爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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流求と覚醒の街角(55)神秘

2013年09月29日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(55)神秘

「この写真、見て」と奈美が言った。小さな四角のなかで、ある女性が友人の家に遊びに行き、子どもを抱いている。子どもという表現にもまだ満たないのかもしれない。自分で能動的にするのは泣くという行為ぐらいのことしかできない。手が実際にかかり、それでも、愛らしいもの。そこから、言葉を覚え、立つことができ、歩き出す。自転車に乗り、たくさんの疑問を感じる。ある種の答えを得て、さらに理不尽も知る。でも、そのようなことはすべて遠い先だった。この写真のなかでは奈美の腕の中でただ大人しくしている。

「自分もこうだったのかな」
「それは、そうだよ。ひとりで大きくなったような顔をしてるけど」

「生意気にもなって、反抗もしたり」言葉を覚え、それは言い訳や言い逃れにつながる危険もあるものだった。だが、ぼくは奈美がぼくの愛情を受領した瞬間の言葉も覚えていた。やはり、それも言語のもつ正統な楽しさだった。それ自身を習得し、自由自在に活用するのには年数がいった。一朝一夕ではできないもの。ぼくらのほとんどは、このひとつのグループの言葉のみで生活に明け暮れる。体系的に学ぶ意図のあるひとは複数を使いこなし、生まれついて他のものを身につけるのに困難ではないひともいた。奈美が抱いている者には、どれだけの能力が与えられているのか知る由もない。
「可愛いでしょう?」奈美は自分の所有物を褒めるようにして言った。

「そうだね。今後、すくなくとも十何年かは、この子のために頑張ろうとか思うような感じがするね」
「悪いこともできないね、いつも、背中を見られているみたいで」そう言いながら奈美は写真をしまった。

 ぼくらは役割を変える。会社員は、課長というものやマネージャーという呼称を手に入れるかもしれない。奈美は、妻や母になる可能性もあった。ぼくにも夫や父という肩書きが加わるかもしれない。赤ちゃんが永遠に赤ちゃんでいられないのと同じく。乳児になり子どもとなり、少年になる。兄や姉にもなり得るのだろう。そうなると、奈美の両親も相対的に役柄が変わる。ぼくは奈美のしまった写真にすら影響を受けた。

「その女の子さ・・・」ぼくは、さっきの写真に話を戻す。
「ごめん、この子、男の子なんだけど」
「ほんとに?」
「わたしが嘘をついてもメリットないでしょう?」

 ぼくは話したかったことを忘れた。もう話を戻すことを望んではいなかったが、名前を訊いて、男の子であることを確認した。名前に使う文字や音や響きを年代ごとにかえても、いまだに男の子に使う文字があり、女の子らしい名前の響きがあった。その範疇を越えると、不確かな不幸が待っているような気もした。もし、仮にぼくが子どもの名前を付けるとしたら、どういう音や響きを求めるのだろう。ひとつの名前は確実にひとりの存在を浮かばせることもあった。ぼくは、こころのなかでそのひとつを呼ぶ。その名前をつけていいのは、用いていいのは最終的にはその女性だけだった。著名な女優が絶対的にその個性を思い出させてしまうように。

「ぼくの名前や漢字をどこかで見たり聞いたりしたら、ドキッとする?」
「それはするよ。もらった名刺にその名前でもあれば、なんだか、好意的に思うよ」

 ぼくは、この日本語というものが使えることを、この場面で喜んでいた。その同等の歓喜の気持ちを奈美にも感じて欲しかったが、ぼくの舌はそう軽やかにならなかった。赤子と同じく、泣き喚くしか伝達方法がないのかもしれない。そして、大人は決してそんなことはしないのだ。

「その子も、十七にでもなれば恋をして、二十三のときにも恋をして、三十一才に最後の恋愛対象を見つけるのかもしれない」ぼくがそう言うと、
「随分と、気が多い子なのね」と、奈美は反論がはじまるような口調で言った。「足りないの?」
「足りるよ」

「変な答え」奈美は座を立った。ぼくはその背中に向かって、生まれてきてくれてありがとうと言った。あまりにも小さな声なので到達しない。ただ、「え?」とだけ言った。

 ぼくはもう奈美の居ない世界など信用しなくなっていた。そして、前の女性が奪われてしまったことを歴史の一ページにしようと決めていた。それは容易なことではなかった。鉛筆と消しゴムで訂正できれば良いのになと相変わらず考えつづけてもいたのだ。でも、一度、子どもの名前が決まれば訂正はきかない。あだ名が名前以上になることもある。でも、そのあだ名も、名前の一部やその子の特徴の一部が拡大解釈されて成立するのだ。奈美という単純な呼び名には変更が必要なかった。そして、ぼくは、今後この二文字を永久に忘れることもできないのだ。さっきの写真の子の名前は忘れるかもしれない。いつか、また女の子という分類に入れ込むかもしれない。そうすると、ぼくの判断などこの世界には、微量な調味料の一振りほど変化を加えないのだという事実に気付く。でも、ぼくが奈美の背中に奈美と呼びかければ、世界は変化をする。いや、それも大げさだ。ひとりの女性が振り向く。そして、その存在をぼくは偉大なモニュメントのように感じてもいる。間違っていようが、いまいが。

流求と覚醒の街角(54)忘れ物

2013年09月28日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(54)忘れ物

 一旦、外に出た奈美が戻ってきた。

「忘れ物した」と言って靴を脱ぎ、部屋に入ってきた。ぼくは、寝不足を取り戻そうとベッドに横たわっていた。「あれ、具合、悪いの? あった」と言って床に手を伸ばした。「具合、悪いの? ねえ」
「違うよ。ただ寝足りないだけ」
「寝られそう?」
「多分、眠れないね。忘れ物は君だったんだよ」
「どうしたの?」
「気障なセリフ大会でもしようと思って」
「ごめん、付き合えない。帰るね」彼女の唇はぼくのおでこに触れる。「また、連絡する」

 ドアが閉まる大きな音がした。ドア・クローザーの調子が悪い。でも、そのことを忘れぼくは目をつぶった。本日の奈美の予定は、母親と会うことになっている。ふたりで買い物でもして、ランクの高いレストランにでも入るのだろう。その女性同士の関係性が自分にはよく分からなかった。会っているときには些細なことで喧嘩をして、楽しそうにも思えなかった。だが、それで敬遠するわけでもなく定期的に、頻繁という程度には会っていた。それに、ぼくはふたりの相違というものより同質というものに気付き始めていた。いずれ、奈美もああなるのだ。何年後かに。何十年後かに。参考にするのは無遠慮でもないのだろう。

 結局、眠りはやってこなかった。ぼくは歯を磨き、ひげの手触りを認識して、しかし、剃ることもなく外に出た。どこかでコーヒーを飲むことを願った。空虚でぼんやりとすることが許される幸福な日曜日。

 数軒離れた家ではペンキを塗り替えていた。ぼくはドアの音をまた思い出した。このひとなら直ぐに頼めば直してくれそうな頼もしさと安心感があった。でも、簡単に頼めない。忘れ物は君だった、と呟きどうでもよいことを蒸し返していた。

 忘れてもいない。忘れられないことも多くあった。ぼくはある店に入ってコーヒーを頼んだ。新聞をひろげているひともいるし、今日、はじめてデートをするという感じの初々しいふたり組みもいた。彼らの視線は合わず、空中で交差することも少なかった。その新鮮さがぼくにはうらやましかった。ぼくは、もうその立場になることはないだろう。ある年代で失ってしまうものなのだ。あの切実なる緊張と、相手に嫌われたらこの世界は根底から崩れ去るのだという不安をもう一度だけでも感じたかった。でも、世界は回転しつづけ、ぼくの眠りも毎夜、毎夜きちんと訪れる。相手に好かれようが、嫌われようが。

 ぼくはすることもなく観察をつづけた。男性が席を立ってトイレに向かった。女性は素早く鏡を出し、自分の表情を点検した。彼女は今日、ピークを迎えようとしている。それは自分が願っているだけで、本来はあと五年か、六年はやってこない。その日に交際しているのは彼ではないのかもしれない。時間軸というのは難しいものだ。奈美のピークは昨日かもしれなかった。女性の外見として。もしかしたら数ヵ月後かもしれない。その間の奈美のことをぼくは知っている。今後、ぼくは愛しつづけるだろうが、ふたりの思い出や反応の数々は新鮮であるということより居心地の良さに比重を置くようになっていくのかもしれない。これもまた時間軸の問題でもあった。

 あの女性は鏡を隠す。ぼくは戻りかけの男性と視線が合う。ちょっと踏み込みすぎてしまったようだ。それで勘定が書かれた紙を取り、レジに向かった。数百円。観察料も加わっているのならば安いものだった。

 散歩をする。空は雨の気配などまったくない。ぼくは誰かの気持ちが自分に向かっていることを知らない。この時間にぼくのことを考えているひとはどれぐらいいるのだろうかと考え出す。奈美は母にぼくのことを話しているだろうか。母は採点する。点を増し、減点する。結果として昨日と大して変わらない。

 ぼくの忘れ物はなんだったのだろう。言わなかった言葉。言ってしまった言葉。傷つけたこと。胸が痛んだこと。それは、もうどれも新鮮なものではなかった。タンスについた傷のようにあって当然のものになった。買い換えるまでずっとあるのだ。そして、ぼく自身には交換が利かない。新製品もなければ、お試し期間もない。ずっと、これでやっていくのだ。

 前の女性のピークはいつだったのだろう。彼女の今日はどれほど輝かしいものであり、あの笑顔を誰に向けているのだろう。あの優しさを存分に受けることになる子どもはどれほど幸せなのだろう。ぼくはもうなにも知らない。タンスの傷もいつどこで付いたのか思い出せないように。

 ぼくはスーパーに寄り、出来合いの惣菜を買った。奈美は高級なレストランに、もう入ったのだろうか。父も合流する可能性もある。ぼくは自分の家への道を歩いている。ペンキを塗っているひとはもういなかった。だが、匂いがその日の作業を追憶している。雨が降らない日を選ばなければならなかったのだ。ぼく自身にも災難が起こらない日。もうスポーツで負けることもない。当然、勝つこともない。ただ日々、電車に揺られ会社に行くのだ。その狭い範囲で自分は存在し、拍手や喝采もなかった。この自分のピークは一体、いつだったのだろう。忘れ物、とぼくはささやく。全部、忘れてしまったら、忘れ物にもならない。思い出せる可能性の間にあるものだけが、そう呼ばれることになる。思い出は継続し、進行して増えていくのであれば、また呼び名も違うのだろう。その本当の名称をぼくは考える。生活。暮らし。そのような区の広報のなかの言葉のように、虚しく発するしかないもののようにも感じられた。部屋にはなぜだか奈美がいた気配が濃厚だった。傷でもない、匂いでもない。雰囲気というあやふやなものであり、そのあやふやなものの存在感がぼくには意外と大きなものだった。

