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掘り起こされるべき人間の記録

2022-10-15 21:56:44 | 政治


2015.08.02
書評
戦後70年――今だからこそ掘り起こされるべき人間の記録
文:戸高 一成 (呉市海事歴史科学館館長)
『硫黄島 栗林中将の最期』 (梯久美子 著)
出典 : #文庫解説
ジャンル : #ノンフィクション
https://books.bunshun.jp/articles/-/1092


太平洋戦争における硫黄島での戦いは、太平洋を巡る日米の戦いの中でも、特に激しく苦痛に満ちたものと言える。
 昭和十九年六月、マリアナ諸島、サイパンの線を絶対国防圏として戦った日本軍は、もろくも敗退し、最後の決戦としたレイテ決戦も惨敗し、硫黄島での戦いが始まったときには、すでに日本には戦争継続の力はなかった。
 フィリピンを征圧した米軍は、次の目標を、サイパンから日本本土空襲をした場合の援護戦闘機の飛行場と、損傷したB29の不時着飛行場として、東京から南方千二百五十キロの位置にある硫黄島に目標を定めた。日本側としては、硫黄島を占領されれば、それは日本本土空襲の強化であり、直接的には、皇居のある東京への空襲の激化に繋がることである。大本営としては、硫黄島は絶対に守り通す必要があったのである。

 本書は、このような状況の中で、圧倒的な兵力の米軍を迎え撃ち、従来の島嶼防衛戦闘とは異なる粘り強い抵抗をし、米軍が、数日で征圧できると予想していた戦闘を、一ヶ月以上に亘る激闘の末、遂に全滅に至った守備隊の指揮官栗林忠道中将と、同じく硫黄島で命を落とした軍人の最期を、生存者、遺族の証言と、数多くの文献で辿った物語となっている。
 栗林中将は、昭和十九年六月に硫黄島防衛の指揮官として着任したが、島嶼での防衛戦闘について、独特の考えを持っていた。従来の日本陸軍の島嶼防衛における基本的な戦術は、いわゆる水際撃退を基本とし、敵の一兵も上陸させないという考えが主流であった。ところが、広大な南方戦域における米軍との対決では、この防御戦術はことごとく失敗し、孤島部隊は玉砕を続けていた。栗林は、従来の島嶼防衛の失敗の原因を、米上陸部隊を水際で撃退しようとしたことに原因がある、と判断し、徹底した縦深陣地の構築による、持久戦を想定していた。水際撃退作戦が失敗するのは、米軍側から見れば当然のことなのである。米軍の上陸地点を攻撃できる場所といえば、地形的に想像がつく。当然日本軍の兵力の配備位置は大よそ偵察できるので、日本軍の水際陣地は、猛烈な空爆と、戦艦を含む大規模な艦砲射撃によって、事前に大きな打撃を与える事が出来る。このために、米軍としては、水際防御のための布陣をした日本軍は、実に攻撃しやすい目標だったのである。このような島嶼攻撃は、米軍にとっては一定のスケジュールを立てて作戦に臨む事が可能だった。栗林は、これを排して、米軍を上陸させ、全島内での遊撃戦的な戦いを命じたのだ。
 栗林は、まず米軍を水際で叩くが、米軍の上陸阻止に拘ることなく、主作戦は、米軍を島内に引き入れた後の戦闘であるとしていた。こうすると日米の戦線が複雑に交錯し、日米両軍は常に入り混じった形で戦闘することになる。米軍から見れば、味方撃ちの可能性があるために、艦砲射撃や空爆がしにくくなる。このために、米軍の圧倒的な空爆、砲撃能力を発揮して、一気に日本軍を殲滅する事が出来なくなるのである。
 このような作戦の実施のために、長期戦を考えた栗林は、全島をトンネルで繋いだ地下要塞の建設を計画した。そして、兵士は、高温で硫黄ガスの噴出する島の地下をひたすら掘り進み、実に総延長十八キロに及ぶ洞窟陣地を建設した。驚くべきことと言わなくてはならない。しかし、この作業には反対も多かった。自分たちは米軍と闘うために来たのであって、穴掘りのために来たのではない、と。
 この地下陣地が、いかに優秀であったかは、米軍が上陸前に硫黄島に加えた二万トンに及ぶ砲弾、爆弾の嵐も、ほとんど日本軍を傷つけることは出来なかった事実が証明している。このために、昭和二十年二月十九日の朝、水陸両用装甲車と、上陸用舟艇合わせて七百五十隻で押し寄せた米軍は、ほぼ無傷だった日本軍の激しい攻撃を受けて、海岸で二千四百名もの戦死者を出したのである。米軍にとって予想だにしなかった損害だったが、本当の過酷な戦闘は始まったばかりだった。
 また、他の島嶼防衛戦闘では、水際で損害を受けて、補給も無く、兵力を失った日本軍は、いわゆるバンザイ突撃をして玉砕するというパターンが少なくなかった。栗林には、この考えも無かった。潔く玉砕することよりも、一日も長く米軍を硫黄島に釘付けとし、最後まで米軍に損害を与え続けることを目標とした。この周到な準備と決意が、日米戦で希に見る激烈な戦いを現出したのである。結果、米軍は二万八千名を超える死傷者を出したが、これは日本軍の死傷者数を超えていたのである。この栗林の戦闘指揮には、米軍も感嘆するほどだった。

