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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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流求と覚醒の街角(25)試聴

2013年07月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(25)試聴

 奈美の両耳は大きなヘッド・ホンで覆われている。いまはCDショップにいて、彼女の好きな音楽家の新譜が発売されたばかりなのだ。彼女はすべてを揃えているので当然、購入するのは分かっているのだが、一曲まるまる直ぐにでも聞きたいというので、それを耳に密着させていた。彼女のこころも感情も、いまは音楽がもたらす陶酔に奪い去られている。曲の長さは、20数分あるらしい。ぼくは別のブースに行くことにした。

 そこにはレイ・チャールズがいる。感情を出し惜しみしないタイプの音楽が所狭しと置かれている。並べられている棚を探り、ぼくはジャケットだけで価値を評価する。その行為は無謀でもありながらも、間違う要素もそれほどはなかった。大体は予測がつき、また予想を上回る何かがあることも実際に耳にすれば得られることも予感できた。だから、ぼくも同じように試聴をはじめた。数枚のCDが機械にはいっており、順番に聴き始めた。やっぱり、こうだよなという安心がぼくの胸元にせまってくる。奈美の聞いている音楽にはひとの声が含まれていない。それも音楽ならば、ぼくが求めているものも紛れもなく音楽だった。よりヒューマンな音楽だった。

 ぼくはまた別のジャンルの場所に行く。その際に奈美のいるところも通りかかる。彼女の背中が見える。足も見えて、華奢な靴も見える。その女性のこころを奪うなにかが自分以外のものであることを実感する。それも、仕方がないのだ。平日の多くの時間は彼女のこころも思いも仕事が割合として多く占め、夕方も過ぎればぼくのことを思い出すのかもしれない。自分もまったく似たようなものだった。それは熱情が足りないという類いのものでもないのだろう。ぼくらは10代の半ばのすべてがみずみずしく新鮮なもので取り囲まれている状況ではなかったのだ。社会を構成する、それははずれの場所にぎりぎりにいるのかもしれないが、そこにも場がある人間だった。

 だが、ぼくは前の女性のことは寝ても覚めても先頭にもってきていた時期がある。いや、もってきたという表現も間違っていた。勝手にぼくの気持ちのいちばんを占めてしまっていたのだ。それが急になくなっても、しばらくはやはり傷みとともにいちばんを占めていた。

 ぼくはその女性と聞いていた思い出が濃密に含まれている音楽のジャケットを手にする。その行為だけでさまざまなものが浮かび上がる。ある日のことが映像や言葉や匂いというデータを含んで、そこにあらわれる。ぼくの胸はその事柄に影響を受ける。懐かしさと甘酢っぽさと感傷と優越感と喪失がミックスされたものをもってくる。家に帰ったらそれを深めるために、再認識するためにもう一度聴こうと思った。

「それ、どんな音楽」

 油断しているぼくの背中を奈美が軽く叩く。
「これね・・・」
「うん?」奈美は答えを待っている。ぼくの口にも舌にも答えは準備されていない。ぼくは、今後、何を聴けば奈美のことを思い出すのだろうかと、そのことばかり考えようとしていた。
「やっぱり、買うの?」

「うん、部屋で大きな音で聞きたいから」そう言うと、奈美はプラスチックのケースをレジに持っていった。ぼくは、はじめて買った、あるいは聴いた音楽のことを考えていた。無骨な黒い円盤。いま振り返れば、あのぐらいの大きさを伴ってはじめて所有という感覚が生まれるような気もする。すると直ぐに奈美は戻ってきた。

 ぼくらはお茶をするためにある店に入った。静かに音楽が流れている。トロンボーンののどかな音色が休日の午後には相応しかった。その音色は誰の声よりもぬくもりがあるように響いた。声というのもおそらくすべてのひとが違うのだろう。電話を通しても、すこし電子的な感じがするときもあるが、それが聞き覚えのある声ならば簡単に分かる。体調や機嫌の浮き沈みさえ理解する。しかし、自分の声をはじめてテープで聞いたときは、それが誰の声かが分からなかった。結局は、自分というものを外部からあらためて判断しようとすることがとにかく難しいのかもしれない。

「自分の声、聞いたことある?」ぼくは会話をそう差し向ける。
「うん? あるよ、当然」
「違うよ、テープとかで録音したものをあらためて」

 ぼくらは留守電できくのも家族や友人などの伝言であり、自分以外の声を耳にするのだ。意図しなければ。
「あるね、気持ち悪かった」
「もし、歌手とかで、急に自分の声を、こういう場所できいたら、やっぱり、同じなのかね」
「それは、もう違うでしょう。そういうことに、いつの間にかなれちゃうでしょう」

 ある種のデザインをするひとは、自分のつくったものを採点する必要がある。時間の経過とともに手直しをしたくなる欲求もあるだろう。だが、それは生身とか肉声とかとは違ったものだった。密着したものではなく、客観視しやすくもある。ぼくは、その午後にしゃべる奈美の声を気に入っていた。そのことを納得するために、かなりの時間を要してしまったようだった。それは、それで悪いことではまったくなかったのだが。

流求と覚醒の街角(24)靴下

2013年07月14日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(24)靴下

 靴下に穴が開いていた。奈美の家にあがると、ぼくはそのことに気付く。擦り切れそうになったり薄くなっているとも今朝履くときは思っていなかった。ただ、一日を終えて、急にこの状態に気付いたのだ。

「うちのお父さん、そういうのをいちばん嫌ったな」と奈美はひとこと漏らす。「母親の管理能力のことも。洗濯を終えてたたむときに処分できるだろうって。合理主義」

 ぼくは聞くともなく姿勢で耳に入れ、それから素足になった。新しい替えもない。帰りにどこかで買おうと思った。良い機会なので爪切りを借り、自分の爪を切った。その行為自体が恋愛に神秘など求めていない証拠だった。ぼくは前の女性が爪を切る姿など見たこともないことを知る。ぼくが切り終えると奈美も同じように爪を切った。手はどこかできれいに手入れされているのだろう。足というものは普段は隠れ、ないがしろにされている存在なのか。一日のなかでもっとも働かされながらも文句も言わず、感謝の言葉も求めず、また明日がはじまるまでじっと黙って休息をとる。たまに、どこかの角でぶつけたときぐらいに自己主張をするだけだ。まったくもって静かな生き物だ。

 だが、爪を切る際にはその無防備なものも注視される。しかし、ほんの数秒だ。また気にされない存在に直ぐに戻る。理にかなったダブル・プレーの名手のように。はやる気持ちは次の回の攻撃へ。
 ぼくらは普通に夕ご飯を共にし、夜になれば抱き合った。ぼくは奈美の足のうらをくすぐる。なぜか、しない訳にはいかなかった。そのうちに彼女は寝る。ぼくは、なぜか眠れなかった。羊の数ではなく、生涯で履く靴下の数を予想する。さらには、別のジャンルでも考える。そして、自分は何人のひとのことを、自分以上にという意味合いで好きになるのか、好きになれるのか考えていたが、そのうちに眠ってしまった。

 翌朝、出掛けにぼくはやはり穴の開いた靴下を履かざるを得なかった。いっしょに奈美と外出して、駅ビルのなかの洋服屋で3足をまとめて買った。サイズを見れば、それは試着などいらないものなのだ。ぼくは早速、トイレでそのうちの一つに履き替えた。奈美は別の洋服屋に行った。ぼくはまた靴を履き、靴下の存在のことなどすっかり忘れた。

 ぼくは昨夜、熟睡をしている積りだったが(そもそも意識がある状態で寝ているはずもないが)それでも夜中に目を覚ました。目覚まし時計が発する時刻を気にしながら、ぼくの隣には何人の女性が寝ることになるのだろう、とも考えていた。それは安心が伴うというのが必然的な条件でもあるようだった。奈美はぐっすりと寝ていた。化粧のない顔。いくらか若返って幼く見える顔。暗い中でもそれらのことは分かった。いや、あえて、分かろうと努力しただけなのかもしれない。

 ぼくは洗面所で手を洗い、奈美の姿を探した。いくつか店のなかを見ると、彼女の後ろ姿があった。それほどかかとの高くない靴を履き、足は素足だった。指の爪には緑色が塗ってあった。進めという信号の合図のように色鮮やかなものだった。

 彼女はいくつか目ぼしいものを探しながらも結局は洋服のどれも買わなかった。ぼくらは外に出て信号が青になるのを待っている。だから、いまは赤が点灯していることになる。ぼくは、生涯、どれほどの時間を信号が変わるのを待つために時間を費やすのだろう、と考えている。ぼくは何人に告白をして、何人に了承を得られるのだろう。その為に何回、電話をかけるのだろう。しかし、もう新たな誰かを好きになることもないのかもしれない。今回で打ち止め。来年の春に桜が咲いても、ぼくはずっと同じひとを愛し、その継続に力を使うことになるのだ。それも悪くない。靴下はけっして穴を開けることはない。もし、そうなる可能性があれば、きっちりと繕うことにしよう。そのノウハウを入手することにしよう。

「靴下、気に入った?」と、奈美が質問をする。
「気に入るも何も、下着や靴下にそんなに関心をもったこともないよ」
「やっぱり、男性だね」と、奈美はあきれたような表情を浮かべながら言葉をもらした。「もし、わたしがつまらない格好をしてたら、どう?」
「それも、困るだろうけど」

 ぼくは、何度そういうチャンスにめぐり合うのだろう。めぐり合う機会を見つけるのだろう。そして、相手と自分の気持ちを焦らすのだろう。ぼくはそのために何分時間を使うのだろう。穴があいた靴下はどこかに消えた。奈美は半永久的にぼくの前から消えないだろう。実際の人間は変化をしてしまうかもしれないが、今日の奈美はぼくのなかに居場所を作る。確証はないが例えば、ぼくの気持ちに大きな穴があって、すっぽりと落としてしまうこともあるかもしれない。それもまた奈美の父は嫌うだろう。すると、信号は変わった。靴の中には布がある。奈美もいくつもの生地にかこわれている。だが、靴下は履いていない。そのためもう一度、爪を見る。10という数字は整然としているが、その形自体は無秩序の産物のようでもあった。それでも、ぼくは良かったのだ。休日に、いつもながらの秩序などいらないのだ。このことも、奈美の父は嫌うのかもしれないが。

