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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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流求と覚醒の街角(40)池

2013年08月18日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(40)池

 ぼくらの目の前には大きな池があった。反対側は中央にある小高い島が視界をふさぎ、よく見えなかった。ぼくらの後方には案内板があった。そのなかの赤い文字が現在位置を教えてくれる。
「1週、どれぐらい時間がかかると思う?」と、奈美が訊ねた。
「多分、30分ぐらいじゃない」ぼくは下の表示のメートルでおおよその時間を計算する。ぼくの足だと。
「じゃあ、反対側にすすむと、この辺りで15分後に会うことになるわけだね」奈美はある一点を指し、そう言った。

「そうなるね。多少、場所はずれるかもしれないけど」
「この辺か、この辺」奈美は最初に指した箇所から池のふちに沿って指を左右にずらした。「やってみる?」
「何を?」
「何をって、反対にむかって歩く。もし、わたしの方がここより近づいたら、ご褒美ちょうだい」
「走るかもしれないじゃん?」

「走んないよ。誓うよ」奈美はまじめな表情でそう言った。自分で決めたら、確実に守るのだろう。ある面で頑固な性格だ。「じゃあ、行くよ」それから、ぼくらは儀式的に背中を貼り合わせ、それを引き離すように歩き出した。待ち合わせでもなく、ぼくは奈美をその時間だけ失う。

 ぼくの側には大きな道路があった。なるべくなら、反対側の静かな方がよかったなと今ごろになって後悔する。しかし、休日の道路はそれほど交通量も多くはなかったので、予感は良いほうにも外れたのだ。思ったより静かだった。ぼくは池に沿ってなだらかに右側に傾く。だから、奈美は運動会と同じように左側に向かってカーブした道を歩いている。

 ぼくは孤独な作業をしているはずだが、絶えず奈美のことを考えてもいた。当然といえば、当然だ。いままさに同じ行為をしているのでもあり、遠くもない未来に決めた地点の前後で彼女と会うことになっているのだ。未開の運命ではない。あらかじめ決められた未来。それはまったくの手付かずの行為でもないわりには、新鮮味もそこそこにはあった。奈美のご褒美というものは一体、どういうものを期待しているのだろうか。ひとりで歩いているだけなのでいろいろ考えられる。そうだ、ぼくが走っても良かったのだ。大人気なく距離を稼ぐ。ぼくの左側には案内板がまた出てくる。池の形状はまったく同じだが、現在地の表示は歩いた分だけ移動している。ぼくは半分近く歩いてしまっているようだった。奈美も同じぐらいすすんでいるのだろう。すると、このあたりがいちばん遠い距離にいるということなのだろうか。正反対あたりを奈美は真剣に歩いている。

 地元のひとが思い思いの格好でジョギングをしていた。競技用の自転車も横を通り過ぎる。彼らにとっての日常である。ぼくにとっての日常も奈美と離れ、会うことを基盤にしてできているのだろうか。ここでは迷うこともない。別のルートはないのだ。星の軌道をずっと観測しているひともいる。数年後におおきな星の群れを観測できることをあらかじめ知っているひとたち。だが、急激に落下する隕石などは、その予測からももれてしまうのだろうか。素人の自分には分からなかった。ぼくが奈美と会うということも、数年前は分からなかった。もっと前は、その前の女性との別れが来ることも知らなかったぐらいだ。すると、別のおおきな何かはぼくと奈美を会わせたがっていたのだろうか。ただ、それをぼくが望んだ結果だからなのか。あの日、急病でもして、友人を祝うための集まりに参加できなかったら、それと同等のぼくが誰かを愛したいというきもちは別の対象を探し、目の前にあらわれるべきその女性を愛したのだろうか。その女性は池の周囲を反対向きに歩こうなどと提案しただろうか。ぼくの頭は歩いた結果、血が廻りたくさんの想像を紡ぎだした。

 最初に案内板で確認した地点に近づいてきた。彼女がわき道にもし逸れたら、この池を何週しようがぼくらが対面することはない。それは普段も同じだった。もし、彼女のぼくに対するきもちがなくなったら、会う約束も今後しなくなる。ぼくが別の軌道にのったり、ほかの惑星と例えられる女性に向かって衝突しようと願ったら、一生、会うこともないのだ。

 ぼくは前の女性と別れてからも、どこかでこの気持ちが正直な純粋な愛で、報われることがあるなら再会するチャンスもあるのかもしれないと思っていた。しかし、今日までその機会は訪れなかった。あれは、確かな愛ではなかったのか、それとも、報われる必要などないと誰かが決めたかのどちらかなのだろう。正解は誰も知らない。少なくとも、ぼくは知らない。ぼくが気にも留めなくなったら、地球に存在する誰一人としてこの問題は気にも留めないのだ。事実というのは、悲しいぐらいに残酷で、そうしたさっぱりとしたものなのだろう。

 すると、奈美の姿が小さく見えはじめた。およそ予想した地点で出会うことになりそうだ。彼女もぼくを視界に入れたようだ。ふざけて走る真似をする。彼女の背中から追い越すランナーがあらわれる。奈美以上にぼくに関心をもつひとがあらわれるのだろうか。反対に、ぼくは奈美以上に誰かと会うことを楽しみにしてしまうのだろうか。ぼくらの距離は20メートルにも満たない。ぼくは腕時計をちらと見る。17分ぐらいあれから経っていた。あれから、17年という単位もくるのだろうか。奈美の鼓動を感じられるまでの距離になった。

流求と覚醒の街角(39)印刷

2013年08月17日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(39)印刷

「この前、買ったプリンターだけどつないでも、うんともすんとも言わない」奈美はあきれたような口振りで電話の向こうで話している。
「電源、きちんと入ってる?」
「バカにしてるでしょう? もう。あ、いや、入ってた。もう」
「週末、見に行くよ。ドクターの回診。急ぎでもないんでしょう?」
「ちょっと、急いでるけど」

「仕事で使う?」
「ううん。趣味。友だちに写真をプリントアウトしてあげたいなって」
「うん、そうか、分かった。行けそうな日、また連絡するよ」
 ぼくは予定を調整して、奈美の家に駆け付ける。用意するものもない。大工道具もドライバー一式もいらない。ただ線をつなぎ、コンセントを入れる。順を追っていけば、正解にたどりつけるのだ。ぼくはキッチンに奈美を追いやり、あぐらをかく。説明書をぱらぱらとめくる。簡易な文章。いくらかつっけんどんな文章。ぼくが考えている日本語とはいささか違っている。何がないのだろう? 潤いか。優しさか。

「できそう?」
「できないひともいないよ」
「いるよ。わたし、そういうの得意なんだけどね」奈美は負けず嫌いの一面が顔をのぞかせる。ぼくはパソコンを立ち上げ、ソフトをインストールして、コードをつなぎ、コンセントを突っ込む。電源を入れると、モーター音がする。用意は整ったようだ。
「何か、紙ある? どうでもいいのでいいよ」

 奈美は引き出しからコピー用紙を出した。
「はい」彼女は紙の束を差し出す。「自分の文字がきれいに印刷されたのをはじめて見た時、あれ、感動だったな。でもね、あれも、ノートの写しっことかも、あれは楽しかったな。字って、性格出る?」
「字より、ノートの使い方なんじゃない。隙間というか、並列というか」
「好きな整理整頓だね」

 モーターはさらに大きな音に変わり、下からゆっくりと紙を吐き出した。試し用のものが印刷される。見事、成功。
「それで、写真だっけ? いつの写真?」
「この前のキャンプ。いっしょに行けなかった」
「あるの?」
「あるよ。そのためのプリント用紙も買ってきてある。意外と高いんだね」奈美はカメラと角張った用紙の箱を手渡した。
「もっと安いのもあるんじゃない」ぼくは値札を確認しながらそう言った。

「でも、プレゼントするっていったから、きちんとしたのじゃないと」ぼくはカメラからカードを取り出し、パソコンに画像を取り込んだ。一日の連なりが連続した写真で分かる。朝、まだ眠たそうな顔のひともいる。昼。バーベキューが準備される。奈美も包丁を握っている。それは、誰が撮ったのだろう? 肉が焼かれる。食後に遊びだした子どもがいる。空になったビールが所狭しと並んでいる。片付けにすすむ。場面は夜になって手持ちの花火をしている。画像は急に粗くなる。ピントも合っていない。目が赤い。夜の写真の典型のように。
「選ばないとね、どれとどれをって」
「何枚ぐらいあるの?」

「72枚」
「一回、全部印刷しちゃおうか」
「無謀だね」
「なんで、紙で見たい」
「小さい紙、どこから入れるんだろう?」ぼくはひとりごとを言う。ぼくは、また説明書をめくる。優しくない。接点を求めてもいないようだ。「ここか。パカ」と自分で開閉の音を出した。「時間、かかりそうだね」
「じゃあ、その間に何か飲む?」

「飲むよ。疲れた」向こうの部屋でずっと重たいモーター音がする。写真というのは枚数の限度があり、カメラ屋にフィルムをもちこんで現像をしてもらうのが普通のことだった。余った写真を、どうでもよいものを写して枚数の残りを調節した。ネガができ、それはどこかに仕舞われた。きちんと整理をしないといつか無くしてしまうものたちだった。気に入った帽子をかぶった自分が写真にのこって、それを見ればあの感情をよみがえらせてくれる。だが、ぼくはコピーもできず、やはり、借りたノートを手で写し替える作業もなつかしく感じていた。

 しばらくして機械の音はしなくなった。全部、役目を終えたらしい。ぼくは写真を束ね、電源を切った。その機械は熱を帯びていた。引換証をもって、カメラ屋さんに受け取りにいったことを、ぼくは思い出している。にきびもない顔。自分の気持ちを異性に知ってもらいたいとも、知ってもらえるとも思っていなかった自分。その女性との間でドキドキしたものが発生することも知らず、その高揚を越えたところに何があるかもしらなかった若き少年。ただ、それに愛着をもちたかっただけなのだろう。
「楽しそうだね、全員」ぼくがそう言うと、奈美は紙芝居でも披露するようにその一枚一枚にたいして注釈や説明を加えた。それから、奈美は紙を取り出し、それぞれの写真を余分にどれほどプリントするのか人数に応じて数字を書き加えていた。

