セリーヌに、ヘンリー・チナスキーに
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それほど、きれいではない女を抱いたとしても、彼女はまだ二十代だった。幸運ではないか?
幼少期の記憶。数軒離れた家に猫が飼われていた。その家の表札にかかっている苗字が前につき、どこどこさんの家の猫と呼ばれていた。ある日、事実が母から告げられる。
「あの猫、ほんとうの飼い主さんは別にいて、こっちの方が居易かったのか、あそこにいるだけなのよ」
と、本来の飼い主の名前と場所もその際に教えられたはずだが、事実の衝撃の下に隠され、もう覚えていない。そういう不埒な真似を猫はしてもいいのだろうか。許されることなのか。ぼくは、撫でたこともない。疎遠なままだった。だが、複数の手がその猫のあごのあたりを触ったのだろう。そうされるのは当然だとやすらかにつぶられた目をしながら気持ちよさげに受容して。
歴史の書を読む。ページをめくる。権力者がいる。王様でもどこかの教皇でもいい。人妻が登場する。権力者はひとのものが好きになり、自分の力を行使して、率直にか、はたまた陰謀に紛れ込ましてかは分からないが、夫を殺害させる。自分の手は汚れない。次のページをめくる。その女性の感想などまったくない。夫殺しの張本人であるいま横にいる男性への復讐を固く誓った、という記述があるべきだが、どこにもなかった。受容する。よその家の方が住みやすかった猫のように。何本もの自分を撫でる手。甘い時間。
疑っているのだ。オセロは疑っているのだ。それは肉体の問題でもありながら、本質は、ものごとの確かめるべき重要な事柄は、見えないこころであるべきなのだ。いや、肉体への充足を受け、与えた事実のことだけをきちんとした証拠として衆人の注視のもと提出されるべきであるのか。
では、提出するべきだ。どこから? 裁判官。もとい、陪審員。
一晩の眠りがひとつの夢を与えてくれる。現実との摩擦の折衷をはかってくれる。なれたかもしれない可能性の姿をしめしてくれ、成し遂げられなかったゴールを見させてくれる。だが、ゴールの先にあるものは意に反してつまらないことだってあるのだろう。ゴールは先であるべきだ。来ない方がいい。でも、猫は撫でられた。犬も撫でられた。その感触はぼくの手からも消えることはない。引っ越し先で梱包された荷物を開く。どこまでが引っ越しだろう。荷物をトラックの荷台に運んだときまでか。それとも、荷物を解き、通常使用するお茶碗の定位置が決まったときなのか。その途中にはゴミがでる。数々のほこりが宙に舞う。そのほこりには名称もなく、スポットライトもあたらない。いつか、地に落ちてチリとなり、歴史の堆肥となる。発掘される貴重なものたち。土に還るだけの運命のもの。
新しい住居で目を覚ます。自分がどこにいるのか一瞬だが分からなくなる。床にはまだ段ボールが積み上げられている。新しいカギ。同時にセットである新しいカギ穴。カギの組み合わせの総数。ぼくは気にも留めないであろう。使えるのはひとつに限られているのだ。ぼくは着替え、新しいカギをポケットにしまい、出勤する。新しいゴミ捨て場。新しい猫やカラス。
ぼくは仕事が終わってかなり酔う。だが、前のアパートに戻ることはない。一晩、過ごした新しい住処に向かう。カギを探す。新しいカギ穴。ベッドに直ぐにもぐり込もうとするが、足元の段ボールにつまずく。過去から継続して使われるものたち。新しいものを買いそろえても、次の住居でも無言で働く愛用品。それらのひとつひとつが意志と記憶をもったら、いったい、どういうことになるのだろう。スプーンは手肌の感触を残存し、舐められた形跡を覚えている。洗剤とスポンジはあらゆる汚れを覚えている。ぼくは、意味もないことを考えつづけようとしたが当然のごとく睡魔に負け、眠ってしまった。
朝になる。歯ブラシを咥えたままリビングに取り残された箱を見ている。箱の中味は思い出せない。開いてから探していたものだったと気付き、逆になぜ引っ越しのどさくさにまぎらせて処分しなかったのかと後悔する。どれほど、欲していたものでもいつか飽き、捨てられる側にまわる。引っ越しでさえ、ぼくを哲学者にさせる。
二十代の女性に教わることもある。冷静な判断をくだせば。もうぼくは前のカギがどういう形状なのか思い出せなくなっていた。あっさりとしたものだ。グラムも分からない。何年もぼくのポケットで温められていた品物が無縁になった途端に記憶から薄れた。それがなければぼくは自分の家からも締め出されることになるというのに。ぼくはすべてを忘れたと思っている。思おうとしている。不可能への対決であることにある日、ぶつかる。挑みには失敗して脳のいくつかの層の勝利を叫ぶ。幸福も含まれていたことを知る。またカギというものが肌身離さず必要でなかった期間、常備してなかった時間がなつかしかった。多くのひとは薬指にリングをしている。もし、落とせば古い家のカギのように、数々の記憶がなくなってしまうのだろうか。当然、そうではない。ぼくの脳は勝利も敗北も同じ部屋のなかに蓄積されていた。部屋の整理が苦手なひとのように混沌とした映像に放り込まれていた。映像だけではない。におい、ぬくもり、湿感、湿り気、手触り。ぼくはまたリビングの箱を見る。どれほどの時間が経過すれば、これらは土に還ってくれるのだろう。答えはない。探す気力もない。ただ、次の週末に時間を見つけて片付けるだけだ。そこで、引っ越しが完成されるのだろう。完遂。しかし、そんなものもないことに気付く。数年後にはぼくは別のカギを持っているのだろう。
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それほど、きれいではない女を抱いたとしても、彼女はまだ二十代だった。幸運ではないか?
