よむよま

よむ・よまない、それから。

尚之助と八重

2013-03-09 22:02:43 | 読む
大河で長谷川博己がやってる川崎尚之助、
八重の最初の夫で離縁ということしか知らなかった。

安藤優一郎「新島八重の維新」青春新書を読んだら、
尚之助と八重の意外な面が出てきました。

尚之助は会津藩に召し抱えられることなく、八重と結婚し、
籠城戦をともに戦ったが、鶴ヶ城の開城の際に会津を去った、
とずっと伝えられてきたそうだが、
しかし、最近の研究で、実は会津藩士となっており、
敗戦後も藩士たちと一緒に斗南へ移住していたことがわかったんだって。
それが、そこからがまた大変で。

ただ同行しただけじゃなくて、飢えに苦しむ藩士たちを見かねて、
藩士・柴太一郎と函館へ米の調達に行くんだけど、
仲介者に逃げられて、相手方のデンマーク領事に違約だと訴えられる結果に。
藩のために、自分たちの独断だと言ったので、二人は被告として東京へ送られ、
尚之助は、結局、明治8年、東京の病院で肺炎で亡くなっている。

いやー、かわいそう!こんな、いい人!(><)

その当時、覚馬と八重は京都にいて、会津藩士との交流はずっとあったはずだから、
尚之助が事件に巻き込まれたことやその死を知らなかったとは思えないと、
安藤優一郎は書いている。
二人が尚之助について何も言わず、手を差し延べることもなかったことを、
不可解というか、不満げに書いてる雰囲気がある。
そうよねえ、だって、尚之助が会津に来て藩士になったのは、
覚馬が引き込んだわけだもんね。

そして八重は、尚之助の死後、まもなく新島襄と出会い、まもなく再婚している。
八重は襄については思い出を語ったりしてるけど、
尚之助との最初の結婚については一言も言ってないんだそうで。

八重の弟は鳥羽伏見で戦死、父は会津戦争で戦死。
兄・覚馬は京都で薩摩藩に囚われていた。
戦闘体験がないせいもあって、覚馬は薩長に対する恨みはあまりない。
しかし、実際に戦い、父と弟を殺された八重にとっては、
会津戦争はその人生を貫くものだったようだ。

覚馬は容保公について京都へ行って、それきり戻ってないのかな。
覚馬は京都で女性がいて子供もいたんだって。
アラアラ、西島さんたら!(ちがうけど)

びっくりするのは、覚馬が囚われていた薩摩藩邸跡の地所を、
のちに覚馬は買っていて、それを同志社創立のときに譲渡してる。
えーっ!薩摩藩邸を買うなんて、西島さんたら、どこでそんな大枚の金を?

覚馬も襄も勝海舟を尊敬していて、襄の墓碑は八重が勝に頼んで書いてもらったんだって。
じゃあ、生瀬さんの勝は「いい人」設定なんだ。
なんだ、つまらん。(-_-;)
コメント
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