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「考えることをやめられない頭」(19)

2006年11月13日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(19)

 自然のことについても触れなければならない。だが、どこから始めよう。
 ここに来たのは、初夏の日差しのころ。それと緑の季節。目にうつるものは、すべてきらきら輝いていた。陳腐な表現かもしれないが、すべてが新鮮で都会のスモッグ越しに見る緑とは変わっていた。空気や温度は、山の下とは違い、乾き、かつ、熱すぎなかった。その中で座っているだけで、汗もかかなかったが、身体の色だけは黒くなる不思議な経験もした。
 友人の車に乗り、少し離れた湿原に向かう。カメラを手に風景を撮ろうとしている人も点々といた。しかし、その存在はいささかも邪魔になることなく、目の前に広がる景色は広大だった。
 そして、滝。水しぶき。水をたどって坂道を歩いて降りて行ったときに、表れる水の音と、滝つぼ。時間が過ぎるのを忘れてしまうほど、ぼうっと見惚れる。あの時は、未来も過去もなにもなく、没頭していた。
 まだ、夏が残っている頃、従業員の数人で、ホテルの裏の芝生で、サッカーボールをひとつ持ち出掛けた。ただ夢中になって、ボールを追っかけて時間を忘れてしまうほど、まだ体力のある若者にとって有意義なことがあるだろうか。午後の仕事が多少、きつくなってしまっても。汗をかいても、きれいで新鮮な外気が、すぐに身体を乾かせてくれる。
 秋になっていく。その前にきれいな池があった所為で、大量のトンボがいきかった。簡単に洗ったタオルを干している場所があったが、そこにも無数のその昆虫が飛んでいた。どこかで子孫を残すプログラムも働いているのだろう。
 長く暮らせば、髪も伸びる。定期的に切らなければならない。直ぐ近くにはないので、バスに乗って、中禅寺湖の湖畔で降りる。髪を切ってもらい、その途中で雑誌を買ったり、喫茶店でコーヒーを飲んだりもしたが、その後によく湖畔のふちを歩いた。水は、透明で近くに泳ぐ魚をつかめそうなぐらい、すべての影が明らかだった。眺望のもっとも良い場所は、どこかの国の別荘として所有されていたはずだ。その付近は、本当に美しいスポットだった。
 秋も深まる。休日にはバスに乗り、電車に乗って今市という所で過ごしたりした。その往復に見たいろは坂の紅葉は、人生のなかで見たカラーの集大成のように感じたりもする。壮大すぎて言葉にならないかもしれないし、もう今後、紅葉が見られなくなったとしても後悔がないくらい、自分の目と感情は堪能した。右に左にバスは揺れ、自分の視線が向かう先のどこを見ても、がっかりすることなどありえない景色が、喜ばせてくれるのを待っている。
 自然ではないのかもしれないが、もう来ることも、もしかしてないのかもしれないと思い、東照宮に行ったりもした。小学生の時に行った以来だ。地元の人たちは、あまり興味もないらしく、ホテルの従業員にもあまり言わず、そっと出掛けた。やはり過剰なまでに豪華な気がする。過去の繁栄。そして、現在の収入。カメラがあったら良いかとも思うが、不確かすぎる記憶にも、微かだが確かに残っている。そのいくらか揺さぶられた気持ちを大切に尊重しようと思う。その近くにある神社の朱色。胸の中の静かな気持ち。動揺もない世の中。不安も感じることなく、一切の平穏をつかむ。
 思いがけなく早く雪が降る。従業員の中でも、クロスカントリーに夢中になっている人がいて、その人はシーズンが到来する前に、コースを整えるため働いていた。終わると、寒そうな姿で戻ってきた。冬が苦手な自分は、そろそろ東京の冬というか、その明かりのある雑踏に恋焦がれたりもしてきた。
 充分、樹や空気、緑や赤や黄色の混じり合いを楽しんだろうか。そういうものを慈しむ気持ちが芽生えたことは確かだ。
 陽が落ちることが早くなり、そとで文庫を読んでいたりすると不安な気持ちになったりするようにもなる。都会のことを考えると、取り残されたような気もしてきた。そろそろ潮時か。タイミングが分からなくなってきた。
 一日の仕事を片付け、奥にある温泉に向かう。日本の山が作るぬくもり。その匂いが自分の衣服にも染み込んできた。最初は気づかなかったが、Tシャツや作業のときに着るズボンなどにも着いてきた。浴槽の窓から外の景色を見る。すっかり来た頃とは印象が変わり、秋の寂しさが充満していた。風呂を出ると、直ぐに冷たい風が自分に押し迫ってくる。

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