その43 里帰りの旅
1月22日から2月12日まで日本と台湾に旅行に行ってきました。
今回の旅行の目的は、里帰りでした。
我が家の長女が台湾人と結婚し、去年8月に初孫が生まれたので、私の実家の日本、
娘の夫の台湾の両家の親戚に会うためでした。
日本では、私の実家の両親に、彼らにとって初ひ孫と娘の夫を会わせる事がメインイベン
トでした。
私達夫婦も、娘の夫方の親戚に挨拶に初めて台湾を訪れました。
私達は関空往復で、日本から台湾へ行き、娘一家は台湾往復でそこから日本へ来ました。
その間に、下関と台北で合流しました。
私達夫婦は、関空到着後、京都奈良で8日間過ごし、1月30日に再び関空から台北
に飛びました。
台北、桃園空港では、娘の夫のお母さん(以後、お義母さん)、叔父さんが出迎えてくれ
ました。
その足で桃園から開通したばかりの新幹線に乗り、一時間半で高雄に到着しました。
高雄の新幹線駅に、娘の夫のお父さん(以後、お義父さん)が迎えに来てました。
高雄金典酒店(The Splendor Kaohsiung Hotel)に全員でチェックインした後、
遅い夕食をホテルの中華レストランでとりました。
海の幸の豊富なお料理、あっさりした味付けも日本人好みで、私達は満足しました。
4人で一緒に食事するのは、昨年8月、孫の誕生以来です。
そこからはご両親と4日間、車で北上し台北まで一緒に旅行しました。
高雄では、お義父さんが経営する稚魚の養殖場、客家の歴史的住居、佳冬粛宅に行きまし
た。
佳冬粛宅は、国指定の文化財ですが、一部は現在も普通の住居として使われていました。
塀の中は集合住宅になっており、仕事場、女性たちの居間、学習室の回りに、数家族分の
寝室が配されている興味深い建物でした。
3日目は、途中日月湖に寄ったあと台中に泊りました。
日月湖では、丘の上の立つリゾートホテルThe Laluのレストランで、アフタヌーン
ティーを頂きました。
観光らしい観光をができたのはここまでで、この後は親戚とのディナー、ディナーで
もう当分中華料理はいらないというくらいでした。
まあ親戚に会うために来たのだから予想はしたのですが、遠来の客をもてなす、一家
の結束の固さを再認識しました。
お義母さんの実家のある台中市では、お義母さんの姉妹夫婦と会食しました。
平日のランチというのに、公務員やら建築事務所をしている旦那さん達も来てくれ
総勢10人で食事しました。
私の夫は中国系ビルマ人で、祖父は雲南省の出身ということで雲南料理店を予約して
くれてました。
あさり、海藻をふんだんに使って、ちょっとスパイスが効いていて、夫は気に入った
ようでした。
翌日は台北で、お義父さん方の親戚と高島屋デパートにある中華料理屋で会食でした。
娘一家も、前日オークランドから到着していて一家全員が揃いました。
叔父さん、叔母さん達は、孫を見るのは初めてで、孫はかわるがわるに抱かれくちゃくち
ゃになってました。ほとんど人見知りしない子なのに、小叔母さんだけが嫌いらしく、
手足をばたつかせて反抗してました。
娘の夫側も、お義父さんが長男、娘の夫が長男、そして3代目の孫が男の子で大変喜ばれ
てました。これでチャン家は安泰、娘にはよくやったというねぎらいという感じがよくで
ていました。
私達は、男でも女でもいいと思っていたけど、中国系に人には男の子を授かるというのは
特別な意味があるのだなと実感しました。
台湾の70歳以上の方は、きれいな日本語を喋ります。
82歳の大叔母さんも流暢な日本語を話され、作られるお料理も味付けが日本風なのだ
と娘が言っていました。
台湾は、昭和天皇の時まで50年近く日本の統治下にあったためか、親日的でした。
あちらこちらで、これは日本が作った鉄道であるとか、天皇陛下がお泊りになった宿
などと日本ゆかりのものが多く見られました。
ご両親は、高級ホテルを予約して下さっていて、快適に過ごすことができました。
