三歳の男児を虐待死させた両親が逮捕されたというニュースを観て憤りを感じるまえに、「またか。」と、思った。フリーキャスターの吉川美代子さんはコメントを求められ、「鬼畜」という厳しい言葉で切り捨てられてみえ、僕もその心持に同意しましたが、何故そのような事が出来てしまうのかをしばらく考えた。そして、日々事あるごとに考えていた事が言葉となってするりとこぼれ落ちた。
なぜ、そのような事ができるのか。今までは愛がないからだと考えていましたが、それでは様々なところで説明がつかなくなる場合が出てしまうのです。
そこで、愛という言葉を少し横に置いといてその事象を考えてみたところ「対象に対して不思慮で狭量になれるから」だという結論に至ったのです。そして、逆に問えば「対象に対して思慮深く寛容」である場合には対象を排除しないといえるでしょう。言い換えればそれは、「あなたがいてくれなくては困る」という気持ちになるからです。
そう考えてみると、つい先日に少女を生き埋めにした容疑者の人達も被害者の少女の気持ちに対して不思慮で狭量だったから、あのような事が出来たのだと説明がつくのです。
また、他者の喜ぶ顔が私の働きによってもたらされる事で感じられる幸福というものが情念によって断絶された時、人は幸福を自らの手によって放棄することになるのかもしれません。
そして、報道がなされ、「またか。」と、いう、どこからか湧き出てくる慣れという感情に恐怖を感じずにはいられないのです。
なぜ、そのような事ができるのか。今までは愛がないからだと考えていましたが、それでは様々なところで説明がつかなくなる場合が出てしまうのです。
そこで、愛という言葉を少し横に置いといてその事象を考えてみたところ「対象に対して不思慮で狭量になれるから」だという結論に至ったのです。そして、逆に問えば「対象に対して思慮深く寛容」である場合には対象を排除しないといえるでしょう。言い換えればそれは、「あなたがいてくれなくては困る」という気持ちになるからです。
そう考えてみると、つい先日に少女を生き埋めにした容疑者の人達も被害者の少女の気持ちに対して不思慮で狭量だったから、あのような事が出来たのだと説明がつくのです。
また、他者の喜ぶ顔が私の働きによってもたらされる事で感じられる幸福というものが情念によって断絶された時、人は幸福を自らの手によって放棄することになるのかもしれません。
そして、報道がなされ、「またか。」と、いう、どこからか湧き出てくる慣れという感情に恐怖を感じずにはいられないのです。
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