流求と覚醒の街角(53)泡

2013年09月23日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(53)泡

 奈美は洗顔をしている。その白くなった顔で振り返って、テレビの画面を見ていた。誰と誰との関係が明らかになったというようなゴシップだった。

「そうだと思ってたのよ」と、探偵のような口調で言い、また正面を向き顔を水道水で流しはじめた。世の中のあらゆることをミステリー小説を読むように順番に推理すれば、そこには継続への絶対的な信頼がなければならない。犯人や原因を探すということも最終的にはつじつまを合わせるということに他ならなかった。だが、人間はもっと衝動的であり、短絡的でもあり、正直にいえば計算などないのだろう。薄情な生き物。その流された泡のように。

 さっぱりとした顔をタオルで拭いている。画面はもう別の話題に変更していた。今年のスポーツ選手の躍進と予想はずれ。すべてが泡なのだ。気泡であり、飛沫なのだ。ぼくは歯ブラシを口に突っ込む。やはり、想像以上に泡が立ち、磨くというより口のなかの見えない生物を溺れさせているだけのものでもあるようだった。

 部屋に戻ると、奈美は炭酸のジュースを飲んでいた。朝がはじまる。爽快さは微量の泡が決める。

 ぼくは冷蔵庫からビールを取り出す。まだ、朝だ。だが、平日の疲れがどこかでしがみついて離れてくれそうにもなかったので、言い訳として缶のフタを開ける。
「もう、飲むの?」
「飲むよ。これで、食欲も増進するんだから」
「今日、餃子を食べに行くんだよ」
「そうだったね」

 ぼくは洗濯機のスイッチを入れた。洗剤を適量だけ放り込み、回転する様子を数秒ながめた。ここにも、泡があった。カニの口にもあぶくがある。その円状のものがなんらかの役になっているものか考えるが答えはでない。

 ぼくは終わった洗濯物を干す。風になびく。もう泡はない。ビールもちょうど終わってしまった。

 奈美は素麺をゆでる。沸騰したお湯はたくさんの泡をつくった。その茹で上がったものをぼくらはつゆに浸して食べた。テレビはマイナーなスポーツを放映している。その具体的なルールの説明をアナウンサーはしている。自分も一夜漬けで覚えたのかもしれないし、反対に、偏執的なまでにそのスポーツに思い入れがあるのかもしれない。口角泡を飛ばす、という表現があった。ぼくは一日そんなことを考えつづけているようだった。

 奈美はベッドに寝そべってテレビを見るともなく見ていたらしいが、いつの間にか眠っているようだ。寝息が聞こえる。ぼくは静かにテレビを消して、ベランダの洗濯物の乾き具合を調べた。完全には乾いていないようだ。外は晴れている。雲のかたちには円を示すものはない。ぼくは食器を片付け、泡で洗った。スポンジはいささかくたびれていた。主婦ならメモでもして買い物に行くのだろうが、ぼくの脳はそういう細かなことを簡単に排除するようにできているようだった。

 奈美は起きる。「寝てた?」と、自分でも確認できるであろうことを訊いた。

「寝てたみたいだよ。鼻風船ができていたよ」外の洗濯物は揺れていた。「もし、マンガならばね」
「まさか。そろそろ、化粧をしないと」奈美は小さな袋を手に鏡の前にすわった。仕上がりそうになるとぼくは着替えて、取り込んだ服をたたんだ。ズボンのポケットから丸まったハンカチがでてきた。それはいびつな形で乾いていた。気分が悪いので、ぼくはくしゃくしゃのまままた洗濯機の口に投げ入れた。

 夕方になる前にぼくらはそとを歩いている。子どもたちがいて、公園との敷地の境目でシャボン玉で遊んでいた。いまの自分にはその生産性のない遊びがどう楽しいのか分からず、また反対に、これ以上楽しいこともないように思えていた。いつか飽きてしまうのだろうが、その時間もまったく分からなかった。生産性のない世界があり、無駄をつづけることのみが正しいことにも思えていた。

 ぼくらは餃子を食べに電車に乗った。奈美が行きたい店があった。ぼくらの若い胃袋は素麺などすでに消化してしまっていた。だから、店の前で香ばしい匂いをかいだだけで空腹の合図がなった。

 ぼくはビールを注文する。また、泡ができた。だが、泡というより、いまは白いクリームにも思えた。そして、小さな皿に醤油とラー油をついだ。ラー油は赤い虹のようなものを作った。この状態を正確に指すことばは思い浮かばなかった。すると、間もなく焼かれた餃子が運ばれた。ぼくらは口にする。奈美は満足した笑みを浮かべる。
「おいしいね」
「明日、におうよ」
「明日は、明日だよ」
「刹那的」
「まだ、食べられるでしょう?」
「うん、まだまだ」ぼくは追加して注文する。同じように別の席のひとも大きな声で何人前必要なのか伝えていた。

 満腹になったぼくらは外に出る。出ようとした瞬間、店内の床の最後は滑りやすくなっていたので危うく転がりそうになった。奈美はそれを見て笑った。

 外には丸い月があった。上手な小学生が集中してコンパスを使ったような完全に近い円だった。多分、周期がある。そこには法則がある。ぼくは右回りと左回りの渦があったように思い出した。それより重要なこととして、ぼくの身体のどちら側に奈美がいたほうが安心するのか、その左右を直すようにぼくは歩幅を変えた。

流求と覚醒の街角(52)用途

2013年09月22日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(52)用途

 ぼくらは下町と呼ばれるところにいた。
「耳って、鉛筆置き場になるんだね」あるおじさんが耳に鉛筆を挟んでいた。浅草は勝者と敗者を決める町。馬の走りで一喜一憂する町でもあった。ベン・ハーのように。「ギャンブルする?」
「いっしょにいて、しないことは分かってもらっていると思ってたけど」奈美はそれには返答しなかった。
「ねえ、違う用途に使われるものを言い合おうよ」とだけ言った。「最初は身体で」
「いいよ。メガネのためには鼻も耳もうまく使われている」

「二点。爪を塗るのもそうだよね。でも、どうして、爪があるんだろうね」
「引っかくためじゃないの? すると、化粧全般が別の用途で使われていると思うよ。そのマスカラとかも」
「女性のほうが有利だね。指輪も」
「ネックレスもイヤリングも。あと、足首にするのとかも。何て言うの?」
「アンクレット。飾ること自体、別の用途になるのかな?」
「本来の用途って、なんだろうね。目なら見る。耳なら聞くことだし」
「口は食べる」奈美は自信満々の口調で言った。

「話すもだよ。いま、使ってるから」
「キスもするよ」
「そうだね。でも、それは唇の役目じゃない。詳細にすると」
「お子さま。でも、最初のキスって驚いたな。いつか、するだろうことは知っていたけど」
「いつだった?」
「教えてあげないよ。そのころから成長した上達者とできてるんだから」

 ぼくはその唇を見る。役目。役割。ひとは上手くなりたい生き物なのだ。熟練という音のひびき。
「ぼくも嫉妬ぐらいする生き物だよ」
「中学生のわたしに嫉妬しても仕方ないでしょう」
「中学生なんだ?」

「誘導尋問だね」ぼくらは商店街をぶらぶらと歩いている。いろいろなものが売られ、飲食店も多かった。ぼくらはその店のなかの一軒のまえで思案する。腹はそれほど空いていない。しかし、喉も渇いてきた。軽いものでお酒が飲めればいい。敗者も勝者も初心者も熟練者も休日の締めくくりに酒を飲むのだ。

「コップが箸立てにもなっている」あまり上品な店ではなかった。店がいままで焼いた肉のうま味が煤となって壁を不思議な色つやに変化させている。
「コップはいろいろなものに使いやすいよ。筒状になって、いろんなものを放り込めるし。鉛筆立てにだって」
「でも、ひとつの用途のためだけにあるものもあるよね。何か言って」
「例えば、卵焼きだけを焼く四角いフライパンみたいなものも。家の電話とかも」
「でも、録音ができるようになったら、専門性が奪われる。この携帯見て。なんでもできる」

「釘も打てる」
「打てないよ。くだらない」

 料理が運ばれる。箸は箸だけであった。でも、突き刺すということは用途として誤っているのか考えた。
「口は食べる。料理は匂いも重要か」
「見た目も重要だよ。餃子のかたちで、餃子であることが分かるんだから」その店には餃子がなかったが、奈美は急に餃子の素晴らしさを熱弁した。「じゃあ、今度は用途が変わってしまうものは?」
「少女から、キスもおそれた少女から、お母さんに」
「随分と女性蔑視だね、発言が」

「あんなに痛がるのを怖れてた子たちがだよ、子どもをすすんで生もうとしている。痛いのに」
「その問題は終わり」
「お母さんもおばあちゃんに。でも、孫にかこまれている状態がいちばん幸福かね」
「うちのお母さんもなるのかな?」
「なるだろう」
「じゃあ、わたしが痛がんなきゃならないよ」
「そうだね」
「他人事」

「ほかに変わるのって。タオルか。最先端の任務を終え、雑巾として第二の人生を歩む。Tシャツも外出着からパジャマに格下げされる」
「つかいなれたコットンてね、気持ちいいし。でも、衰えていくことばかり目が向いているみたいだよ、今日。鉛筆も短くなるね。ちびた鉛筆のちびたって、ほかに使わないよね?」
「専門性」
「箸を一種類で全部済ませるのも簡単でいいね。アレ用のナイフがあるとか、変なかたちのスプーンがたくさん並んでるのとか」
「そういうのも、奈美、好きだろう?」
「好きだけど。このシンプルさも大切」

 ぼくらは商店街をまた歩く。思ったより店は早く閉まっていた。雑踏もなくなり、ひとの往き来も減った。ぼくらは川べりまで歩く。桜が季節になれば豪華に咲くのだろう。いまは、ない。ただ、涼しげな風が川の上を渡ってくる。
「男の子って、今日はキスしようとか思ってた? 緊張した、最初?」