ホテル代はお払いすると何度も言ったのに、初めて台湾に来たのだから今回はいいと
言われ、どこでもお世話になりっぱなし恐縮しました。
娘達の結婚の頃、孫が生まれてからは結構頻繁に会っていたのですが、今回の旅で話す
時間も多く、両家の親しみが深まりました。
お義父さんは、今彼が打ち込んでいる稚魚の養殖の話となると、青年のように嬉しそう
に話されます。
お義母さんは、ちょっと心配性で、宿や食事やのことをこまごま気を使ったくれてました。
でもなんと言っても、両家の最大の関心は孫で、孫の話をすると、皆自然とほほがゆる
んでしまいます。
私達は2月5日に日本に戻り、神戸、松山、指宿、博多を旅した後、実家のある下関に
2月9日に到着しました。
2月10日に、関空から来た娘一家を新下関駅に出迎えました。
いったん下関駅前のホテルにチェックインし、その後妹が車で迎えに来てくれ、唐戸のふ
く祭りに行きました。
下関では、フグをふく(福)と言います。
2月9日をふく(二九)に掛けて「ふくの日」、その週末に唐戸魚市場一帯でお祭りが
行われてました。
博多あたりから観光バスで来ている人も多く、すごい混みようでした。
ちょっと軽くお寿司でもと思ったのに、どこのお店も長い行列で、せっかく並んでも売り
切れだったりとさんざんでした。
妹が駆け回ってくれて、ふくフライハンバーガーに缶コーヒーを調達して来てくれました。
唐戸市場の上で回転寿司を食べるのは夢に終わってしまいました。
食いしいぼのせいか、日本へ帰ったら博多のあそこでラーメンが食べたいとか、その味覚
が夢にまで出るほど思い描き、期待が膨らみます。
しかし、往々にして、こんな筈ではなかったとか、忙しい日程で食べ損なったりと裏切ら
れる事も多々あります。
唐戸市場の有名な回転寿司も、次回までお預けです。
今回の下関滞在は、娘一家と総勢5人で、赤ん坊もいるのでホテル泊まりでした。
私の母の痴呆がこの一年かなり進み、妹から「おねえちゃん、家は泊れる状態ではないよ」
と言われました。
一年前に、うちの息子が泊った時は、母は普通に会話でき、大丈夫だったのですが。
海外に住んでいて、里帰りの時に実家に泊れないのはなんとも寂しいものですね。
これからは、下関に帰ってもずっとホテル泊まりだし、そうするとあまり長く滞在できな
くなるしね。
今回も下関は、2日の滞在で、両親と一回しか一緒に食事をしなかったのですが。
10日の夜、妹一家、私達夫婦、娘一家が実家に集まりで御寿司を取って会食しました。
5カ月の孫は、まだ人見知りをせず、誰に抱かれても平気のようでした。
孫は、私の両親が抱くと、何度も振り返って顔を見てました。
自分の家族と知らない人の区別はつくようです。
赤ん坊がいると、その場が和やぎ、両親も気分が若やいだようでした。
「よう太っとるね。なんば食べとると?」と母。
「まだ五ヶ月だからね、主にミルクよ。」と私。
3人の娘を育て、8人の孫がいるのに、そういう事はもう忘れてしまったのかな。
母が、ひ孫のことをどれくらい覚えているか解らないけれど、楽しそうであったのは幸
いでした。
歴史学者の父は、娘の夫と筆談で話ができました。
漢字だと双方意味がわかるので、こういう時便利です。
私の夫が通訳して、双方に説明を加えてました。
娘の夫は歴史好きで、巌流島の決戦とか馬韓条約の事も知っていて、父を喜ばせました。
私は母に、「あんた子供何人やったかね」と何度も聞かれました。
次回の里帰りには、「あんた誰?」と母に言われる覚悟がいりそうです。
同じ下関市内に嫁いだ妹が洗濯、買い物など日々の雑用をやってくれ、両親はなんとかま
だ二人で暮らしていけてるようです。
こうやって私達一家、娘一家が又一緒に下関を訪れることができるのは次はいつだろう
なと思いました。
孫が物心つくくらいまで両親が元気でいてくれること祈りました。
1月22日から2月12日まで日本と台湾に旅行に行ってきました。