流求と覚醒の街角(23)粒子

2013年07月13日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(23)粒子

 ぼくと奈美は、なだらかな丘のうえを歩いている。その丘の斜面から見下ろすと海も見えるので、山にいるという感じもしない。海鳥もそう遠くないところを飛んでいる。悲鳴のような泣き声を時おり空に撒き散らして。平野がずっと意識もなくつづくという場所ではないようだ。日本の海岸線の多くはそうかもしれず、山に遊びに行くという行為と、海に行くという楽しみをはっきりと分けていた都会育ちの自分にはよく分からないものだった。

 ここにとどまっていると空気が澄んでいることが理解できる。必要以上に呼吸を調節しなくても、自然と身体のなかまでも洗われていくようだった。視野もすこし拡がったような感じもする。光の粒子が葉っぱに当たり、その粒がはねかえって自分に当たる。奈美の髪にも注がれる。世界は輝きに満ちていた。

 なだらかな丘は微妙にくだったり、登り坂に変化した。ぼくらはどこかに向かっている訳でもない。かといって、立ち止まったままでいるには快活すぎた。そして、気分も高揚させるような日差しと空気が充満していたのだ。すると、小さな神を奉ったような場所があった。

「祈ろうっか」と、奈美は無邪気に言った。そして、石が点々と敷き詰められ、その石の表面も磨耗して滑りやすそうなうえを奈美は軽やかに歩いていった。ぼくは意味もなく後を追わず、その場に立ち尽くした。「どうしたの?」と、奈美は振り返って訊く。すこし肌寒い風が吹いた。カサカサと乾いた音を葉っぱは鳴らした。

 ぼくは自分の気持ちを分析する。前の女性と別れたことは不本意だった。失ったものが大き過ぎて様々なものに頼ろうとした。しかし、何をしても、それはもう戻ってこなかった。ぼくはあの日を境に自分の力以上になれそうなものを信じなくなり、また許そうともしなかった。頼ることを自分に許そうともせず、せっかく頼ったのに改善してくれなかった何かを許してもいなかった。

 奈美はあきらめてひとりで歩いていった。ぼくは立ち止まったまま反対側に振り返り、ぼんやりと小さく見える漁船などを見た。

 しかし、ぼくは失ったものを過大に評価して祈るのをやめたが、反対に新しく与えられたものを喜びとともに気軽に有り難がっても良かったのだ。いま考えれば。その後ろ向きな考えが祈りや憧憬を否定し、未来の道をすぼませているようだった。奈美はぼくとの出会いをいままさに感謝しているのかもしれない。その永続性を願っているのかもしれない。目をつぶり、首を少し下に向け。

 ぼくは自暴自棄に陥りそうだった過去の自分をそこで取り戻していた。あれは、祈りで解決するものではなかったのかもしれない、数本の電話や、いくつかのプレゼントが功を奏したのかもしれない。いや、自分の気持ちをありのままに、誠意という状態さえ忘れたぐらいに無心にもう一度ぶつかれば良かったのだ。だが、ぼくはしなかった。その責任をどこかに、何かになすり付けようとしているのだろう。それは誰かにとっても迷惑だろうが、ぼくはそうでもしなければ生き延びられなかったのだ。少なくとも、あの当時は。

 ぼくはそこで目をつぶる。感謝したいことを探す。やはり、奈美と会えてよかった。必然的に恋人になるには前の女性との関係が清算されていなければならない。辛さや過酷さを伴うとしても。ぼくはあの経験を通して、女性に求めるものが変わったのだろうか。変わるということは一体どういうことなのだろう。あの素晴らしい要素をもっているひとを他のひとにも求める。それは不可能なことだ。さらに不可解でもある。あの嫌な部分だけは絶対に拒絶しよう。その決意がいらないほど、前の女性に対して、ぼくの採点は甘かった。過保護な親以上にぼくはただ惚れていたのだ。

 奈美はだいぶ経ってから戻ってきた。そして、「清々しい場所だったよ」と言葉を告げた。
「どんなことを願うの?」ぼくは、興味本位で訊いた。
「内緒だよ」奈美はぼくの横に来て、やはり同じように海岸線を覗き込んだ。「ほんとは、わたしのお父さん、もっと親しみやすいひとになればいいのにな、とか」
「なんだ、ぼくのこと、認めてないのか・・・」
「違うよ。いつも、そうだから」

 奈美もまた別れを経験しないとぼくには出会わなかったのだ。古い童話のように決まったひとりが存在するわけではない。擦りむいたひざや、縫った傷を通して、怖さや痛みをかばいながら、ぼくらは新しいものに向かうのだ。しかし、許さないという感情も根底にはのこっている。それは、意識しすぎているという当然な回答につながる過程だった。ぼくはあの小さく見える漁船を憎みもしないだろう。自由に飛び回っている鳥を憎みもしない。奈美の父はぼくを許さなくなることはあり得た。最愛の娘を傷つけでもしたら、ぼくは憎悪の対象になるのだ。人間が生きるということには、些細でもない困難やとげが待ち受けているようだった。だが、それでも、奈美に出会えたことは良かったのだ。

 ぼくらは長い階段をくだる。奈美があそこで願ったことはそのまま浮遊し置き去りにされてしまう。それを何かが適切なタイミングでつまみあげ、奈美の現在の場所を探しもせずに与えてくれる。彼女に幸せだけが来ればいい。ぼくは、そういう類いのことを願っても良かったのだ。階段を降り切ってしまった自分は、まだ自分だけで解決することを求める人間になった。ぼくは奈美を幸せにする力を有しており、それと同時に奪われてしまう機会があれば、それさえも避けられない無力な男でもあるのだ。だが、いまは横にいる。考えてみれば、それで充分なのだった。ぼくは振り返って坂の上を見上げる。草と木しか目に入らず、誰かの願いが浮遊している痕跡も無論どこにもなかった。

流求と覚醒の街角(22)スピード

2013年07月07日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(22)スピード

 ガソリンスタンドで停まって給油してもらい、サービスエリアで一定した姿勢から解放され少しの間だけ寛いだ。ひとが移動することには疲れがともなう。だからといって敬遠することも無視することもできない。多くのひとがそうしている証拠がその場所にはあった。

 奈美は助手席で眠った。20数分間だけ眠った。ぼくは小さな音量で音楽を聴き、車が放つノイズも同時に聞いていた。ひとはしゃべらないと眠くなる。刺激も減れば、さらにその誘惑は加速する。そして、解消するために車を停めコーヒーを飲んだ。

 また車に戻る。印象的に、さらには効果的に車が使われている映画のことを話題にした。ぼくは、口には出さなかったが、「タッカー」という不思議な映画のことを先ず思い出していた。発明家のようにその主人公は扱われていた。未知なる斬新なものを作ろうとする願いは、利益にかかわるということで体制側につぶされる運命になる。競争を蹴散らした時点で、利益は転がってこようとも、そこは敗者の烙印が押される。企業という形のないものに、敗者の責任など無関係なのかもしれない。しかし、個人は自分の能力を閉ざされたことは、ずっと記憶に残りつづけるのだろう。

 ぼくらは、競争する社会に暮らしているのだ。ぼくは奈美をずっと愛すると思っているが、より彼女を愛するひとも出てくるのかもしれない。ぼくは、負けを認めるのだろうか。それとも、うまくかわすことができるのだろうか。

「フレンチ・コネクション」と奈美は言った。
「随分、古いね。見たこと、あったかな」ぼくは感想を漏らす。しかし、あのような運転はここではできないな、と思ったぐらいだから断片は覚えているのだろう。
「お父さんが、好きだったから、何度か、ビデオで見せられた」

 奈美のお父さんの情報が増える。ぼくのことをどう思っているかはいまだに分からない。競争社会なのだ。父が理想とする娘の恋人、いつか夫になるひとの合格点をクリアできるのか、それとも不足があるのか、不足がありながらもそれは我慢できる程度なのだろうか。そもそも、最初から論外だということもあるだろうが、会ってくれたぐらいだから、それも悲観しすぎているかもしれなかった。彼女の父はなにを競争するのだろう。自分の気持ちと現実だろうか。ならば、競争ではなく、比較とも折衷とも呼べた。

 いくつか映画の話題をした後に、奈美はまたうとうとした。ぼくは無口になる。今度は眠りの誘惑は近づいてこなかった。その代わりに前の女性の寝ている姿を思い出していた。

 彼女と飛行機に乗っている。彼女はいまは通路側にいた。暗くなった機内。ぼくは映画を見ている。もしかして、そこでフレンチ・コネクションを途切れ途切れに見たのかもしれなかった。彼女の頭はぼくの肩に乗せてある。寄りかかるその重みをぼくは一生、大事にしようとそこで決意したはずだった。だが、やはり、ここも競争社会の一部なのだろう。彼女の気持ちを引き止めることはできない。だから、ぼくはいまこうして、カー・チェースの映画を気に入っている女性と移動しているのだ。確実に、安全運転で。

「スピードか、あれはバスだけど」
「そうだね、あったね」ぼくは誰かと見たはずだ。その誰というあやふやな存在にしているが、答えはとうに出ている気もする。「でも、みな暴走しているものばっかりじゃない」
「この渋滞にいらいらしているのかもしれないね」
「でも、いつか着くよ」
「着かないと困るから。明日から仕事」

 ぼくはネクタイを結び、愛想笑いをする。何か偉大な発明をすることは求められてもいない。目の前に積まれているものを片付け、利益につなげるのだ。それで、ガソリンを入れられるぐらいの給料を手にする。あのタッカーという映画の主人公はその後、どうしたのだろう。いろいろなひとのその後をぼくは知らないことを理解する。知る権利があるのは家族やいっしょに働いているひとたちぐらいだろう。異動でもすれば、その状態も危なっかしくなる。奈美のその後。彼女は妻になり、母になる。その相手として自分はトップに立っている。しかし、これは競争でも何でもないのだと思おうとした。これには相性が大きく関わってくるのだ。ぼくらはいっしょに寝起きし、ご飯を食べて休日をともにした。まったく悪くない関係が構築されている。だが、不意にぼくは以前の女性を思い出すことがある。理由としてはよくは分からない。自分でも、奈美と付き合う前の空白の時間にきれいに置き去ってきたと思っていた。だが、奈美の一挙手一投足にも彼女のおぼろげな幻影が隠れていることを知る。