「このぐらいでしないと、もう一生しないなとか心配があったんじゃない。だから、いつかは挑まないといけない」
「可愛かった、最初の子?」
「まあね」
「悪く言わないね」
「言う必要もないし、実際に悪くないもん」
「でも、別れちゃう」

「自分が悪かったんだろう。いや、タオルがなんだかザラザラして肌を痛めるとかに段々となっていったのか・・・」
「来週、餃子食べる?」
「にんにく臭くなるよ」
「いいよ。別に初恋のひとの前じゃないし」
「ひどい物言いだね」
「じゃあ、この口、別の用途のために使ってもいいよ」
「ここで?」土手には、そうひともいなかった。

「聞いたらダメだよ、もう」奈美はそう言って、歩き出した。ぼくはその背中を追う。そして、肩のあたりに手を置いた。手の置き場所。本来の用途と別の用途。別の用途の円熟。痛みをおそれない女性。いろいろなことを考える。中腰。爪先立ち。土手の段差。勝者と敗者を決める町。

流求と覚醒の街角(51)階段

2013年09月21日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(51)階段

「これ、何段ぐらいあると思う?」奈美は神社の階段を見上げながら質問をした。
「さあ、百とか百五十とかじゃない」
「一段ずつ、名曲を言い合わない?」

「ジャンルは?」
「なんでもあり。じゃないと、そんなに浮かばないでしょう。どうぞ」
「いいの? 有利だよ」
「いいよ」
「いとしのエリー」
「安全パイ。無難。冒険心のなさ」
「なんだよ、解説と批判つきかよ」

「それが会話だから。次、わたし」ぼくらの歩みは全然すすまなかった。同じところに立ちつづけた結果、後から来るひとの迷惑になった。だが、ぞくぞくと登るような時期でもなかったので自然と絶えた。「サティスファクション。あ、ルールではストーンズで一曲。だから、サザンも終わり」
「ビートルズで一曲」
「うん、それはセンスだからね。チョイスには」

 ぼくは上を見る。上空という表現が似つかわしかった。厳格にルールを守るとしたら、いつまでも最後まで登れそうにもなかった。だから、お互いの合意があれば、三段登れるというルールも急遽、つくった。だが、まだまだ遠かった。

 数十分後にぼくらは上にたどり着く。奈美の最後の曲として、イムジン河と言った。ぼくは鮮明にその唄を思い出せなかった。
「両親はヒッピーの真似事をしていたのだよ」と奈美はひとごとのように言った。
「あのお父さんも?」
「娘の恋人には厳格になる父」

「なんだか、フェアじゃないもんだね」
「そういうところよ。それで、古いレコードを聴かされた娘が育ったと」
「そうなんだ。知らなかった」
「知ろうとしないからじゃない?」
「かもね」
「努力してほしいもんだわ」ふざけたように大げさに奈美は言った。

 ぼくの太ももは血液を運んでいることを無言で主張していた。口のなかも乾いた。休むために池のほとりにあるベンチに座った。
「あのお父さんがね。写真とかあるの?」
「あるよ、実家にまた行きたい?」ぼくは即答を避ける。「困ると、黙っちゃって」
「娘を愛しつづけたひとたちのなかにいると、窮屈な面も当然あるよ。外野だから」
「なかに入り込めばいいのよ。努力してほしいものだわ」奈美は池に泳ぐ鯉を熱心に見ていた。「気を使いすぎるのよ。遠慮しないでもいいのに」
「そうだろうけどね」

 ぼくはあの男性のどこに、それほどの抵抗があるのだろう。ぼくの深い部分では奈美を真剣に思いつづけていないということが暴かれることを恐れているのか。比較になれば、ぼくは奈美をいつか前の女性以上に愛する状態になることを予測し、少なくても期待していた。いや、いつもは勝っているのだ。だが、ぼくのこころには不変である部屋がすでにあった。誰も汚さず、誰も乱さない部屋が。ぼくは、奈美の父の前にいるとその部屋の存在を見透かされているような気持ちになった。多分、奈美の父も妻と知り合う前には同じことがあったのかもしれない。何となくだがその予感は当たっている気がした。妥協とまでは呼べないにしても、正確にあらわれないぐらいのまやかしがあった。

「ママは、奈美は愛されているのね、と言ってくれる」奈美はベンチを立ち上がりながらそう呟いた。さらに池の縁に近付き、大きな石を固いもので叩いた。その音を聞きつけると、数匹の鯉が口を開けて近寄ってきた。「ごめんね、餌になるもの、ないんだ」
「女性の勘」
「男性の鈍感さ」

 ぼくらは階段とは反対側の方まで歩いた。ゆるやかな坂道になっており、もう有名曲を口にする必要は生じなかった。
「お母さんは、なんで、そう思うんだろう?」
「こういうことしてくれた、とか、こういうこと言ってくれた、とか教えるから。お父さん、それでも、昔風のひとだからね」
「いまに比べればね」ぼくより若い子は、当然、ぼくよりもっとスマートになる可能性も確立も多かった。「でも、なんで、お父さんは思わないんだろう?」
「思わないわけじゃないのよ。ただ、一瞬のことではなく、長く継続することを女性以上に、短絡的にならずに考えているんじゃない」

「未来のこと?」そう質問したぼくは過去に捉われ、不自由さを感じ、縛られていた人間だった。だが、一気にのぼった階段も、こうしてゆるゆると一段ずつ降りられるのだ。ぼくは、前の女性との日々を捨てようと願いつつも、過去の有名曲のようにわざと一つずつ思い出していた。それらのことごとくは、ぼくらふたりの発明であり、大きくいえば作曲だった。壮大なる交響曲にならなくても、未完だから美しくなり得ることも当然にあった。小さな室内曲。小品。だが、ぼくは奈美ともっと大きくなりつつあるものを望んでいた。ぼくは奈美の両親のくだけた姿の写真を想像した。それらが間違いなく過去に属する部類のものだとしても、ぼくにとっては未来の一部になるものとして加わる必要があるようだった。ぼくらは、いつの間にかもとの高さにもどっていた。血液が流れれば空腹になった。いったい、何回ぐらいの空腹をぼくらは満たすのだろう。もっと、切ないぐらいに求めるものはどれほどの数量であるのだろう、と無駄にも思えることをぼくは考えはじめていた。

流求と覚醒の街角(50)帽子

2013年09月16日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(50)帽子

「どうしたの、急に帽子なんかかぶって」ぼくは奈美の姿を見てそう言った。彼女が帽子をかぶっていることなど滅多になかった。選択肢にないことだとも思っていた。だが、彼女は直ぐに返事をしなかった。窓ガラスに映る自分の姿を確認してからやっと話し出した。
「似合ってないかな? 気に入って衝動買いしたんだ」
「似合ってないこともないよ」
「そう、なら良かった。褒めことばをもらえなくても」
「減点みたいだね」

 ぼくらは歩く。休日ののんびりとした街並み。
「子どものときは帽子をかぶったでしょう?」
「それはね。帽子にビーチサンダルでひと夏が終わったよ」
「洗濯も簡単だね」
「次の年にはもう着られないぐらいに小さくなっちゃうけどね」
「もったいないね」
「もったいないとも思わなかったけど、あれ、誰かが着たのかな」

 ただ通過するものたち。処分という観念もなく、手を離れていってしまうものたち。
「同じ服の子とかいた?」
「小さな町なのに不思議とそういうことはなかったね」
「わたし、あったんだ。ちょっと、わたしより静かで可愛い子がわたしと同じ服を着ていた。なんだか、やりきれなかった」
「学校で?」

「うん、小学校のとき」
「親もこういう服が可愛いとか思ったんだろう。こういう服が似合う可愛い娘であってほしいという期待もあって」
「そうなんだろうけど、当人同士はなんだか気まずかったから。逃げ出すわけにもいかないし、一日は。それで、なるべくその洋服をあまり着たくない素振りをしたけど、ローテーションもあるし」
「言えないの?」
「言ったと思うけど。でも、友だちとお揃いものを持ちたがるときもあったから、不思議だよね」
「そのへんの機微は分からないよね」ぼくには少女の気持ちなど無縁であるのだろう。

 ぼくらはスポーツ・ショップの前を通りかかる。メジャー・リーグのチームの帽子がある。奈美にすすめられてかぶってみる。鏡のなかをのぞくと、それほど似合ってもいなかった。
「買ってみる?」
「ダメ、ダメ。まったく似合っていない」となりにはバットやグローブもあった。これらを手に嵌め、握っていた時代もあった。愛着を感じつづけていた日々もあった。それも着られなくなった洋服と同じように遠い過去に所属する部類のものになった。

「どんなもので遊んだの?」
「わたしもソフト・ボールぐらいはしたよ」
「じゃあ、打てる? バッティング・センターでも行ってみる?」
「今日の格好じゃ無理だけどね」奈美は自分の服を見下ろすようにしていた。
「じゃあ、今度」
「じゃあ、今度」

 ぼくは帽子を脱いだのに、その感触が頭の周囲にはのこっていた。ある年齢から遊びではなく、部活としてやりはじめる友人たちもいた。その証明はユニフォーム姿なのだろう。揃いのものを着て、個性をなくす。いや、戦うチームと個性を対立させる。一丸となるということはああいうことなのだろう。異性の目を意識して動く。自分が能動的に示す活躍を誰かにも認められたいと思うようになった。その効用がどれほどあるのか、逆に自分の能力を軽減させてしまう役目もあったのか、いまの自分には思い出せそうにもなかった。いまは異性の視線などそれほど意識をしない。お客や、仕事の上役の視線があった。通過させなければならない仕事もあった。手直しがあり、気に入ってもらえるかどうか考える時間もあった。何だか、やはり大人は複雑になるのだとしか結論としては迎えられなかった。

「その同じ服の子は、やっぱり、同じ服をその後も着てきたの?」ぼくは疑問を発する。
「彼女のほうが洋服をいっぱいもっているみたいだった。それにある日、転校しちゃったし」
「そうなんだ」
「きれいな女の子特有の存在感の薄い感じもあって」
「うん?」
「声も小さくて、お勉強もできて。わたしは活発だったから、同じところにはいないみたい」
「ライバルにならない?」
「違うスポーツなんでしょう、そもそもが」

