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「考えることをやめられない頭」(10)

2006年09月05日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(10)

 地下鉄の階段をあがる。段々と空の色と暖かさと風の匂いが近づいていった。時間通りに着いた。数年ぶりに会う女性。ずっとこの日を待って過ごしてきたのかもしれない。そして、こんな日がくるなんて想像もしていなかった。
 待ち合わせの場所に彼女らしい人の影がある。視力のあまり良くない自分は、その姿に確証をもてなかったが、それでも胃の奥がなにかにつかまれたような感じになる。
 さらに歩いていく。その女性が彼女であることが確実になっていく。もう逃げも隠れも出来ない。もちろん、したくもないが。
「ほんとに来てくれたんだ」彼女の第一声。
「そりゃ、来るよ。約束したんだもん」
 彼女は、きれいな黄色のスカートを穿いていた。足は、まったく陽にやけていなかった。
「午後遅くとかも予定ないよね?」彼女は、心配そうにきいた。
「うん、ずっと時間はあるよ」会えないことを当然のように考えていた自分。その彼女が隣にいて、直ぐ髪や肩がそばにあり、ちょっと狭い道を歩くと自然と触れた。
 ある喫茶店に入った。以前のような関係になんとなく戻れそうな予感もしたし、実際にすこしそうなった。
「元気にしてた?」
「まあ、普通だよ。あれ以降、どうしてたの?」
「うん」そこで、時間が空く。何かを考えている彼女の横顔。「あの時は、ごめんね。お兄ちゃんが」
「全然。平気だよ」
「気になるでしょう、ここ」
 彼女が手首の内側を見せる。ぼくの視線が気になったのかもしれない。
「まあ、そりゃあ。大丈夫なの」
「これだよ、分かんないでしょう」
 彼女の手首にほんの小さなかすり傷のような跡が残っている。心配していたほどの痕跡はなかった。でも、女性だし、若かったし。
「うん、と言っていいのかな。よかったよ、余り目立たなくて。でも、いろいろごめん」
 そこを出て、まだ古いアパートの建っていた街路を並んで歩いた。わだかまりが消えていく。そこからは冗談などを言い合い、たくさん笑いあった。その声と笑顔をみると、こころが晴ればれした
 大きなデパートに入り、自分の使えそうな最大限の金額で、彼女に時計をプレゼントする。箱だけ袋に入れてもらい、せっかちにも彼女にその場でつけてもらった。その赤いバンドが、彼女の傷を隠した。これで、すべてが終わったと思った。
 彼女は、一人で住み始め、兄も会社の都合で地方で働いていた。なので、これからはいくらか自由になったと言った。
 夜になり、静かな地下の店で少しお酒を飲んだ。彼女と離れていた時期などなかったかのように、振舞えた。昨日も会っていたかのように、お互いがそばにいることが自然に思えた。
 寒くなってきた空気に入れ替わり、彼女は軽く身体を縮こめた。信号が赤で、人が大勢並んで待っている。そのたくさんの人々の中で自分ほど、幸福感を抱いている人間は、ここにいるのだろうかと空想する。答えは分からないが、多分ノーに近いのだろう。
 彼女は、駅に向かう。見送る自分。
「また電話するね。いい?」
「うん、もちろんだよ」
 幸福は、考える頭脳を中断させてしまうのか? それも恐いと考える。しかし、彼女を失いたくもない。当然のように、自分には、あれからの救済が必要だった。そして、目の前まで、それが訪れていた。誰かが、誰かを失う話。大切な誰かと、もう一度めぐり合う話。
 電車に乗った。今日の彼女を思い出す。隣に座るうるさいヘッドホンの兄ちゃんも今日は許そうと思った。


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