 ぼくはパソコン内にある別のフォルダにある写真を意図もしないで、他愛のない気持ちで見てしまった。奈美は別の男性と寄り添っている。ぼくは彼の名前も知らない。しかし、そこに溢れるほどの愛情の萌芽があることは理解できる。奈美が自分の作業に夢中になっている間、一瞬だけだったが、ぼくは彼女の過去に嫉妬をするのだ。これは犯罪なのだ、と勝手に思う。他人の秘密をのぞくことは、ただ、自分を傷つけることになるのだろう。ぼくはふと古い映画のシーンを思い出している。そこにもカメラがあった。死刑台のエレベーター。完全犯罪を信じた男女は、暗室で浮かび上がるお互いの秘密の関係を暴かれてしまう。それは紛れもない証拠になった。愛情の証拠は両者の気持ちのなかだけに存在するのではなく、カメラにさえ紛れ込んでフィルムに刻印を押すのだ。ぼくは、フォルダを閉じ、パソコンをシャットダウンさせる。暗くなった画面を見つめても、ぼくの網膜にはきちんと鮮明に、まだまだ残像という言葉では軽いぐらいに重くのしかかり、ゆっくりと余韻をもたせていた。

流求と覚醒の街角(38)目薬

2013年08月16日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(38)目薬

 奈美は病院に行った。目に違和感があったらしい。大きな白い眼帯をした映像を思い浮かべる。そんなひとはアニメのボクシングの優秀トレーナーだけなのに。だが、彼の片目の布は黒かったようにも思う。

 結局、会ったときにはいつもと様子が寸分も変わらないようだった。ぼくは安心する。少し、がっかりする。いや、安堵している。

「やだ、そんな姿」彼女はぼくが先ほどまで考えていたことを言うと、大きく笑った。「鼻も赤くしなきゃいけないんでしょう? ただの、ものもらいなのに」

 ぼくらはぼくの部屋に向かった。その前に、近くのレンタルショップで映画を選んだ。目を酷使することを避けなければならないが、予定として組み込まれてしまっていた。それほど、奈美の目に異常があるとも思えなかったので選択は不都合でもなさそうだった。それから、簡単な飲食物を買い込み、ぼくは部屋のカギを開ける。

 ぼくが手を洗っている間に、彼女は鏡を真剣な様子で眺めていた。
「気になるな」
「それほど、傍目には分からないよ」ぼくは皿を出し、軽食をそこに移した。

 座ると、バッグから薬局でもらった袋を彼女は取出す。その表面の文字を彼女は見つめていた。
「目薬?」
「そう。くれた。でも、点眼薬なんて言葉、あまり使わないよね」
「外国人が真っ先に覚えたい日本語じゃないね」

「じゃあ、いちばんは?」
「それは、こんにちはでしょう。違う?」
「ここに行きたいんですけど。ガイドブックを指して、そう訊くのがいちばんじゃないの」
「その前に、挨拶ができなければ」
「そこまでうまいと、親身になりにくいから」

 ぼくらは、どうでもいいことをずっと言い合った。その後、床にすわり、目の前にあるテーブルにお酒と軽食を並べた。借りた映画の丸い円盤も四角いデッキにセットした。
「ちょっと、これ、差してくれない?」奈美は目薬をつかんでいた。
「自分でできないの?」
「あまり、普段つかわないから。ちょっと、恐い」返事として頷いてから、彼女はそうもらした。「ちょくちょく差す?」
「ほぼ、毎日」

「人類は二分されるのね。目薬を差す人種と、いらない人種。ほら」彼女は差し出した。
「赤ちゃんかよ」彼女はぼくの膝にあたまを置いた。目のまわりはすこしだけ赤みを帯びている。
「いいんだよ。でも、反対から見ると、こういう顔してるんだね。反対からだからか、ちょっとグッとくる」
「目を開けて」ぼくは彼女の瞳の上に水滴を落とす。彼女は目をつぶる。そして、その液体を取り込む。「これ、片方でいいの?」
「悪いのは片方だけだけど、バランスがね。こっちにも差して」
「いいよ。入れても悪いもんじゃないでしょう?」
「みんな、どうしてるんだろうね」それから、ぼくはもう一方の目にも目薬を投入した。彼女はきつく目をつぶり満足したようだった。異物は、体内に入ると異物ではなくなる。だが、家に帰ってひとりできちんと使えるのだろうか? その前に既に直りかけてもいるので、必要ないのかもしれない。

 ぼくらは予定通り映画を見る。数年前の風景はもしかしたら、この映画のなかにしか存在しないのかもしれなくなるとぼくは予想を立てる。その予想も確信に近くなっていく。ぼくは太ももに奈美の首の重みをいまだに感じていた。彼女がぼくに向けた下にあった目も、いつか変化が訪れるのかもしれない。周囲にはしわができる。眉の形も流行があるのだろう。そもそも、ぼくに対する絶対的な安心感など失っているのかもしれない。その痕跡の定着のために、彼女の目の症状は必要だったのだ。

 映画はさほど面白いものでもなかった。ふたりは何度か途中であくびをし、冷蔵庫にものを取りに行くときも一々、映像を一時停止にすることもしなかった。数秒の遅れを取り戻すことなど考えもしなかった。茫洋とした物語と、ゆっくりと流れ往く風景。だが、奈美の目を考えれば、目まぐるしく場面が展開する派手なアクション映画など避けて正解だったのだとも思っていた。
「終わったね。で? という感じだったけど」
「選んだのは奈美だよ」
「最後はふたりで同意したんだよ。もう一本見る?」
「いいよ、疲れた。スポーツのニュースでも見たい」ぼくはリモコンを操作して、その時間に流す番組に変えた。一時停止も要求されない番組。明日もまた、明日の野球の試合があるのだ。もし、なかったら投手の給料も未払いになってしまうだろう。それも困る。

「じゃあ、目薬のストックがなかったら困る?」奈美は思い出したかのように訊ねた。
「困るというか、切れないようには無意識に考えているでしょう。考えてもないか、あ、ないなって気付くから。減っていく中味で」
「そろそろ?」
「まあ、そろそろだなって」
「わたし、これがあることも直ぐに忘れるな。家で。あ、薬、差す時間だったとか。でも、もうそのときには直っているんだよね、きっと」
「それが、いちばんだよ。それに、毎日、必要なものはやっぱり毎日、忘れないよ。化粧水とか、コーヒーとか」
「忘れてもいいことがたくさんあるのにね」
「あるの?」
「わたしだけじゃなくても、あるでしょう?」

「あるだろうね」多分、きょう見た映画は確実に忘れてしまうだろう。どこかに高級な生命体か記憶装置があって、ぼくが見た映画のリストをある日、提出してくれないだろうかと思ってみる。奈美とあった日付と出来事も。しかし、忘れるものが無限にあろうとも、ぼくのひざはきょうの重みをいつまでも覚えているようだった。不確かだが。確かに、不確かだが。ぼくは飛行機のなかで、横にいる女性がぼくの肩にもたせかけた重みを相変わらず宝物のように自分に刻んでいた。多分、それもずっと消えない。その忘却と生々しさの線引きはどこにあるのだろうかとぼくは夢想する。

流求と覚醒の街角(37)H

2013年08月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(37)H

「ねえ、フランス人って、ほんとにHの発音をしないんだと思う?」奈美が会話の脈絡もなくそう訊く。もちろん、そのことを引っ切り無しに考えている自分でもない。一家言もっている訳でもない。噂を知っている程度のことだ。
「同じ人間なんだから、できないこともないと思うけどね」だから、ぼくの答えは漠然としたものになっている。「また、なんで?」
「知り合いがね、この前、ゲームをしていてね、フランス人とだよ・・・」ぼくはフランス人とゲームをする情景を考えてみるが、なかなか困難であるようだった。「そこで、音速とか、安息とか急に言われて困っていると、言いたかったのは反則なんだって」
「ズルしたのかね」

「したか、分からないけど、エキサイトすると反則って、なんか出ちゃうよね」と、奈美は言った。「それから、反則だ、反則じゃないと言い合ったらしいんだけど、片方は、反則ときちんと言ってないから、ゲームの問題じゃなくて、わざと言わないんだって、喧嘩の種類が変更されてしまって・・・」
「やっぱり、同じ言葉をつかって喧嘩しないとね」
「そう。だけど、ついにはふたりとも笑ってしまって。喧嘩も終了。言おうと思えば、言えるよね?」
「さあ、どうだろうね」
「さっき、言えるって言ったばかりじゃない」奈美はふくれる。反則。

 ぼくは、敢えてHが出て来る言葉を探した。車の会社。香港。ほっぺた。ほっかむり。箒。頬杖。稲穂。それは野球選手の話題に転じてしまいそうだ。
「王が膨らんでいるよ」ぼくは、自分の頬を指差し、それから、奈美の頬をさわった。
「ほんとだ。いや、おんとだ」と、奈美はわざと間違えた。

 あるひとつの国家の意向としてHを口に出さない。いや、出せないのだろうか。国境を接して隣り合った町の住民はそれらを発する。言葉が意思を通わせるためだけにあるのなら、不便以外のなにものでもない。そこにプライドと意地があるなら、それは許容されるべき、また相手は受け入れざるを得ないことなのだろう。

 その日の一日、ぼくらはHを発したら罰を与えるというゲームをする。段々とすすめていくうちに当初の意図とは別に、自分は言ったことに気付いても、相手には感づかれないことが多いということが分かってくる。慣れ親しんだ言葉が間違っていることなど意に介さないのだ。ぼくはそのままその現場を素通りさせてうやむやにし、奈美は自分から告白して笑ったり、白状することすら楽しんでいるような気配だった。そのうちルールは改定され、相手が気付かない、指摘しない場合は、無効ということになった。アドバンテージ。

 さらにすすめばそうしたルールに則って話していることすら忘れてしまう。指摘することも話の腰を折ることになるのがみえみえのときは、放棄した。大切なことが他にもあるのだ。だが、ちょっとしたときにはまたルールは厳格さを帯びて、効力を発揮した。
「やっぱり、言えると思うね。でも、これも小さいときから周りがそうしていたからだけなのかね」
「誰かに、机の前できちんと教わりつづけたものばかりじゃないからね。両親や、ラジオやテレビ。それに仲間内の会話とか」
「友だちだけとしか通じない言葉とか使っていたな」
「それが友情と思ってね」Hは出ていない。