 ぼくは会話を通じて、彼女の過去を知る。いまの記憶も徐々に増やす。存在は立体的になりつつありながらも、過去はやはり平面的な集合体でもあるようだった。動きもせず、固定される。ピンで留められ、現実と乖離している。だが、その過去をコマ送りすれば現在の奈美につづくのだという当然の認識もあった。そして、今日は帽子をかぶっている。ぼくはふたりの少女を頭の中に置く。同じ服をきている静かな子。もうひとりはきれいな洋服を汚してしまうのも怖れないやんちゃな子。同じものに包まれながらも、中身はまったく違う。当然といえば当然だ。野球部にいた友人たちをぼくは思い出す。彼らも練習を終え、帽子を脱げば、同じような髪型だとしても、個性も違かった。ぼくらはもっと自由が与えられていた。道具も少ない。練習後に店の前で駄菓子を買ったり、ジュースを飲む場所で会う。ぼくらは好きな異性のことを話し合ったはずだ。その後の彼らは、そうした架空の相手ではなく、実際の女性と出会い、気持ちを伝え、別れたり、別の女性と新たな恋をはじめたりしているのだろう。もう坊主である必要もない。だが、あのときに流した汗もいまでは新鮮であり、これもまた貴く感じられた。

 ある少女たちもぼくらの冷やかす視線を緊張しながら、さらに意識しすぎてぎこちなくなりながら通ったはずだ。奈美もそうした視線を浴びたのだろう。この今日のような帽子を似合う前の彼女。人間の個性というのはいつごろから、きちんとした形で芽生えるのだろう。進化の過程のようにそれも見つけたかった。

 ぼくらは歩いている。休日ののどかな街。昨日は変えられず、明日はまだ来ない。気に入らない昨日もなく、腑に落ちない明日もない。ただ、たまに帽子が風に揺れるだけの日。

流求と覚醒の街角(49)確立

2013年09月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(49)確立

「今日、学生時代にバイトしていたときのひとに会った」
「偶然だね。なんのバイトしてたんだっけ?」

 ぼくは、ひとつだけしかしていない。友人の家が経営していた中古の本の店で店頭に立ったり、たまに配達にいったりした。お得意さんにある女性画家がいて、ぼくはその娘と知り合う。やはり、それもぼくがその店で見つけた古い本の中味のように非現実的になり、架空の出来事のようにも感じていた。だから、それは逆に美しいものとなりつつあるのだ。現実の手垢にまみれない分、儚くて貴重でかつ美しい。
「ちょっとだけだけど、ケーキを売ってた」
「メルヘンチック」

「馬鹿にしてるでしょう?」
「なんで、してないよ。可愛い制服とか着て」
「そう。フリフリのオレンジ色の」
「もう、もってない?」
「変態」ぼくはその宣告を黙殺する。彼女の脳裏に浮かんだことの方がより陰湿である。

「なんか当時のこととか話したの?」
「彼女、とても親切で優しかった。わたしの方があとから入ったから知らないことが多かったんだけど、いつもサポートしてくれたんだ」
「でも、今日、会うまでは思い出しもしない?」
「悲しいし残念だけど、そういうこと。でも、会ってみればあの時の優しさが急に迫ってきて」
「やっぱり、距離を置いて、目の前に表れるということがとても大事なんだろうかね」
「そうなんだよね。でもね、名前とか思い出せなくて困ること、あるよね?」
「あるね。困ったら、直接、訊いちゃえばいいのに」

「訊けないよ」それから、彼女はそのひとときの邂逅の話をした。ある日の自分を覚えているひとがいて、この期間にはこのぐらいの変化があるということを予想して、さらに容認して、本質的には変わらない幹のような部分と対面する。ぼくには会いたいひとがいた。だが、会ってみたら何かが終わってしまうとも感じている。その何かを怖れており、また怖れが確実にあったとしても、具体的には展開しない。自分の過去の愛の名残をただ懐かしむだけかもしれず、その追憶の結晶を失ってしまう可能性があることも怖かった。魅力的な人間になっていなかったらというドキドキもあり、それ以上に神秘的な魅力をさらに有していたら、それもまた憂鬱を上乗せするだけだろう。結果として、会わないことが必然になり、このくだけた関係にいる自分こそ、もう今では本来の姿となっているのだ。過去のある日の自分は、もう自分ではない。いまのいくつかの変更が利く道をたどたどしく歩きながら選択をしてすすんでいる自分を見つめることこそが正しく、甘美でもあるのだろう。

「あのとき、ああいう制服を着といてよかったな。もう、無理だけど」
「そう? 似合うんじゃない?」
「馬鹿にしてるでしょう?」今日の彼女はそればかり言った。

 ぼくは何日かして、外回りのときに以前のバイト先に寄った。相変わらずかび臭い匂いがしていたが、それを不快な感覚だとも思っていない自分がいた。店主であり、友人の父であり、前の雇い主の男性と話す。共通の話題である友人のことを話した。彼には子どもが生まれたので、目の前にいる友人の父にとっては孫であり、彼の役柄もおじいちゃんという部分が加わった。

「お前は、結婚しないのか? 好きな子はいるんだろう」
「いますよ。まあ、そのうち」彼はぼくの過去の女性を知っていた。ぼくらの深い仲も、ぼくの傷も次のページをめくるように知っていた。
「なんだ、決心がつかないのか?」
「そんなこともないですよ」
「スタートは早く切ったほうがいいぞ」と彼は自信あり気にいった。その確信がどこから来るのか分からないが、孫の姿が可愛いのだろう。ぼくは友人に会いに行く約束を父に告げた。それが伝達されるのかも実際は分からなかったのだが、きっと、されるのだろう。

 ぼくは見慣れた商店街を歩く。八百屋があって、魚屋はそれらしい匂いを遠くからも分かるぐらいに発していた。数軒先にはケーキ屋もあった。過去の奈美もこういう店で働いていたのだろう。それは若い少女の専売特許であるべき場所だった。ぼくはそこを素通りする。カラフルな店内には、淡いグリーンの制服を着たきれいな女性がいた。数年後には、その子にはなにが待っているのだろう。孫を義理の父に見せるのかもしれない。駅前に着く。ぼくは、ここで何度もあの女性と待ち合わせをした。彼女がぼくを見つける。安堵した姿。最後に会ったのは、ぼくの転勤先であった。安堵はもうなくなっていた。ふたりはもう別の道をすすむしかないことは分かり切っていた。粘度の弱い接着剤のようにぼくらは離れる。しかし、別の場所に付着したボンドは、間違って指先や爪先にあるかのように、こころの深部のどこかで相変わらず主張をつづけていた。

 ぼくは電車に乗り、仕事の資料をひざに拡げた。先ほどのバイト先の店主の声が今ごろになってぼくの耳を通過してこころに響く。「決心がつかないのか?」と彼は言った。ぼくは決心と好きという感情がぶつかる場所を探した。数種類のケーキが目の前にあった。ぼくはあのときの追憶の甘さがなつかしかった。しかし、大人の自分にはもう甘過ぎるのかもしれない。決心は、どうやって、どのタイミングでするのだろう。例えば、いま急に電話をして。でも、もしかしたら、仕事の間に、そんな話は聞きたがらないのかもしれない。ぼくは仕事の資料を仕舞う。先ほどの店で買ったいくらか古びた本を取り出した。ぼくはバイトを終えて、このような本を読みながら彼女を駅前で待っていた。その姿もやはり現実とは隔絶されてしまったようだった。すると乗換駅に近付き、ぼくには愛も思い出もなく、ただ顧客のリストしかないような錯覚だけがのこった。

流求と覚醒の街角(48)大掃除

2013年09月14日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(48)大掃除

「通勤につかってるカバンにこんなの入ってたよ」テーブルの上のイヤリングを奈美は指差している。
「へえ、奈美の?」
「まさか、自分のだったら、報告しないよ。誰の?」
「さあ。見当もつかない」
「そう」
「まさか、浮気と疑っているの? こんなの、状況があまりにも陳腐だよ・・・」
「じゃあ、いつから入ってたの? 答えて」
「男性がカバンの中身なんて点検しないよ。用があったら取り出して終わったら仕舞って。いらないものは捨てて。でも、いつからなんだろう?」

 ぼくは想像する。例えば、電車で。誰かの耳から落ちた飾り物がすとんとぼくのバッグに納まる。先日の飲み会のときに、社内の誰かの耳から外れる。端においた積もりのぼくのバッグにふとした拍子に紛れ込んでしまう。名前もない。誰の所有かも分からない。もちろん、浮気などする時間の余裕も気まぐれな気持ちもなかった。証明しづらいが。それにしても、誰かがなくなったとその場で騒いで、注目を浴びてもよさそうなものだった。コンタクト・レンズを落としたというひとも見かけなくなったけど。

「でも、なんで、また、ぼくのカバンの中身など見るんだよ」
「こうやって、論点をすりかえる」
「開ける必要もない」
「手紙を書いてこっそり忍ばせておこうと思って」
「その手紙は?」
「読ます気持ちもなくなっちゃった」
「だから、そんな後ろめたいことはしてないよ。考えが俗物すぎるよ。それに、あえてわざわざそんな細工をするやつもいないよ」
「分からないよ」

 自分にはアリバイを報告する義務もない。また、潔白を証明する手立てもない。このほんとうの気持ちをさらけ出すしか方法がないのだが、裁判という制度ではいかにも難しそうだった。ぼくはいくつかの映画を思い出していた。裁判というなかで勝利を達成した瞬間の歓喜の姿を。世界は信用を待っていた。疑念や懸念やずるさがすべて虚構で、正義だけがシンプルに、道を迷ったにせよ生き残るのだという確実なゴールを待ち望み。

「でも、これ、わたしのって訊いたよね? 趣味が違うとか思わない? そんなにわたしのこと興味ないんだ」
「それも、論点が変わってると思うけど」
「わたし、ピアスだよ、いつも」

「2つの違いなんて、それほど、ないよ。男性の下着の種類のほうがずっと分かりやすいよ」
「派閥」奈美の無表情に発したひとことにぼくはつい笑う。
「でも、ほんとだね、奈美のと違う。でも、そう考えれば、ぼくは同じ傾向のひとを好きになるはずだから、このちょっと浮ついた子どもっぽいイヤリングの子は敬遠するだろうね。陪審員がこの意見を信じてくれるならばだけど」
「嫌疑がかけられている。でも、被告、そもそも違うタイプを選ぶからこそ、浮気が成立すると思いませんか? 醤油味のラーメンのあとには、塩味を」
「何があっても、味噌で譲らないひともおりますよ、裁判長。このぼくみたいに」
「それは人生を楽しんでいないことになる」
「浮気を推奨しているみたいだね?」