「死刑台のエレベーターがあるか。車が盗まれて、カメラも盗まれて、犯罪の証拠が簡単にひとの手に渡る」そう言うぼくは前の女性と撮った写真のことも思い出していた。ぼくか彼女しかもっていないものが確かにある。彼女はまだもっていてくれているのだろうか。もし、処分してしまえば、ぼくだけしか有していないことになる。でも、そのぼくも在り処をはっきりと思い出せないぐらいだった。

流求と覚醒の街角(21)捕獲

2013年07月06日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(21)捕獲

 ぼくが目を覚ますと、もう奈美はいなかった。そこが自分の家ではないことをぼくは熟睡しながらも、はっきりと理解していた。そこに奈美と来たことも、くっきりと分かっていた。突然、彼女が消えるということもないので、どこかに散歩に行くとか、こまごまとした、例えば洗面道具とか水とかを買いに出かけたのだろうとぼくはまだまだ眠い目をこすりながらも考えていた。

 所定の位置と勝手に決めた台の上には鍵がなかった。だから、ぼくがシャワーを浴びても彼女は入ってこられるだろうと安心して、ぼくは服を脱いだ。大きな鏡は自分が10代でも20代の前半でもないことをありのままに告げている。かといって悪いことでもなくこの状態を維持すればいいのだ、とぼくはひとごとのようにぼんやりと小さな決意をしていた。

 実際は違うのだが、シャワーの穴からも潮のにおいがするような印象があった。海沿いの町。大きなホテルでもなく、開発業者が回収を見込んで手をかけたリゾート地でもない。今後をどのように展開するかも視野にいれていないような場所だった。その朝にぼくはひとりだった。

 タオルを身体に巻きつけ、部屋にもどってテレビをつけた。ローカルなニュースは今日の天気を知らせてくれる。赤い太陽のマークがこれからの日程の快適さの分量のすべてを教えてくれる。すると、鍵があく音がした。

「起きたんだ」彼女はテーブルの上に鍵を置いた。もう片方の手は、後ろに隠されている。
「うん。どこ行ってたの?」
「昨日の河」
「なんかあった?」

「カニを見つけたかったから。何匹も、いたよ」奈美は後ろの手をもとに戻してビニール袋を前方に差し出した。そこには不思議な色の甲殻類がいた。彼女は薄い皿にも似たお盆のようなものをお茶のセットの下から探し、そこに水ごとカニを入れた。それが済むとベランダの窓を開け、そこに容器ごと置いた。
「やっぱり、いたんだ」
「なんか、信じてなかったみたいだから。違うかな、わたしも見たこと、信じていなかったのかも」彼女は屈んでじっとその姿を見ている。「可哀そうだから、あとで戻すけど。ちょっとだけね。ちょっとだけ、わたしにつかまる」
「ちょっとだけ、つかまる。奈美も、ぼくに」

「わたしは、ずっとだと思うけどね・・・」と、奈美は小さな声で言った。大きな鐘を打ち叩いて表明することもしないが、真実の響きがそこにはあった。ぼくはヨーロッパの国にいたときの前の女性とのひとときを思い出していた。彼女とぼくの間には揺るぎのない永続性が宿っていると信じており、あの遠くまで聞こえる鐘の音がそのすべてを表していた。しかし、絶対など存在しないのだといまのぼくは知っている。それは約束を放棄するという問題でもなかった。心変わりという簡単な、かつ単純な表現でもない。カニはこの浅い入れ物をいつか越えるのかもしれない。反対に、いくら努力しても縁はすべり、何本もの足があっても乗り越えることは不可能なのかもしれない。だが、誰も確かな答えなどもっていないのだ。少なくともこの今朝のひとときは。

「朝ごはんの時間も終わっちゃうよ」いつまでも、カニを見続けている奈美の背中にぼくはそう言葉をかけた。
「そうだね。干物とかシンプルな朝の食事かな」
「シンプルでも、都会で暮らしているぼくにとっては、とても贅沢なひとときだよ」
「いつか、毎日、食べさせてあげるようになるよ」

 奈美はそう言ったが、ぼくはそれを毎日望んでいる訳ではないのかもしれない。奈美との関係性ではなく、慌しい状況で食事など軽んじてしまう傾向と誘惑が都会には多いという問題としてであった。

 ぼくらは向かい合って食事をした。人間の衝動としての愛情が、こういう日常の営みの繰り返しによって磨耗され軽減されていく傾向や失跡があった。ぼくらは物語のなかの登場人物としての優雅なお姫様と王子様ではいられないのだ。時間がくれば腹が減り、ストレスが増えれば自分にも近くにいる相手にも意味もなくあたるのだ。その全てを含めて生きるということかもしれなかった。

 コーヒーを最後に飲み、ぼくらの食事は終わった。あとは荷物をまとめチェック・アウトするだけだ。

 部屋に戻り、奈美は化粧をはじめた。ぼくはまたテレビをつける。天気予報に変わりはない。この数分では物事の変化にはすべてが足りないのだ。ぼくは、靴下を履き、靴に足を入れた。靴のなかのどこかで、布を通してだか、直かにだが区別のつかないものだったが、海岸特有の微細な砂が入りこんで取り除くことのできない感触があった。

「用意できたよ。ベランダのあの子も、放してあげないと」

 ぼくは両手に荷物を持ち、奈美はまたビニールにカニを入れた。
「まだ、元気なの?」
「元気そうだよ。もとのところがいいんだよね」
「ちょっとの間つかまえて、また手放すんだな」ぼくは意味もなくそう言ったが、やはり、そこにはたくさんの意味も込められているような気がした。だが、ずっとこの小さな場所にいれば窒息するだけなのだろう。もっと似合いの場所がある。前の女性もそういう類いの場所を見つけたのだろう。そして、ぼくはこの奈美との関係を居心地のよいものと判断すること自体に疑いの破片すらも挟むことはなかった。負け惜しみにも似た気持ちもかすかにだがあった。

流求と覚醒の街角(20)タオル

2013年06月30日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(20)タオル

 奈美が帰ってくるのに時間がかかった。理由は河口で珍しいカニを見つけたからだと言った。それを描写するのが難しく後で帰りに見に行こうと誘われた。奈美は新しく買った傘をもう差し、借りたほうは閉じていた。どこかの骨が折れているのかその姿はどこかでいびつだった。店員の女性は奈美にタオルを無言で差し出した。それから、「大変だったね」という意味の言葉を地元の表現で発した。

 ぼくらは食堂の会計をすませ、身体を寄せ合い雨を避けながら河口を目指して歩いた。もともとその河を越えなければ泊まっている場所にたどり着けなかったので、遠回りという訳でもなかった。

「このあたり」と、奈美は言ってぬかるんだところを指差した。ぼくらはそこに降りたが、生き物らしきものは見当たらなかった。ただ、その名残りの穴がいくつも開いていて、たまにあぶくが下から浮かんできた。
「いるんだろうけどね」とぼくは言う。眠い朝に目覚ましで起こされる不快さをぼくは思い出している。彼らにも安眠を。
「雨のほうが活動的になるのかな?」
「さあ。夜中の寝静まったときに行動するのかも」
「夜型」
「そうかもね。プログラムされてるものは変わらないから」

 結局、奈美が見たものは確認できなかった。彼女の見たいくつものものもぼくは共有することができなかった。反対にぼくが経験し、また痛みをともないながら学習したものもきちんと正確な形や大きさで伝達することも不可能に近かった。最初から、形などないものかもしれない。ぼくは傘のしたにいながらそうしたことを考えていた。

 雨はなかなか止まず、ぼくらは部屋のなかで過ごすことを余儀なくされる。ぼくはシーツもめくらずにベッドの上に横たわる。眠りは遠い波から段々と足元を浸し、さらに首もとまで押し寄せてくるようだった。うとうとする。現実と、別の世界の中間点にぼくはただよう。
「シャワー浴びてくる。身体がべたべたする」

 そう奈美は言って、扉を閉めた。水が流れる音もかすかにしか聞こえない。ぼくはより一層、現実味を失い幻想の世界に迷い込む。

 前の女性とも旅行に行った。ぼくらは若かった。だから、はじめてすることが多いという事実につながる。前例はない。これも新鮮。あれも新鮮というシンプルな範疇にいつづける。そう思っていた。その同じ意味合いで大事なものや貴重なものの永続性も無視していた。いや、無視ということは知っていながらもあえて拒否する能動的な意図があるようだった。ただ、つづいていくという漠然とした安心感があったのだ。急カーブもなく、線路が途切れることなども知らない。なので、解決すべき議題もない。

 問題がもちあがりながらも、ぼくらには永続性の透明な約束があったのだと思っていた。それは言葉として残す必要もなく、証明する書類もいらなかった。明日も太陽がのぼり、月が顔を出すという運行といっしょで。

 いっしょにした経験のいくつかが彼女を失っても当然のこっている。その若い女性もこのようにシャワーを浴びて一瞬消えたはずだ。きつい化粧などする年代でもなかった。前後で印象がかわるということもない。ぼくは高校生の彼女すら知っていたのだ。その成長の過程を日々、刻々と自分の頭は意識もせずに記憶し続けていたのだ。だが、ある日からは知らない。そのスペースは真空のなかのように清浄に保たれている。子ども同士の恋愛のように。

 奈美との関係に醜さがある訳でもない。だが、ぼくらは大人になってから知り合った仲なのだ。過程というものを知り尽くすことはできない。彼女は完成されつつある感情をもち、ぼくも何かを変更するとか、そもそも仕事や大学を選択するという立場にもいなかった。遠い未来も計算しようと思えば、計算できた。その生涯での差も、それほど大きくない単位で予測できた。

 20数分もすると扉が開く音がした。ぼくは出てくるのがどうしても前の女性であると決め付けていた。彼女の方が好きだったという訳ではないのだろうが、最初の経験であったため原始的な壁画のようにぼくの深いところに刻み付けられてしまっているのだろう。誰が発見することもないのだが。

「眠っちゃってたの?」
「そうでもないけど、やっぱり、昼に飲むビールは効くね」
「夜ご飯、どうしようっか? このまま雨が降りつづけたら」
「このホテルの前に店があったじゃん。あそこは?」
「ひなびたところばっかり行ってる気がする」

「そういう場所なんだから、仕方がないよ」ぼくは前の女性に対して、そうした言葉を吐いていたのか自分を点検した。でも、実際はよく分からない。ただ、雨に見舞われた経験というのを思い出すのがなかなか難しかった。ぼくはのびをして窓辺に近寄り、薄いカーテンをひっぱって窓を開けた。
「きちんと服、着てないんだけど」奈美はそう告げる。大きなタオルにくるまれた格好で。
「外にはなにもないよ。見えるのは曇った空だけ」