 派閥といえば聞こえが悪いが、チームや仲間と称すれば一体感がある。流派や同じこころざしをもったもの。キュビズム。野獣派。また、反対に自分にないものを求めるという潜在的な気持ちもあるのだろう。自分の立ち位置が変われば、反対側もそれに連動して変わる。あるとき、仲間であったものたちがグループを解散することもある。追い求めていたものも各自の成長にともなってバランスが崩れ、体制にも変化を強いられる。名声を得ているグループがコンビや結託を解消すればニュースになるが、ひとつひとつの別れ話など表に顔を出すこともない。闇に葬られるだけなのだ。

 そこは闇でもないのかもしれない。きちんとした区別がつかないものの総称。無雑作に投げ込まれた個人のボックスでもありながら、その当人だけには容易に取り出せる入れ物。

 結局は言葉のゲームなど簡単に押し流されてしまった。ぼくらは思ったことを好き勝手にしゃべった。奈美の吐息は前の女性の吐息と違う。保有する言葉の数など、そう大した違いもないのだろう。そのうちから選ばれて使われたひとつの優しい言葉がぼくをあたため、厳しい言葉がときにはぼくを傷つけた。そのひとつひとつもぼくは保管するようだった。次にぼくらは寝そべったまま早口言葉を言い合う。ぼくに言えて、奈美には難しい部類のものがある。奈美はすらすらと発音し、ぼくがつっかえるセリフもあった。だが、共通としているものは同じなのだ。異国の女性に恋をするひともいるのだろう。だが、ぼくはこのように同じ言語で気軽に打ち解けて会話できる相手をここまで望んでいるとは思わなかった。

「ハイヒールって、Hを抜いたら、もうその言葉じゃないね。別のもの」

 その仮定の文字を発音したぼくは、錆びた車体にタイヤも外れ、空き地で朽ちていくままに任せた車の写真をなぜだか思い出していた。車は数人の家族を乗せ、休日にでも、どこか遠くへ運んでくれるものなのだろう。だが、ぼくはその廃品に近い姿も車以外の言葉では表現できない。他のひとに説明する際にも車という名称をつかうだろう。対象は車だけではなく、新旧の些細なエピソードを積み重ねれば、それは電話帳ほどの体積になり、奈美自体のすべても説明することが可能になるのだろうか? でも、奈美の本質は研がれたあとの米粒の芯ほどしかないのかもしれない。たったひとこと。スピードが出た車。馬力があった車。故障しないもの。同じく多くの人間も、総じてひとことで説明がつくとまで、ぼくは思いはじめていた。いや、思いあぐんでいた。

流求と覚醒の街角(36)黒

2013年08月11日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(36)黒

 映画館から出ると、奈美の目の下の化粧は黒く滲んでいた。彼女は化粧室に入って、戻ってきたときにはその部分は元通りになっていたが、瞳はまだ赤さがのこっていた。
「泣いたの分かる?」
「よく見れば」

 分量として女性のほうが泣く回数が多いと思うが、泣いた後の履歴がはっきりと分かるのは男性のほうが多い気もした。それは泣くという行為自体が男性にとって非日常のことだからであろうか。事件でもありイレギュラーでもある。ぼくもその映画に感動し、涙がもれそうになった。しかし、どこかで自分を押し止めてもいた。もし、仮にひとりだったら、その決壊をあっさりと許してしまっていたのだろうか。

 でも、涙というものも不思議なものだった。それは、目の薄い皮膜を保護する役目としてだけではなく。感情と密接に結び付いているものなのだ。物語に感情移入をしてこらえきれずに水分が涙として出る。悔しくても出ることもあるし、疑いを晴らせなくて地団太を踏み、ひとり涙を流す機会もある。勝負に負け、泣きながらグラウンドの土を袋に入れる。顔をくしゃくしゃにして、冷静さも客観視もすべて後ろに放り投げて。

「ひとって、笑顔が魅力的なひともいるし、困った顔が可愛い子もいるよね」
「そう? わたし、どっちだろう」
「いつも、元気だし。笑顔じゃない」
「じゃあ、泣いたら減点?」
「そうでもないよ。感情なんて豊かなほうが魅力的だよ」
「そうだろうね」

 奈美の眼はいつものように好奇心が溢れた視線にもどっていた。すべてのものを吸収したがるような集中力がともない、そこに優しさと慈愛を含ませているもの。ぼくは彼女からもっと知りたいと思う気持ちを得なければならないと思っていた。それは窮屈さにつながらず、かえってのびのびとさせる印象もあった。それが、簡単にいえば好意というものなのだろう。

「泣いた後の女性の回復って、あんまりイメージに残らないね」
「たくさん、泣かせてきたからじゃないの?」
「まさか。ぼくに限って」ひとは根拠もないことを判断して、さらに肯定する。肯定する土台には結局はなにもないのだ。砂でつくられた城。毎日がその積み重ねだろう。その話題を自分が忘れ去ってしまった頃、相手から持ち出される。根拠も土台もないところから発言された言葉は、当人がいちばん知らないし、自信もない。その過去の日の自分は、ほんとうにぼくであるのだろうか。
「でも、泣くって浄化にもつながるんだよ」と、奈美は積極論をもちだす。

「じゃあ、ときどき泣いたほうが健康にも心身にも味方になるんだ?」
「そうだよ」
「だからといって、無理には泣けないしね」
「浄化させるものも、悲しみも少ないんじゃないの・・・」
「ぼくが? まさか」

 ぼくは、あのとき立ち直るために、でも、泣きもしなかった。言い古されたことだが、やはり時間の経過が役に立つのだ。それでも、悲しみの根底にあるものは、炭のようにどこかで熱を発しているようだった。白くなり、水をかけても、それはよみがえってくる運命にあるのだ。それに、その悲しみを完全に払拭してしまえば、ぼくの過去も、相手が与えてくれた喜びも楽しみも同時に奪い去ってしまう恐怖があった。だから、ぼくは悲しみを温存させている。また、いつか変わる日も来るのだろうが。それを待つこともないし、待ちわびることもない。ただ、どこかで変化をくれる日が来るのだろう。子どもでもでき、生活に追われるような日々に足を踏み入れれば、ぼくの個人の過去など思い出すのに値しないものと思うかもしれない。さらにもっと時間が経てば、やっと冷えた炭として機能するのかもしれない。でも、まだだった。

「じゃあ、もっとも大泣きしたのは?」奈美は挑みかかるように質問する。
「まったく、思い出せない」
「ほら、やっぱり、傷もない人間」
「じゃあ、奈美は?」
「いっぱいありすぎて、どれから言おうかな」悲しみのことさえ彼女は楽しめるようだった。だが、もしかしたらその程度の悲しみしかひとには打ち明けられないのかもしれない。いくら、親しくなったとしても。未来をいっしょに紡ごうと決意したとしても。

 あの女性は、ぼくと別れて、楽しかった日々を振り返って、泣いたりしたのだろうか? 未練の度合いが多いのは男性のほうだと言うひともかなりいる。その例にぼくももれなかった。泣いたから、悲しみの量が多いからといって、それで失われたものが戻るわけでもない。だが、喪失だけが正しい記憶なのだ、とぼくは思おうとした。

「何回もお父さんが自転車を後ろで支えてくれたのに、いつまでも乗れなくて悔しくて泣いた」と奈美は言った。ぼくにはそのような記憶もない。「でも、次の日には乗れるようになってた。あれは喜びの通過点として両方とも覚えておく必要があるんだね」そして、急に満足気な顔になった。

 喜びも悲しみも奈美の側にあった。その後、ぼくは奈美に悲しみを与えてしまうことを避けたいと願った。だが、ひとが本気で触れ合う以上、どこかで傷と修復があるのだろう。絶対にしないと誓うには、他人であるしか方法はないようだった。そうした欠点を内包したものが、まさしくぼくでもあるようだった。

流求と覚醒の街角(35)マンガ

2013年08月10日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(35)マンガ

「このつづきが読みたいから、ちょっとコンビニに買いに行って来る。なんか、いる?」
「とくには」
「そう。じゃあ、行って来るね。待ってて」奈美は軽装で外に出掛けた。ぼくは、待つ以外にすることもなかった。それで、彼女が読み終えたマンガをパラパラとめくる。彼女の欲望を駆り立てているものを知る必要があった。そう思いながらも、ぼくは直ぐに飽きてベッドの上に放った。ぼくはマンガを理解するようには作られていないようだった。子どものころに買った野球のマンガは良かったな、とかなつかしむ程度には愛着がある。奈美の部屋を見渡すと、いま買いに行っているマンガの前作が並べられている。順番が入れ替わっているのは、最近、読み直した証拠なのだろう。ぼくはそれを番号順にきちんと並べ直す。そうすると、その棚に整然さが生まれるようだった。

「あのコンビニの前、そういえば結構、やんちゃそうなやつがいたよな」と、ぼくは独り言を言った。だからといって、ぼくが行くという考えが事前に生じなかった。しかし、そんな心配も杞憂に終わるほど、彼女は直ぐに帰って来た。
「あった。ちょっと、ひとりにするからね、悪いね」

 彼女は袋をがさごそといわせマンガを取り出して、ベッドを背もたれに座った。ぼくは音楽をかけ、ビールを飲みなおす。奈美の頭の中には、しばらくはぼくがいなくなる。ぼくは柿の種をつまみながら、ビールを飲み、ひとの頭を占有するものたちを考えていた。

 前の女性の母は画家だった。その絵を彼女とふたりで見に行った。目の前にあるものをただ写実的に描いたものではない。しかし、その娘である女性の肖像も描いていた。抽象的なマンガなどあるのだろうか。情報を絵とセリフで説明する。その情報の圧倒的な量が、逆にぼくを混乱させる。ひとりのひとを好きになり、もっと彼女のことを知りたいと思うようになる。だが、ぼくは一目ぼれという簡単な感情だけで、すべてを判断しているようだった。だから、情報も少なくて良いのだろう。その気持ちをもってぼくは一枚の絵と対峙した。

 ぼくは、前の女性の肖像画をもらった。いまは実家にあるのだろうか。写真をどうしたのだろうか。ぼくは写真より、なぜかその一枚の絵をなつかしんでいた。ぼくの記憶の奥に残りつづけようとしているのは、絵という媒体が強さを持っているらしかった。あのときの外国で見た絵たち。風景などよりも鮮明に残っているようだった。いま、ここで、ぼくはそれらのことを思い出していた。

