大阪:阿倍野:明治屋

2007年12月02日 | 人生は旅である。
よく通っているという、今年定年になる会社の先輩に連れていってもらいました。

これも一つの"昭和の景色"です。今、はやりの"昭和"は、「三丁目の夕日」で表現されていた昭和30年からせいぜい昭和45年頃につづく15年ほどの「古き良き昭和」だと感じています。いくら、昭和が懐かしいといっても、太平洋戦争時代の昭和を懐かしく感じる人はあまり多くないと思います。

私の生まれて暮らすこの国"日本"の過去から未来につづく時間軸を遡ると、昭和20年から30年の十年あたりに、見渡す限り広くかつ見上げられないほどに高い壁がそびえ立っていて、そのむこう側はまったくに、日本史の教科書の中に封じ込められてしまったように感じられます。

言葉として記述された歴史は、事実とは関係なく、いかようにでも作られるものだと、高校の歴史の先生に教えられました(その先生がそう教える自覚があったのかは確かめようもないですが。)。昭和を感じている人たちは、生身で感じた昭和(=教科書に載っていない)を思い起こして、その記憶を確かめているのだと思います。

全国的にも有名な居酒屋、こちらの"明治屋"も、そんな「古き良き昭和30年代」をそのままに保存した空間があります。

そして、昭和30年・40年・50年・60年そして平成と日本が歩んできた時代の流れがそのままに、店の周りに流れています。

この阿倍野地区は、いまさらながらに古いタイプの開発の風が吹きすさんでいます。古い町をつぶして新しい町にする、それこそが、"古き良き"昭和後半の街づくりであったわけです。その間に、"昭和ブーム"で懐かしがられる30年代の昭和は跡形も無くなっていったわけですね。

阿倍野地区の再開発と明治屋という"場"がなくなることに対する考察はこちらにあります。


明治屋は阿倍野地区再開発に飲み込まれてその姿をなくすでしょうが、その生まれ変わった阿倍野地区が、阿倍野地区そのものが持つ街のあり方の問題を顕在化させるのは、まさに"昭和の街"の名残である、飛田新地になることは、間違いありません。
飛田新地は、西の九条(松島新地)、南の信太山、東の近鉄今里とならんで大阪の遊郭文化を今に伝える歴史的地域です。

飛田新地に遊郭の面影を一番残しているのが"鯛よし百番"でしょう。なにしろ元々遊郭で、それを改造して今は料亭として営業されています。

そして、この飛田新地が歴史的な価値を持っているのはその街並みだけではなく、その街の今もって維持している機能なのです。飛田新地には今も夜になれば幅一間半ほどの店の間口は開け放れて、上がり口にはピンク色の明るい蛍光灯に照らされて若い女の子が座っています。そして、玄関口の粗末な椅子に年取った女性がこちらを見据えて「兄ちゃん遊んでかへんかぁ」と声を掛けます。

お客さんはその年を取った女性、いわゆる"やりてばば"と料金交渉をして、交渉がまとまれば玄関口にすわっている若い女性とトントンと二階に上がっていきます。

二階でどのような「接客」がなされているのかは、上がったことの無い私には計り知れないものがあるのですが、まさにここ飛田新地には、遊郭としての街並みとともに遊郭としての"機能"も保存されているのです。

鯛よし百番と飛田新地についてはこちら


街を造りかえるということは、その姿を変えるというだけでなくその機能をも変えることであることであるのは間違いなく。街並みを保存するということはその機能を保存することだということも、間違いないと思います。

私の目に映る「阿倍野地区再開発」は、街の機能丸ごとに変えていったあの昭和30年代の複製であって(そういう意味ではなつかしの昭和なのかもしれませんが)、地方が、街が、個人がこれほどに機能分化して、それぞれの機能において、自分の力をどうやって高めていくかが勝負所になっている、今の時代の再開発のやりかたでは無いように思えるのです。

街の機能がなくなれば、その街は存在価値をなくす、そしてその機能を求めていた人たちは、その街を使わなくなる。それは、街を活性化するという街の再開発の目的とはまったく反したものになるのではないかなと感じています。

阿倍野地区が持っていた街としての機能を壊すことが目的なのであれば、では新しい機能は何なのでしょうかと酔っ払った私は静かに憤りながら、地下鉄動物園前駅の薄暗い階段を下りていったのでした。


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