「分かった。やっぱり、違うんだろうね。仕事も忙しくてそんな暇もなかったことはわたしが知っているよ。でも、どうやって、ここに入ったんだろうね。ミステリー」
「奈美だっていろいろなものをなくすだろう? 思いがけないところから出てきたりするじゃない」
「これが、なんで、この引き出しに? とか」
「そうそう」遅ればせながら平和は訪れる。「でも、ひとの身体に密着していたのに、なんかイヤリングって不快感がないもんだよね」
「なんで、こんなの耳につけるんだろう。誰が最初にしたんだろう」

 ぼくらはその存在を忘れて部屋で映画をみはじめた。だが、ずっとテーブルの上にはそれがあった。片方では役にたたないものだから、なくした本人は困っているかもしれない。しかし、それほど高価なものではなさそうなので、少しの間は不機嫌になったかもしれないが、直ぐに忘れてしまうような類いのものかもしれない。

 ぼくは奈美がしているピアスのひとつも思い出せないことに気付く。前の女性のも同様だった。彼女の細い首は覚えているが、耳になにがあったのか、首にはどのような飾りがあったのかも、まったく記憶にのこっていなかった。

 映画は終わる。ぼくは奈美が渡しそびれた手紙の内容を想像する。そこには何が書いてあったのか? 何かの予定。感謝のことば。ふたりがした計画のうちのどれかをぼくが実行していなくて、彼女は思い出させる必要があったのかもしれない。いつか、タイミングが合ったときに聞き出すしかない。でも、そのことすらまた忘れてしまうのかもしれないが。

「ご飯、作るね」奈美はそう言って台所に立った。ぼくは、部屋に紛れ込んでしまったてんとう虫でも見るように、相変わらず机の上のイヤリングを眺めていた。足もないので勝手に動きもしない。ここにいると決めたような片意地な様子まであった。物事の決定というのは案外こういう形ですすむのかもしれないとぼくは不思議と愛着をもってその存在を眺めていた。反対に、本当の持ち主も失うということはこうも簡単になされ、喪失の甘酸っぱさも醜さも一切、感じていないのかもしれない。となりの部屋から炒めた食材の匂いがする。絶対になくならないものもある。決意して捨てようと思わない限り、包丁もフライパンもそこにあった。徐々に減っていくものもある。奈美が並べた調味料。買い替え時になっている。その見極めのひとつひとつをなぜだか尊く感じていた。人間関係のどれかもこれらに当てはまり、適用できるのかもしれない。ずっといるもの。いつか、いなくなるもの。後悔と苦さ。爽快さと失意。自分はあまりにも語彙が増えてしまったようで不愉快でもあった。ただ、ぼくは奈美に好きと言えば良いだけなのだ。信頼に足る声音で。そのタイミングも渡されなかった手紙のように捜索が必要だった、と思ったら腹が鳴った。

流求と覚醒の街角(47)フード

2013年09月08日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(47)フード

 夏の太陽は飛び立ち、一転して、秋を感じさせる雨になった。だが、ぼくらの身体は熱を発していた。ぼくらは海側ではなく反対の緑茂る場所に足を踏み込んだ。背の高い樹木が雨を地上まで落とすことをさえぎっていた。それでも、やはり地面はぬかるんでいた。心配も必要なく、ぼくらの足元は濡れてもいいようにビーチ・サンダルのままだった。

「なんだか、冷え冷えするね」と奈美は自分の両手が毛布の役目を果たすかのように身体を抱いた。

「寒い?」
「ううん、まだ大丈夫。空気もすがすがしいし」

 ただの森で、地図も整備された歩道もない。ただ何人かが踏みしめた跡があって、それを追って歩いていた。ぼくは先を歩く奈美の背中を見た。フードのある上着を着ていた。ぼくは奈美のことを好きになった人間のことを考えてみる。先ず、彼女を目にするのは出産を担当した先生になるのだろう。愛情とは別に医師には生み出すことへの手伝いの義務がある。その小さな子も片言のことばを話すようになる。両親は無条件の愛情を示したであろう。小学生になり、もう少し大人になる。彼女のことを好きになる異性も存在するようになったであろう。その頃、ぼくはどこにいたのか。また、同じように彼女も誰かのことを好きになる。両者の気持ちが一致することがいずれでてくる。幸福であり、また不可解な人間の気持ちだった。

 奈美は立ち止まる。樹の幹を触っていた。
「かぶとむしがいた」
「触れんの?」
「触れるよ、ほら」奈美は親指と人差し指でつかんだものをこっちに向けた。
「オスだね」ぼくの感想はシンプルだった。
「オスを手玉に取る」と言って奈美はまた樹の幹に生き物を返した。

 もう雨は止んでいた。だが、寒いのか、奈美はパーカーのフードを被った。誰かが踏みしめた道もなくなっていく。未開の土地。奈美のことをいちばん愛することのできる人間は誰なのだろう? ぼくは誰をいったいいちばん愛するのだろう。現在という観点でみれば、それは奈美であり、ぼくの人生を横に拡げ、細分させ思いを数値に置き換えれば、それは分からない。だが、目の前にあらわれたひとを好きになるのだ。このようなどこかの未開の土地にいる世界の反対の誰かをぼくは知りもしない。好きになった一欠けらの感情がもう一度会いたいという思いに変わる。会って継続させるということが当然になる。途中で喧嘩もすれば愛がより一層深まる場合もある。別の異性がある隙間に入り込むこともある。樹木にある蜜は誰にとっても甘美であるのだろう。

「もう、戻ろうか? 雨も止んだし」
「海にひとが戻っているかもしれない」
「海の匂いだけでもいいよ」そう言いながらフードから顔を出した。髪がでてきて、特徴のある耳も目に入った。

 ぼくの頭のてっぺんには時おり、葉っぱでは重みに耐えられなくなった水滴が落ちた。秋になったと感じたのはただの錯覚であったようだ。蜃気楼のように一瞬で消え往くもの。奈美は元気になる。上着のポケットに隠していたのかサングラスをした。
「眩しい」

 ぼくはその四つの音が意味するものを共有できる不思議さを感じた。まぶしい。視線に太陽の光線がぶつかり、さえぎる必要性がある。ぼくらは自分の感情をコントロールし、これは本当の好きという感情か試そうとする。こらえきれなくなって相手にも伝える。ひとしずく。相手も同じように思っていることを知り幸福になる。いや、幸福になるのはまだ早い。ぼくらはいろいろなものに試される。奈美の感情を一時は奪ったであろう男性がいて、ぼくには過去に真剣な気持ちで愛したひとがいた。それは急に太陽が昇ったからといって簡単に払拭できるものではないのかもしれない。しかし、自分で払拭する以外には方法も解決もないのだろう。だが、あの茂みの潤いもぼくには名残惜しいものだったのだ。かぶとぶしが安らかに蜜を吸うところ。太陽がすべてを乾かし、陽の下で明らかにしてしまう前の段階。

「どうする? 泳ぐ」
「水着、着てるの?」
「この下に」奈美は水着の肩紐を見せた。
「準備いいね。一回、帰らないと普通に下着だよ」

 奈美はびっくりした表情をする。ぼくは一日ずっと雨が降ると決め付けていた。夏のきまぐれの天気などぼくは知らない。本質的には、部屋でのんびりと過ごす一日を望んでいたのかもしれない。
「部屋に戻って着替えよう。必要なものもあるし」
「日焼け止め。シート」
「なんか飲み物も買おう」

 奈美はぼくの手をにぎった。さっきまで昆虫をつかんだ手。秋になるとなにをつかむのだろう。冬には雪の玉を。春には花びらを。また来年の夏には、どこか遠くまで行けるチケットを。

 十代の半ばの彼女は例えば十年後にどのような男性と会うことを望んでいたのだろう。何を目標にして、何を希望から外していったのだろう。ぼくは、やはりこの奈美のような女性と会えることを願っていた。フードの服が似合う女性。急に女性と男性の中間地点にいるようになる女性を。

 ぼくは部屋で着替えた。昨日と同じ水着はまだ湿っていた。ぼくのこころも乾き切るということを容易に果たしそうもなかった。だが、ガソリンが一滴ものこっていない車などもないのだ。廃車にするにせよ、どこかまでは運ばなければならない。エンジンをかけ。その後、誰かに受け渡しさえすれば、もう無頓着でいられる。専門家はそのひとなのだから。

流求と覚醒の街角(46)灼熱

2013年09月07日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(46)灼熱

 太陽は暑かった。沈むという行為すら忘れているようだった。その熱が足元の砂を予想以上にあぶっていた。上にあるものだが、下から熱したフライパンのうえを歩いているような気持ちにさせた。

 奈美は小さな水着をきていた。試着した時点ではそれほど大胆だとは感じなかったようだが、太陽のもとにいると印象は変わるらしい。小さなデパートの囲われた試着室と砂浜では雰囲気も視線の数も違う。見るのは、鏡のなかの自分と店員さんぐらいかもしれない。ここでは、不特定多数だ。その代表が自分であり、それをもっとも知っているのも自分のはずであった。

 彼女は寝そべっている。ぼくは座り、水平線を見ている。オレンジ色の物体が遊泳範囲を知らせるために遠くで浮いている。もっと向こうにはそれほど大きくない船が通過している。丸という文字は見えるが、その前の固有の名前は分からない。丸というのも、船はそういう名前をつけるであろうという経験から読めたに過ぎないのかもしれない。ただの経験の集積。でも、この場ではすべてが新鮮だった。

 暑いときに、暑いところにいる。信じられないほど日焼けしている少女がいる。水着の際の色白の部分も見える。身体に模様をつける部族もいる。この身体はひとつであり、自分という存在も一個にすぎなかった。奈美もひとつであり、恥ずかしながら着ることのできる水着もひとつだった。

 期間限定のようにこの季節だけ働く歌い手の声が、スピーカーから聞こえる。ちょっと前は割れたような音で迷子の案内を流していた。どの地点から迷子になるのだろう。子どもは遊びに夢中になっている。まわりにも両親はいない。そのことに気付かない。彼や彼女は自分の意識の世界だけに閉じ込められており、そこで思いを解放している。ふと横をみる。いるべきはずの存在がない。探す。探しても見つからない。自分が見捨てられた、忘れられたと感じる。探してくれるひともいない。大人に確保される。案内が流される。

「あの迷子の放送、流れなくなったから会えたのかね?」と、うつ伏せ姿の奈美がくぐもった声で言った。
「それほど、広くもないから直ぐに会えるよ」
「大人って、迷子になる自由もないんだよね」
「なりたいの?」

