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オーラ写真

2006年12月22日 | 人生はメンタルだよな
私、こう見えて(だから、どう見えてって?)、オカルティックなことがサイエンティフィックに表現されていることが好きです。

で、先々週、オーラ写真なるものを撮ってみました。

ご覧の通り全面的にオレンジから赤色が写っているのですが、私の顔と体がオーラに隠れて写らないほど、強いらしいです。

色の説明は、色々なサイトでいただければわかるのですが。

オレンジ:変化、野心
赤:興奮、活力

といったところのようです。

なるほどなあ、と思ったのは、一緒に行った人の持っていた1年前のオーラ写真と今年の写真を見比べたときです。向かって左が過去、右が将来の色なのですが、その人の1年前の写真の向かって右側に写っていた色が今年の色だったんです。
その方の昨年の色は左がオレンジ、右が青緑。今年の写真が全面青緑。そして、その方のこの1年前を思い起こせばたしかに結構アグレッシブだったし、今は落ち着いた感じであるのです。


で、お店はオーラ写真専門店ではなく、パワーストーンの販売店もされているのですが、店員さんに「どんな石を持ったらいいのかな」、と質問してみました。
店員さん曰く「このままで行くなら写真と同じような色の石、もう少し落ち着きたければ水晶ですね。」

ということで、今日パワーストーン専門店の前を歩くことがあったので水晶石を買ってきました。手のひらで握ったときににピリピリした感じがしたので、思わず求めてしまったのです。

なぜか、左手でしか持つ気がしないというのも、かなり不思議です。

水晶は私の誕生石であったりもします。もちろんその店員さんは私の誕生月を知りません。

オーラ写真、一度どうですか?

街を歩くということ

2006年12月03日 | 人生はメンタルだよな



  街は、シンメトリック。

  気をつけて歩かないと、

  トラックが、

  左から来たのか、

  右から来たのか、

  わからなくなる。

  自分が、

  右から来たのか、

  右に行きたいのか、

  それも、わからなくなる。



  そんなときには、

  少し上を向けばよい。

  太陽の位置を探し出すことが出来れば、

  自分の立っている場所が必ずわかるだろう。


  気をつけなければいけないのは、街が upside-down に見え始めたとき

  そんな時は、多分、沖縄にでも行くがいいだろう。

  大阪中央区淀屋橋にて

シャンソン:大阪東心斎橋:コンテローゼ

2006年12月03日 | 人生はメンタルだよな
シャンソンとカンツォーネが聴けるバーに行ってまいりました。

ピアノ伴奏の、シャンソンとかカンツォーネとか、懐かしい思いで、聴きながら、それはいつ頃だったのだろうかと、記憶をたどっていました。

砂に消えた涙(ミーナ)は刺さりましたね(こちらはカンツォーネ)。で、はっきりとわかりました。小学校の頃だよなあ。せいぜい中学、と思って調べてみたら、原曲が聴けるサイトがありました。
元祖eigo21

げっ、1965年。小4かぁ・・。あ"、歳わかるなぁ

夕方には、スミレのは~な~♪のチャイムが流れていたあの地。シャンソンの香りぷんぷんの宝塚が私の音楽のベースになっていたのはまちがいないことに気がつきました。(越路吹雪@ろくでなしは私のオヤジの時代だろうけど)

そんな、音楽の原体験を思い起こした気持ちが"懐かしい"という言葉になったのだろうと思います。

時はたち、ビートルズからS&G経由プログレロックに移り、チックコリア@マイルスファミリーあたりから、ラテン系リズムを混ぜながらテクノなんかもいい感じ、といった私の音楽人生ごった煮だなぁ。

今いまは、御気楽極楽人生を志向する私にはボッサとかルンバとかがいい感じ。

そんなこんなで、この駄blogの題名は"人生はコーヒールンバだな"となっています。

お店についてはこちらをご参照ください。

人が死ぬということ

2006年08月18日 | 人生はメンタルだよな
こんな文章を紹介します。


人の世のはかないようすをよくよく考えてみますと、この世はまぼろしのような一生です。
(中略)
私が先か、人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。
(中略)
無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、元気な顔もたちまち美しいすがたを失ってしまいます。そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうしようもありません。
そのままにしてはおけないので、野辺のおくりをし、荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。それはもう言葉にいい尽くせない悲しみです。


だから、だれも、「死ぬ」ということ、それは、とりもなおさず「生きる」ということを最も大事なことと心がけなければ、と思うのです。

そして、もう一つ。


老いも若きも関係なく、一日はだれにとっても等しく24時間です。一日生きるということは、だれにとっても等しく、一日「死」に近づくということです。これは、生まれたばかりの赤ちゃんも何十年生きてきた人も変わりません。これから生きる人とか、これから死んでいく人いうように、分けて考えることが出来ようはずがないのです。
 ですから、「死」について考えるのに早すぎる年齢などというものもなければ、将来に希望や夢を持つのに、遅すぎる年齢というのもありません。(大谷光真著:朝には紅顔ありて:角川書店 より)


死んでいった人と一緒に私は生きていくのだな、と強く、深く思う今日です。


どうぞ、どうぞ、お疲れが出ませんように。