尾崎士郎の無茶苦茶に長い小説「人生劇場」の主人公青成瓢吉の父瓢太郎は侠客で、男というものは「無鉄砲」でなければモノにならないという考えに固まり、息子を成る可く無鉄砲な男にしようと育てた。
江戸の昔から「人生劇場」の時代(大正・昭和)、すなわち侠客と呼ばれる人たちが生きていた時代までの日本人は、「俠気」(虐げられている弱者を助けようとする心)に男らしさを見出していたようだ。混同とも言える。
侠気は武士階級の圧政の下で苦しんでいた封建時代の、庶民全体の願望だったのだろう。庶民を助け権力に抵抗するのは無鉄砲そのものである。
日本の庶民社会は「無鉄砲」とか「向こう見ず」に義侠心を期待し、男らしさの要件と認識していたことがわかる。「無鉄砲」は当て字で「無手法」が正しいらしい。
日本人の「男らしさ」には、もうひとつ「潔癖性」という要件もあったように思う。作為を嫌う性質である。
単に純粋であるのではなく、企んだり仕組んだり、保身を図ることを嫌う性情は、日本人の男らしさ観に欠けてはならないもののようである。
どうやら、日本人の男らしさの旧い概念とは、「無鉄砲」と「潔癖性」の二本柱ということに落ち着きそうだ。歴史上の男らしい人物を調べると、このふたつの要件を備えている。
日本人の男らしさは、勇敢・独立心・反権力・剛毅などを男らしさの要件と考える欧米(=世界)の標準とかなりのズレを感じる。
現代は企画力が重視される時代だが、企画力のある人間は予見能力が高い。あれこれシミュレーションして最善の案を求める現代社会には、無鉄砲な男は不要になり、旧い男らしさは廃れてしまった。
世の中、捨てる神あれば拾う神もいる。無鉄砲で潔癖な人は、存外味方が多いものである。理屈抜きに、そういう男を好む気風が、まだ日本には遺っている。
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