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流求と覚醒の街角(38)目薬

2013年08月16日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(38)目薬

 奈美は病院に行った。目に違和感があったらしい。大きな白い眼帯をした映像を思い浮かべる。そんなひとはアニメのボクシングの優秀トレーナーだけなのに。だが、彼の片目の布は黒かったようにも思う。

 結局、会ったときにはいつもと様子が寸分も変わらないようだった。ぼくは安心する。少し、がっかりする。いや、安堵している。

「やだ、そんな姿」彼女はぼくが先ほどまで考えていたことを言うと、大きく笑った。「鼻も赤くしなきゃいけないんでしょう? ただの、ものもらいなのに」

 ぼくらはぼくの部屋に向かった。その前に、近くのレンタルショップで映画を選んだ。目を酷使することを避けなければならないが、予定として組み込まれてしまっていた。それほど、奈美の目に異常があるとも思えなかったので選択は不都合でもなさそうだった。それから、簡単な飲食物を買い込み、ぼくは部屋のカギを開ける。

 ぼくが手を洗っている間に、彼女は鏡を真剣な様子で眺めていた。
「気になるな」
「それほど、傍目には分からないよ」ぼくは皿を出し、軽食をそこに移した。

 座ると、バッグから薬局でもらった袋を彼女は取出す。その表面の文字を彼女は見つめていた。
「目薬?」
「そう。くれた。でも、点眼薬なんて言葉、あまり使わないよね」
「外国人が真っ先に覚えたい日本語じゃないね」

「じゃあ、いちばんは?」
「それは、こんにちはでしょう。違う?」
「ここに行きたいんですけど。ガイドブックを指して、そう訊くのがいちばんじゃないの」
「その前に、挨拶ができなければ」
「そこまでうまいと、親身になりにくいから」

 ぼくらは、どうでもいいことをずっと言い合った。その後、床にすわり、目の前にあるテーブルにお酒と軽食を並べた。借りた映画の丸い円盤も四角いデッキにセットした。
「ちょっと、これ、差してくれない?」奈美は目薬をつかんでいた。
「自分でできないの?」
「あまり、普段つかわないから。ちょっと、恐い」返事として頷いてから、彼女はそうもらした。「ちょくちょく差す?」
「ほぼ、毎日」

「人類は二分されるのね。目薬を差す人種と、いらない人種。ほら」彼女は差し出した。
「赤ちゃんかよ」彼女はぼくの膝にあたまを置いた。目のまわりはすこしだけ赤みを帯びている。
「いいんだよ。でも、反対から見ると、こういう顔してるんだね。反対からだからか、ちょっとグッとくる」
「目を開けて」ぼくは彼女の瞳の上に水滴を落とす。彼女は目をつぶる。そして、その液体を取り込む。「これ、片方でいいの?」
「悪いのは片方だけだけど、バランスがね。こっちにも差して」
「いいよ。入れても悪いもんじゃないでしょう?」
「みんな、どうしてるんだろうね」それから、ぼくはもう一方の目にも目薬を投入した。彼女はきつく目をつぶり満足したようだった。異物は、体内に入ると異物ではなくなる。だが、家に帰ってひとりできちんと使えるのだろうか? その前に既に直りかけてもいるので、必要ないのかもしれない。

 ぼくらは予定通り映画を見る。数年前の風景はもしかしたら、この映画のなかにしか存在しないのかもしれなくなるとぼくは予想を立てる。その予想も確信に近くなっていく。ぼくは太ももに奈美の首の重みをいまだに感じていた。彼女がぼくに向けた下にあった目も、いつか変化が訪れるのかもしれない。周囲にはしわができる。眉の形も流行があるのだろう。そもそも、ぼくに対する絶対的な安心感など失っているのかもしれない。その痕跡の定着のために、彼女の目の症状は必要だったのだ。

 映画はさほど面白いものでもなかった。ふたりは何度か途中であくびをし、冷蔵庫にものを取りに行くときも一々、映像を一時停止にすることもしなかった。数秒の遅れを取り戻すことなど考えもしなかった。茫洋とした物語と、ゆっくりと流れ往く風景。だが、奈美の目を考えれば、目まぐるしく場面が展開する派手なアクション映画など避けて正解だったのだとも思っていた。
「終わったね。で? という感じだったけど」
「選んだのは奈美だよ」
「最後はふたりで同意したんだよ。もう一本見る?」
「いいよ、疲れた。スポーツのニュースでも見たい」ぼくはリモコンを操作して、その時間に流す番組に変えた。一時停止も要求されない番組。明日もまた、明日の野球の試合があるのだ。もし、なかったら投手の給料も未払いになってしまうだろう。それも困る。

「じゃあ、目薬のストックがなかったら困る?」奈美は思い出したかのように訊ねた。
「困るというか、切れないようには無意識に考えているでしょう。考えてもないか、あ、ないなって気付くから。減っていく中味で」
「そろそろ?」
「まあ、そろそろだなって」
「わたし、これがあることも直ぐに忘れるな。家で。あ、薬、差す時間だったとか。でも、もうそのときには直っているんだよね、きっと」
「それが、いちばんだよ。それに、毎日、必要なものはやっぱり毎日、忘れないよ。化粧水とか、コーヒーとか」
「忘れてもいいことがたくさんあるのにね」
「あるの?」
「わたしだけじゃなくても、あるでしょう?」

「あるだろうね」多分、きょう見た映画は確実に忘れてしまうだろう。どこかに高級な生命体か記憶装置があって、ぼくが見た映画のリストをある日、提出してくれないだろうかと思ってみる。奈美とあった日付と出来事も。しかし、忘れるものが無限にあろうとも、ぼくのひざはきょうの重みをいつまでも覚えているようだった。不確かだが。確かに、不確かだが。ぼくは飛行機のなかで、横にいる女性がぼくの肩にもたせかけた重みを相変わらず宝物のように自分に刻んでいた。多分、それもずっと消えない。その忘却と生々しさの線引きはどこにあるのだろうかとぼくは夢想する。

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