 すると彼女もそのままの格好で窓辺に近づいた。ぼくは彼女の首を見る。骨の数も多分、同じ。筋肉の呼び名も等しい女性たち。だが、ふたりは確かに違かった。その差異への対応にぼくは戸惑っている。しかし、正確に突き詰めれば、困難さを時には引っ張り出そうとしているのだ。わざわざ藻掻こうとしている。足をわざとつらせてプールに飛び込む。その結果などには無頓着で、いまのぼくは目の前にあるものだけを大事にしようとした。またそれもどこかで手抜かりがあるようだった。

流求と覚醒の街角(19)砂浜に流木

2013年06月29日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(19)砂浜に流木

 夏を過ぎ、秋も中盤ぐらいの当然、海水浴客もいない閑散として(トータルに考えればこちらの方が年間を通して正常な状態ともいえた)いる海をぼくと奈美は歩いている。彼女は屈んで貝を拾う。それから、流木をつかんだ。打ち上げられてから日が経っているのか、それは見事に乾いていた。奈美はそれを放り投げる。思ったより近くに落下した。遠くでもないのでまた拾いに行き、再度、奈美は投げた。前回と似たり寄ったりの結果だった。そして、また不思議な形状の貝がらを拾う。その際に奈美のうなじが見えた。ひとは自分の背後に対して無防備であるものだとぼくは感じている。ぼくも床屋で合わせ鏡で見るときぐらいなので、年に10回ぐらいしかその姿を見ない。それも正確な形ではない、反対になったものを。いや、2回、鏡に衝突させれば、それは同じであるのか。しかし、どれも違う。真正面に見たものが正解なのだ。いつだって。

「中味はどこ行ったんだろう?」と奈美は訊く。
「食べられたか、海の底か、もう腐ったのか」
「これ、どれぐらいもつのかな?」
「半永久的に」
「答えがアバウト」
「むかし、ボタンは貝でつくってたんだよ」
「いまもあるよ」

 そう言って奈美は貝も投げた。落下した場所は分からなかった。もし、分かったとしても同じものを探すのは困難だった。
「同じもの、分かる?」
「分かるわけないじゃん」あきれたように奈美は言った。

 ぼくは幼少のころのことを思い出していた。友人と昨日の楽しかった遊びを再現しようとしたが、昨日のあの雰囲気も愉快さも簡単には取り戻せないことを知った。一回きりの奇跡的な痛快さがあったのだ。それはやはり復活がむずかしい。しかし、他にすることもなかったので、いくらか楽しさが割り引かれた遊びをそのまま続行した。具体的な理由も分からない。ただ消えたのだ。でも、思い出としてはのこっている。それも、消える運命なのだが。

 ぼくは前の女性のことも考えていた。彼女の首のことも覚えている。それでも、女性という括りが同じだけで、彼女らは別の貝がらなのだ。そして、失ったものはやはりこの砂浜のうえに無数にある貝といっしょで判別もできず、取り戻せない。中味は、どこに消えたのだろう。

 歩いていると防波堤のきりまで来てしまった。奥には地元のひとだけを相手にしているような店があった。ついでなので、ぼくらはそこまで行くことに決めた。声に出してはいないが、無言ながらふたりの意志はそのように働いているようだった。

 海のうえにはどんよりとした雲が流れてきていた。すると、頭上にまで黒い雲が突然及びはじめパラパラと小さな粒が落ちて来た。ぼくらは駆け出し、店に入った。そこは昔ながらの食堂という感じで、派手さも洗練もなく、ただ地元の食材で安価な定食を提供する場のようだった、漁を終えたひとたちが寛ぎながら満腹になるような。透明なガラスの冷蔵庫には冷えたビールがきちんと並べられている。上の段には反対に直ぐに取り出せるように乱雑に貝が置かれていた。

「あれ、食べられるのかな?」
「訊いてみるよ」とぼくは言う。奥から日焼けが日常的になっているような肌の女性がでてきた。年齢はぼくの母と祖母の中間ぐらいだった。年輪のようなしわが、正確な年齢を惑わしているのかもしれない。目の奥は、もっと若い輝きがあるようだった。
「いらっしゃい。どうぞ」
「こういうのって、適当に見繕ってとか、していただけますか?」
「東京のひと?」その答えはなく、逆に質問だった。
「そうです。そこで雨に降られて」奈美がぼくにかわって答えた。
「ほんとだ」彼女はそう言うと扉を開け、しばし眺めた。「これは、止まない雨だね」と哲学的なことを付け足した。「ビール、飲みたかったら、取って。これ、栓抜きとグラスだから。あとで清算するからね」

 普段から、みながそうしているのだろう。ぼくはその言葉どおり、ビンをつかんだ。栓抜きを使い、グラスを傾ける。適度な泡が立つ。外の雨音は大きくなった。

 適当にというものの量が多かったことをぼくらは数分後に知る。さらに、煮魚もでてきた。ぼくはもう一本ビールを取り、そのことになんの関心もなく、そして、店の経営にも無関心のように奥の椅子にすわる店主の後姿を見た。

 ほどなくして食べ終わる。
「ここらで、傘を売ってるとこ、ありますか?」と奈美がその淋しげな背中に訊いた。
「あるよ、あそこ」それから地方色の出た言葉で場所を詳しく説明してくれた。
「ちょっと、この傘借りてもいいですか? そこで買ってくる間」奈美は入り口近くの傘立てに突っ込まれている古びたものを指した。
「どうぞ。いま、小ぶりだけど、これはやまないからね」
「待ってて、直ぐだから」だが、奈美はその正確な場所を知らない。

 ぼくは地元のローカルなニュースをラジオで聞き、だらだらとビールを飲んでいた。奈美の不在。ぼくはもともとここで生まれて実家にもどってきた息子という役柄に自分を当てはめようとした。母と子にはだが会話がなく、そこにいるということだけが、実際の安心感につながっていることを互いが理解するのだ。雨は止みそうになり、また降った。奈美はなかなか帰ってこなかった。ぼくらの会話もなく、ただ雨音と遠くの波の音が現実感を遠ざけていた。

流求と覚醒の街角(18)料理

2013年06月27日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(18)料理

 奈美が、「料理をつくるからちょっと待ってて」と言ったので、ぼくは彼女の部屋で座っていた。雑誌を手にして、飽きたら音楽を聴いていた。音楽や棚に並んだ本の背表紙で個性や趣味が違うことが判断できる。一方、キッチンで食材を刻む音がして、湯を沸かしている温度もそれなりに感じられた。人が作業をしている集中や根気が放つ気配のようなものがあった。そして、一連の手間が彼女によって順調に運ばれている。ぼくは、手伝うという言葉を言うか迷っていた。だが、もじもじとしている引っ込み思案ななにかが発言を遅らせていた。

「あ、足りないものがあった」との奈美の声が半分開いた扉の向こうでした。「買ってこなくちゃ」
「なにを? 買って来ようか?」ぼくはもう立ち上がりかけている。
「いいよ、ついでに必要なものを歩きながら考えてそれらも買うから」奈美はこちらの部屋に来て、財布をつかみ、少し難しい顔をしてまた消えた。その前に、「火は消したけど、ご飯炊けると思うから」と言い残していった。

 手持ち無沙汰になったぼくはキッチンに入る。棚に備え付けの照明器具は流し台を照らしていた。食材の切れ端がそこに散乱していた。ぼくはそれをかき集め、ゴミ箱に捨てた。また、何枚かの皿とグラスを丁寧に洗った。

 引き出しを開け、フォークやスプーンの向きを並べた。自分はそれほど几帳面にはできていないが、秩序もそれなりに好きだった。そして流しを拭き、必要になりそうな箸やスプーンをこちらのテーブルにもってきた。それに費やしたのは5分ぐらいだった。ぼくは、ひとりで奈美の部屋に取り残された時間がなかったことにあらためて気付いた。普通はひとの家ではそうだろう。するとそこは未知な空間にも思えてきたのだ。ここで多くの時間を過ごす女性の日常を見知らぬひととしてあえて想像しようとした。

 先ずは、本の題や音楽の趣味でその女性が積んだ教育のことを考えた。化粧品のビンやラベルで年齢層が分かる。若過ぎることもなく、あきらめたわけではないことも感じられる。これは、あのデパートの一階と同じ匂いがした。あのときに購入したものだろうか。中身はいくらか減っている。気に入ったという確たる証拠であろう。

 服もある。こちらは、主に出勤するときに着るものだろう。平日には着ない洋服もある。ぼくは段々と自分が変質的な興味を抱いているような不安と錯覚が芽生える。その趣味で給料や年収が計れるようでもあった。新入社員のような切羽詰ったものでもなく、ワード・ローブもそれなりに増えていた。結婚はしていないようだ。親の援助はたまにあるのか。その親は娘の恋人のことをどう思っているのだろう。ぼくはその遊びに夢中になる。しかし、買い物から帰ってきたらそこで終わりだ。そもそも、ぼくは本人を知っている(つもりかもしれない)のだ。

 沈黙のなか急に電話が鳴り響いた。自分で勝手に作り出した空想に夢中になっていたぼくは、当然のこと驚いた。それから、それに出るべきかどうかを迷い瞬間、躊躇した。だが、それは奈美からで例えばこれとこの銘柄のどっちが好き、という確認の電話なのだとやまをかけ、受話器を取った。しかし、向こうの声はぼくの声に驚いていた。

「あれ、奈美はいないのかしら?」

 それは彼女の母の声だった。ぼくは、先日の礼を言い、どちらも不可解さがのこる感じで、奈美が買い物から帰ったら連絡させます、と言って電話を切った。

 そして今度はドアの開く音にぼくは驚いた。

「どうしたの? そんなに、びっくりして」奈美は袋をぶら下げている。別の意味でむずかしい顔になった。
「いやね、ごめん。奈美からの電話かと思って出たら、お母さんだった」
「うちの電話? わたしのお母さんってこと?」
「そう。出るべきじゃなかったね」
「別に大丈夫だよ。お母さん、驚いてた?」

