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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(70)

2012年06月07日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(70)

 ぼくは東京に出張に行き、仕事を片付けてビジネスホテルに一旦荷物を置いた。みな加齢という見えない足枷に縛られている。地球が回転するのをやめないように、ぼくらは目を覚まし、一日分の年輪を自分自身に加える。そこにだけは平等というものがあるらしかった。

 ぼくは病院に向かう。裕紀がかつていた病院。そこに彼女の叔母が今度は入院していた。
「ごめんね、ひろしさん」彼女はすまなさそうに、それだけではない小さくなった身体でそこにいた。「ここに来るの、ほんとうはいやでしょう」
「はっきりいって、あまり好きではないですね」
「思い出すから?」
「思い出しますし、それにひとが病気になっていくことに対して無力でいることも、ほんとうにいやなんです」そして、死も。ぼくはゆり江の幼い子どものことも念頭に浮かべる。
「話は変わるけど、裕紀のお兄さんに会ったとか?」

「ああ、会いました。叔母さんがぼくらの味方になってくれたことも知りました」
「いまは、ぼくらじゃなくて、ひろしさんの味方」彼女は弱々しげにほほえむ。そこに若さというものが消えゆこうとしても、それは限りなく美しく尊いものだった。
「許さないとしても、ぼくらには誤解のようなものがほどけていく望みがあった」
「それで、あの子の写真を見た?」
「ああ、あれですね。確かに見ました」
「ゆうちゃんにそっくりだった」

「ええ、驚いています。ぼくは決して、裕紀の外見というか見かけだけを好きになったわけじゃないんですけど、あの子の写真を見たら、彼女のすべてが好きだったことを思い出しました」ぼくはそこで口をつぐむ。「また、それを取り戻せないことを知って悲しくもなります」

「わたしの心残りがひとつ減った。いや、違うのよ。ひろしさんがゆうちゃんを失ったことじゃなくて、無駄に恨まれることがなくなりつつある」
 でも、本当にそうなのだろうかとぼくは考えている。ぼくは裕紀の兄に恨まれることによって、過去のある日、ぼくと裕紀はかけがえのない日々を過ごした証拠にもなり、それがもし解消されるとするならば、ぼくと裕紀の生活も逆に消滅してしまうような危険があった。それぐらい、ぼくにとってそれらの日々は大切なものだったのだろう。
「また、元気になって、外で会いましょう」
「あなたは関係なくなったわたしのことも見舞いに来てくれる優しいひと。ゆうちゃんの兄はきれいごとを並べるけど、滅多にこない」

「忙しいひとだから、足を運びにくいのでしょう」
「せっかく、東京で楽しい時間が持てるのに、こんなところに来させてしまって。次回は、償いをするから」

 ぼくは、驚く。償いという言葉はぼくが裕紀を捨て去った時間を取り戻すために使うべき言葉だったのだ。それ以外には、そのような言葉に相応しい状況はないとも思っていた。

「償いなんて・・・」ぼくは病院を出る。あの日々。ぼくは裕紀を見舞い、そのままひとりで味気ない外食をして、ひとりの部屋で、ひとりのベッドで寝た。いまは違う。雪代がいた。広美は誰かと電話で長話をしている。その子と休日にスポーツ・バーで時間を過ごす。その無為な時間がぼくにとってはとてつもなく貴重なものに思えた。
 ぼくは待ち合わせていた智美と会った。ぼくと彼女は幼馴染みであり、その関係も30年以上になる。
「今日は、なにしてたの?」

「もちろん仕事を終えて、裕紀の叔母を見舞いに病院へ行ってた」
「病気なの? というか、まだ、付き合いあるんだ」
「なぜだかね。ぼくと裕紀はなかなか裕紀の家族から認めてもらえなかったけど、彼女とおじさんは別だったから」
「ひろしはわざとそういう道を歩いてきたのかと思った」
「どうして?」
「学生のときに裕紀と別れ、雪代さんと付き合い、それで仲間から疎んじられ、今度は裕紀と結婚して、彼女の家族から冷たくされる」

「そうだね、そうされても仕方がなかったけど。どちらも、ぼくには必要なわけだったから、いまではね」今、振り返ってみればということだった。それぞれの状況をいまのぼくが知っており、それを過去に伝える方法があるならば、ぼくはどういう選択をするだろうかと思案してみた。だが、その無意味な考えは直ぐに頭から消えた。それは彼女のおしゃべりの力によるものだった。ぼくは彼女の声も何十年と聞いてきたのだ。それは若さという張りがいくらか減った声だった。それでも、馴染みがあることには変わりがなかった。

 ぼくらは数杯のお酒を飲み、来られなかった夫の上田さんの噂話をした。ぼくは彼の職場の同僚の笠原さんの話もきく。その名前を最近は思い出すこともなかった。ぼくは裕紀を亡くしたときに、彼女と寝た。それは代用にするにはあまりにも甘美過ぎる体験だった。だが、彼女はもうぼくとの時間のことなど覚えていないだろう。ぼくが裕紀を思い出すような仕方では誰も痕跡に残す方法を知らないのだ。