幼少期の記憶。数軒離れた家に猫が飼われていた。その家の表札にかかっている苗字が前につき、どこどこさんの家の猫と呼ばれていた。ある日、事実が母から告げられる。
「あの猫、ほんとうの飼い主さんは別にいて、こっちの方が居易かったのか、あそこにいるだけなのよ」
と、本来の飼い主の名前と場所もその際に教えられたはずだが、事実の衝撃の下に隠され、もう覚えていない。そういう不埒な真似を猫はしてもいいのだろうか。許されることなのか。ぼくは、撫でたこともない。疎遠なままだった。だが、複数の手がその猫のあごのあたりを触ったのだろう。そうされるのは当然だとやすらかにつぶられた目をしながら気持ちよさげに受容して。
歴史の書を読む。ページをめくる。権力者がいる。王様でもどこかの教皇でもいい。人妻が登場する。権力者はひとのものが好きになり、自分の力を行使して、率直にか、はたまた陰謀に紛れ込ましてかは分からないが、夫を殺害させる。自分の手は汚れない。次のページをめくる。その女性の感想などまったくない。夫殺しの張本人であるいま横にいる男性への復讐を固く誓った、という記述があるべきだが、どこにもなかった。受容する。よその家の方が住みやすかった猫のように。何本もの自分を撫でる手。甘い時間。
疑っているのだ。オセロは疑っているのだ。それは肉体の問題でもありながら、本質は、ものごとの確かめるべき重要な事柄は、見えないこころであるべきなのだ。いや、肉体への充足を受け、与えた事実のことだけをきちんとした証拠として衆人の注視のもと提出されるべきであるのか。
では、提出するべきだ。どこから? 裁判官。もとい、陪審員。
一晩の眠りがひとつの夢を与えてくれる。現実との摩擦の折衷をはかってくれる。なれたかもしれない可能性の姿をしめしてくれ、成し遂げられなかったゴールを見させてくれる。だが、ゴールの先にあるものは意に反してつまらないことだってあるのだろう。ゴールは先であるべきだ。来ない方がいい。でも、猫は撫でられた。犬も撫でられた。その感触はぼくの手からも消えることはない。引っ越し先で梱包された荷物を開く。どこまでが引っ越しだろう。荷物をトラックの荷台に運んだときまでか。それとも、荷物を解き、通常使用するお茶碗の定位置が決まったときなのか。その途中にはゴミがでる。数々のほこりが宙に舞う。そのほこりには名称もなく、スポットライトもあたらない。いつか、地に落ちてチリとなり、歴史の堆肥となる。発掘される貴重なものたち。土に還るだけの運命のもの。
新しい住居で目を覚ます。自分がどこにいるのか一瞬だが分からなくなる。床にはまだ段ボールが積み上げられている。新しいカギ。同時にセットである新しいカギ穴。カギの組み合わせの総数。ぼくは気にも留めないであろう。使えるのはひとつに限られているのだ。ぼくは着替え、新しいカギをポケットにしまい、出勤する。新しいゴミ捨て場。新しい猫やカラス。
ぼくは仕事が終わってかなり酔う。だが、前のアパートに戻ることはない。一晩、過ごした新しい住処に向かう。カギを探す。新しいカギ穴。ベッドに直ぐにもぐり込もうとするが、足元の段ボールにつまずく。過去から継続して使われるものたち。新しいものを買いそろえても、次の住居でも無言で働く愛用品。それらのひとつひとつが意志と記憶をもったら、いったい、どういうことになるのだろう。スプーンは手肌の感触を残存し、舐められた形跡を覚えている。洗剤とスポンジはあらゆる汚れを覚えている。ぼくは、意味もないことを考えつづけようとしたが当然のごとく睡魔に負け、眠ってしまった。
朝になる。歯ブラシを咥えたままリビングに取り残された箱を見ている。箱の中味は思い出せない。開いてから探していたものだったと気付き、逆になぜ引っ越しのどさくさにまぎらせて処分しなかったのかと後悔する。どれほど、欲していたものでもいつか飽き、捨てられる側にまわる。引っ越しでさえ、ぼくを哲学者にさせる。
二十代の女性に教わることもある。冷静な判断をくだせば。もうぼくは前のカギがどういう形状なのか思い出せなくなっていた。あっさりとしたものだ。グラムも分からない。何年もぼくのポケットで温められていた品物が無縁になった途端に記憶から薄れた。それがなければぼくは自分の家からも締め出されることになるというのに。ぼくはすべてを忘れたと思っている。思おうとしている。不可能への対決であることにある日、ぶつかる。挑みには失敗して脳のいくつかの層の勝利を叫ぶ。幸福も含まれていたことを知る。またカギというものが肌身離さず必要でなかった期間、常備してなかった時間がなつかしかった。多くのひとは薬指にリングをしている。もし、落とせば古い家のカギのように、数々の記憶がなくなってしまうのだろうか。当然、そうではない。ぼくの脳は勝利も敗北も同じ部屋のなかに蓄積されていた。部屋の整理が苦手なひとのように混沌とした映像に放り込まれていた。映像だけではない。におい、ぬくもり、湿感、湿り気、手触り。ぼくはまたリビングの箱を見る。どれほどの時間が経過すれば、これらは土に還ってくれるのだろう。答えはない。探す気力もない。ただ、次の週末に時間を見つけて片付けるだけだ。そこで、引っ越しが完成されるのだろう。完遂。しかし、そんなものもないことに気付く。数年後にはぼくは別のカギを持っているのだろう。
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