「やっと、読み終わった。だから、これから相手になるよ」しばらくすると奈美はそう言った。
「また、次が待ち遠しい?」
「それはね、つづきがあることだから」

 ぼくは失くしたつづきのことを懐かしんでもいるのだろう。野球少年が主人公のマンガも、いずれ少年ではいられなくなる。一部のひとがプロになり、一部のひとがさらにコーチになったりもする。両方の能力を与えられているひともいて、片方だけのひともなかにはいる。片方だけでも立派なのだ。画家という才能をもった女性がいて、彼女は娘を産んだ。ぼくは彼女が生み出したどちらにも感銘を受けていたのだろう。もちろん、娘のほうにより比重は置かれているのだが。しかし、つづきはない。ぼくは奈美を選んでいたのだ。
「明日が待ち遠しいという気持ちも、最近、ないな。遠足が早く来ないかな、とか思っていたぐらいがピークだったのかね」
「やだね、おじさんの入り口」

 好奇心をなくすということは、そういうことなのだろうか。次の日に起こるだろう期待に胸をワクワクさせる。その期待のほうが、実際に起こったことより印象に残っている。あの遠足は本当に楽しかったのだろうか。それとも、眠りをさまたげるほどの期待が勝利を手に入れているのか。確かに覚えているのは、あの前日の布団のなかの眠られないぼくだった。いまは、そのような夜もない。枕に頭をつければ、直ぐに寝た。秒殺。交際への返事を待つ、という気持ちもぼくにはなかった。ふたりの女性は簡単に了承してくれた。あれは、やはり、気をもたせて返事を先延ばしにしてくれてもよかったのにな、と甘い幻想をつむいだ。そして、奈美にもそれを語った。

「なんだか、面倒な性格なんだね。好きになったら、好きになっただよ」奈美も柿の種をつまむ。「おいしいか、おいしくないか。好きか、嫌いか。返事をするか、断るか」
「すると、ぼくが付き合って欲しいといったときには、あらかじめ想定した事態だったってこと?」
「そうだよ。だって、わたしのこと好きって顔にかいてあったよ」また、彼女は菓子をほおばる。「それは言い過ぎかな。少なくとも、関心は、積極的な関心はあるなって読めた」
「それが、好きだってことかもね」
「そうかもね。でも、寝ても覚めても考えてくれないんだ。いまは」
「考えてはいるよ」だが、これも正直な気持ちだろうか。ぼくは奈美のことを自分の時間のうちのどれほどを使っているのだろう。目の前にすれば、考えや思いということとは別個で、なんだか反射神経だけを使っているようにも思う。

「つづき」と奈美は言った。昨日より、彼女は魅力を増したのだろうか。ぼくらは、それぞれ馴れていくという段階を経ていくだけなのだろうか。彼女はこう考え、こう行動するだろう。ぼくは、それらを知っている。また、段々と一目ぼれという範疇から遠ざかっていく。衝撃的な出会い、というものをぼくは求めていただけなのだろうか。だが、つづきをする。

流求と覚醒の街角(34)対比

2013年08月04日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(34)対比

「わたし、ちょっと太ったと思わない?」と、奈美は何気なく訊く。正解が必要だとも思えない質問。愚問。世の中には、多分、そういうものが少なからずあるのだろう。指折り数えることはしなくても。
「ちょくちょく会っているから分からないよ」
「じゃあ、ちょくちょく会わないようにする?」

「そう、短絡的な問題でもないだろう」ぼくは手を休め、奈美の顔を見る。「それに、太ったとも思えないよ、正直にね。気にしすぎなんじゃない」
「気にしてないよ。違う。わたしのこと気にしすぎなんじゃない?」勝ち誇ったように奈美は言った。
「具体的には、どうなの? 例えば、服が入らなくなったとかさ。3人ぐらいから、太ったんじゃないとか、急に質問されだしたとか」
「そこまでになったら、それは疑問ではなくて、明らかな真実でしょう」
「まあ、そうだね」

 ぼくはひとからの指摘を意識して生きていなかった。それでも、数人から「疲れてない?」と訊かれれば鏡を覗くぐらいのことはした。実際に目の下には疲労のあとが刻まれていたりした。だが、数日後には消える運命にあるようなものだった。皮膚のうえから。恒久的にはならないものたち。
「体重計は?」ぼくは、彼女の軽い怒りをもてあそぼうと考えているようだった。
「ほぼ、同じ。水分の摂取で左右するぐらいの」

「左右じゃなくて、上下じゃない?」奈美の沸点はどこにあるのだろう。
「同じことでしょう? もう」
「じゃあ、きょうの外食、キャンセルする?」
「なんで? 楽しみにしているのに・・・」そのためにぼくらは待ち合わせをして会っているのだ。奈美もいつもより気合の入った服を着ていた。核心をつかないジャブこそが美しいものなのだ。

 どれだけ食べても太らないひともおり、油断をすると痩せてしまうひとも世の中にはいるようだった。ひとの美醜の判断を外見によって行う社会がここにはあった。たくさんのモデルを器用する雑誌があり、彼女たちは話さないことによって職を得ているように感じられた。だが、当然、ぼくらは毎日のように話す。話題の豊富さを求めるひともいるし、寡黙さを高級な部類に置くひともいる。飲食店でカウンター越しの雑談を要望するひともいれば、味さえしっかりしていれば、そのような副産物を求めないひともいる。ひとなんか様々だ。だから、ぼくはいまの奈美の体重が多少、上下したってそのことで好悪を左右されることもなかった。

「昨日の奈美より、ぼくは多分、きょうの奈美のほうが好きだね」この論理のなさは一体、なんなのだともぼくは考えている。しかし、奈美はその言葉を嬉しがっていた。
「でも、馴れというのもいちばんこわいよ。それにあぐらをかくようになったら終わり」
「まじめ」
「いつだって、まじめだよ」

 ぼくらは奈美が行きたがっていた店に入る。すわって寛いでも服の前のボタンが吹き飛ぶようなこともない。静かに食前酒をあける。一気に飲み切るというようなタイプのお酒ではない。すべては次の演目に通じるつなぎに過ぎないのだ。なだらかな斜面。それを徐々にのぼるか、くだるかの行程があるだけのようだった。
 順番に運ばれる料理はそれぞれ、肉は肉だけの要素ではなく、魚も釣り上げられて切られて終わりという食事ではなかった。エレガントなソースがかかり、味わったことのないような複雑な混じり気を舌は感じた。それを旨いと判断するのは前例ということとはかけ離れていた。最初でありながらも、ぼくはその味においしいというジャッジを下した。不思議なものだ。

 例えば、ぼくは奈美を最初に愛したとしたら、女性という総体への希望も欲望も違ったものになる可能性もあった。だが、彼女は二番目に登場した。バトンをつなぐということを彼女たちは知らないだろうが、ぼくにはそういう思い上がりがあった。痛みも優しさも快楽も、ぼくにはどういうものを次に得たいという傾向というか野心のようなものがあったのかもしれない。ただのお人形のような女性は必要ではなかった。そして、奈美は決してお人形で納まるような女性でもなかったのだ。

「この一口が、体重に左右するのかもしれないね? でも、すごくおいしいけど」
「太ったら、いっしょに走ってあげるよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」人間はつまらない約束をたくさんする。もちろん、覚えていないことも多いし、実行しないこともさらに多い。だからといって口にした言葉が真実に溢れていないということでもなさそうだった。ぼくは、最初の女性に対してずっと愛すると宣言した。あおの日々に。もちろん、それは嘘でもないし、一時的な言い逃れでもなかった。そのときの真実への忠誠を守らす役目を、それぞれが放棄してしまったのだ。それは意図したからではない。ただ、時間が無駄に流れてしまったとしか言いようがなかった。しかし、無駄と結論付けられるものではない。ほんの一握りの香辛料も無駄ではなく、このソースも無駄ではない。ただ、人間に忍び寄る無言の脂肪だけが邪魔であるのだった。だが、目の前にいる奈美はそのことを完全に忘れているようでもあった。決別や誘惑の振れ幅も知らずに。

流求と覚醒の街角(33)ボタン

2013年08月03日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(33)ボタン

「ボタン取れてるよ」奈美がぼくのシャツを指差してそう言った。
「知ってるよ」
「知ってたの? 付けないの?」
「うん。取れそうだったから、わざと切った。だから、ここにあるよ」ぼくは小さなボタンをつかんで出した。
「付けてあげるから、シャツ脱ぎなよ」
「できるの?」
「できないひとなんて、いるの? さあ」

 ぼくはシャツを脱ぎ、手渡した。数分だけぼくのシャツは用をなさなくなる。彼女は引き出しから糸と針をだした。真剣な様子で針に糸を通す。数回のチャレンジで結果がでる。それから、ぼくのシャツをつかみ、ボタンを縫い付けた。それぞれ別個にあれば意味をなさないものが、セットになればきちんと機能を果たす。誰が発明したものなのだろか。ぼくは遠い過去に思いを馳せる。

 ローマ時代の布を身体に巻く衣服。別の国の民族衣装でいまでも色こそ違え、ありそうだった。子ども時代は、いつまでも長袖の手首にあるボタンをはめられなかった。だが、もういまは苦にしない。それが、成長ということの実態なのだろう。そうしている間に何度か針が布を貫通する。

「いつも、自分でしてたの?」奈美はそう訊ねた。
「うん。じゃないと一着、無駄になるからね」
「器用なんだ」
「器用でもないよ」ぼくは奈美の手の動きを見つめている。「みな、やっていることで、ひとを感動させることが求められているわけでもないしね」
「じゃあ、できないことは? 感動させられるぐらいのことで」

「それこそ大ホールで歌声でみなを泣かせるとか、100メートルを9秒台で走るとか」
「じゃあ、できることは?」
「寝坊しないで、毎日、電車に乗って通勤するとか、失敗して腹を立てながらも、顔に出さずに、謝るとか」
「なんだ、謝っているとき、お腹のなかは謝ってもいないんだ。例えば、この前の、ケンカのときとかも?」
「話がすり替わっているよ」
「変わってないよ」奈美は仕上げたようだった。「さ、はい、終わり。でも、顔に出てるよ。自分が悪くないと思ってるとこ」