「たしかにね。折り返し連絡させますって会社みたいな応対しちゃった」
「ご飯、食べたらするよ。さて、つづき」奈美はキッチンに戻った。ぼくの空想は不完全な結末になったが、それは完全であると呼べそうでもあった。「ここ、きれいにしてもらったんだ。ありがとう」
「いいえ」
「そうだ、冷蔵庫にビールがあるよ。これ、どっちが好き?」奈美は二種類のラベルを見せた。ぼくは、その選択を電話を通してすると思っていたのだ。
「そっちの赤いの」
「投げるよ」彼女は投げるマネをする。
「ダメだよ」
「しないよ。はい」ぼくは手渡される。それから、グラスを2つ食器棚から取り出した。彼女は皿をこちらに運んでくる。ぼくはビールを注ぐ。グラスを重ねる。その小さな音はぼくを驚かすような類いのものではなかった。

 食事が終わり、ぼくはシャワーを使わせてもらった。多分、今日はここに泊まることになるのだろう。風呂場から出ると、彼女は誰かと電話をしていた。それは、でも親子という感じとはちょっと違っていた。しかし、親しさが充分こめられている口調だった。奈美はこちらを見る。彼らが話題にしているのはぼくなのかもしれず、そのぼくはふたりの間とは別のところにいた。そのこと自体が不思議だった。さらにぼくが居ないぼくの部屋の品々は、ぼくの一体なにを浮かばせるのだろう。もし、第三者が見たら、そこにどのような痕跡を探り出せるのだろう。仮に奈美がひとりでいたら、ぼくのすべては明るみになるのだろか。もし、電話がかかってきた場合、奈美は出るだろうか。どうも、それは考えにくいことだった。

流求と覚醒の街角(17)対決

2013年06月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(17)対決

 奈美はぼくのことを自分の両親に話して、結局はどこかで一度会おうということになった。当然の帰結だ。取り敢えずは、最初は儀式的にならないにせよ外のお店で、少し値の張るところを予約して、会食という形式になりそうだった。それでも、あくまでも偶然、それぞれの時間が揃ったので、会ってみるかという偶発的なものがなぜかしら優先され装われていた。ぼくにとっても困る内容ではなかったので承知した。

 前の女性には父がいなかった。だから、ぼくは恋人の父という立場のひとに会ったことがなかった。威嚇的にでるのか、反対にグループの一員として迎えられるのかも分からない。分からない状態は不安でもありながら、関心も湧いた。嫌われようが粗相をしようが、奈美は自分の側にまわるのだろうという漠然とした安心感もあったのだ。それにいまの時代に両親の同意などそれほど大きな問題ではないとも思っていたのだ。

 店が決まり、平日の夜に、ぼくと奈美と父が集まりやすいところになっていた。だらだらと長い時間は要せず、あくまでも偶然そういう成り行きになったのだということが求められていた。

 ぼくは予約の店に行く。いくらか早い時間。洗面所で顔や手を入念に洗った。席にすわって、この晴れやかさを楽しもうと考えている。だが、ぼくは奈美の性格を忘れていたのだろう。

 ある年配の男女が店員にエスコートされて入ってくる。写真では見たことのある方々が。

「あれ、奈美といっしょじゃなかったんですか?」と奈美の母は言う。ぼくは、そのセリフをそのまま返したかった。

 気まずい雰囲気で自己紹介をし合い、当然の流れで仕事の話になる。ぼくは問われる側の人間であるのだ。尋問する権利は彼らにある。奈美は来ない。助け舟もなく、大しけにただよう航海士。

 ぼくは保険の話をする。自分が数年間働いた知識と情熱のようなものをひたすら傾けた年月をそのまま披露する。彼らも興味をもっていることを感じる。いくつかの商品のリスクとメリットをかいつまんで話す。もう恋人の両親ではなかった。目の前にあらたな顧客を発見する。

「でしたら、今度、職場か自宅にでも資料をそろえて・・・」そう説明していると、ようやく奈美が来た。彼女はこの雰囲気に安堵しながらも、すこし怪訝な様子を示した。
「ごめん、遅れた。何の話してたの? それぞれ、紹介はしたの?」
「したよ、遅いな」と父は憮然とした姿をわざと作ったように言った。ぼくはその時間に奈美のことを瞬間だが忘れていたのだろう。仕事の説明に夢中になっていた。

 その所為で、娘の恋人は誠実味のある青年として彼らには映ったようだ。最初の手応えとしては悪いものではなかった。それから、父の仕事のはなしを聞いて、転勤のこともより深く知った。ささいな雑事がその移動に伴って多かったことを母は話したが、総体的にはそれも時間の経過とともに楽しい思い出に移行していることが理解できた。

 あっという間に時間は過ぎ、ふたりは先に帰った。ぼくは奈美とお茶でもすることにした。
「どうだった?」奈美はストローの袋をいつまでもいじくっていた。
「スタートがうまく切れたから、あとはスムーズだったんじゃないかな。怖そうにも思えなかったし、凄く友好的だった。拍子抜けするぐらいに」
「昨日、そういう態度をしたら絶対に許さないと強く言ったから」

「そうなんだ。それで、娘の機嫌の方が重要視されたんだ」
「そうでもないけど、気に入られたみたいだったよ。家に帰ってから電話でもっと詳しく訊くけど」
「でも、やだね。恋人の父親なんて」
「会ったことないの、これまで?」
「ないね」
「じゃあ、今日は重要な日じゃない。記念日」
「生贄記念日」

 ぼくらは遅くならないうちに別れた。ぼくは電車に乗る。座席に沈み込むという表現が正しいほどの疲労が不意に訪れた。ぼくは目をつぶる。過去がその場面を待ち構えていたように、ぼくに覆いかぶさる。

 前の女性には父がいなかったが、その母はある日、再婚することになった。ぼくは不思議とその男性と親しくなる機会に恵まれた。やはり、あの前の女性がいなかったらめぐり合えないひとでもあったし、多くの人間関係と同様にどこかで必然性のようなものすら感じられた。彼はぼくの機嫌を勝ち得る必要もなく、ぼくにとっても敵にしても味方にするにせよ大げさにいえばどちらでも良かったのだ。恩恵も予想しなければ、損害も考慮に入れることもなかった。しかし、最終的には限りない恩恵やこころの豊かさを彼との時間はもたらしてくれた。

 それに比べて奈美の父との関係はもっと生々しいものが介在することになっているのだろう。好かれるということを前提にして、もしそうならければ何らしかの危機の入口に足を踏み込んでしまうことにもなるのだ。だが、それ自体も大げさといえた。

 ぼくは過去の男性との時間を、いまの自分がこれ程なつかしむことになるとは思いもしなかった。時間の経過は純度を高め、催眠的なさらには恍惚的な気持ちを自分に与えた。ただそれは疲労がもたらした揺り戻しの一部かもしれなかった。駅に着き、アパートへ向かう。奈美はもう家に先に着いていることだろう。母と彼女はぼくのうわさ話をする。もし、していればくしゃみぐらいは出るのだろうが、その予兆すら何もなかった。

流求と覚醒の街角(16)お土産

2013年06月24日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(16)お土産

 ビールとマスで満腹になり、それでも、腹ごなしをかねて川原を散歩してみた。清々しさは絶対にそこから奪われないようだった。また流れる川の音もさらに加点の対象だった。ぼくらには若さもあり、自分の計画を果たせるだけの大人になり、誰かの保護下にもいなかった。あの少女の休日は両親の行動範囲に左右された。それらがぼくらにはなかった。だが、ぼくは奈美が喜びそうなことも考えている。

「小さい頃、旅行した思い出で記憶に残ってるものってある?」
「あるよ、いっぱい。でも、お父さんが転勤することが多かったから、知らないところに旅するというより、見知らぬ土地の生活になれるという方が、いまは印象にのこってる」
「転校生か」ある日、目の前に突然あらわれた奈美だったが、何回かの引越しを経て、ぼくの前にも来ることになったのだ。出会う可能性も、出会わない可能性も同程度にあったのだろう。「なったことないからな。いつもの見慣れた顔。でもクラスが変われば多少はね、新鮮味もあるか」

「自分が気に入られるのか、どうかも分からなくて一からやり直し」
「じゃあ、度胸もできるんだ」
「知らないひとには、そんなに抵抗もない。でも、さぐりさぐりだけどね、最初は」
「好かれるとか、気が合うとか分かるもの?」
「それは、転校を抜きにしても分かるでしょう?」
「そうだね」

 ぼくは来年、入学する学校も知っていた。通学路もそれほど変わるわけではない。だから、逆に知らない土地への願望みたいなものもあった。言葉が通じないという不安もないぐらいの旅。国内ならそれで済む。しかし、実行することもなく大人になった。
「男の子は、どんな思い出があるの?」
「やっぱり、海水浴とか。雨が降って残念だったなとか」
「予定を変えないで?」
「父親の休みは決まってるしね。友だちと行くようになっても、部活の休みも決まっているし」
「あそこでお土産買おう」奈美は小さな建物の入り口を指し、そう提案した。

 ぼくは職場の人数にぴったりと合うようなものを探して、直ぐに決めた。迷う余地もなかった。誰と行ったか訊かれるのだろうが、その答えもある。奈美は反対にちょこまかと歩き回り、いろいろなものを触ってはまた置いた。ぼくは段々と飽き、自分の買ったものを袋に入れてもらって外に出た。

 ぼくは学生のころのことを外のベンチに座り思い出そうとしていた。可愛い女性が転入してくることを自分に起こったことのように考えていた。異性なので友だちになったり、何かの相談になる相手に直ぐなることは難しかった。その年代の男女には時間も必要であり、見えない距離もまた厳然とあった。ないようでありながらも高い壁は確かにあるのだ。

 だが、そう親しくなくても毎日、自分の視線のなかにあるものに好意を抱くようになる。言わなければそれは通じないのかもしれないが、言わなくても分かるような素振りもあった。顔を赤らめたり、優しくふるまったり、反対につっけんどんになり過ぎる可能性もあった。それが意識するということでもあり、手に負えない自分の感情をなだめることでもあった。

 ぼくは店内のなかを振り返って見た。奈美はまだ迷っていた。しかし、段々と手の上にあるものは増えていった。ぼくはだから空想に戻る。好きな女性が急に変わるということはどういうことであったのか。好みなど大して変わらない。毎日のように触れ合う男女も急激に変化をしない。ただ、いなくなるということもありえた。やはり、父の転勤などで、また新居の場所により、子どもは転校を余儀なくされる。奈美のことをそのように失ったものとして未練をもっていた少年たちもいたのだろう。