今回の旅行の目的は、里帰りでした。
我が家の長女が台湾人と結婚し、去年8月に初孫が生まれたので、私の実家の日本、
娘の夫の台湾の両家の親戚に会うためでした。
日本では、私の実家の両親に、彼らにとって初ひ孫と娘の夫を会わせる事がメインイベン
トでした。
私達夫婦も、娘の夫方の親戚に挨拶に初めて台湾を訪れました。
私達は関空往復で、日本から台湾へ行き、娘一家は台湾往復でそこから日本へ来ました。
その間に、下関と台北で合流しました。
私達夫婦は、関空到着後、京都奈良で8日間過ごし、1月30日に再び関空から台北
に飛びました。
台北、桃園空港では、娘の夫のお母さん(以後、お義母さん)、叔父さんが出迎えてくれ
ました。
その足で桃園から開通したばかりの新幹線に乗り、一時間半で高雄に到着しました。
高雄の新幹線駅に、娘の夫のお父さん(以後、お義父さん)が迎えに来てました。
高雄金典酒店(The Splendor Kaohsiung Hotel)に全員でチェックインした後、
遅い夕食をホテルの中華レストランでとりました。
海の幸の豊富なお料理、あっさりした味付けも日本人好みで、私達は満足しました。
4人で一緒に食事するのは、昨年8月、孫の誕生以来です。
そこからはご両親と4日間、車で北上し台北まで一緒に旅行しました。
高雄では、お義父さんが経営する稚魚の養殖場、客家の歴史的住居、佳冬粛宅に行きまし
た。
佳冬粛宅は、国指定の文化財ですが、一部は現在も普通の住居として使われていました。
塀の中は集合住宅になっており、仕事場、女性たちの居間、学習室の回りに、数家族分の
寝室が配されている興味深い建物でした。
3日目は、途中日月湖に寄ったあと台中に泊りました。
日月湖では、丘の上の立つリゾートホテルThe Laluのレストランで、アフタヌーン
ティーを頂きました。
観光らしい観光をができたのはここまでで、この後は親戚とのディナー、ディナーで
もう当分中華料理はいらないというくらいでした。
まあ親戚に会うために来たのだから予想はしたのですが、遠来の客をもてなす、一家
の結束の固さを再認識しました。
お義母さんの実家のある台中市では、お義母さんの姉妹夫婦と会食しました。
平日のランチというのに、公務員やら建築事務所をしている旦那さん達も来てくれ
総勢10人で食事しました。
私の夫は中国系ビルマ人で、祖父は雲南省の出身ということで雲南料理店を予約して
くれてました。
あさり、海藻をふんだんに使って、ちょっとスパイスが効いていて、夫は気に入った
ようでした。
翌日は台北で、お義父さん方の親戚と高島屋デパートにある中華料理屋で会食でした。
娘一家も、前日オークランドから到着していて一家全員が揃いました。
叔父さん、叔母さん達は、孫を見るのは初めてで、孫はかわるがわるに抱かれくちゃくち
ゃになってました。ほとんど人見知りしない子なのに、小叔母さんだけが嫌いらしく、
手足をばたつかせて反抗してました。
娘の夫側も、お義父さんが長男、娘の夫が長男、そして3代目の孫が男の子で大変喜ばれ
てました。これでチャン家は安泰、娘にはよくやったというねぎらいという感じがよくで
ていました。
私達は、男でも女でもいいと思っていたけど、中国系に人には男の子を授かるというのは
特別な意味があるのだなと実感しました。
台湾の70歳以上の方は、きれいな日本語を喋ります。
82歳の大叔母さんも流暢な日本語を話され、作られるお料理も味付けが日本風なのだ
と娘が言っていました。
台湾は、昭和天皇の時まで50年近く日本の統治下にあったためか、親日的でした。
あちらこちらで、これは日本が作った鉄道であるとか、天皇陛下がお泊りになった宿
などと日本ゆかりのものが多く見られました。
ご両親は、高級ホテルを予約して下さっていて、快適に過ごすことができました。
ホテル代はお払いすると何度も言ったのに、初めて台湾に来たのだから今回はいいと
