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第二百九十二回目のブログ

2019-10-28 22:44:27 | 日記
 表現の不自由展が大きな問題となりました。
 マスコミを中心に、不自由展への批判への批判が広く行われました。
 まぁ、なるほどね…と思うところも多かったですし、逆にそれに対してヘイトスピーチにダブルスタンダードがあるというのも納得できる話です。
 個人的に一番印象に残ったのは、作品を見てから考えるべき…という意見です。
 芸術とヘイトスピーチの最大の違いは、普遍的な価値の追求が作品の中に見られるのか…という問題だと思います。実際、多くの芸術作品は歴史的背景のもとで作られるわけで、その中に差別とか偏見が入り込む余地は十分あるわけです。
 個人的に一番思い浮かぶのは『意志の勝利』というナチス党大会を撮影した映画です。今見ても、そしておそらく公開された当時でも反ナチス勢力からみれば、明らかにヘイトスピーチでしかなかったでしょう。ただ、実際、それに魅了された多くの人はいるわけですし、その党大会の整然とした行列やヒトラーの演説の迫力は、単にナチスの主張を通り越して、その美しさ凄まじさに魅了された多くの人を生み出したと思うのです。要するに、一つの普遍的価値の創造に貢献したと言えるでしょう。
 では、この表現の不自由展はどうなのでしょう?それは作品を見てみなくてはわからない。その通りだと思います。ただ、実はこの展示品の中で、気軽に今も見れる作品が一つあります。慰安婦像です。実際、私も韓国旅行の時、日本大使館前の物を見ました。
 正直、あまりにあっけない、というのが私の印象でした。美しいとか可哀そうとかそういう感情は、一切呼び起こされませんでした。わざわざ日本政府が撤去を呼びかけるほどのモノにも思えませんでした。その意味付けさえなければ、日本の公園にあるどんな銅像よりも、目に留まらず相手にもされない、はっきり言って何か普遍的価値を実現しているとは言い難いものでした。慰安婦像と言う意味付けをもって初めて価値が生まれる作品が、芸術と言えるのか。正直、私は疑問です。
 こう書くと、慰安婦問題に否定的な立場と思われそうですが、個人的にはよくわからない。ただ、日本が過去の行いについて十分な反省と謝罪を行ってきたとは到底思えない、それが私の基本スタンスです。ただ、そういう基本スタンスを除いて、単なる芸術作品として慰安婦像を見たとき、そこに芸術性があるのか、を考えたかったのです。

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