 ぼくはシャツを受け取る。そして、袖を通す。ボタンもはめて、その感触が馴染むように布をこすった。
「上手だね」
「うまいへたなんか、ないよ。ボタンつけに」
「あるよ」
「謝るのが、うまいへたとかあるけど」なぜか、奈美はそのことについてこだわっていた。
「どうしたの? なんか、許してないみたいだけど。口調が」といいながらもぼくはケンカの原因さえ忘れていた。多分、女性はたまに涙の袋を決壊させる必要があるのだろうぐらいに考えていた。その理由も原因もどこに探してもいいのだ。あたりたい相手がたまたま前にいたから、ぼくになったのだ。違うのだろうか。しかし、ボタンと同じようにぼくらは切っても切り離せない段階に入っていると思っていた。

 ぼくは奈美の部屋を見回している。ひとの手が作ったいろいろなものがある。対になってこそ正しく使われるものたち。対でなければ逆にいえば用をなさないものたち。コンセント。靴べら。キャップ。イヤホンのジャック。ふた。それぞれが世の中を便利にするようにできている。それらがない世界など考えにくい。奈美の感情を受け止める男性。対になるのは、やはり、ぼくだけであるのだろうか。

 奈美は引き出しに針と糸をまた仕舞った。それらは能動的に使いたいから使うという類いのものではなさそうだった。ボタンが取れたので仕方なく取り出されるものたち。手仕事が好きなひともいるのだろうが、普通のひとはそういう分野に押し込めている。

 ぼくはしばらくたってまたシャツを脱いだ。彼女の背中のホック。対になるもの。ふたつの靴下。ふたつのイヤリング。彼女の眉は左右で均等ではないようだった。それで見た角度によって多少、印象が変わった。柔らかな雰囲気と強気な感じ。それがときには強情さと負けん気に結びついた。反対側は大らかさと慈愛に満ちているようだった。いまは真下にあった。だから両方が感じ取れた。考えれば、そのどちらもが重なり合って、混合して奈美になっているようだった。

「お客さんがいるからホールを借りて唄えるし、ひとりだけで、どんなに頑張って走っても、タイムは認められない」奈美はぼそっとそう言った。
「どうしたの、急に?」
「感動させることも、ほかのひとがいなければ存在しないんだなと思って」しばらく黙った。「だから、そうなんだなって思った。ケンカする相手がいるからケンカもたまにはできて、また仲直りもできて」

「許されないときもたまにはあるよ」
「わたしは許すよ。それに、そんなに根にもたないし」
「ボタンが絶対とれないぐらいに、しっかりと根にもつのかと思った」
「それは相手の思いやりのない行動によるんでしょう」

 ぼくらは今後起こるであろうケンカの予行演習をしているようだった。だが、架空の話はどこまでいっても現在に影響を重くのしかかれるほど力をもっていなかった。力をもってもらっても困る。ふたりを切り裂くようなものはあってはならない。もし、仮にあったとしてもボタンをなくさずに、もう一度両者を結び付けられるぐらいの距離で居続けなければならないのだ。それは特別難しいことでもなさそうだった。かといって小さなものは直ぐになくなってしまう。排水溝のなかには無数のそうした小さなものが落下し、墓場としての機能や役目が備わっているのだろう。あの小さな網の目には。

流求と覚醒の街角(32)風船

2013年07月28日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(32)風船

 女の子が泣いている。手には風船を持っている。いや、風船のひもをつかんで、頭よりうえにその風船が浮かんでいる。きれいなスカートを履いていて、よそ行きという表現がぴったりの格好だった。奈美は屈んで、その子と目線を合わせた。

「お母さんは?」少女は答えない。ただ、泣きじゃくるだけ。奈美はその子の手をつかんで、段差のあるところで座らせた。女の子は言うことを聞く。この不安定な世界で唯一の味方を見つけたのだ。ぼくは、ただその様子を眺めている。ぼくに、何ができるのだろう。

 日曜の歩行者天国。みな、幸せそうだ。奈美はただ言葉を待つ。少女は両親といっしょに来たらしい。だが、どこかで親は子どもを見失い、彼女は両親の姿を失う。奈美があやすことによって少女から涙が消える。すこし晴れやかな顔になってきた。名前も教えてくれる。電車に乗ってここまで来たこと。先週は動物園に行ったこと。ママとパパは昨日ケンカをしたことなど。子どもはいろいろ見ているのだ。その様子を道行くひとも眺める。そのうちの何人かは明らかに奈美を母だと思っているらしい。それにしても若いお母さんね、という風に。

 ぼくは交番があることを知っている。あそこに渡してしまえば簡単に用は済みそうだ、と考えるのはこの子どもの存在に戸惑っているからなのだろう。もし、自分がひとりだったらあの子のことも気付いていなかったかもしれない。泣いている少女を発見もできないほど、ぼくは忙しい身でもないのに。

 奈美は話しかけ、その少女の笑いまで手に入れる。こころを開いたのだ。彼女は両親がいないことまで忘れてしまったように快活に笑っている。奈美は反対にぼくのことを忘れてしまっているようだ。ぼくは、どうやったら対面できるのか考えていた。どこか大きな場所ならアナウンスをしてくれる係りもいるだろう。「迷子の○○ちゃんが、お母さんを探しています。この場所まできてください」という放送が流れる。しかし、ここは歩行者天国なのだ。デパートのなかでもない。動物園でもない。だが、ぼくが交番のほうを見ると、仕事ができそうな男性が困り果てた様子でいるのが確認できた。ぼくは黙ってそちらに向かった。彼の話しぶりが分かるまで近づいた。背丈はこれぐらいで、というように手の平を下げた。ぼくは割り込み、
「迷子ですか?」と訊いた。
「そうです」
「あそこにいる子だと思うけど」父親らしきひととおまわりさんもいっしょに来た。その子はまだ奈美と真剣な様子で話していた。しかし、お父さんの姿が見えると、駆け寄って足にまとわりついた。一件落着。父は奈美とぼくに礼を言う。奈美は楽しみを奪われたような顔をした。

「早く、連れてきてくださいね」と反対に奈美は制服姿の男性に注意された。奈美は風船を目線で追う。小さな身体は直ぐに見えなくなり、風船も直に陰になって消えた。ただ泣いたり笑ったりした少女の甲高い声だけがぼくに残った。

「実習でやったんだ、学生のころ」
 と、奈美はその後、言った。それから、いくつかその実習の際に起こった出来事を話してくれた。人見知りをする子もいれば、どんどんと自分をオープンにする子もいる。だが、最終的にはこちらが望めば同程度の親密さを獲得することはできるらしい。

「それが、奈美だからだろう?」とぼくは訊く。このぼくが言ったって、そう上手くいくとも思えなかった。
「ううん。誰でもみんな」と奈美は否定した。

 ぼくは、またしても前の女性のことを考えていた。彼女が小さな子たちとどう接したか、又はどう接するであろうかということではなかった。ぼくが父親で、迷子になった彼女を探しているのだ。心配でたまらない。そこに優しい女性が現れて前の女性をなごませてくれているのだ。だから、ぼくはそのひとに感謝を述べることをためらわない。それが奈美なのだ。ぼくは懲りずにその失われつつある情景をつかみとろうとしていた。無意味なことであるのは自分がいちばん良く知っていた。風船は飛び去るものであり、家に持ち帰っても、いつの間にかしぼむ運命にあるものだった。それをぼくは永続するものと誤解して、その誤解に躊躇もなく力を注いでいる。もし、奈美が同じことをしていたら許そうとしないだろう。だが、ぼくは自分に許していた。甘美なものをこころの奥で保管していた。

「あの風船、どこで手に入れたんだろうね? それらしい店なんかどこにもないのに」奈美は不思議な顔をしている。それから風船で作られる動物のことを話した。ときには犬になり、キリンにもなった。だが、奈美は奈美であり、ぼくはぼくだった。後ろ向きな考えを手放さないぼくだった。

「なんで、あんなに親とはぐれることが辛いんだろうね。思春期にもなれば疎んじてしまうのに」
「奈美でも?」
「みんなそうでしょう?」

 ぼくは奈美と親子の輪に入れない自分を感じていた。こじあけられない強力なチームワークがあるようだった。前の女性にはぼくと敵対する父などいなかった。それがぼくには懐かしくもあり、淋しくもあった。ぼくはあの女性のために父とケンカするぐらいの覚悟も勇気もあったのだ。だが、それは試されることもない。なので、立証することもない。ぼくは、それで父になった自分を想像したのだろうか。風船をもって心細そうな彼女を想像して。ぼくは失い、再度、取り戻す。だが、実際の生活では何事も簡単にいかないのだ。それにぼくは奈美と車のない道路の真ん中を歩きながら、これ以上もない幸福を感じているのも紛れもない事実なのだった。

流求と覚醒の街角(31)首

2013年07月27日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(31)首

 ぼくは奈美と食事をしている。仕事帰りの外食。

「ちょっと待ってて」と彼女が言って、一瞬消えた。そこはデパートのうえにあるレストランだった。彼女はなぜか外に出てしまった。注文を済ませた料理が出てくるにはまだ早い。少し経って彼女は四角い箱を持って戻ってくる。
「買おうか、ほかのものにするか迷ったんだけど・・・」と、付け加える。
「ぼくに?」

「そう」四角いテーブルに四角い箱が並列に置かれる。それを彼女は片手で押し出す。ぼくはそれをつかみ、中のものを想像する。当てるのは簡単なようだ。その形状は長方形で、デパートで売っているようなものであれば、首に巻くものだろう。ぼくは目で彼女に確認して、包装を無雑作に破る。中からでてきたものはネクタイだ。ぼくは箱を開け、なかの色や模様を確認する。そして、いま自分が首に巻いているものとの差異と相似点を比べる。自分が似合うと思っているものと、ひとが似合うだろうと予想しているものでは、ちょっとだが違う。まったく同じであってもつまらない。それがプレゼントの美点を奪うかもしれない。彼女がぼくに似合うと思っているものは多分こういうデザインなのだろう。

 ぼくは、それから自分の家にあるものを思い出す。大した本数もないが、自分が必要に応じて買い揃えるものは、やはりどこかで似通っている。何人かから貰ったものは、まったくしないか、時たまするぐらいで出番が少なくなる。どうやって手に入れたかも分からないものもある。だから、それがどこまで正確なものかも区分けできない。

「何かの記念日だったっけ?」この状態が一段落すると、当然の疑問のようにぼくはそう訊く。見落としていたものがあったのだろうか。
「とくに、そういう訳じゃないよ。ただ、前を通って似合いそうだなと思っただけだから」