 ぼくは以前の恋人のことを思い出していた。彼女は高校生から大学にすすみ、会社員になった。その数年間の変化はおおきかった。女性らしさが増し、実際に化粧をしたり、服装も洗練されていく年代だ。ぼくはその変化に付き合い、自分の変化も彼女は覚えているのだという不思議な安心感があった。だが、ぼくは最後には失う。その後に起こりえるものをぼくは確認することができない。誰かの、ぼく以外の妻となり、また誰かの母になるのだろう。ぼくはその女性の母も知っていた。ふたりはよく似ていた。すると、彼女にもし女の子が産まれるとしたら、三人はやはり似通うのだという勝手な思い込みがあった。

「ごめん、待たせて。ねえ、それだけ?」
「そうだよ。明日、職場に持っていって終わり。そんなに?」ぼくは奈美がぶら下げている袋を見た。
「なんか、頭であのひとと、と考えつづけたら、これぐらいになった。両親のもあるし」
「もう転勤しないの?」
「そういうキャリアじゃなくなったから。お母さんは、もうひとつの場所にいられると安心しているし」

 ぼくは、前の女性の母のことを思い出していた。ある日、その女性は入院した。ぼくは見舞いに行き、そこでその娘に会った。まだ高校生だった。世の中には悪いことなどないと信じているような様子があった。ぼくは同時にこれほどきれいな女性がいるのだと驚きとともに発見したのだ。そのふたりの家(父はいなかった)はずっと同じでいまもあそこにあるのだろう。
「いつか、会わないとね」
「ほんと?」
「ほんともなにも、ぼくのことをどう思ってるかも確認したいし」
「お父さん、こわいよ。どうする?」
「だって、殴りかかってもこないでしょう。大丈夫だよ」

 ぼくは奈美の荷物を持ち、旅館に預けていた荷物も引き取った。同じように釣りの親子もいた。少女と奈美はなにやら話し、帰る方向が近いということで、途中まで車の後ろに乗せてもらえることになった。両親は前の座席で、後ろにはぼくと奈美の間に少女がすわった。いつの間にか車の揺れがここちよいのか少女は寝てしまった。ぼくは父親と世間話をした。それが奈美の父親との会話の訓練でもあるかのように、ぼくは手探りで相手の機嫌が良くなるように会話をすすめようとしていた。

流求と覚醒の街角(15)川原

2013年06月23日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(15)川原

 ぼくと奈美はニジマスが大量に放流されている釣堀にいた。釣堀といってもそこは自然の川の一部で清らかな水が流れ、どこか遠くで野鳥の鳴き声も聞こえ、さらには新鮮な空気がたっぷりとあった。

 ぼくらは向かい合った座席にすわり、のんびりと電車に揺られ、昨日ここにやってきた。休みを調整して宿を手配して、ほかには何の計画も準備もなく、ただいっしょに居るということだけを楽しもうとしていた。朝ごはんを食べていると給仕のひとがぼくらの今日の予定を訊き、なにもなければ川原でイベントがあるので行ってみたら、と提案したので、そのアドバイスにそのままのっかった結果だった。

 だから、ぼくは釣れなくても釣れてもどちらでも良かったのだが、奈美が競争といったので、ぼくはいくらか本気を出した。だが、こちらの本気のことなど水のなかの生物に簡単に感染する訳もなく、手応えもそれほどにはなかった。靴をぬいで足元をまくり、水のなかに入って直かにつかんだほうが成果はあがるような気もしたが、となりの奈美も同じような具合だったので、この状態も悪くはないといえばその通りで、半分は本気で半分はお遊びの範疇をただよっていた。

「やった、釣れた」
 奈美は竿をあげ、手元に魚を寄せた。
「小さくない?」
「いいんだよ、これ、あとで食べるんだから、このぐらいの方が」
「触れんの?」

「え、触るの怖かったの?」そう言って、奈美はつかんだ魚をこちらに向け、ぼくの顔のそばに近付けた。となりでは小さな女の子が驚きながらも笑っていた。その子と父のそばの網にはいくつもの魚影があった。その父は時おりスパルタに近い声をだした。何事にもまじめに取り組むということを念頭に置いているひとの口調だった。上司にでもなれば頼りにもなり、また、うっとうしいといえばそうもいえた。奈美の父親(まだ、写真でしか知らない)にもどこかで似ていた。ぼくは、そのことを奈美に告げる。
「ほんとだね、さっきから、そう思っていた」

 では、あの小さな子は奈美に似ているのか。そのスパルタをどう受け入れ、どうかわしていくのだろう。魚をきちんとつかまえられる女性に、いつかなるのだろう。いや、もうなっていたのだ。

「あ、また、釣れた」と奈美が言ったので、そちらに向くと、奈美の竿ではなく、その少女と父の共同の竿がしなっていた。彼らの胃袋には充分すぎるほど、魚が入るのだろう。そう考えていると、ある係員が近づき、どうやら重量の上限があるようでそれ以上は釣れないという決まりの下、彼らの遊びは終わりになった。さっきの少女は不服そうでもあり、その父には反対の充足の気持ちが顔に浮かんでいた。勝負には勝たなければならない。そして、勝ったのだ。

「いなくなったよ、魚たちにはチャンスだけど、ぼくらにもチャンスが増えた」
「じゃあ、本気を出して釣るよ」

 だが、成果は芳しくなかった。それでも、ふたりで捌いて食べるには充分の量とも言えた。釣果は奈美のほうが一匹多かった。
「捌き方、教えてくれるんだって、ちょっと行ってくる」奈美はぼくらの合計の魚をもっていった。ぼくは缶ビールを買った。さきほどの親子は、その病的に色白な母も近づき、既に串刺しにされた魚を焼いていた。父はここでもすべてを取り仕切っていた。娘は見よう見真似でその作業を模倣していた。ぼくは岩の平らな部分を探し、ぼんやりとビールの泡を楽しんだ。

 しばらくするとひとの気配がする。そして、「これ、どうぞ」と先ほどの釣りの少女が魚をもってきてくれた。
「ぼくに?」
「そう、だって、余っちゃうから」ぼくは受け取り、お礼を言う。そのことは彼女一人の能動的な行動であったのか、両親はぼくの方を見向きもしなかった。だが、ぼくはそちらに向かって見ていない彼らにも礼をした。
「釣り、うまいんだね」
「まあまあだね」と言って彼女は去った。ぼくは一口かぶりつき、またビールを飲んだ。やはり、つまみはあった方が良いのだ。すると、奈美が歩いてくるのが見える。ぼくは岩から下り、火のあるところに行こうとした。
「何それ? どうしたの、ずるくない」
「さっきの女の子が急にきてくれた。断るのも悪いしね」
「そう、こっちはせっせと働いていたのに」
「ごめん、もうあとはぼくが全部やるから。焼くのも。だから、待っててよ」

 ぼくは魚を奪い、代わりに奈美はぼくからビールを奪った。
「自分だけ飲んで」
「もう1本でも買って来てよ。2本でも、3本でもいいけど」

 ぼくは炭を漁り、準備された小さな囲炉裏のようなものに魚を並べた。次第に魚から香ばしい匂いがしてきた。奈美はさっきの少女と何やら話していた。いつの間にか親しくなっているようだ。奈美がその子の耳元に口を寄せ、耳打ちするような格好だった。それから、少女は笑った。そして、こちらを見た。つぶらな瞳。奈美も手を振る。ぼくは焼けた魚をもって、奈美に近づいた。

「取り敢えず、2匹は焼けたよ」
「おいしそうだね。内臓もきれいになってるし」奈美は自分の働きに満足のようであった。
「これ、食べる?」ぼくは儀礼的にその少女に訊いた。
「もう食べられない。いっぱい食べた」
「そうだよね。上限までいったぐらいだから」

 少女は嬉しそうな顔をして、また両親のもとに戻るために小走りで去った。
「なに、話してたの?」
「内緒だよ」
「そう。女同士の秘密か」
「ほんとは、わたしたちの関係のことを説明していた」
「興味があるんだ、あの子」
「それはあるでしょう。これ、おいしいね」
「うん。捌き方が良かったんだろう」とぼくは言い、またマスを頬張り、冷たいビールもその後に飲み込んだ。

流求と覚醒の街角(14)群集

2013年06月22日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(14)群集

 奈美が背伸びをしている。目の前には群集の輪があり、真ん中では大道芸人が準備をすすめている。ぼくらは狭い隙間を探し、少しでも前に行けるように身体をすべりこませた。どこまで演者に近付いてよいかの正確な規定などなく、危なくない程度にみながある程度離れた距離に自分たちの居場所を決めていた。

 階段になっていたのでぼくらはそこに腰を下ろした。何が行われるのかも分からず、ただ通りがかりの好奇心ある人間として、特殊な技能を有するひとの数々のテクニックを見たいと思っていた。
 それはひとりだけではなく、何人ものひとが順番に自分の技を披露することになっているらしい。そのようなアナウンスが流れた。最初はサッカーボールのリフティングをするひとがでてきた。ただボールひとつと自分の身体だけで観客を魅了する。そこには努力の余地があったことなど垣間見られなかった。生まれながらにして、そのボールと交遊をもっていたような印象があった。ぼくと奈美の現在もそうしたものであるのだろうか。

 火の粉が舞っているオリンピックの聖火のようなものを両手にもち振り回すひともいた。そこには原始的な営みへの郷愁があった。野蛮さはだが微塵も感じられず、火と炎というものへの単純な畏敬だけがのこっていた。

 次は、猛禽とでも呼べそうな獰猛な視線をもつ鳥を腕のうえに載せたひとがあらわれた。その鳥はぼくらの頭上を鋭角的に飛び、また飼い主のもとに、愛着の視線もないながらも優雅に帰って行った。その男性は、マイクを手にする。趣旨は参加者を募るということなのだ。彼は挙手を求める。ぼくは周囲に目を向ける。あの獰猛そうな視線を見てしまったら、そうした類いの勇気は浮かんでは来ないだろうと想像された。

 しかしだが、ぼくは唖然とする。となりの女性が手を挙げている。知らない人間ではないが、ぼくはそのひとを、つまりは奈美を見知らぬひとのように思ってしまった。

「大丈夫なの?」
「ああいうの好きなのよ」彼女は目立つように手も振った。「それに、大事件になることもないし、とにかく訓練されて、場数も踏んでいるのよ。あの鳥も、あのひとも」