「少しは・・・」奈美のアゴには砂粒がいくつかついていた。彼女はそれに気付きもしない。「だって、電話もあるし、困ったら最終的にタクシーに乗ればいいだけだから。大人って、つまらない生き物だよ。かくれんぼもできない」
「しようっか?」
「やだよ」
「ほんとは、こわいんだろう?」
「わたしがいなくなったら、淋しがるくせに」と奈美は言って、やっと気になったのか、アゴの砂をはらった。遠くで船の汽笛の音がする。

 空気の振動がぼくの耳まで音を運ぶ。人間も絶えず気圧を受けているのだろうが普段は感じもしない。水圧は水に入れば感じる。空を飛べば、耳だけがその警告を静かに発する。息をのむ。迷子にもなれない大人は、あらゆる対処の仕方を覚えてしまう。

「もう一回、日焼け止め塗ってくれない?」彼女は黄色のボトルを手渡す。ぼくはその液体を取り出す。そして、彼女の肩に摺りこむ。これも対処のひとつだろう。「鼻のあたまに塗れば?」

 ぼくは余分には出さずに、自分の手の平に残っている液体を指摘された箇所に塗る。この手の平がいちばん妬けないはずだ、と考える。

 太陽はやっと傾きかける。一日の終わり。奈美の二十代のなかの一日の終焉。ぼくが女性と過ごした機会の一日分だけの上積み。浮き輪の空気は抜かれ、各自のシートはたたまれていく。ぼくらもだらだらと仕度をして、借りている部屋に戻る。迷子にもなれない、とさっき奈美は言った。戻るべき方法は無限にあり、連絡をとることも難しくはない。それは、戻るべき場所が安全に確保されているからでもあり、電話なり、住所などの番号をきちんと知っているからなのだ。民宿の名前も知っており、借りている部屋の数字も知っていた。だが、予想以上に身体にダメージを与える太陽と紫外線の強さを甘く見ていたことに気付く。

 奈美はシャワーを浴びる。ぼくは冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、テレビをつけた。ぼくらが遊んで無為に過ごしている間に、高校生は甲子園という場所を聖地のように巡礼し、いまは大きな音が試合の優劣の結果を告げる宣告に変わっていた。一方は自分のアイデンティティーの歌を合唱し、もう片方は終わると砂を集めていた。ぼくは奈美のアゴに付着していた砂を思い出している。ぼくも記念としてあれを袋につめ、持ち帰るべきだったのかもしれない。だが、砂粒と縁を切った奈美が部屋に戻ってきた。

「たっぷりの化粧水」と、鼻歌のようにささやいた。「夜ご飯、どうする?」
「案内で、エビのロブスターとかあるみたいだよ」
「甲殻類」と奈美はその音を楽しむかのように口にした。「へんな言葉だよね。甲殻類」

「甲類、乙類」と、酒屋の商品を探すようにぼくは口にする。水着を脱ぐと、やはり境目が一日の証拠としてあった。来年の春までにはなくなっている。もう一度できるのか、それとも無縁であるのか、ぼくには決められない。来年の奈美はどのような水着を買うのだろうか。ぼくは同じ水着を着続けている気がした。しかし、そう大幅に男性のものなどモデル・チェンジをしないのだ。ぼくも、また甲殻類、とささやいた。頑丈な外見にデリケートな中味。奈美の日焼けした身体にデリケートな中味。反対かもしれない。デリケートな肌や髪に対して、意外と意固地で頑固な性格。どれもこれも灼熱で消えてしまうものと考えながら、水圧の弱いシャワーを浴びていた。

流求と覚醒の街角(45)破損

2013年09月01日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(45)破損

 世の中は示唆に富んでいる。

「乱暴に扱ったわけじゃないのに、CDが割れちゃった」と、奈美は悲しげな声を出している。
「そう、簡単に割れるの?」一度もそうした経験のない自分は、彼女の手からその現物を受け取り、実感した。「寒いからかな?」
「大事なのに、もう訊けない」

 ぼくはある情景を思い出している。車を目で追っている。

「わたしたち、この関係を大切にしようと思っていたのにね。なんとなく、淋しいな」と、前の女性は走り去る前にそう言った。ぼくは、もうなにも見えない道路を見つづけていた。呆然としているな、と自分自身のことは把握できている。ぼくは、乱暴にしようとも思わず、壊れるとすら思っていなかった。でも、あの関係は終わった。ぼくはあの車を見ることもなくなったが、世の中に一台だけの稀少な車でもないので、同じ型のものをたまに見かけた。それは簡単に彼女を連想させることになったが、もういまではあまり見かけなくなった。生産もされていないのだろう。だが、奈美の言葉で、また思い出すきっかけを与えられている。

「そう悲しい顔するなよ」
「してる?」
「してるよ、買ってあげるよ。もう一回」
「同じものを買うのも、なんだか釈然としないね。違うのがいいかも。やっぱり、これも聴きたいか・・・」

 奈美は割れたものをケースにしまったが、中心部から折れているので、グラグラして意味をなさなかった。しかし、ふたをしてゴミ箱に放った。そして、もう一度取り出し、なかのジャケットだけを引き抜いた。「これは、これで必要になるのかな」奈美は半笑いのような表情になった。

 ぼくは奈美のその表情を何度か見かけた。ぼくは奈美を知る前、女性の笑顔は笑顔だけで構成されていると思っていた。しかし、笑顔にも困惑の様子が加わったり、苦味のようなものも入ったり、笑いながらも悲しそうな眉になったりすることを知った。多分、前の女性もそうだったのかもしれないが、ぼくはそれほど注意深くもなかったのだろう。あれほどまでに大事にすると言いながら。やはり、どこかで注意不足や散漫さが紛れ込んでいたはずだ。失敗をしらない若さがそこには堂々とあるのだ。注意を怠ったこと。それと別れは直接には関係がないのかもしれないが、反省する人間は反省の要素を常に見つけたがるものだ。その反省の重みが増し加わることによって、どこかで安堵していた。つまりは、このぼくに責任があるのだというように。あの女性は一切わるくなかったのだ。

「でも、売ってなかったら?」
「そういう可能性もあるんだ」
「あるよ。だから、わたしのことを手放したら、もう、新しいものを買うのも難しいかもよ」
「そうだろうね」

 結局、中古屋さんに安く売ってあるのを見つけた。新品の値段で買えるまでとねだられたので、一枚のCDが結果として三枚になった。
「あの、ジャケットどうするの?」
「どうしよう。小さく切ってどこか壁にでも貼っておこうかな」
「再利用」
「リサイクル」

 そうやって、もう一度別のところで生きられるとしたら、その物品にとっても良かったのだろう。新しい場所は快適だ。ものがその状況を喜ぶわけでもない。ただ、人間だけが後悔をしたりするのかもしれない。流れ星はその判断を有していないだろう。未来があるだけだ。落下してしまえばそこで終わり。ぼくはある場所から、移動し、かつ落下した。這い上がり、奈美と出会う。そして、CDは割れた。
「ありがとう」

 奈美は大切そうに袋をゆすった。ぼくは良いことをしたような充実した気持ちを抱く。でも、なにもしていない。奈美のうれしそうな表情を見ることができたのに比べて。ぼくは、何度、この表情を勝ち取ることができるのだろう。反対の困惑する、または淋しさのこもった顔は見たくなかった。だが、ぼくと仮に別れてその顔にならないとしたら、それも憂鬱だった。でも、別れもしない。ぼくは何度もこの顔を今後も見ることになるのだ。いま、そう決めた。

「そこで、お茶でも飲もう。今度はわたしがおごるよ」

 目の前に奈美がいる。彼女はメニューを眺めている。どれにするか悩んでいる。その悩んだ顔にも歓喜や失望も数パーセント加わっているようだった。やっと、決めたという顔をしたときは眉があがった。その愛嬌のある動物のような顔もぼくはずっと見るのだ。

「どうしたの? わたしの眉、変?」
「ううん。もう、決まったの」
「これにする」奈美はメニューの文字を指でなぞる。
「決まったとき、眉が微妙にあがったよ」
「そうだ、癖なんだ。よくお母さんにも言われた」
「なんだ、指摘するの、ぼくがはじめてかと思っていたよ」
「何十年も生きているんだよ。癖とか、親にも似るもんだし」

 前の女性には、どのような癖があったのだろう。固有の表情にもいくつかの要素が混ざっていたのだろうか。彼女の母はそれを指摘したのだろうか。ぼくは忘れていることが多くなる。すると、店員が注文にきたので、頭の中は別のことで奪われた。

 奈美は注文を終えると、袋から買ったばかりのCDを取り出した。
「あれ、それだっけ? 違うの買ったんじゃない?」
「やだな、変なこと言わないでよ。これだよ、これ」彼女は指揮者のように指を胸の前で振った。

 違うものを買う。がっかりする。間違いが成功や喜びにつながることもある。世の中は示唆に富んでいる。ぼくは他の二枚のCDのケースをつかむ。なかにどんな音楽が眠っているのか知らなかった。再生する装置があり、スピーカーを通さないと再現できないもの。ぼくは、その機会が待ち遠しかった。未来に目を向ける。まだ鳴らない音楽。作曲者の頭のなかにだけある音楽。その作曲家もまだひらめいていないものもどこかにあるのだ。いったい、どこにあるのだろう? それは、探せない。失ったものも当然に無いし、未来もぼんやりとだがないのだ。この前にいるいくつかの感情を寄せ集めた表情をする女性だけが、現実なのだ。トレイに載せられた飲み物も同時に現実だ。ぼくは現実を手に入れる。口にすると、その現実は唇がひりひりするほど暑かった。奈美は笑った。その笑顔には心配もいくらか含まれていた。

流求と覚醒の街角(44)幹事

2013年08月28日 | 流求と覚醒の街角
 奈美は職場のイベントの幹事になった。

「雰囲気を知りたいから、一回、いっしょに行ってみない? 気に入らなかったら困るから」
「困ったら、どうするの?」
「キャンセルするよ。まだ、確定ではないから」

 キャンセルできるものと、キャンセルできないもの。その線引きはいったいどこにあるのだろう? 大まかにいえば、世の中は全部、引っくり返すこともできた。また、惰性や義理などをつきつめれば、それは責任の放棄につながり、誰かの面子を潰すことにつながった。だから、面倒なことはしない。だから、誰かと深く関わることもしない。両方の選択肢があるようだった。
「いいよ、潜入捜査」
「いつも、大げさ」

