今日一日だけ生きてみよう

卯月タラの日々のつぶやき

普通のお母さん。

2011-05-01 22:48:01 | タラの日記

卯月です。

なんだかもやもやしています。
ちょっと思うところあって、息子の小さい頃のこととか思い出して。

息子は可愛かった。娘も可愛かった。
子どもたちが大好きで大事だった。
今もそう。

それなのに、嫌だったことしか思い出せない。
みんなが私のことを「過保護」「神経質」と言った。
私の子どもたちは周りから「甘えてる」「わがまま」と言われた。
学校に行けなくなったとき、「ほら見ろ」「やっぱりね」みたいな言葉しか、かけてくる人はいなかった。
夫は私に「子離れできない母親」と言った。
「家が居心地良すぎて学校に来られないのね」と担任の先生に言われた。

育児は思い通りにいくものではない。そんなことは知っている。
子どもが集団に入れずに怯えている。それで明らかに心身に不調をきたしている。そんなとき、「学校にも行けなくて将来どうするの」(まだ不登校児が100人に1人ぐらいの時代だったか)という嵐の中、「母親失格」と言われても、子どもの気持ちを汲んで味方になってやるしかない、私しかいないんだ、と腹をくくった。

子どもが笑顔で一緒に暮らせていれば幸せ。そう思って、ずっとやってきた。

だけど、私だって、本当は授業参観に行ってこっそり手を振ったり、運動会で走るわが子の姿をビデオカメラにおさめたり、「行ってきまーす」と元気にランドセルを背負っていく後姿を笑顔で見送ったり、したかったんだ。
みんなに交じって一緒に何かをやっている、そういう姿を、フツーのママたちに交じって、見守りたかったんだ。
そういう、小さな幸せ、普通、がほしかった。

みんなちがってみんないい?
そんなの、普通の範疇での「ちがい」じゃないか。
普通の圏内にいる人たちの言葉じゃないか。

私が悪かったんだ、きっと私に問題があって子どもたちは引きこもりになって、夫は自殺した。
そんな私に、子どもたちは優しい。ごめんね、ありがとう、と思ってきた。思っている。

でも。
私はそんなに悪いことをしたのか。
あんなに周り中の非難を浴びなくちゃならないような、「普通の幸せ」を引き換えにしなくちゃならないような、そんな罪が、私にはあるのか。

ひがんだり妬んだりするのは嫌だと、思ってきた。
今ある幸せを数えて生きるんだ、と決めていた。

でも、今、振り返ると、幸せなんてなかった。
つらいことばっかりで、孤独で、いつも泣きたかった。
いい思い出なんてひとつもない。

自分の子ども時代から、叱られて責められてばかりだった。
親になってからも、「しつけも満足にできないダメな母親」と責められてばかりいた。保育園の先生、幼稚園の先生、保健婦さん、お医者さん、親・親戚。夫。

息子の乳幼児歯科検診のとき、たまたま当たった先生が、いつも大泣きして「ごほうびシール」がもらえないでいた息子に、「Hくん(息子)はえらいね。ちゃあんと歯がきれいに磨けてる。ここで泣かないのがえらい子じゃない。歯をきれいにできてる子がえらいんだよ」と、シールをくれたことがあった。
3歳児健診のとき、「こういう敏感なお子さんを育てるのは難しいでしょう。叱りすぎてもいけないし。大変ね」と小さい声でねぎらってくれた保健婦さんがいた。
わかってもらえた、という記憶はそれだけ。

私の子どもたちは、繊細で心の優しいいい子たちだ。私は2人の子どもを、誇りに思っている。大切に思っている。

でも、私は普通のお母さんになりたかった。