 彼女がその紳士服売り場の前を通りかかったときには、ぼくが頭のなかにいたのだ。不思議なものだ。
「似合うかな?」
「変えてきなよ。簡単でしょう?」
「簡単だけどね」料理はまだ出てこない。それは他の席も同じようだった。焦れた子どもの注意力も散漫になっていて、うろうろしている子もいた。「じゃあ、変えてくるよ」

 ぼくは、その新品のネクタイを持ち、レストラン街の奥のトイレに行った。ぼくがネクタイを外し、新たなものを結びなおすと、となりで手を洗っていた男性は怪訝な顔をした。「なぜ、今ごろ?」と、その顔にはあった。

 それを済ませ、またぼくはレストランに入る。店員は会釈をする。もう店の前で並んでいる客はいなかった。

「どうかな?」と、ぼくは訊ねる。男性の変化など極く限られた範囲であるものだ。髪型もほぼ変化を加えない。仕事用の服装も似通っている。制服としてのスーツがあり、足元は革靴を履いている。奈美の服装を見る。髪のまとめ方。カーディガンの色。すると、料理も運ばれてきた。いろいろなことを待っている間に思い掛けなくできたようだった。彼女はフォークをつかんでアスパラガスを刺して食べている。みどり。

 ぼくも食べながら家にあるネクタイの柄を思い浮かべていた。それは、具体的に目の前にして見ないとなかなか思い出せなかった。しかし、ある一本のことは、頭から消えることもなかった。前の女性がくれたものだ。しばしば使うものでもない。登場する機会も少ない。大事にしようと思っているからそうするのか、どこかで昔のものだと規定しているのか、自分としても判然としなかった。ぼくは、それで、また自分の上半身を見る。どこかで浮ついている。はじめてしたのだから仕様がないのかもしれないが、まだまだ馴染んでいなかった。

「気に入らない?」奈美は珍しく心配げな表情をする。「似合ってるけど」
「ネクタイって個性があればあるほど、良くない気もしてきた。それに、その姿を自分はいちばん見ることもできない」

 ぼくが奈美といっしょに歩いている姿を見ることもできないのが自分だった。しかし、それをどうこう詮索することも他人はしない。例えば、それを気にかけるのは奈美の両親だけのようでもあった。でも、付加価値もあるのだ。ぼくの年収。ぼくの家柄。ぼくが奈美へ示すであろう愛情の度合い。
「写真にでも撮る?」

 ぼくは奈美の部屋で数々の彼女の写真を見た。親しかった高校生のときの友人。ふたりはとても似通っていた。そのお互いに似せようと頑張った部分が友情の証でもあるようだった。ぼくは、その子ともし会ったならば、二人目の恋人はその子であったという可能性を考えてみた。もちろん、無意味であることは知っているのだが、それぐらい彼女たちは一心同体であるようだった。

 男性は、差異を、または優越感を見つけようとどこかで頑張っているのかもしれない。友人に比べてこの部分は勝っているのだから、恋の勝者になり得る権利を有するのだろうと、甘い目論見を企てる。だが、同じような年代の女性がどこに重心を置いているのかはまったく知らない。

 彼女たちも大人になり、その恋人にネクタイをプレゼントするようになる。自分の愛するひとは社会に帰属する一員でもあるのだ。その社会での成功が自分の幸福に直結するのかもしれない。ぼくは、ただ首に巻かれている布だけで大層な思い込みをしているのだろう。

「奈美は、なにが欲しいの?」と、ぼくは食後のコーヒーを飲みながら訊く。その答えによって、ぼくはどう変化するのだろう。また、どれほど頑なであり、意固地にもなれるのだろう。

流求と覚醒の街角(30)風邪

2013年07月26日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(30)風邪

 奈美は風邪をひいている。いまはベッドに横たわっている。額には汗をかき、濡れた髪がそこに貼り付いていた。ぼくはタオルを持ち出し、そっと拭いた。せっかくぐっすりと眠っているのに起こすこともなかった。

 眠るまでは随分としんどそうだった。うなったり寝返りをうったりを繰り返して、やっと解放される。眠ったあとに爽快さが直ぐにやって来るとも思えなかったが、身体は楽になるだろう。できるなら、ぼくは立場をかわってあげたかった。しかし、不可能なのだ。タオルで額を拭くことぐらいしかできない。また、それは彼女に知れ渡ってはいけないのだ。未知なる世界のできごと。おぼろげな記憶。

 ぼくは部屋からでてキッチンに座る。急に具合が悪くなったので、冷蔵庫にはその日に用意したものがそのまま残っていた。ぼくは缶ビールを取出し、ラップがかかっているサラダの鉢もテーブルに並べた。それをつまみにしてひとりで空腹を満たした。やはり、どこかで味気なさと戦っている。

 いまの奈美にとって、ぼくの存在などまったくないことだろう。反対にぼくは心配をしている。ぼくは普段の元気で陽気な彼女のことを知っている。それが奪われた瞬間のために嘆いていた。だが、これはまったくの終わりではないことも薄々は知っているのだ。数日後には元通りになる。免疫をいくらか加えた彼女になって。

 となりからうめき声のようなものが聞こえる。ぼくは薄めにドアを開け、その様子をうかがう。室内は暗いため、彼女の表情の細々とした部分はよく分からない。彼女の身体から発する熱気のようなものが、部屋のなかで澱んでいるようだった。汗をかき、体温が下がる。ぼくはまたドアを閉めた。今日、いつも通りだったら彼女と話せたことを具体的に想像しようとした。彼女には感激したことがあったかもしれない。逆に腹を立てたこともあるのだろう。それを彼女の口から聞きたかった。でも、いまはおあずけだ。

 健康というのは空腹と、その解消と眠たさだけのような気がしていた。ぼくは小さな音でラジオをかけた。明日の天気の情報がながされる。みな、明日に期待する。きょうは、もう直ぐなくなるのだ。ぼくは時計を見上げる。正確な時刻がわかる。あと、数十分で今日も終わりだ。ぼくは、どこで眠ろうか考えていた。床に寝そべり、クッションでも枕代わりにして眠る。健康であれば、ほとんどのことは耐えられるような気持ちだった。ぼくは食器を静かに洗い、シャワーを借りた。奈美の化粧水を意味もなく顔にすりつけ、鏡をのぞいた。自分のこの顔を思い出の一部として覚えてくれているひとが世の中にどれぐらいいるのかと想像する。あるひとは、悲しみの感情と直結させるかも知れず、ある場合には憎しみを呼び起こすのかもしれない。さらに多くは、忘れていたとか、懐かしいとか、大人になったとか思うのだろう。実際はどうか分からない。顔は覚えてくれていても、名前は失念ということもあり得た。それも仕方がない。ぼくも、そういうことをするのかもしれなかった。

 ぼくはドアを開けて、予定通りクッションを探した。適当な場所に置くと、ぼくは奈美のパジャマを触った。それはまだ濡れてはいなかった。着替えも必要ないのだろう。そっとした積りであったが、奈美は目を開けた。

「そこで、寝るの?」床のクッションを目にして、彼女は訊ねた。ぼくは、ただ頷いただけだった。彼女はいくらか済まなそうな表情をしたが、途端にそれも消え、また夢の世界の住人に戻った。

 ぼくは床の固さなどかまわずにぐっすりと眠ったようだった。目を覚ますとカーテンの向こうは晴れていることが分かるほどだった。昨日の天気予報は間違えようもなかったのだ。ぼくは上半身を起こす。いくらか身体はこわばっていたが数回手足を伸ばすとそれも自然と消えた。

 ぼくは横を見る。奈美も目を覚ましたようだった。
「一日、そこで?」
「うん。でも、目も覚まさなかった。どう、直った?」
「多分」
「熱、計る?」
「うん」ぼくは体温計をとり数字を確認してから彼女の脇に入れた。今度はパジャマ自体に湿り気があった。
「着替えないとね」
「着替えないと、風邪引く」彼女は笑った。「もう引いてるけど」

 ぼくはカーテンをすこし開けた。数分、外を見ていた。いつか、奈美が言った老夫婦がベンチに座っている後姿が見えた。ぼくらの将来の姿かもしれない。

「ベンチに座っているね。ほんとにいたんだ」
「信じてなかったの?」
「疑っているわけじゃない。ただの確認のことば。どう?」
「見て」彼女は脇から体温計を取り、自分で見ることもせずぼくに渡した。ぼくは彼女のいつもの体温を知らなかった。接触を通してぬくもりや熱は感じたことはあっても温度としての数字は知らないのだ。
「36、2」ぼくはそれが彼女にとって高いのか低いのか区別のつかないまま読み上げた。
「じゃあ、いつも通りだ。平温」
「気分は?」
「快適に近い」
「直ぐになおったね。ジュースでも飲む?」

「うん」汗でくっついた髪を彼女のパジャマの袖はぬぐった。ぼくは彼女の身体をはじめて求めたことを覚えていた。それはどうやっても懐かしいという段階には行きそうにもなかった。その新鮮さを更新するのをためらわず、また、いつか彼女の元気になった姿をぼくのこころは刻むのだろう。

流求と覚醒の街角(29)水門

2013年07月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(29)水門

 そこには水門があった。前日までのおびただしい雨により、水かさはいつもより増していた。土手にもところどころに水たまりが残っており、いま立っているところの芝生もぬかるんでいた。その為、水門は開かれ勢いよく放水されていた。ぼくはその姿をはじめて見る。のどかさしか感じられない場所は本来の役目を隠していたのだ。

 つくづく考えれば不思議なものだった。門の開閉によって水量を調整する。与えるものや得られるものを、こちら側で判断して制御する。町に沿った大きな川であれば必要なものであり、力を最大限、発揮すれば命も救われることがあるだろう。だが、通常はのんびりとしているものだ。普段、散歩しているひとたちも実際の役目に気をとめることなく、偉容な姿として捉えているだけなのだ。

 奈美は横でその姿を無心に見ていた。そこは、彼女の実家の近くだった。ぼくは遠回りしてでもそこを歩くのが好きだった。景色も良かったが、奈美の両親と会う前や、会ったあとの開放感にその景色が欠かせないものとして必要だったのだろう。今日は会ったあとだった。昨日までの大雨による恩恵の風景に見惚れていた。