 ステージ上の男性が奈美へ視線を注いでいるのはぼくにも分かった。さらに付け加えれば、奈美以外に手を上げているひとなど皆無だったのだ。それから、マイクの持ち主は奈美を壇上にあげた。彼女は何度もそうしたステージにのぼったことがあるように自然に観客にむかって会釈をした。

 猛禽は厚そうな手袋をした奈美の腕に居場所を変えた。近くの子どもは興味津々で母らしいひとの服の裾をかたく握り締め、その後の成り行きを見守っていた。

 猛禽はもう一度、ぼくらの頭上を旋回する。ぼくはその姿を目で追うが、壇上の奈美のことも同じぐらいに心配だった。そちらを向くと真剣な様子でありながらも、どこか寛いで笑っていた。ひとの能力や関心や興味など、実際には分からないものだと、ぼくはいくらか当惑している。鳥はあらかじめ定まっていたかのように、奈美の腕の上に戻った。男性はその口先に何かを与えた。奈美も同じようにその鳥を愛おしそうに眺めていた。

「ママ、あのひとも練習してるの?」
「さあ、どうなのかしら。普通にここにいたひとだからね」母は、その回答が欲しいらしくぼくの方をちらちらと見た。しかし、ぼくが答えを持っているはずもなく、同じくらいにその疑問への正解を待ち望んでいた。

 また、次に今度は旋回ではなく、その場で高く飛び上がり、急降下するという場面が演じられた。ぼくらはそれぞれ自分の頭をかばうように身を屈めたり、頭を手の甲でふさいだりするひともいた。そして、また奈美の腕に戻り、餌が与えられた。拍手を浴びた彼女は舞台を下りる。アンコールに応える歌手のように彼女は肩膝だけを折り、会釈をした。

「さくらだろう!」という声も遠くで聞こえる。だが、多くのひとは純粋に勇気あるひととしてまだ彼女に感嘆の拍手を浴びせていた。間もなく、次のステージの出番を待っていたひとがあらわれ、やっと関心がそちらに移行した。

 奈美はこの場所を探すのに手間取り、ぼくは手を振った。彼女は高潮した表情ながらも普段どおりの笑顔を見せた。
「どうだった?」
「どうも、こうも、そんな能力も度胸もあるとは知らなかったよ」1ステージは20数分で、ぼくのとなりにその時間だけ彼女はいなかったことになる。
「自分で訊いてみなさい」小さな子は母に促されても、もじもじしていて言葉を発することをためらっていた。やっと意を決して、
「すいません、お姉ちゃんは、訓練したひとなんですか?」と言った。
「突然、すいません。うちの子なんですけど、ずっと獣医さんになりたいと言っているので、普通に動物たちと仲良くできるひとがうらやましいんです。だから、ついつい質問までして・・・」
「動物は可愛がってきたけど、とくに、これといって、なにも」
「じゃあ、誰でもできるようになるのかな、ああいうこと」
「好きになれば、それはできるよ」

 子どもはもう最後のステージへの興味などないようだった。我が恋人である奈美が偶像視されているのだ。

 すべての催しが終わり、群集の輪はくずれる。段々と人混みも解体される。ぼくらものろのろとその場を去り、建物の方に向かった。となりにいるひとの能力もさっきまでぼくは知らなかったのだ。奈美自身も自分がなにかを成し遂げたということには無頓着であるようだった。ただ、きれいな服を着た休日の女性がひとりいるだけだった。唖然としたぼくは置き去りにされそうだったが、旋回も急降下もなく、ある女性のとなりをのんびりと歩いていた。

流求と覚醒の街角(13)ロスト

2013年06月20日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(13)ロスト

「待ち合わせ場所に近付いていると思うんだけど、急に分からなくなった」と奈美は電話の向こうで言った。ぼくは誘導できるようその場所を確認する。
「何が見える? 住所は? どっかに書いてある?」
「ちょっと待ってて」

 待つ以外にぼくに何ができるのだろう。それから徐々に彼女の居場所が分かる。ぼくは空撮でもするようにその頭上にいた。彼女の足取りが分かる。すると、もう迷わないとしたら、20数分後にはここに来るだろう。

 さらにいえば、ぼくがそっちに近付いてもいいのだ。しかし、ひとつの地点が動かないほうが、ふたつの地点が動くより確実さが増えるような気がしていた。だから、ぼくは電話を切ってそこで待った。

 ぼくは迷子になる。いや、あれは迷子ではない。大きなアーケードを両親と親戚と歩いている。場所は浅草。親戚の子ども、ぼくのいとこがおもちゃ屋に寄りたいと言った。ぼくはその場所を知っている。だから、足早になり、先に行っていると告げて、商店街のなかを縦横無尽に歩き、そこに向かう。ぼくは到着する。おもちゃ屋というものでイメージしたものがぼくと両親ではいっしょだったはずだ。その場所に詳しくない親戚のおばさんの頭のなかまでは分からなかった。

 ぼくは待ち侘びる。いつまで経っても彼らは来ない。ぼくは間違えていなかった。ただいっしょに歩くという行為を省いただけなのだ。しかし、来ないものは来ない。
 もう忘れてしまったが、父か母がぼくを迎えにくる。彼らは、なんと別のおもちゃ屋を見つけていた。当初、イメージしたものが同じだったはずなのに、手近な誘惑に負けたのだ。これは、迷子なのか。親からはぐれたということが定義として正しいのなら、自分は確実に迷子だった。彼らが勝手に行動を変えてしまったとするなら、ぼくは犠牲者だった。

 奈美が歩いているところを想像する。多分、あの辺りにいる。もう一度迷えばまた電話が来るだろう。約束の時間から12分が過ぎた。そこは待ち合わせ場所として相応しくなかったのだろうか。急に会いたいと彼女から連絡があった。ぼくは仕事で外出していた。ふたりにとって等しい距離で遊べそうな場所はここだった。彼女は分かるといって納得した。ぼくは思ったより仕事が早く片付き、そのあたりを事前にリサーチした。手ごろな場所や店は数軒あった。

 ひとりで居る夜は長く感じる。だが、誰かを待つという行為はひとりでありながらも完全に自由であるという訳でもなかった。どこかが縛られ、どこかはほぐれていた。靴下を片方だけ脱いで用事を思い出したかのように中途半端な状態であった。もう一度電話がかかってくる。

「どうした?」
「場所は分かったけど、最後のここで右か左か分からない」駄々をこねる子どものような声を彼女はだした。ぼくの気持ちは再び、ヘリコプターにでも乗り込み、彼女の場所を俯瞰で探す。

「右か左かって質問、どっちを向いてるかで随分と変わる」
「理屈っぽいのね、相変わらず」
「そうでもないよ。ヒントをもらえるよう話を延ばしているだけ。こっち、向いてるの?」
「その、こっちが分からないよ」
「明るい方? 暗いほう?」
「暗いほうが背中」

「そこで待ってなよ。もうぼくが行くよ」ぼくは時計を見る。18分。小走りにすすめば大体は予定通り。ぼくは商店街で裏切られたような気持ちもあったが、やはり、安堵もしていたのだ。自分を見つけに来るひとがいる。心配するひともいる。奈美もいまは同じような気持ちなのだろうか。

 彼女の背中が見える。急に会いたいと言い出したのは彼女の方だった。だが、いまはもう分からなかった。ぼくが会いたいと強く願ったのかもしれず、ずっと彼女のようなひとを探していたのかもしれない。
「ごめん、待たせて」ぼくは彼女の背中にささやきかけた。
「それは、いつも、こっちのセリフなんだけど」
「ここ、分かりづらいかな?」

「近道かなと早合点したのがいけなかった。あそこで」彼女は病原菌でもあるかのようにいやそうな顔をしてある方向を指差した。
「遠回りも素晴らしい。最短距離だけを歩けるわけでもないし、実際にそうなったら楽しくないだろうね」
「受験生に教えちゃいけない内容みたいだけど」彼女はぼくを見つめた。「ごめんね、急に予定を入れちゃって。仕事、大変だった?」
「そうでもないよ。外出して気分転換もできたし」
「総体的に浮気をする男性の発現ですね」
「したことないよ」

 ぼくは奈美と多分、この街を訪れることは今後ないような気がしていた。この日の彼女も見納めならば、ここでの彼女も最後になるのだ。奈美は今日のなにを覚えていてくれるのだろう。自分が道に迷ったこと。待ち合わせ場所から離れたところになったが、ぼくが慌てた様子で走り寄ったこと。だが、それを訊くことは未来のある時間に任せるしかない。ぼくを置いていってしまったことを両親はもう覚えていないだろう。あのひとりきりの無力な淋しさを実感したからこそ、ぼくの記憶は鮮明に刻み付けられてしまったのだ。

 彼女の手がぼくの手を握る。あの日の少年にもこのような暖かな手が必要だったのかもしれない。20年後。20分後。ぼくらは離れ、また邂逅する。子ども時代の大切だったおもちゃをひとつも有していない自分。もっとも大切なものはいまは何であるのかと問われたら、ぼくはどんな答えを放つのだろう。分かっているようでありながら、刻々と変わる自分。もう迷うことも怖くないが、逆に失う恐れのあるものは、手放したくなかった。この手のように。

流求と覚醒の街角(12)メイクアップ

2013年06月16日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(12)メイクアップ

 ぼくらはデパートのなかを歩いていた。ひとつでは物足りず、お茶の時間を挟んで、もうひとつ別のにも入った。日曜の昼は歩行者天国になっており暖かな陽気に誘われ、大勢のひとがのんびりと歩いていた。

 前日、ぼくは奈美の家に泊まり、待ち合わせをすることもなくいっしょにアパートを出た。だから、離れている時間はそれほどない。しかし、ずっと隣に居続けるということもなかなかむずかしいものだ。

 奈美はある女性に呼び止められる。ぼくは同時に自分の名前でも呼びかけられたかのように振り向いた。輪郭のはっきりとした顔つき。その女性は化粧品を売ることを商売にしている。それを前面に出すことは作戦上、していない。作戦ですらないのかもしれない。ただ、ひとをきれいにすることが好きなのかもしれない。その土台として奈美がいる。彼女の好奇心と、これまた美の欲求で交渉は成立する。すこし、ここをこうすると、という簡単なアドバイスがあり、彼女はいなくなる。

