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「考えることをやめられない頭」(9)

2006年09月02日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(9)

 服の買い方を覚えていく。もちろん、そんな難しいことも、また動機もないが。生きていくために必要以上の洋服を買う。それが、文化ということかもしれない。
 友達と街中を歩いていた。すれ違った子のことを評して、
「あの子可愛くない?」
 と自分は、言ったが、隣の友達は、その女性の服装のことをとやかく言った。ああ、そうなのか。そういうことも普通に判断にいれているのか。通常のことなのか。難しい世の中になってしまった。
 という自分も、きれいな服に包まれていると気分が良かったりする。その服と、きれいな街と、美しいハイヒールの音が隣に一緒にあり、歩いていたりすると、さらによりいっそう気持ちも高揚したりする。
 だが、ある程度の年齢までは、スーツも持っていなかった。着たいとも思っていなかった。友人たちは、多分、自分はそこにいないので憶測だが、成人式などに着るのだろう。自分は、やはり世の中から、少しずれていたかった。
 一時期は、ジーンズとTシャツしか着なかった。夏になれば、ボーダーのシャツも着たりした。しかし、シンプルなスポンジの上にきれいにデコレーションされたケーキのように、シャツやズボンや靴に凝っていったりする。服装は、やはり少し奇抜になっていくところが、ファッション的だったりする。冒険のないところに、満足も宿らない。
 大事なスニーカーだが玄関に脱ぎ捨てていると、まだ幼かった犬が遊び道具にして、靴紐を噛んでいた。それ以来、きちんと手の届かない下駄箱に入れたりもした。おしゃれの敵は、動物なのか。
 眼鏡もかける。まだあの頃は、そんなに視力も劣っていなくて、度はひつようなかったが、印象が変わればということで、たまにかけた。気にいった俳優の写真を切り抜き手に持って、美容院に通いだす。床屋とは、おさらばだ。その丁寧な仕事ぶりの美容師は、子供心にも採算を度外視しているな、とこちらで気付いたら、そんなに間もなく閉店してしまった。理想的な美容師を探すのも、困難なものの一つだ。
 薄着になる頃を迎える前は、丹念にウエート・トレーニングにも精を出した。学生時代に鍛えたこともあり、そんなに努力しなくても筋肉はすぐについた。夏の芝生の上で、上半身裸になり、やいたりもする。服装とは直接に関係あるかは、わからない。だが、きっとカラー・コーディネートの意味もふくめて関連性はあるだろう。
 古着に凝った時期もある。まだ、あの頃は、ヴィンテージのジーンズもそんなに値を張ることもなく、程度のよいものも手頃な値段で買えた。それを無造作に履きこなした。憧れは、古いアメリカだったりもした。‘50年代の消費社会への羨望と憧れの眼差し。
 その代表が、「アメリカン・グラフィティー」だろうか。青春期。一時の迷いとあせりの日々。誰かに、服装のセンスをさげすまれることに過度に怯えたりもした。
 だが、段々とCDや本にお金をかけていくようになって、ある種の無頓着さがつきまとうようになる。それも仕方がないだろう。
 あの頃は、毎週のように渋谷に通った。原宿の裏のほうに、古着屋をみつけて店内の古びたにおいに包まれ、品物を探した日々。
 もっと、写真でも撮っておけばよかったかも。でも、それはいま考えること。しかし、情熱を傾ければ、その証拠として、すこしだけ財産が残る。品物という形あるものだけではなく、カラーのつながり。色の選び具合。
 東急ハンズで大きな鏡を買った。それに映すと現在が良く分かる。そんな時に、「ビギナーズ」という映画を見た。部屋の中にも、居心地の良い場所を作り出そうと思っている。
 アンティークの時計を買い、それで眼をさます。
 お気に入りのジーンズをはいて、地下鉄に乗り、表参道にむかう。ポケットには、アメリカのミステリー小説。安心感をまったく持つことのないコーネル・ウーリッチ。時間は、あっという間に過ぎる。もう少し先を読み進めたいが、到着してしまう。
 昨日の夜、電話がかかってきた。家族にそのことを伝えられて、電話に出た。その声。かぼそいが聞きなれた声。しばらくぶりの言葉。

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