「お父さんたちに会うの、なれた?」
「それほどには」

 ぼくは奈美と親しくなることだけを望んだのだ。当初は。しかし、関係性の流れで彼女に付随する世界にも当然のこと足を踏み入れることになる。
「うまく、やってるけどね」

 そうでもなかった。奈美と彼女の母親は足りないものがあると言って、外に買い物に行ってしまった。数十分だけだったが、ぼくは奈美の父親とふたりきりになる。奈美を媒介にしなければ会話もなく、接点もなかった。そもそも、他人であった。それでは、親しみをこめた知人と他人との境界線は、どこにあるのだろう。その境目をなにが決壊させてくれるのだろう。どこかでふたつの異なった魂は合流して、ひとつになったという錯覚をつかめるまでになるのだろうか。

「奈美がいなくなった途端に、無口なふたりになった」
「ふたりとも、それほど、無口でもないのにね。ごめん」
「謝ることなんかないよ。ただの事実だから」
「緊張と汗をともなった事実か」

 それでも、門から出る水は徐々に少なくなった。奈美の実家で昼食をとり、解放された午後だった。ぼくらは関係性を深めるために親を利用としていたわけでもない。ただ、奈美がたまには週末に両親と会いたい、といったので計画もなく、「ぼくも行こうか?」と訊いただけだった。奈美はどっちでも良さそうだった。少なくともぼくにはそう思えた。

 そう言った昨日の夕方は大雨だった。バケツを引っくり返すという形容詞を数段、越えるような雨足だった。4tトラック数台分を裏返しにしたような雨量だ。閉め切った窓からも雨粒が叩きつける音が聞こえた。しかし、今朝は一転して晴れていた。なにも、ぼくらは決めることができないという不安と、また大局では誰かが制御しているという安心感も同時にあった。あの水門のように。

「これから、発展するんだろうかね、ぼくと」
「お父さん?」奈美は水の流れから目を逸らす。「別にお父さんと結婚するわけでもないしね。いま、結婚って、わたし言った?」
「言った」

「言葉の綾だよ。そう思っている訳じゃない。ごめんね、そう思っていないわけでもない。なんか、こんがらがった」奈美はそれで、笑う。ぼくらの仲ではじめてその二文字が使われた最初の機会となった。それは親しくなることのゴールとして使われた言葉であり、契約とか誓約がともなうことの象徴ではなかった。

 ぼくは言い訳を探している。どこかで、ぼくにとって最良の女性は手放したなかにいたのだという懸念が消えなかった。その心配と焦燥を奈美に向けるのは、どうやってもフェアではなかったので、ぼくは奈美の父を悪役にするという誘惑をもちこんでいるのだろう。ぼくだって、本気をだせばうまくやれるはずだった。もう一歩の努力を敢えて怠った。だが、むかしの思いが大量にほとばしる訳でもない。ときおり、思い出したように屋根のひさしから頭のてっぺんに水滴が落ちるだけだ。地肌に触れる。その驚きと戸惑いを、ぼくは大げさに受け止めようと努力していた。

「歩こうか?」

 ぼくらはどこに行くという予定もなかった。ただ、駅には向かっていた。昨日は奈美の家にいた。今日は、ぼくの家の近くに行くかもしれない。また、全然別のところに行くのかもしれない。ぼくはなんとなく疲れていた。その所為か電車に乗ると居眠りをしてしまった。奈美の身体にぼくは重心をのせた。他人ではないというのは結局のところ、こういうことや態度を言うのだろう。ささいな仕草に愛情の灯りを感じ、ささいな仕草に愛情の終焉を感じる。前の女性のそのようなあらわれを、ぼくはどこで感じてしまったのだろう。不思議なことにあんなにも重要だったことをいまのぼくは思い出せないでいた。しかし、寄りかかっているのをぼくはその女性だと勘違いしていた。名前を呼び間違えるようなことはない。だが、それは容疑としては小さなものでもなかった。しかし、ぼくは疑われずにいる。もしかしたら、奈美の父はその裏面を感じ取っているのかもしれない。自分の娘への愛情を幾分すくなく示す恋人。ぼくは目を覚ます。散々、ほかの女性のことを考えておきながら、目がさめていちばんはじめに見たいのは奈美の顔であり、姿だった。静かに流れる川の土手も、ぼくは今後も奈美といっしょに歩くのだろう。大雨が降っても、日照りがつづいたとしても。

流求と覚醒の街角(28)ベランダ

2013年07月21日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(28)ベランダ

 翌朝、奈美はベランダで洗濯物を干していた。ぼくは夢のなかにいつづけようと努力して目をつぶっていたが、鳥の声が耳に入ってくると、もう駄目だった。あと五分だけと未練たらしく望む平日ではないことも逆に眠りを遠ざける作用があるようだった。彼女の家のベランダ側には川があることによって景観を遮るものがなかった。ちょっとした空間があって、川沿いの樹木が爽やかさをもたらし、対岸のマンションもすべてが露になっている訳ではない。春になれば、それは多分、ピンクに色づくのだ。そのときには、ぼくも早起きをしてそのベランダから花々を見ようと思う。

 彼女は鼻歌をうたっている。大きなものが干され、乾燥をまつ。

「起きた?」

 彼女はこちらに視線を向けないまま、そう言ってラジオをつけた。ぼくは首元に汗をかいた感触があった。
「洗濯したのに、悪いな。なんだか汗ばんでる」
「また、明日でもするからいいよ」
 彼女は背中を向けたまま冷蔵庫のなかを点検している。
「冷たいものでも飲む? あったかいのがいい?」
「冷たいの」ぼくはそう言ってからベランダに向かった。自転車に乗った野球少年らしいユニフォーム姿の子が通り過ぎるのが見えた。「このそばにグランドなんかあるんだっけ?」
「学校のなかじゃないの。たまに夜遅くまでやってるから。仕事帰りに見るときもあるよ」

 鳥が木を渡っている。その生き物はこちらを見る。部屋のなかのぼくらの関係性を確認するように。
「この景色、いいよね」奈美は直ぐ、後ろにいた。手にはグラスがあった。「あそこのベンチに朝、散歩なのか老夫婦がすわっていて、ほのぼのとしていいなとか思うことがあるんだ。いまは誰もいないけど」
「ここにいるだけで、いろいろあるんだね」
「生活がね、あるから」
「じゃあ、引っ越したくない?」
「いまのところは。通勤もそれほどきつくないし」
「どれぐらいだっけ?」
「三十分もかからない」

 ぼくはアイスコーヒーを飲む。無意識に自分の頬を撫でると、ざらざらとしたものが手に触れる。次に髪に触る。寝癖でぼさぼさだった。好きな相手に気に入られるため、髪形や清潔感を最前にもってくる。当初は。しかし、夜もいっしょに過ごすようになれば、見られたくない部分も見られてしまう。そう思いながら、後ろを向くと、奈美の顔には化粧の気配はなかったが、髪型はきちんと整っていた。
「どうしたの?」
「頭、ぼさぼさで悪いなって」
「なに、格好をつけてるの」

 ぼく用の歯ブラシがある。それを咥えて鏡に向かう。洗面所は玄関側にある。だから、川とは反対だ。こちらには小さな路地があって、昨日、寄ったコンビ二もその先にあった。ぼくらは仕度を済ませ、外にでた。川沿いを歩く。先ほど、奈美が言ったベンチにぼくらも座ってみた。朝の散歩の途中の一休みをしている老夫婦。彼らは激しい喧嘩などしない年代になっているのだろうと勝手に決める。すべてを乗り越えた優しさとなだらかさがその関係を美しいものにする。一飛びにはできないものだ。ぼくは奈美とそういう接点がつくられていくことを望んだ。すると、もっともっと互いのことを知ることが必要だった。奈美の化粧のない顔を見て、ぼくは寝癖を見られる。風邪をこじらす時期もいつかあるのかもしれない。互いの看病もあって、いたわりも生まれる。いつか、そうなるのかもしれない。

 ぼくらはまた歩き出す。校庭があって、その周囲には小さなサイズの自転車が停まっている。なかでは金属バットの音がする。彼らは、何時間ぐらい練習するのだろう。そして、彼らも誰かのことを好きになる。何十年も経って、朝の散歩時にベンチにすわる。やはり、誰一人としてそんな未来を想像していないだろう。今日も全力で走れるならば、明日はもっと速く走れるのだ。昨日より打ったボールの飛距離は伸び、自転車も大きな車輪のものになる。好きになった少女たちも昨日より確実に大人になり、きれいになるのだ。

「あれだけ動いたら、ご飯もおいしいでしょうね」
「お母さんも作り甲斐があるよ」
「やっぱり、男の子と女の子じゃ食欲が違うもんね」

 たくさん食べる子どもがいいのか、愛想の良い可愛らしい女の子を育てる方が楽しいのか、ぼくには分からない。どちらもいればいいのだろう。だが、どちらかでも幸福に間違いはなさそうだった。

 ぼくらは駅に向かって歩いた。この駅を奈美とは無関係に想像することは今後、できなくなる。ぼくらはそういうものを採集して生活しているのだ。あの場所。あの音楽。あの川。あのベンチ。そして、あのベランダ。奈美の家のラジオ。彼女の鼻歌。すべては消え去るものであり、すべてを通過して忘れてしまう人間でもあるぼくだった。あの少年の日の頑張り。スポーツをしている姿をあの当時の意中の少女が見てくれるという喜び。だから、もっと頑張ったのだ。ぼくは頑張りと安定との差を考えていた。継続と最初の芽生えのようなものも。あるものと、なくなったもの。そう思っていると電車がきた。ふたりは同じ車両に乗る。同じところに運ばれる。ベランダから見えるベンチは動かないが、この座席は移動をしてくれるのだ。それは時間でもあり、場所だった。昨日より速く走ることなど望んでもいないし、もう無理だろう。その代わりに別の乗り物があるのだ。車窓から見知らぬ家のベランダが見える。あのなかにも、いくつもの暮らしがあるのだ。確かめてみなくても実際にあるのだ。踏み切りの音が聞こえるように。

流求と覚醒の街角(27)電球

2013年07月20日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(27)電球

 奈美の家にいる。電気のスイッチに触れてもいないのに、急に暗くなった。天井を見上げると、いままで照明器具の影響が及んでいたはずのところは真っ暗だった。

「停電?」
「違うだろう、テレビもついているし」その他、さまざまな時刻の点りが部屋中にあることを知る。「替えは?」
「ないよ。ここに住んでから、はじめてだから、こういうの。どういう形なんだろう」彼女の腕は想像につられて円を作った。「見てくれる?」