「ごめん、すぐだから、待ってて」

 ぼくは頷き、外にでた。自分も歩行者天国の恩恵を存分に受けることにした。太陽はここちよく、昨日の寝不足がやさしげなブランケットのようにぼくの上を覆う。ぼくは目をつぶる。世界は甘美なところであるべきなのだ。

 自分はひとの家にいたためにヒゲもそっていない。美への飽くなき欲求なども大してない。しかし、ある女性がきれいであろうとしていることは望んでおり、基本的には求めていた。自分が自分の長所のすべてを理解し、欠点を見つけ尽くすということも根本的には不可能のような気もする。第三者の目や指摘が不可欠なのだ。ぼくは週末になる前の仕事のミスを思い出している。明日からまたその修復に取り掛かるのだろう。だが、今日はそのことすら忘れていたかった。

 ある子どもは両親の間に挟まれて楽しさをあふれ出して歩いている。自然と顔もほころんでいる。ぼくは鏡でもみていまの自分はああいう計算をされていない表情ができているか確認したかった。こういうときにはこういう仕草がふさわしいかもしれない、というある種の利益のためと、不利益のいくらかの根絶のため役立てようとしたが、それはかえって逆効果のような気もしていた。しかし、いったんしかけた以上、それはもう自分からは消えてくれなかった。いったい、いま奈美はどういう気持ちで自分の顔を相手に任せているのだろう。

 ぼくは時計を見る。女性が自分の化粧のために費やす時間など、よく分からなかった。サンプルをとれるほど対象のリストも少ない。前の女性と奈美と母ぐらいだった。ここで母をそのリストに加えることは正確なサンプルを取るためには必要もないので除外する。すると2パターンぐらいしかしらない。それで、大体はこれぐらいの時間だろうという頃合いでぼくは立ち上がる。また、デパートの入り口に向かった。

 間もなく、奈美の背中が見えることになる。彼女はいつから化粧をするようになったのだろうか。その最初のきっかけは何であり、彼女はどの男性にその姿をはじめてみせたのだろう。

「彼氏さんが来てくれましたよ。待ちわびてたのかな」ぼくは幼稚園の生徒にでもなったように子ども扱いをされていた。「どう、奈美さんきれいになったでしょう?」
「そうだね」彼女は奈美の名前をもう知っていた。ぼくはそれを手にすることすら時間がかかったことを今更ながら嘆いていた。
「ごめん、もうちょっとだから、お会計しておわり」
「なんか買ったの?」
「うん」店員と奈美は消えた。急に男性がひとりで立ち尽くすには不都合な場所であることに気付いた。すると、さらに自分には何の力も行使する仕方もしらなかった幼少時の記憶の奥に投げ出されてしまったようだった。
「もっと、好きになってもらえますよ」店員は奈美の後姿にそのような言葉を投げた。

 少し経ってから、奈美は、「ほんと?」と訊いた。
「なるだろうね。でも、現在の状況を把握していない店員の意見を参考にすることもないよ」
 奈美はなんだかふて腐れている。ぼくは自分が買いたかったものがなんであるのかをも忘れかけていた。ただ、明日への仕事の入り方を予想していた。しかし、現在に自分を戻す。
「最初に化粧をしたのって、いつだった?」

「さあ、いつだったろう。あれかな、浴衣を着て、ちょっと化粧をして、あれは、高校生だね」
「デート?」
「それに近い。初々しい淡い気持ちで」
「彼はそのことについて、なんか言ってくれた?」
「ちょっと驚いていた。いま考えると、あれ、うまくなかったんだろうね」
「失敗は成功のもとだよ」
「でも、いつも成功したいでしょう」

 ぼくは仕事のミスのことは話さない。だが、ミスをしたからそれを媒介にして先輩の優しさを知る機会にもなったのだ。頼りがいのあることも分かった。もし、成功だけがよければ、それもまた深みのない生き方になる危険性も備えているのだろう。
「まあ、したいけど、そうは簡単には運ばないよ」
「それで、これは?」奈美は自分の顔を指差す。「どうなった」
「きれいだよ」

「最初に化粧をみた女の子たちより?」
「彼女たちは、自然さしかなかった」ぼくは褒め言葉なのか失意の気持ちのあらわれなのか、遠まわしに両者をけなしているのかも判断できずにそう言った。歩行者天国の時間は終わりになろうとしている。普段の交通を取り戻す道路。明日からの仕事。どちらがより日常で、どちらが華やかなのだろう。ぼくは両方の世界に生息する。それを一致させることは可能かどうかを思い巡らした。ぼくらは今日は別々の家に帰る。それがいっしょになる日は来るのだろうかと密かに夢想した。

流求と覚醒の街角(11)ヒール

2013年06月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(11)ヒール

 待ち合わせ場所に奈美は来ない。だが、電話があった。

「いまね、歩いていたら靴のかかとが折れた。取れた? 好きだったのにな。直してくれる場所があるんで、ごめん、ちょっと寄る。このままじゃ、そこまで歩くことも出来ないしね。バランスが」

 そう言って、電話が切れた。ぼくはその情景を思い浮かべている。先ずは、自分の靴を見る。平べったい靴底。だが、頑丈さだけが売り物のような気もする。すると、そもそも自分の存在自体が頑丈さだけしかないようでもあった。

 それから、バランスが取れたものを考え、不均衡なものも同時に頭に並べた。ある種の髪型。左利きのひと。ピサの斜塔。サッカーのフリー・キックのカーブの軌道。
 バランスは、神社の鳥居があった。大きな建造物もバランスが大事だった。橋。車。自転車。一輪車。円を転がすという発想自体が、バランスが命であった。ぼくは右指を怪我したときの居心地の悪さを考えてもいた。シャンプーも片手で行われなければならず、最終的な爽快さも得られない。歯磨きをあえて左手でしてみる。時計。スピーカー。

 奈美は多分、すすめられたソファーにすわり、靴が直されるのを待っている。彼女は幼少期から待つという経験を何度もしてきたのだろうが、いまはぼくが待たされていた。幼い彼女は病院の順番を待ち、母の買い物の終了を待っている。その姿を想像する。ひとりで遊ぶことで世界から距離をとる。少女の頭の中身などぼくは知らない。だが、そこに入ってみたいとも思った。いまの彼女の頭のなかには、ぼくがいる。寝ても覚めてもいるという状況ではないかもしれないが、確かにいる。このぼくが存在しているからそれが可能なのであり、出会った事実があるからこそ、その役割と立場が与えられる。

 奈美以外の頭のなかにもぼくはいることだろう。だが、それは奈美の世界より楽しくないようでもあった。その理由は分からないが、ただ、好きだからだといえばそれまでだった。

 ぼくはまた足先を見る。自分が通算、どれだけの靴を履いたのか無意味な問答を考えている。なれない感触が最初にありながらも、自分の足の形状と歩み寄る靴たち。違和感もなく、それはここにあった。ぼくは奈美に対して違和感はないのだろうか。会うたびに、ぼくは奈美に新鮮な感情を抱いていた。その原因の根がどこにあるのかも分からない。ただ、不思議な感じだけはのこっていた。それは戸惑いでもなく、もちろん嫌悪でもない。その新鮮さが失われた瞬間に愛はきちんと育ったという証拠になるのだろうか。それとも、それは喪失と失意のはっきりとした確証となるのだろうか。

 向こうから奈美が歩いてくる。まだ、ぼくには気付いていないようだった。靴が無事だったとしたら、今日は待ち合わせに間に合ったのだろう。しかし、何度もいうがぼくはこの時間が嫌いではなかった。会社員から奈美の恋人という役目にスムーズに移行するためには必要な時間だからだ。

「直ってるね」
「そう、新品みたいになった。それとその店員さんの出身地がわたしの田舎といっしょだったので話が弾んで」

 奈美はそのエピソードのいくつかを話す。ぼくは彼女がそこで過ごした休みの日々をきく。彼女はお転婆なのだろうか、静かにひっそりと遊ぶことを有意義と感じるタイプだったのだろうか。ぼくは、まだすべてを知らない。20数年の人生を正確に把握することができるのは、同じだけの時間を要するのだろうか。ぼくは、これからのその数十年間を想像していた。さらに、その期間に吐き潰される靴たちも。頑丈さもいつか崩れる。堅牢な城砦もいつか攻め込まれる。ぼくのこころはどうなのだろう。しかし、奈美のこころには今日のぼくの存在がインプットされ、消されることもないのだろう。あくまでも希望としてだが。

「どこまでも歩けそう」
「片方じゃ、役に立たないもんね。来るまで、バランスの取れたものと、取れていないものを考えていた。なにかある?」
「お箸。お皿。お茶碗」
「変なデザインのお皿もあるよ」
「タンス。引き出し。ずれてたら開かなくなるから」

「反対のは?」
「時計」
「きちんと正確に円じゃない。6と12の向かい合った反対側で位置も同じところだし」
「でも、左にしかしてないじゃない、ほら」勝ち誇ったように奈美が言って、ぼくの手を揺する。
「そうか、世界はバランスを崩す」
「右手の指輪。いつか、左手にするようになる」
「どこが起源なんだろうね、指輪の意味合いって」
「さあ、慣習なんじゃない」

「まあ、そうだけど」ぼくらの歩く歩幅は当然のように違う。でも、歩く方向は同じだ。進むスピードもいっしょだ。背も違う。他人から見たら、このふたりのバランスは似合っているのだろうか。いっしょに暮らすひとから影響を受け合うのか、兄弟のような雰囲気をただよわす夫婦もいる。いや、似た存在を探しているのだろうか。ぼくと奈美には相違がある。それは新鮮さとも呼ばれ、結果として驚きにもなった。ぼくの鼓動は早まり、これが愛の証拠だとも思っている。鼓動はバランスを崩しながらも一定に身体の隅々まで血液を運ぶ。

 ぼくらは信号が変わるのを待ち、横断歩道を渡る。前から来るひとを避け、ぼくと奈美の間が離れる。ある店のドアを開け、テーブルに着く。テーブル・クロスもバランスが保たれ、ナイフやフォークは左右に不均衡に並べられている。しかし、奈美の前の同じものを入れれば、テーブル全体のトータルとしては整然と均衡がとれていた。ワインが注がれる。傾いて冷やされるビン。奈美の笑顔。左右のバランスがとれている。頬杖をつく。傾いた顔。また、笑顔。ぼくの左にある心臓。身体の左右の整合性。奈美はぼくの声が聞き取れなかったのか、左耳をこちらに向けた。