 著者は、この硫黄島の戦いを、指揮官であった栗林忠道を中心として纏め、デビュー作ともいえる『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』を書き上げた。以後も栗林と、更に硫黄島の戦いにかかわる軍人を中心に取材を進めた。硫黄島には、バロン西として、ロサンゼルスオリンピック馬術出場で金メダルを取った、有名な西竹一が居た。西は硫黄島では戦車第26連隊指揮官として戦っているが、戦車の機能である機動力を放棄して、戦車を埋めて砲塔だけを地上に出して、鉄のトーチカとなった。本来の機動力を失った戦車を見て、西は不本意であったことと思う。
 また、若くして硫黄島に散った青年士官たちの最期を、多くの関係者からの証言をあつめながら、硫黄島の戦いを再構築している。
 しかし、話は、感動的なエピソードばかりではない。激戦のさなか、硫黄島で起きた、捕虜となった米軍パイロットの処刑と、宴会でその肉を食べるという、常軌を逸した事件の詳細にも触れている。読み進む事が苦しいほどの戦争の狂気である。

 更に、今回、海軍部隊の指揮官として戦死した、市丸利之助少将についての記述が追加された。硫黄島の戦いは、栗林中将で代表されるように、主に陸軍の守備部隊の戦いが知られているが、実のところ七千七百名もの海軍将兵が闘っている。市丸は歌人でもある。いくつもの歌が残されているが、どれも静かな諦観を感じる。硫黄島着任直前の作といわれている、
艦砲の的ともならん爆撃の的ともならん歌も詠むべし
 は、生死の竿頭にあっても歌を詠もうという、壮絶な静けさがある。
 しかし、市丸の名前を後世に残したものといえば、最後の突撃の前に書き残した、「ルーズベルトに与ふる書」であろう。市丸は、アメリカ大統領宛の書簡を草し、英訳を付して部下に託した。部下は戦死したが、米軍がこれを回収し、終戦直前に、米国内の新聞で紹介された。内容は、やむを得ず対米戦争に至った日本の立場を述べ、西欧諸国の植民地主義を批難し、最後に、弱肉強食の世界に幸福な日は無いとしたものであった。この文章が、戦時中のアメリカ人にどのように受け取られたかは明らかではないが、当時の軍人の潜在的な心情を表したものと理解して大きな間違いは無いだろう。
しかし、著者が改めてこれらの調査を本書『硫黄島 栗林中将の最期』として纏める気持ちになったのには、一つの切っ掛けがあったようだ。二〇〇六年に雑誌に発表された記事において、「栗林中将は米軍に投降しようとして部下に殺された」とされたことだ。栗林について長く調査をしてきた著者にとって、看過しがたい情報であった。記事の筆者である大野芳氏は、密かに入手した、防衛研究所の部外秘資料で、硫黄島作戦の関係者からの聞き取り資料の綴りである「硫黄島作戦について」によったとしている。これを知った著者は、防衛研究所で改めてこの資料の閲覧許可を得て、調査したところ、雑誌に発表された記事が、極めて根拠の薄い伝聞証言であり、同じ資料の中で、栗林の高級副官で、終始栗林と同行していた小元久米治は、はっきりと、否定している。著者は、この記録の調査からも多くの事実を発掘している。不思議なのは、大野氏は、同じ資料を読みながら、根拠の曖昧な伝聞のエキセントリックな記述のみを、あたかも隠されていた真実の発見のように発表し、同じ資料の中にある根拠の確かな直接当事者の証言を無視していることである。

 本書を通読して思うのは、数百万の日本人の命を奪った、いや、世界数千万の命を奪った戦争が、いまや歴史のベールの彼方に消えかかろうとしているということである。陸海軍の指揮官クラスの生存者は既に無く、かすかに最若年の兵士の証言が、得られるに過ぎない。かつては、疑問があれば、いくらでも将官、左官クラスの直接当事者に質問する事ができた。今は辛うじて遺族に思い出を聞く事が出来るに過ぎない場合がほとんどである。しかし、だからと言って、このような作品が書けなくなるというわけでは無いことを、梯氏の作品は証明しているのだと思う。
 戦争が遠くなればなるほど、戦争の悲惨さが薄れてゆけばゆくほど、一層戦争の悲惨さを明らかにしてゆく努力が必要になるのではないか。今後も、このような戦争の中での人間の記録を、絶えず掘り起こして行く事は、大切なことと思う。

 今年は太平洋戦争が終結して七十年に当たる。七十年と言う年月は、小さなものではない。いまや、日本国民のほとんどが戦後生まれなのである。この、平和な時代に生まれ、戦争を知らずに老人になって行くということが、どれほど素晴らしく、幸せなことであるかと言う事を、私たちはもっと知らなければならないのだと思っている。




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