 ぼくは椅子をもってきて、照明器具のカバーを外した。奈美はそれを下で受け取る。
「汚いね。雑巾あったかな」

 ぼくは数字の組み合わせをメモして、出掛ける。
「電気屋は開いてないけど、コンビ二でも置いてあるだろう。買ってくるよ」
「ありがとう」

 ぼくは靴をつっかけ歩いている。いままで、普通に点っている間は気にもしない。それが停まったときに、はじめて存在があらわになる。だが、新しいものに取り換えさえすれば済むことも多くある。この場合も。もちろん、済まないこともたくさんある。喪失というものが、本質的にどういうものか分からずにいたころの自分を思い出す。そして、店の前に来てもぼくは敢えてその状態を取り戻そうとしていた。

 蛍光灯の品数は少なかったけど、望んでいるものはきちんと置いてあった。予備はいらないだろう。そもそも、別の部屋はどういうものを使っているのかも分からない。トイレは? 風呂場は? 考えてみれば、自分のアパートですら具体的な形状を思い出せないでいた。

 ぼくはレジで代金を支払い、店を出る。どこの町でも夜と自分の活力をもてあます若者が店の前にいた。彼らのひとりはスクーターのエンジン音を無駄に響かせていた。ヘルメットの紐を首にかけ、赤っぽい色の頭髪を外灯のしたにさらしていた。奈美は、ここでひとりで買い物にくるのだろう、と不安な気持ちを抱きながら思い出す。

 ぼくはまた元の道を歩いている。数字の書いてあるメモをレシートといっしょにゴミ箱に捨ててしまった。明日になれば、もう同じものを覚えているかも分からない。蛍光灯など、似たり寄ったりなのだ。そこに、個性などそうはない。女性というグループの数人。奈美と前の女性。彼女たちは別の女性だ。ぼくは歩きながら、前の女性の顔を思い出そうとしていた。だが、段々とその通常だと思っていた過程が困難なものに移ってきたことに驚いていた。いつか、まったく思い出せなくなる日だって来るのだ。そう遠くないうちに。その状態もやり切れないものだった。だが、いくら思い出せなくなったとしても、ぼくには痛みだけは残ってほしいと思っている。それを手放す勇気も決心もなかった。だが、未来のことはなにも分からない。ただ、痛みだけがぼくが彼女を愛した確かな証拠になり得るのだ。陪審員は信じないにしても。

 部屋に戻り、ぼくは椅子の上にまた乗った。何度か金属的なものがこすれ合う音がして、ぴったりとはまった。それから、きれいに拭かれたカバーをはめた。

「点灯!」
 と、奈美は言った。まるでオリンピックの聖火を見守るように。
「点いた」
「明るくなった。ねえ、そんな顔だったの?」奈美はふざけたような声を出して、椅子から降りるぼくの顔をのぞきこんだ。
「去年も来年もずっと、おそらくこんな顔だよ」

 古くなった蛍光灯を新品のものが入っていた箱に入れる。あとはゴミに出すか、正当な廃棄場所にもっていけば終わりだ。その後、回収されてからどういう経路をたどるのかは知らない。痛みも喪失もない。また、日常が戻る。スイッチを押せば、電気がつく暮らしに。
「コンビ二の前に、あまり性質が良くなさそうな子たちがいたね」
「そうでもないでしょう。偏見に過ぎない?」
「そうかね」
「大事に思ってくれてる?」
「それは、もう」
「そうなんだ。でも、ひとりで明かりがないところで待っているのも淋しいものだった。いっしょに買いに行けば良かったなって、ちょっと後悔したぐらい」
「こんな短い時間なのに」
「でも、待つってそういうことでしょう」
「待たせる方がいい?」
「どっちかなら、そう」

 ぼくはトイレに入る。自分の家の殺風景なそれとは違い、手がかかっている場所だった。何枚か絵葉書が貼ってある。多分、スイスかどこかの緑の景色。ぼくは上を見る。やはり、電球がある。日に何度かしか点さないものだけど、重要なものである。一日のうちに数回しか使わないものもたくさんある。例えば、歯ブラシ。数日に一度のものもある。洗濯機や掃除機。月に一度はどういうものが該当するのだろう。年に一度は何があてはまるのだろう。

 貴重なものが段々と価値を目減りさせていく。真新しいスーツは、いささかくたびれてくる。しかし、失ったがゆえに価値を増すものもあるのだろう。若さや情熱。新鮮な気分。トライしてみようとなにかを決断したときの気持ち。コンビ二の前の子たちも何かに挑もうとするのだろうか。それを評価してくれる社会や大人の目はあるのだろうか。
「シャワーを浴びるね」と言って奈美は消えた。そこにも電球がある。真っ暗ななかで自分の汚れを洗い流すのも不安なものだろう。もう子ども時代のような実際の汚れを目にすることはなくなる。服もどろどろになるほどは汚さない。爪は砂遊びのためのものではなく、色彩を目立たせるために使う箇所なのだ。ぼくはいたずらで一瞬だけ風呂場の電気を消す。なかから悲鳴のような声が聞こえ、軽くぼくをののしる声がつづいた。

流求と覚醒の街角(26)文房具

2013年07月19日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(26)文房具

 奈美は手紙を書いている。お世話になった方と継続的に手紙をやり取りしているそうだ。儀式のように、その為の専用のペンがあった。酷使されなくても時間の経過とともにものは劣化していく。彼女は頑なにそのペンではないと駄目だと言った。だが、どこにでもあって簡単に手に入るというものではなく、一部の場所で、一部の愛好家のために売られているらしい。ぼくも、奈美の手元にあるのを見るまで、その存在を知らなかった。野球選手が愛用のバットの握り部分で成績の好悪が分かれてしまうように、彼女の気分もそれでないとどうやら乗らないらしかった。

 なぜなら、そういう交流をはじめようとしたときに、ふたりでそれをセットで買ったのだ。相手がいまだにそれを使っていることは判然としないが、手紙のインクの筆跡やにじみ具合で、多分、彼女もまだ使用しつづけていることは予想がつくと言った。だから、自分が先にやめる訳にはいかない。まあ、理屈としては、また感情を納得させるためだけだとしても当然のことなのだろう。

「どんなことを、いつも、書いてるの?」

 普通の好奇心の持ち主として、ぼくはそう訊く。彼女が夢中になって、ぼくのことを忘れて書いたり読んだりするぐらいだから、とても大切なことが認められているのだろう。だが、彼女らが会うことはなく、ぼくは写真を見てもいなかった。もちろん、無許可で手紙を読むことなどもしない。秘密は、きちんと見守る側の意志が働いてこそ、秘密としての立場が守られ、貴くなっていくものだろう。勝手な解釈でありながらも。

「普通は、言わないでしょう?」
「言わないね」ぼくは自分が秘密にしたいことを考えるも、まったく思い浮かばなかった。「でも、会いたくならないの? それが、いちばん手っ取り早い」
「会えないところにいるんだよね」その言葉に反応したぼくのきょとんとした顔を認めてから、「嘘だけどね」と付け加えた。「会って話したら、恥ずかしいようなことを、もうお互いはたくさん知ってしまっているし、会話としてリズムが合うのかももう思い出せない」ふと、さびしい様子を見せて、奈美は答えた。
 ぼくらは文房具屋に向かっている。

「例えば、ひとりでお留守番をして、お母さん、少し遅くなるけど、このおやつ食べてて待っててね、というメモがあるでしょう」奈美はその情景を思い出したかのように一瞬だけ目をつぶって言った。
「あるの?」
「あったの。あれが、ひとにできる、家族にできる最高のプレゼントじゃないかなと、最近、思っている」
「奈美は字もきれいだし」
「きれいじゃないよ」
「もし、外回りでもして疲れて、奈美みたいな字で、オフィスの机に、お疲れさま、みたいなメモがのこってたら男性ならイチコロだよ」
「なんだ、それじゃ、手紙信奉者じゃない」味方が増えたことを喜んだような口調だった。「そうかな。じゃあ、今度やってみる。でも、相手が浮かばないけどな」

 ぼくらはそれからしばらくして店内に入った。ノートがあり、もちらん一対となるペンがある。しゃれたデザインの小型の照明器具もある。机の端にあれが置いてあれば、ずっとそこに座っていたくなるようなものだった。さらには、トランプなどもあった。そして、カレンダーもたくさんの種類が置いてあった。この時期から、あらたにカレンダーなど揃えるひともいないだろうにと首を傾げたくなるほどのたくさんのものがあった。

 ぼくはぶらぶらと興味をひかれるままに動いていたが、反対に奈美は一直線に目的の売り場に向かった。ぼくは、少し経ってからその場所に向かった。ショーケースのなかには、これまた多くのペンや万年筆が横たわっている。それはもう道具ではなく、装飾品の一部なのだというものもあった。指紋をつけるのも惜しいぐらいなたたずまいで。

 奈美の背中が見える。前には長身の男性店員が奈美を見下ろすように立っていた。彼はいつ文房具を売る機会を見つけたのだろう。それとも、老舗というのは親の役目を譲り受けることを総体的に指しているのだろうか。それにしては、男性店員もそれなりにいた。

「どうですか、滑らかでしょう?」近くによると、彼の声が聞こえる。低く抑えられた声。きちんと抑制された声質と感情。驚きはないが、満足感は伝えられる音。
「そうですね。いままで、大事にしていたものと同じ感触」
「どれぐらい、お使いだったんですか?」
「高校を卒業したあとだから・・・」それだけで通じると思ったのか奈美はそれ以上言わなかった。
「もっと、もつと思うんですけどね」店員は少し不服らしかった。自分の分身があまりにも早く寿命を全うすることについて。
「思い出の品だから、丁寧につかっていたのに」そこで、奈美は振り返った。「やっぱり、あったよ」

「じゃあ、これからも書けるね」ぼくは学生時代に習ったことわざを思い出していた。筆を選ばないということを。前の女性の母は画家だった。だから、彼女の家にはたくさんの用途に合わせて筆が並べられていた。何でもいいというのは素人の考えに過ぎないのだろうか。相性もある。馴染んだものを失ったさびしさがある。奈美の母は出掛ける前にささっとメモをテーブルの上にでも置いたのだろう。そのささいな行為が優しさの源だった。ここにあなたがいて、これをあなたは読むという確信がともなって。奈美は手近にあるメモ帳に文字を書いた。いや、それは文字ではない。ただの回転の軌跡。それでも、ぼくは奈美の口かも漏れる声や湿度が加わった音でぼくに話しかけてほしかった。それ以外は、具体的に幸福を持ち込むのかどうかも分からなかった。