硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

介護という仕事についての散文。

2015-04-01 21:14:06 | 日記
公表する目的もなく、ただ考えの整理をしようと仕事について書き留めた取り留めのないたいへん読みづらい散文があったのですが、今日の新聞で介護施設に入居している高齢者に虐待を働いた職員が逮捕された事件を観て、悩みに悩んだけれど此処に載せておくことを決意しました。悩みに悩んだのは誰かを傷つけることになるのではと憂慮したからですが、それでも、載せておくことで誰かの手助けになるのではと思ったからです。大海に小石を投げるようなものですが、良くも悪くも何かを感じ取って頂ければければ幸いです。


今、社会問題になりつつある介護職が抱える問題を現時点の僕なりの解釈でまとめておこうと思います。

まず、メディアが伝える離職率が高い理由として、待遇の低さが指摘されていますが、実際に現場から見ているとどうも待遇ばかりが原因ではないように感じます。確かに待遇改善をすれば一時的に人の流動を抑えることができるかもしれません。しかし、それは一時的であっていずれ同じ水準に回帰すると思います。

その根拠として、介護という仕事は介護保険で成り立っているので労働に対しての対価はどの介護施設もさほど変わらないのですが、離職してゆく人の多くが再び介護職を選ぶという現象が対価でないことを物語っています。また、本当に対価が魅力をであるなら賃金の低い介護職を選ぶ理由が分かりません。

したがって、労働に対する対価だけが問題ではないと考えられます。では、何が原因なのでしょう。次に考えらえるのは人間関係なのではないかと思います。それは働きづらさ、と言えるかもしれません。
今までに幾人もの離職者から、なぜ離職してしまうのか聞き取りを続けてみたところ、大半の人が人間関係をあげていました。中には「此処の人間が嫌いだ」と、断言していた人もいたほどです。
さて、人間関係となると問題の根が深いので、なにが原因はわかりづらいのですが、大きくとらえると、個人の資質もさることながら、組織の構造にも問題があるようにおもいます。

そのヒントになったのは、離職していった人がこの職業について「介護は誰でもできる仕事。」と、言いながらも同職に就いたことなのです。
「誰でもできる。」と、貶めておき、同じ職種に就いたのですから、「これはどういうことか?」と、疑問を抱きました。

そこで、離職理由と共に、なぜ介護職という仕事を選んだのかも幾人かの人から聴き取っていたので、その気持ちをもとに考えてみました。

なぜ、介護職を選んだのかという動機の一つが、なんとなく専門学校へ行き、なんとなく施設に就職したという人。2つ目が、対価を得たいが時間などの制約があり、その条件を満たす仕事が介護職しかなかった人。3つ目が、他の仕事もエントリーを試みたが、エントリーできず最終的に介護職に落ち着いた人。4つ目が、学校の先生の勧めで自身の意志とは無関係にエントリーしてきた人。5つ目が、介護という仕事がしたくて職に就いた人。
他にも、将来的には経営者となるためという方もいらっしゃりましたが、おおよそ、大きく分けて5つの理由が考えられます。
そこ5項目の中でも、介護の仕事をしたくて職に就いた人と、時間などの制約があり介護職に就いた人の中でも、介護職に就く以前は他の職種についてバリバリ働いていた経験のある人は、モチベーションも高く、仕事を理解しようとする意志がはっきりと見て取れますが、(前職を辞めた理由が個人的な感情論でない人)他の理由でエントリーしてきた人は、不思議と自己評価のみが高い人が多いように思いました。(少しづつ理解し、頑張って仕事に取り組めるようになる人もいました。)

そして、そういう人は共通して就業時間内だけが仕事という考え方に固執していました。
それは、たしかに間違いはないのだけれど、疑問に思ったことや分からないことは仕事を離れたときに調べたり考えたりすることで自身を向上させると思うのですが、彼らはどうも向上することは必要がないと思っているようです。また、彼らの多くは自身の正しさがすべてである為他者を必要としません。

仕事にしても趣味にしても楽しいいう喜びを感じるには、他者の存在が欠かせないと思うのです。たとえば、美味しいものを食べて「美味しい」という喜びを得るためには、「美味しいもの」を作るために修業した「他者」から「私」に送り届けられなければ得ることのできない喜びです。
それは、音楽でもスポーツでもゲームでも恋愛でも学問でも共通していることでしょう。
他者から送り届けられる技術や知識、気持ちが身についてゆくことこそ、喜びが得られるのだとしたら、他者から送り届けられるものがなければ、自身が向上してゆくという喜びは得られるはずがありません。よって、彼らは、知るという喜びよりも、知らないということを示されることをとても嫌います。

確かに、楽しさというものは個人によって感じ方が違うので、仕事を向上させるよりも、恋愛をしたり、友達を作ってお喋りを講じたりすることも楽しいと思うでしょう。しかし、恋愛や友達作りが目的ではない人にとっては、向上心が刺激されないばかりか、向上心のある者にとって魅力を感じない組織として映るのではないでしょうか。