 それから、ぼくは自分のホテルに戻った。見なれた狭い部屋。そこで歯を磨き、鏡を見た。裕紀の叔母は償いをすると言った。それは未来のある日にふたたび会うという前提が条件となった約束であり、ぼくは自分の未来に対してそのような守るべき約束がどれほどあるのだろうかと思い浮かべてみた。しかし、酔った頭ではそれがいくつにもならないように思えてきた。そう考えていると横たわった身体は眠りを単純に欲しており、それに抗う気持ちなどぼくには到底なかった。

壊れゆくブレイン(69)

2012年06月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(69)

 ぼくらは悲劇とともに暮らす。

 ぼくは車で外回りをしながらラジオを聞いている。一日を締めくくる予感とその日が無事に過ぎ行こうとしている軽い疲労が証拠としてあった。全国の大きな話題のニュースと天気予報が終わり、ぼくはその社会と無関係でいるような気持ちを残しつつ聞き流していると、次に地元のローカルなニュースに移った。そのタイミングで流れている女性の声もかわった。いささか粘質的な声だった。

 特産品の話題があり、今年の収穫の見込みが話された。ぼくはそれを雪代が食卓に出すときのことを考えていた。また、地元のお祭りのことについても話された。それを遠くから見るために、とある国の観光客が来ることが話題として提供された。そして、事故の話がある。川遊びをしていた子ども。親が目を離した隙に横たわる姿で見つかる。蘇生が試されたが、それは戻ることはなかった。子どもの名前がちゃん付けで呼ばれる。その苗字はゆり江がある日から付けた名前だった。そして、その子どもの名前もぼくは聞き覚えがあった。

 それは新鮮なニュースだった。事故が起きたのは昼過ぎで車内の時間は夕方になり、いまごろは搬送された病院で親がそばにいるはずだった。ぼくはその横たわる身体が裕紀のものであると錯覚する。不意にめまいのようなものを覚え、急いで車を路肩に停めた。ハンドルに置いた両腕に頭をもたせかけ、ぼくはうなだれた。

 ぼくは携帯電話に入っているゆり江の番号を探す。それはむかしの苗字として表示された。だが、かけることをためらう。ぼくは必要とされているのかも分からない。ただ、それが近いうちに鳴ってほしかった。いや、それも違う。永遠に鳴らずに、彼女の子どもではなかったと思いたかった。

 しかし、自宅に戻ると、テレビのニュースでも取り上げられていた。広美は一度、その子に会ったことがあった。学校での課外授業かボランティアで子どもを遠足に連れて行く行事があった。ゆり江もそこにいた。子どもももちろんいた。大勢のなかのひとりとして。広美は彼らを覚えていた。

「ひろし君、こんな事故があった」彼女は動揺していた。
「うん。車で聞いた」
「なに?」遅れて帰ってきた雪代は話題についていけなかった。概要を広美が話す。
「わたし、いっしょに遠足に行って、遊んだ。お母さんも可愛げのある優しいひとだった」
「ひろし君も彼女を知っているのよ」雪代は失くしたものが見つかったような表情をしていた。
「おばさんの友だちでしょう?」広美はぼくの妹と彼女を結びつける。その通りといえば、その通りだった。だが、ぼくとゆり江の古い関係を雪代は口にださなかったが覚えているようだった。

 ぼくの携帯電話は何日かして案の定だが鳴る。ぼくは安堵とともに慰めの言葉を探す。しかし、こころの平和はどこにもなかった。裕紀が亡くなったとき、ゆり江がなにを語ったかがまったく思い出せずにいたが、それでも、彼女がそばにいることがありがたかったことを記憶にとどめている。
「会ってくれる? 渡すものができた」
「もちろん。ぼくが今度はなぐさめる番だから」

 ぼくはゆり江を抱きしめる。その様子を予想している。その場の言葉は荷物でしかなく、ぼくらを遠去ける役目しか与えないであろうことを理解していた。だが、会うと彼女は大きな袋を渡した。
「なに?」
「子どもの部屋になるべきところに飾っておいたけど必要なくなった」ぼくは上からちらりとなかを覗く。ある絵。それはどこかの少女の肖像だが、不思議と裕紀に似ているものだった。「裕紀さんとあの子の死を結び付けて、彼があるのを嫌がった。正直な話」不幸を舞い込ませる絵画。そんなことは絶対にないはずだったが、でも、実際にはそれは起こりつつあった。違う。本当に起きてしまった。「裕紀さんは、意地でもひろし君のそばに居たいのかも、ね。こうして」
「母親もなくて淋しがってた。また、実家に飾るよ」