 数日経って、ぼくらはそこに出向く。複数のひとの予定をまとめ意図を汲み、満足に対して点数の設定の甘いひとがいて、それと同量程度の辛口のひとがいる。中間にも大勢いる。自分がそういう役割にならないことに安心し、なれなかったことに不満なひともいる。その狭間に大人の感情があった。だが、それもいつか忘れ去られてしまうものなのだ。その場では問題がありそうだったとしても。

「うるさいひとばっかりなの?」
「そうでもないけど。成功した仕事をさらに決定づけるような機会になるから、最後が悪くなると、それだけ、みんなの印象も悪くなるし、それだけ、成功が薄まっちゃいそうなのでね」
「何人ぐらい?」
「多分、このスペースの椅子とかテーブルとか片付けて、六十人ぐらいじゃない、集まるの」

「そこに、ふたりでいても分かる?」
「ちょっとした料理とか、店員さんのサーヴィスとかは大きくは変わらないでしょう?」
「そうだろうけどね。他に計画もあるの?」
「ない」
「じゃあ、断れないじゃん」
「そのときは、そのときだから」奈美はあっけらかんとしていた。

 席はゆったりとした間隔で三十席ほどあった。だからテーブルはその半分ぐらいだろうか。店員はみな周囲にきちんとした注意を払い、ぼくらが語りかける前に、既に近寄る気配を見せていた。料理も運ばれる。ぼくはレストランの評価をする仕事があるということを思い出す。誰かが誰かのことを採点する。それを鵜呑みにするひとがいて、仮説として自分の決定の糸口にするひともいる。興味もないひともいて、あること自体をしらないままでいるひともいる。どこの位置が、いちばん幸せなのだろう。

「でも、キャンセルする勇気とか、あるの? 交際を求められて、断ることが今まで多かったとか?」
「まさか。最近は、もうめっきりとないし。彼氏がいるのがみなに分かってるから、もうチャンスを与えることもできないよ」そう言って奈美は笑った。
「もう、無鉄砲に、突撃するのみ、木っ端微塵になってもかまわないという年齢でもないからね。でも、たまには言われるだろう?」
「大人って、それとなく、様子を調べるとか、探りを入れるとかするのが普通だしね」
「今日みたいにね」

 奈美はトイレに立った。ぼくは調査員としての宿命のように周囲をうかがった。欠点もなし。大きな失点もなし。スポーツなら楽しくないのかもしれない。めちゃくちゃに打ち合うボクシングとか、逆転をくりかえす球技とかなら、後味はしっかりとしたものとして深くこころに残るだろう。
「トイレもきれいだった。やっぱり、店を紹介するサイトや雑誌をみても、実際の目に勝るものはないからね」
「奈美のかしこまった見合い写真じゃ、魅力も伝わらないかもね」
「どういう意味?」
「そのままだよ。生きて、動いて、笑った、楽しむ奈美がいちばん」

 ぼくらはある時点ではキャンセルもできるのだ。またあるところを通過してしまえば、キャンセルはできないのだ。グラスの半分を飲み、その状況で交換はできない。ワインの儀式として、ひとくち飲んで納得、ということもあった。それで決まりだとすれば、ワイングラスは傾けられた瓶の口から注がれる。ぼくは、奈美をどれほど知っているのだろう。それを今更キャンセルすることは不可能に近く、絶対的に受容するのは間違いではないという結論もまた同じぐらいに難しいものであった。
「お気に召しました?」と、ハンサムな店員が奈美に訊いた。それから、ぼくの方を付け足しのように振り向いた。
「ここ、貸切したり出来るんですよね」

「はい。人数とか予算とかを申していただければ。お仕事で? それとも、プライベートですか」

「仕事関連です」奈美はバッグから名刺を出した。その店員に渡す。彼はいったん引っ込んだ。すると、責任者が店の奥からでてきた。パンフレットのようなものを持ってきている。奈美は、数日中に電話をするので、ある日付を示して仮予約して欲しいと頼んだ。その知的な女性のあたまには大きなものも小さなものも、もろもろのスケジュールがすべて入っているようだった。そして、笑顔で了承する。ぼくは、仮予約とキャンセルという言葉を、普通以上に象徴的なものとして考えようとしている。あることが決められ、あることを実行する段になる。恐れもあり、面倒なことも多くあった。喜びの予感があり、終わったあとの日々の惰性の連続があった。どこに視点を置くかで、物事はいろいろと結論付けられた。

「最近、誰かに好きだとか言われた?」
「ぼくも、ないね」
「彼女がいるって、みんな、知ってるのかね?」
「知ってても、知らなくても同じだろう」
「わたしが言ってあげようか」
「どうしたの、突然に?」
「わたしじゃ、不満」

 先ほどの「主任」という肩書きの生きるサンプルのような女性が戻ってきた。ある日付にチェックが入り、それと同時に彼女の名前が入ったカードもくれた。それをぼくにも笑顔でくれた。ぼくは名前を見る。名前など無数にあると思うが、ぼくの知っているひとと同じものだった。キャンセルしてしまったもの。仮予約を流してしまったもの。世の中には、いくつもの地点があるようだった。

流求と覚醒の街角(43)遊具

2013年08月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(43)遊具

「ねえ、もう一回乗ろうよ」と奈美が笑顔で言う。

 ぼくらは遊園地にいた。ジェット・コースターをいままさに乗り終わったばかりだった。曇り空。次の乗車の組が上空で悲鳴を上げはじめている。
「本気?」
「だって、楽しかったもん。一回じゃ、物足りない」

 ぼくはもう一度、空を見る。曇り空。そして、また悲鳴があがる。ぼくは胃のむかつきを覚えていた。奈美はケロッとした表情をしている。ぼくは別の惑星の住人のように彼女を見た。もう一度、違う場所で悲鳴があがる。
「ひとりで、乗ってきなよ。ここで待ってる」
「意気地なし」

「随分と古風な表現だね」ぼくはそう負け惜しみを交えた口調で言い、奈美の背中を見つめる。曇りのためか、来園者はそう多くもなかった。ぼくはそもそも、そうした乗り物に強かった自分を思い出していた。今日に限って、なぜ、意気地なしだという非難のことばを受け入れるようになってしまったのかも、戸惑いながら考えていた。それは、昨日までの仕事量にも関係していた。ただ、疲労がたまっていたのだろう。だが、どこかで自分の組成が変わってしまっているのだとも否応なく実感してしまう。

 次の次の番になると、こちらに向かって手を振る姿が見えた。それは奈美だった。となりの座席は空いている。普通だったら、ぼくはそこにもう一度だけ乗っていたのだろう。悲鳴がはじまる。急激に曲がり、また突然に下降する。重力に振り回され、スピードをそれぞれの身体は体感する。悲鳴は遠くになり、また近くになる。

 誰かが設計して小さな模型でも作るのだろうか。安全性が確保され、その安全のうえで危険で不安な状態を楽しむ。だが、ぼくの胃だけは抵抗した。もっと穏やかさを求めているのだろう。水族館で優雅に泳ぐ魚の群れを見たり、映画館でうとうとする時間も計算に入れた余暇の時間とかを。

 数分後にその乗り物はもとの位置にもどり止った。乗客は降りてくる。そのなかに奈美もいるのだろう。急にひとりだけいなくなることもできない。

「どうだった?」
 近付いてくる奈美にそう訊いた。返事をもらう前に表情からも感想は明らかだった。
「楽しかったよ」また、上空で悲鳴がする。数人が集まった悲鳴は個性もなく、先ほどとまったく同じに聞こえた。「大丈夫? どうしたの、顔が青いんじゃない?」
「そうかな? でも、理由はひとつだけだと思うけど」
「だって、自分だって楽しみにしてたじゃない・・・」
「楽しみにはしてたけど、この受け手にも感情があるみたいだから」ぼくは自分の意志と身体を分離させようとした。しかし、身体が発する不快感こそが主人で、感情はそれに一方的に引っ張られ、気持ち悪さを助長した。
「あそこで、飲み物でも買って、休みましょう」

 ぼくは子どもの楽しみの場の住人ではなくなっていることに驚いていた。もう見守る側であり、実際に、奈美の安全なる恐怖をよこで感じることもできなかった。ふたりで静かにジュースを飲む。すると、段々と落ち着いた気持ちになった。
「まだ、まわったり、落っこちたりする乗り物が待っているんだけど」奈美はいくらか不服そうな顔をしている。
 ぼくは返事もせずに遠くを見た。馬がゆっくりと軽い上下運動を伴いながら回転している。誰も悲鳴などあげない。カメラを片手にお父さんが一周してくる自分の子どもを写真に納めようとしていた。

「ああいう写真ある?」ぼくは、その回転木馬のほうを指差す。
「あるね。ちょっとセピア色になったりして。ある?」
「もっと、豪快な乗り物のほうが好きだったから」
「遠い昔みたいだね」
「撮るほうに回ったほうが良さそうかも。でも、平気になった。寝不足かなんかだよ」

 結局、ジェット・コースターには乗らなかったが、それに匹敵するような乗り物にはそれ以降、時間を開けては乗った。ぼくらは自分の身体を抑制不能な状態に置くことをこの場では望んでいた。奈美の腕はときにはぼくの腕を強くつかんだ。そうしながらも、彼女のほうが度胸があることは明らかになった。悲鳴をあげ、目をつぶるようなことがあっても、目の前の欲望に忠実であるのだろう。

 夜も更け、ぼくらはそこを後にする。器具はとまり、翌日まで絶叫も胃のむかつきもその場は生じさせないのだ。ぼくらは家に戻る。奈美はぼくの家に寄った。ぼくらは自分の身体を楽しませる術を発見する。いや、人類の歴史はずっと永続させてきていたのだ。ぼくらも追随者に過ぎない。遊具である自分。欲求を正当化させる行為。少しの恥じらい。ぼくらは生きているのだ。乗り物に身長が満たない子どもでもない。

 彼女はぼくの身体に寄り添い疲れたのか密着させて眠っている。お互いの曲線は、ぴったりと一致する物体になる。誰かが設計し、試し運転をする。ぼくは引き離し、冷蔵庫から冷たい飲み物を取り出す。口を開け、水を注ぐ。ぼくは自分の胃や腸を今日のジェット・コースターのレールだと似たものとしてそれを思い浮かべる。いくつもの曲がり道があり、ゴールにまで届く。いくらかは汗となって消失する。数滴は涙にもなるのだろう。ぼくはその数粒たちをレール上から発した悲鳴だと思うとした。すると、奈美のあの横たわる身体の皮膚のうえからも小さな悲鳴がもれるのかもしれない。それはそれで困る。ぼくの安眠も奪われる。寝不足を解消しなければならない。ぼくは不本意に終わった今日の結果や、非難のことばを取り除く必要を感じていた。

流求と覚醒の街角(42)問い

2013年08月24日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(42)問い

「この前、言ったこと覚えていないでしょう?」と、奈美が言った。
「何のこと? ヒントは?」
「自分で思い出して」

 ぼくには覚えることがたくさんあって、忘れるべきこともそれに負けじとある。忙しさに追われながらも、これは無駄に過ぎないという時間の使い方も多くしている。振り返れば。子どもは結局は駄菓子屋に行くのだ。

 質問という形ではなく、直接に問題点を指摘されれば時間も節約になるのにな、と思いながらも、両親や先生なども、自分で考えて答えを導き出さない限り、そのひとの成長にならない、といって情報を細切れにした。大人になっても自分はまだされた。永遠とこういう状態はつづくのだろう。

 ぼくは段々と異性に頭を縛られる時間を少なくする。意図して、しているわけでもない。ぼくも社会の仕組みに組み込まれているわけであり、その社会は利益を生み出すことを要求していた。このぼくにも。

 ぼくは問題点を遠くに置く。それで、愛を勝ち得る訳でもない。もちろん、急激に失うわけでもない。失うとしても緩やかにすすむのであり、ぼくはその間に問題点を別の問題にすり替える旨さを発揮するのかもしれず、ただ痛みを一心に覆い受けるのかもしれない。でも、先に進んだことにより、それはひりひりという感情とも違っていく。鈍痛、というぼんやりとした響きに生まれ変わる。幸福か、不幸の源になるのかも計算せずに。

 翌日、思い出したの? と奈美に電話で問われる。あなたは、カーブという球種を投げられるようになったの? と、問われているようにも思う。ぼくには対戦相手などひとりしかいない。いささか、感情に左右され勝ちな女性ひとりだけだ。

 ぼくは問題点を空中に浮かばせたまま、それをぼんやりと片付けないということにすることをいままではしてこなかった。世界は判断をいままさに求めているのだと思い、答えを直ぐにした。しないことには、地球の運行が留まることを意味していた。世界の歩みにぼくの思考など一切、関わらないことだということも分かろうともせずに。

 ぼくは、だから奈美に連絡をすることをためらった。連絡を怠れば、またそれ自体が減点につながった。ぼくは異性に好かれることなど一切、あきらめた自分を想像する。しかし、それも、やはり水が干上がった河川を容易に想像させるものだった。

「そうか」ぼくは、ひとりごとを言う。奈美の母に対して、一度、電話をするということを思い出していた。ぼくが電話をしようが、しまいが、世間はジャッジをしない。だが、ふたりの女性はそれを公式な報告文書でもあるかのように必要としていた。

「思い出したよ。忘れてた。ごめん」ぼくは、ある日から奈美を愛そうと決意していた。決意ということではある面では間違っているのかもしれない。それはぼくの内奥が要求していたことなのだ。それに伴い、奈美の両親がぼくの前に存在することにつながった。それは、またある意味ではぼくにとって不本意でもあり、彼女にとっては当然のつながりであった。川の上流を汚せば、その傾斜のしたにいるひとにとって影響を受ける場合であれば、なおさらのこと。

 ぼくは奈美の実家に電話をする。ぼくの声を奈美の母は直ぐに理解しない。また、ぼくも、その声を親密に感じることはできない。でも、しない限りぼくの未来も明るいものにはならないのだろう。

 ぼくは、ある日の病院を思い出している。前の女性の母を見舞いに行った。それは無私の行為でありながら、その娘である彼女を身近に感じる機会にもなった。ぼくらは連れ立って、病院から駅までの道を歩く。男性は愛すべき女性を探す存在であり、また逆も同じように必然性を認識する過程にあるべきものとしてとなりを歩いているようだった。ぼくは、まだあの日を恋しがっていた。
「思い出した?」と、奈美は電話をかけてきた。

「オレが忘れると思ってるの?」ぼくらは、架空の問題を、手づかみにしたいようだった。それに、女性同士の親子というものに、ぼくは不信感と同時に羨望も同じように感じていた。「知らないフリをするのも大変だよ」

「なら、いいけど」奈美は、沈黙する。電話というものも沈黙を伴ってこそ効力を発するのだろう。「また、家に呼びなさいと言われた。行きたい?」

 ぼくは、たくさんの質問をされる。幼少時の病院では、どこが痛いのかと訊かれ、同じように歯医者では、唇の開閉も発声もままならないまま、執拗に問われた。何人かの女性には好きかどうか問われた。ぼくは、好きでもない女性といっしょにこの時間を過ごすわけもないだろうにという確信的な回答を胸に秘めたままでいる。

「行くよ。奈美の喜ぶ顔が見たいから」だが、その回答も奈美にとっては、減点らしい。
「わたしが、気にいるかどうかを無視して答えてよ」と力説する。

 そんなこと、ぼくができるのだろうか。また、しなければならないのだろうか。ぼくは、いくつかの物事を決めた。決めたくないことも、たくさんあった。あの女性との別れをぼくは決めたくもなかった。だが、彼女は別の居心地の良い場所を探す。ぼくは、自分の家のベッドに横たわる。これぐらいしか、自分の決定権の範囲もないのかと、その狭さを実感する。また、別の視点から見れば、それもいくらか広い領域なのかもしれない。猫の額ぐらいには。

流求と覚醒の街角(41)尺度

2013年08月19日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(41)尺度

 ぼくは奈美の視力を数字として覚えた。その前に輝きをともなったものとして知っていた。

 ぼくは前の女性の首の細さを知っていた。さらに華奢なウエストもまだ脳裏にあった。真っ白な太ももも現実感をともなったものとして自分のどこかに刻んでいた。その映像の複合を混ぜ合わせ、かつ巧妙に組み立てることによって、いまでも見事に再現できるようだった。しかし、それは手の届かないものとして再現できるだけであり、絶対に目の前にもあらわれない、決して触れることも不可能なものとして浮かび上がらせることができるに過ぎなかった。

 ぼくは奈美のことを、あらゆる局面から覚えようとした。彼女の足のサイズを知っていた。指の号数ということも答えられた。胸のサイズも知っており、そのいくらか不均衡な形のことも知っていた。だが、いつか日が経って再現できるのかと問われれば、それはなぜだか難しそうだった。そのふたりへの差異がどこにあるのか探そうとした。思い出のふるいにかけても耐久性のあるものもあり、砂時計が下にただ沈んでしまうように逆さまにすることも億劫に感じてしまうこともあった。反対に永久性というものが予感されるので、あえて覚えることを避けようとしているのだろうか。だが、すべて言い訳に過ぎなかった。意識的な言い訳であり、無意識的な願望だった。

 ぼくが奈美の足のサイズを知っているからといって、ぼくが映像として思い出すのは、前の女性がぼくの玄関で脱いだ靴の色と形だった。ぼくが奈美の正確な髪の長さを測ったとしても、思い出すのはあの女性の風にそよぐ髪形かもしれない。指輪の号数をすらすらと言えても、追憶にあるのはあのひとの指輪の繊細さであった。ひとはどのようなもので世界と目の前にあるものを認識しているのだろう。

 奈美は紅茶を飲んでいる。好みは数値で計れない。そのことにぼくはなぜだか安堵する。ぼくは奈美の全体像や雰囲気や趣向を覚えているのだ、というささやかな安心感だった。それは何に対する安心感なのだろう? ぼくは後ろ向きでもなく、後退する生き物ではないという自分に向けた安心だろうか。それとも、ぼくの前には愛すべき奈美がいつづけるのだという単純なる安らかさだろうか。ぼくは言い訳と逃げ道を確実に探している卑怯な生き物に思えた。

 夜更けも近づき、ぼくはひとりで夜道を歩いていた。さっきまでいっしょにいた奈美を正確に再現できるのか自分を試そうとした。ぼくはぼんやりと映像を作り上げる。最初に浮かぶのはいままでいた店の内装だった。店員の顔も思い出す。トイレが清潔だったこともきちんと覚えている。洗面台の横に置かれていたソープのタンク。使い終わったペーパー・タオル。ぼくの奈美はいったいどこに消えたのだろう。

 すると、奈美から電話がかかってくる。ふたりともまだ家には着いていない。ひとりで歩くのを不安がるようにぼくらは電話を片耳にあて、話し合いながら距離を縮める。ぼくは奈美の声はきちんと再現できる。いや、ここで会話をしているからそう錯覚しているだけなのかもしれない。目の前にないものはいかにおぼろげなのだろう。ぼくは両親のことや、まだ幼いころの友人たちのことも実際の姿として思い出そうとした。やはり、困難という状態にふさわしい場所に位置するのかもしれないと思っていた。誰のこともきちんとした形とはならない。人間なんてものは、目の前にあるものを見つめ、手でその暖かさや冷えを触れて感じ、声を通してしか立体なものとして判別できないものなのだろうか。だが、電話を切ると、ぼくに真っ先に浮かんだものは、前の女性の映像だった。いまごろ、なにをしているのだろう? その映像は年をとることも当然のことしない。あの日を境に止まったままなのだ。ぼくは、自分のある過去の日を懐かしんでいるだけかもしれなかった。

 風呂に入り、シャワーを浴びた。ぼくは名前を呼ぶ。もちろん、自分の名前ではない。奈美の名前でもなかった。もう偶像となってしまった名前だった。もしかしたら、居てもいなくてもよいという段階にまですすんでしまったのかもしれない。ただのなつかしい響き。大好きだったおもちゃのようなものとして歴史に封じ込められてしまうもの。それもまた空しく残酷でもあった。

 部屋にもどると家の電話の留守電を知らせる機能が明滅していた。ぼくは再生する。ただ、奈美が「おやすみ」と言っただけだった。だが、その言葉の重みや響きが、ぼくをこの夜に確実に結び付ける役目を帯びているようだった。ぼくはもう一度その音声を聞く。風船ではなく、しっかりと指に絡みつかせる紐のようなもの。いまのぼくにはそっちの方が必要なのだろう。ぼくはこの声をいつまでも覚えていられるだろうか。いや、明日もあさっても彼女に言ってもらえれば、それで済むのだ。解決するものなのだ。なんて、簡単なことだろう。ぼくはベッドにもぐり込む。たくさんのことを忘れ、たくさんの予定もたてる。たくさんの約束を重ね、実行したことも忘れる。おやすみやおはようを何度も言い交わし、ぼくらは暮らす。それだけで、きょうのところは充分なようだった。