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11年目の縦軸 38歳-37

2014年07月14日 | 11年目の縦軸
38歳-37

 男女間にわざわざ愛など割り込ませる余地はないと考える。考えるのは自由だ。辞書で「愛」の項目を開けば、それらしき意味合いはあるかもしれないが、誰一人としてきちんとした定義など説明することはできないのだ。グラムという単位まで正確に量り間違えることなく。

 しかし、定義などなくても存在しているものもたくさんある。風船。石鹸。爪切り。日常品がもっともすばらしいものたちなのだと仮定する。引き出しの手前にあり、直ぐに取り出せるもの。経常的な使用に耐え得るもの。評価も誉め言葉もないのに、主人に献身的に仕えるものたち。

 期待を失いつづけ、本来の妥当な大きさとして認識する。膨らませたのも風船ならば、もとの原型のしぼんだものも風船と呼べた。子どもたちはどちらを喜ぶのだろう。空気のつまった風船を叩いて宙に浮かばせることが楽しければ、その状態になるよう自分の息で空気を吹き入れることも楽しみの一部に違いなかった。

 愛だけが、居心地の良い場所を与えられている。何にへつらうこともなく優位な状態を確保している。ぼくらは、それを前提にして生きている訳でもなかった。

 雑巾やティッシュ・ペーパーが汚れを拭き取るのだ。価値や値打ちの高いものだけが生活を組み立てているわけではなかった。摩耗し、すり減ることを余儀なくされるもの。その従順なる使用の過程こそ、はかなく貴重なものだった。

 目標も、結果としての金字塔もない。やり過ごしたことはすべて忘れていいのだ。いまだに主張するのは図々し過ぎる。その生意気な自意識がぼくの体内にある。失恋の事実を記憶して、たまには思い出すよう促す。愛というものが、もっとも誇らしい記念碑になると鞭打って。

「卵焼きでもつくる? 目玉焼きの方がいいかな?」
 絵美が冷蔵庫を開けて、そう言った。
「半熟ぐらいの目玉焼き」

 これが愛だろうか。等身大の愛の重さだろうか。

「その間にポストのなか、見てきてくれない。音がしたから」

 ぼくは玄関のドアを開け、絵美の名前のシールが貼ってあるアルミ製のポストを開いた。新築だか中古の売家のチラシが無造作に突っ込まれている。ピザの宅配用のメニューや、クレジット・カードの明細書らしきものもあった。ぼくは取り出してから中が空になったことを確認し、また閉じた。

 ぼくは部屋に戻り、テーブルにそれらを置いた。結婚というもので名前が変わる場合がある。カードの名義も変える必要があるのか考えた。どれも、休日の朝のいまは面倒だという認識しかなかった。すると、焼きたての匂いがする皿がそのわきに置かれた。

「いらないものばっかり」ひとつひとつを点検して、そのほとんどを絵美はゴミ箱に捨てた。

 ぼくらは大勢の人間と毎日、すれ違う。瞬間ごとには印象は感じたのかもしれないが、ほとんどは覚えてもいない。そして、自分の家のポスト以外を開けることもないので、何が入っているかも知らなかった。だが、こうして見ると、そんなに大差がないことに気付く。当然といえば当然だった。もっと大きなものは宅配便の運転手がもってきてくれて、サインと交換に手渡してくれるのだ。

 コーヒーを飲み、たまごを食べた。横にはソーセージもあった。飽きないものたち。飽きる前に奪われてしまったもの。飽きるという峠があるなら、そこからの下降は急なのだろうか。ずるずると地盤沈下するようなものなのだろうか。ぼくには分からなかった。

 ぼくは流しで皿を洗う。よれたスポンジ。使い込まれたタオル。どこに愛があるのだろう。ぼくらが涙を流すようなものとして貴く感じる愛などいったいどこにあるのだろう。

「分割にしておけばよかった」

 と絵美は袋を破る音がしたあとに言った。一遍に払うもの。一気に奪われるもの。徐々にぼくの前から消えるもの。

 大事なもの。大切にしていたもの。手にしたもの。手から離れてしまったもの。いつまでも魚の骨など喉に刺さったままではいないのだ。どこかで終止符があり、何らかの解決をする。物質があるものの常として。非物質の方こそ、自己主張が強く、こだわりを必要以上に長引かせた。その拘泥の大元はぼく自身のうちにあった。

「なに、買ったの?」
「洋服。後で着て見せるよ」
「そんなに高いの?」
「まあまあ」

 彼女のまあまあというのはどれぐらいの値段なのかぼくは予想する。自分の着ているTシャツ。去年も着ていた。汗を吸い込み、たくさんの回数、洗濯され、干されて、また着た。このどこに愛があるのだろうか。それでも、身近にあるものこそ愛ではないのだろうか。ぼくの辞書の定義は、意味合いが異なってしまう。感情にも無頓着になる。ピザのメニュー。もうどの会社のものかも分からない。まあまあの味。まあまあの値段。まあまあというものに周りを囲まれて生きている自分。そこに切なさも必死さも紛れ込まない。そんな余地もない。正確さなども求められていない。絵美は着替えている。まだ首元に値札がついている。ぼくはそれを教え、教えただけでは終わらずに、ハサミで切った。


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