 負け惜しみのようなことを言ったぼくは疲れ、数歳年取ったような感じを抱いていた。だが、ぼくらはその絵画のことを忘れ(だが、なにかを片時でも、大切であったなにかをきれいに忘れることができるのだろうか?)ある場所で抱き合っていた。ぼくらは死と向き合い、儀式としてそれを済ませなければならないような感情になっていた。脅迫にでもあったように。

「また、誰かが死んで、ひろし君といっしょになってる」ゆり江はぼくの胸の上で泣いた。「大切ななにかをまた失った」
「ぼくは、君と抱き合うためになにかを犠牲にするのかな」もし、そうならば、次回が、このような機会が来るとすれば、それはもっと大きな供物をぼくに求めることだろう。その恐ろしさと見えざる巨大な力を感じ、ぼくはゆり江を抱いている暖かさを忘れ、身震いする。ただ、恐かった。こうして、ゆり江の変わらぬ若い身体を抱いていながらも恐かったのだ。なにかを押し退け、生きつづけることも恐かった。

壊れゆくブレイン(68)

2012年05月31日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(68)

 広美は自分の将来の方向を決めかねている。まだ10代の半ばの女性に完全なる答えを求めるのは酷かもしれなかった。自由と干渉の狭間に子どもはいる。ぼくと雪代は自由の多いほうに広美を置いた。それが彼女にとって幸福であるのか不幸であるのかぼくらには分からなかった。選択の幅が広ければ可能性も深まっていくように思えたが、その数え切れない選択が方向性を見誤せるのかもしれない。

 ぼくらはただの一直線の道を進んでいるわけではないことを改めて知る。ぼくは、まゆみという女性のことを考えている。彼女はバイト先の店長の娘としてぼくの前にあらわれる。幼少期の彼女をぼくは可愛がった。青春期にスポーツ選手になり地元の新聞を賑わせた。それから、大学生になった彼女は酔ったぼくの前にあらわれる。ぼくは裕紀を失った痛手から立ち直れずにいた。あの小さな女の子だった彼女がぼくの悲しみを労わってくれた。そこで、自由に育ちすぎていた広美の面倒を見るために、彼女は広美に勉強を教え、友人にもなった。大人として旅立つ前に彼女は身ごもった。その運命を無にする可能性だってあったかもしれないが、ぼくは誰かを失うことを許しはしなかった。それで、彼女はいま母になっている。ぼくは、そのことを知っておりタイム・マシーンでもあれば、あのバイト先の少女に教えてあげたいとも思う。いくつかのことに注意するように。また、避けようと思っても別のなにかが彼女に与えられ、奪っていくのだろうとも教えたかった。

 ぼくにも大切なものがあったが、いくつかは取り除かれた。また大事なものも腕のなかに放り込まれた。それを抱え込むのも、落としてしまうのも自分の問題だった。だが、今後はより一層落として失わないように注意を払うのだろう。それが大人になることのようだった。もう大人を何十年と過ごしてきたが。

 でも、まじめ過ぎるのもあきらめ、いや戒め、ぼくと広美はスポーツ・バーで座っている。
「この前、ホテルでパーティーがあって、前の先輩に会ったよ」
「電話できいた」
「そう。仕事、楽しいって?」
「覚えることがあって、大変だって。でも、前に会ったときに顔付きが変わっていた」
「どんな風に?」
「きりっとしてた。世間の風に揉まれた感じ」
「広美は大学に?」

「東京に行ってもいいかな」
「いいよ。雪代は知ってるの?」
「まだ、言ってない。許してくれるかな」
「雪代が反対するわけないじゃない」
「ただ、言ってみただけ。ひろし君との甘い生活が待っているママには」
「4年間だろう?」
「当面は」

「なんでも応援するよ。雪代もぼくも」ぼくはモニターから視線をはずして彼女の方に向いた。「恋をして、勉強して、思い出をたくさん作って」
「うん」
「失恋して、泣いて、思い出をつくって」
「馬鹿みたいだよ。ひろし君もした?」
「あいにく上手くいったけど、もっと大きな痛手もあったしね」
「前の奥さん?」

「それもあるし、ぼくと雪代は別れて、また島本さんと彼女は縒りをもどしたこともあるしね」
「その結晶がわたしだから。それは恨まないで」
「恨んでないよ。ただ、失恋もしておくべきだよ」
「おじさんくさい」
「おじさんだもん」

 ぼくらはまたぼんやりと映像を眺める。アメリカン・フットボールの大事な決勝の試合があった。大柄な男性たちがぶつかりあっている。その大きな鈍い音と衝撃が画面やスピーカーを通してあらわれた。
「近藤さんと広美ちゃんも、なにかおかわり持ってきます?」

 店員の男性が訊いた。
「同じもの」と、広美は華奢な指でグラスを指差した。「わたし、大学に落ちたら、ここで雇ってくれます?」
「大歓迎ですよ。広美ちