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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(67)

2013年05月27日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(67)

 加藤姉の転機は、どうやらこれかららしいということで決着がついた。そのことを次回のクラスのときにしたためて持参すると言った。手書きでも良し。ワープロ・ソフトでも可。なんだか、文章というのは非常になまめかしいものだと感じられた。なるべくならばぼくは彼女の筆跡を見たいと願っている。

 毎週、数ページだけでも文字で自分の感情を表現するのには、どのような効用があるのだろう? 起承転結を決めて、ゴールに向かって機関車のように前進する。石炭の役目になるのは、喜びだったり、怒りだったり、悲しみだったりもする。ぼくは、クラスのみなが感じたであろう感情の蓄積を収集する。そして、少し採点する。自分にそんな資格や役割を与えるものは、いったい、誰で、どのようなものなのか。ただ、大きなものに感謝したい気持ちがあった。

 そう考えている朝は、もう八月三十一日だった。夏休みの最終日。明日から由美は学校だった。ぼくはまたひとりで過ごす時間が増える。コツコツと自分の仕事をしよう。宿題を見事に終えた娘は、犬と遊んでいる。ドタバタと部屋を駈けずりまわる音が聞こえて、父親の集中力を容赦なく削いでいた。

「静かにしないと」
「だって、こうしてジョンと午前中に遊ぶこともできなくなるから」
「土日があるよ」
「そういうのって屁理屈だよ」娘は昨夜からその言葉を使いたがっていた。妻の実家から仕入れた言葉。
「もう少しだけ、静かにしないと」
「じゃあ、ジョンにも言って」
「それも屁理屈に思えるけどね」

 マーガレットは港にいた。船のうえにはレナードがいる。これが別れという場面か、と彼女は悲しさを隠すように涙も見せまいと強がっていた。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないのだ。もし、会えたとしても思い出してもらえないのかもしれないという不安さも彼女の体内にあった。レナードは手を振って笑っている。この別れが自分になにももたらさないと彼は思っていた。いつもの、馴染みはじめた土地で親しくなった友人たちとの別れのひとつに過ぎないのだ。そこには靴を脱ぐというぐらいの重荷と負担しかなかった。また、新しい靴を象徴的に履けばいい。靴は世界のあらゆる場所にある。

 船は汽笛をあげ、はしごを取り除いた。ゆっくりと、だが、確実に船は陸地から切り離される。お互い、その姿が確認できないほど小さくなっても手を振りつづけていた。マーガレットは海面を見る。もう船があった痕跡は揺れる波にもなかった。穏やかな水面。そして、いつも通りの日常。マーガレットは雑踏に消える。マーケットに寄って、そこにレナードの残像を見つけたように感じる。いつか、そうしたことすら忘れてしまうのだろう。毎日の積み重ねが大きなできごとも小さなものも等しく圧縮する。その層がひとりの人間だけのものであり、彼女の層のいちばん上にレナードが敷かれ、いちばん古い層には父の面影があった。美化され理想化された男性像として。

 娘はテレビでアニメを見ていた。大人しくしている。ぼくは冷蔵庫から冷たい飲み物をとった。別れの場面をもっと感動的にできないものかと思案していた。もうちょっと、手前からはじめるべきではなかったのか。

 マーガレットは花束を抱えている。それをレナードに差し出した。彼は頑強な腕で不釣合いなものを受取る。

 マーガレットは赤いドレスで小走りに港に向かっていた。船の時間を間違えて、焦っていた。だが、着いたのは遅く、彼も、彼の乗る船の姿もなく、出港してしまったあとだった。遠くに見える船。そういう別れが互いにとっていちばん似つかわしいものにも思えていた。この前の絵が完成した日が、ふたりの最後の邂逅だった。

「違うな」ぼくは、独り言をいいつつ後方から由美のアニメを見ていた。「これ、なかったよね?」
「昨日、おじいちゃんが買ってくれた」
「そう。孫の趣味や好き嫌いも弁えている。侮れないね」
「宿題、頑張ったからだって」
「そう。ご褒美か」
「ご褒美って?」

「きちんと成し遂げたことに対する報い。プレゼント。達成した喜び」
「ジョンも毎日、もらってるね?」
「そうか。パパにはないのかな」
「ママと夜、ビールを飲んでるじゃない」
「ご褒美とは呼べないと思うよ」
「達成することがないからじゃない?」
「まあ、そうかもしれないね。では、別れのつづきを」

 ぼくは部屋に戻る。アニメはエンディングなのかきれいなテーマ曲がデュエットで唄われていた。

 レナードはポケットから首飾りを取り出した。見送りに来てくれたお礼だった。いままで、こういう扱いを受けたことはなかった。ひとりで到着し、ひとりで勝手に去るというのがいつもの決まったルールだった。いや、ルールではない。自然と親しくなりすぎることを避けていたのだ。別れの辛さに対する防衛心から発生したものだった。

「わたしに?」マーガレットは自分の胸元を人差し指で押した。
「昨日、見つけたんだ。その赤いドレスに合うと思うよ。後ろを向いて」

 マーガレットは髪の毛を持ち上げ、首を出した。背中へつづくなだらかな流線型が画家の目に想像された。画家の手は留め具をはずし、またつけた。マーガレットは髪をおろし、ふりかえって右手でその中心の輝くものをつかんだ。
「どう?」
「似合ってる。たまにはつけてもらって、ぼくのことを思い出してほしいね」

「忘れることなどないですよ、ずっと」その思いが本物のようにマーガレットの視線はレナードから微塵も離れなかった。だが、ふたりを切り裂くように船の乗船時間が制服姿の男性から告げられる。レナードは膝元の荷物を屈んで握った。そのなかに絵の具があるのだろうとマーガレットは想像した。さらに、希望や期待。確実な才能。それを失わないようにレナードの腕は強くしっかりと大きなトランクを握っていた。

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