言われ、どこでもお世話になりっぱなし恐縮しました。
娘達の結婚の頃、孫が生まれてからは結構頻繁に会っていたのですが、今回の旅で話す
時間も多く、両家の親しみが深まりました。
お義父さんは、今彼が打ち込んでいる稚魚の養殖の話となると、青年のように嬉しそう
に話されます。
お義母さんは、ちょっと心配性で、宿や食事やのことをこまごま気を使ったくれてました。
でもなんと言っても、両家の最大の関心は孫で、孫の話をすると、皆自然とほほがゆる
んでしまいます。
私達は2月5日に日本に戻り、神戸、松山、指宿、博多を旅した後、実家のある下関に
2月9日に到着しました。
2月10日に、関空から来た娘一家を新下関駅に出迎えました。
いったん下関駅前のホテルにチェックインし、その後妹が車で迎えに来てくれ、唐戸のふ
く祭りに行きました。
下関では、フグをふく(福)と言います。
2月9日をふく(二九)に掛けて「ふくの日」、その週末に唐戸魚市場一帯でお祭りが
行われてました。
博多あたりから観光バスで来ている人も多く、すごい混みようでした。
ちょっと軽くお寿司でもと思ったのに、どこのお店も長い行列で、せっかく並んでも売り
切れだったりとさんざんでした。
妹が駆け回ってくれて、ふくフライハンバーガーに缶コーヒーを調達して来てくれました。
唐戸市場の上で回転寿司を食べるのは夢に終わってしまいました。
食いしいぼのせいか、日本へ帰ったら博多のあそこでラーメンが食べたいとか、その味覚
が夢にまで出るほど思い描き、期待が膨らみます。
しかし、往々にして、こんな筈ではなかったとか、忙しい日程で食べ損なったりと裏切ら
れる事も多々あります。
唐戸市場の有名な回転寿司も、次回までお預けです。
今回の下関滞在は、娘一家と総勢5人で、赤ん坊もいるのでホテル泊まりでした。
私の母の痴呆がこの一年かなり進み、妹から「おねえちゃん、家は泊れる状態ではないよ」
と言われました。
一年前に、うちの息子が泊った時は、母は普通に会話でき、大丈夫だったのですが。
海外に住んでいて、里帰りの時に実家に泊れないのはなんとも寂しいものですね。
これからは、下関に帰ってもずっとホテル泊まりだし、そうするとあまり長く滞在できな
くなるしね。
今回も下関は、2日の滞在で、両親と一回しか一緒に食事をしなかったのですが。
10日の夜、妹一家、私達夫婦、娘一家が実家に集まりで御寿司を取って会食しました。
5カ月の孫は、まだ人見知りをせず、誰に抱かれても平気のようでした。
孫は、私の両親が抱くと、何度も振り返って顔を見てました。
自分の家族と知らない人の区別はつくようです。
赤ん坊がいると、その場が和やぎ、両親も気分が若やいだようでした。
「よう太っとるね。なんば食べとると?」と母。
「まだ五ヶ月だからね、主にミルクよ。」と私。
3人の娘を育て、8人の孫がいるのに、そういう事はもう忘れてしまったのかな。
母が、ひ孫のことをどれくらい覚えているか解らないけれど、楽しそうであったのは幸
いでした。
歴史学者の父は、娘の夫と筆談で話ができました。
漢字だと双方意味がわかるので、こういう時便利です。
私の夫が通訳して、双方に説明を加えてました。
娘の夫は歴史好きで、巌流島の決戦とか馬韓条約の事も知っていて、父を喜ばせました。
私は母に、「あんた子供何人やったかね」と何度も聞かれました。
次回の里帰りには、「あんた誰?」と母に言われる覚悟がいりそうです。
同じ下関市内に嫁いだ妹が洗濯、買い物など日々の雑用をやってくれ、両親はなんとかま
だ二人で暮らしていけてるようです。
こうやって私達一家、娘一家が又一緒に下関を訪れることができるのは次はいつだろう
なと思いました。
孫が物心つくくらいまで両親が元気でいてくれること祈りました。
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