうものだろう。同世代の優れた人物に対すると、何よりも先に脅威を感じてしまう、因果な性分とでも言うのだろうか?天稟でなく、境遇によるものだったかも知れない。

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