御文章五帖目第一通 (通称・末代無智章)に関する一考察

2009年01月03日 | 人生はメンタルだよな
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。<br>
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。<br>
かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。<br>
あなかしこ、あなかしこ。<br>

「御文章ひらがな版・拝読のために」から (平成11年発行・本願寺出版社)

末代無智章の大意

末法の世にあって、まことの智慧もなく、在家の生活をしているものたちは、一心に阿弥陀如来をたのみたてまつって、ほかの神や仏に心を向けず、ひたすらみ仏におまかせしなさい。

そのものを、どんなに罪は重くとも、かならず阿弥陀如来はお救いくださいます。

これが第十八願、すなわち念仏往生の願のこころです。

このように信心を決定した後は、寝てもさめても、命のあるかぎりは仏恩報謝の念仏をすべきです。
(五帖第一通)



この御文章は、他の多くの御文章と同じように、二種深信の形をお示しいただいていると理解できるでしょう。

  • ともがら(私たち)は、末代無智の在家止住であること。
  • 阿弥陀如来は、衆生(私たち)を必ず救うということ。


    そこで、

    ”ともがらは、こころをひとつにして”の一言が大変重要な一文になっていると感じます。


    「御文章ひらがな版・拝読のために」
    では、"こころをひとつにして"を"一心に"と現代語訳されています。

    三省堂提供「大辞林 第二版」によりますと
    一心とは、
    (1)二人以上の人が心を一つにすること。
    (2)一つの物事に集中した心。専心。
    とされています。

    (1)の意味で解釈すると、 ともがら(複数のひと)が同じ心を持つこととなり
    (2)の意味で理解すると、現在よく用いられる、私が一つの心に集中することとなります。

    御文章にある"こころを一つにして"は、(1)の意味で理解するべきでありましょう。

    「私たち(ともがら)が、心を一つにして、生きていけよ。」という(1)の意味での、阿弥陀如来からのメッセージ(本願)をしっかりと受けて止めていくことが、真宗門徒の生き様であり、それが教えに基づく社会性の発露であると、私は理解しています。

    小松教区で編集、刊行されました「現代文御文(第五帖)」には、弥陀の本願をこのように味わわれています。
    本願:自分の立場・経験だけでしかものを見ることのできない私たちに、「共に生きる」生き方こそ、私達が求める道であったと、目覚めさせるはたらき。親鸞聖 人は「他力とは如来の本願力なり」といっておられる。

    共に生きるとは、おかげさまの生き様であり、報恩の人生とも言えます。阿弥陀如来の本願に照らされて、平和に(安穏に)生きることができるという、そういった生き方を自分だけでなく、子に、孫にと伝えて生きたいという、ご門徒様方のお気持ち、報恩のお心が、浄土教団の発展につながり、み教えが正しく、広がることで、共に生きる世界がひろがってきていると思います。

    社会制度とか、民族とか、あえて言えば宗教というものを飛び越えて、「共生と報恩」の人生観が広がっていっていただきたいものだと、心から念じております。