そう考えると、自身の仕事を貶めた理由は、自分のスキルの低さを仕事を貶めることによって自身の自尊心を担保したかったのではないだろうかと思ったのです。そうすれば、その人の言動に納得がいくのです。
そのような人は、自分のミスには寛容で、他者のミスには狭量である傾向がみられ、そういう人物であるからこそ、自身が初歩ミスを繰り返していても、改善しようという考えには至りません。そして、そのリーダーに対して従順であれば、支配内においての自由と権利認められるので、対価を得る手段がそこにしかない人は従順であることを選択してしまいますが、そのような歪んだ構造に違和感を抱かない人はいません。

そこが、人間関係で離職する原因の一つと考えられるのですが、従事者が減っている理由はもう一つあるようにおもいます。それは、少子化と経済が上向いていることに起因しています。経済の向上は一見、福祉にも補助金が回り良い影響を及ぼしてくれるのではと期待できるところもありますが、少子化が進行し続けている以上、施設が乱立していけば、担い手が減少してゆくのは自然です。場所があっても学校のように義務ではないのだから、新卒採用という人材を期待できません。介護保険が導入されたころは、就職難といわれる時期と相成ってそのような構造を保有していたけれども、もはやそのような構造は成り立たなくなってしまったのです。

また、横に流れてゆく人の口には戸が立てることはできません。したがって、その施設がどのような問題を抱えていたのかが自然に広がってゆきます。それは、横に流れようとしている人の判断材料になります。そうすれば、横に流れる人すらも流れてこなくなります。

介護現場は共産主義的な共同体であるので、全員がフラットな位置で互いが助け合い補い合いしなければ、組織として成り立ちません。できる人はできない人を助けつつ伸ばし、できない人はできないなりに謙虚に努力しなければ、ともに助けあう共同体は構築できないように思います。

現状は表面的には平等に見えますが、その中身は権威主義に陥っています。それは職務の自由性というものに関係しています。自由性とは介護という仕事は現場では特殊な技術も知識も必要としない日常生活動作の延長でしかない為、現場に入ってしまえば自己主張の強い者の主張が優先されてしまう事象といえます。表向きには初任者研修制度や介護福祉士という資格がありますが、その自由性の為、施設によっては在籍年数が資格より幅を利かせてしまい資格の意味を成さないのです。

したがって、構造が改善されない以上、何かあれば、常に自己主張の張合いと、新しい者、主張できないものからの権利の搾取に傾倒してしまうので、耐えられない人は辞めていかざるを得ません。

そのような、負の連鎖が働いているのにもかかわらず、残留している中の一部の人は常に離職する者に問題があると思い込んでいます。それは、残留している人の一部が権威主義者である為、自身の立場に固執してしまっていて問題の本質を観ようとしなくなってしまっているからですが、彼らは他者が存在していることでしか権威を示すことが出来ないということを知りません。他者から権利を奪い続けてゆけば権利は最大化しますが、他者がいなくなるのですから自身への負荷が増してゆくばかりになります。もしくは自身に問題抱えた人たちしか集まらなくなります。

そのような他者への配慮が欠ける思考の人達が、身心に生じた障害の為に社会資源を利用し辛うじて生を伸ばしている人に対して、他者の身心の機微に応じて自身の感情を制御し対応し続けることが出来るとは思えません。そして、その負担を被るのは社会資源の下で生活をしている私たちの延長線上にある高齢者なのです。しかし、無意識化で他者の権利を奪っているので問題の深刻さに気付いていません。しかし、そういう人達だからこそ低賃金で雇用できるのだと考えている資本家が存在していることが問題をより深刻にしているようにも思います。

だから、厚生労働省や公益社団法人が示す倫理綱領に沿う働きを行うためには心の成熟が必要となるのですが、人の心が不完全である以上、どうすればよいかという問いには答えることが出来ません。
意識改革や構造改革が必要である。という抽象的な表現で表せることもできますが、言行合一の困難さは社会情勢を見てみればいかに難しいかが分かりますが、問題を少しでも解決したいならば、資本家が意図をもって組織作りに取り組まないと、変化は起こらないことは確かなことです。しかし、その資本家の中に、人材を育て、持続的な職業として成長を図るのではなく、従事者を労働力として効率よく搾取することに重きを置いているという考えの持ち主が無くならない以上、従事者もその境遇下では自身の権利の最大化に固執してしまうのは自然であり、そのような歪な構造が離職率を高めているのではないかと考えられるのです。

介護現場は社会的弱者を社会資源という共同体で支えると共に、社会でうまく立ち振る舞えない人たちにとっての雇用の場という社会資源の役目も担っています。無論、それを理解し、地域に貢献するために努力を惜しまない福祉施設も存在します。
しかしながら、社会保障制度という制度で支えられている社会資源の中で、生産性が無いに等しく、資本主義者が社会的弱者から搾取し、その弱者が更に低い社会的弱者から搾取する構造を、行政はわざわざ介入し指導するより、徐々に投資額を削減し、体力のない事業所を成り立たなくしてゆくのではないかと思います。なぜならば、その方が彼らの手を煩わせずに済み、彼らにとってメリットが大きいと思われるからです。
そうなれば、職業としての社会的地位の向上はおろか、職種と共に組織も緩やかに衰退してゆくしかないのだという悲観的な予測しか立てることが出来ませんが、しかし、それは介護保険制度が導入される以前の体制に回帰するだけであり、言い換えれば多くの人たちが心のどこかで望んでいる個人主義が到達する体制になるとも考えることが出来るのではないかと思うのです。



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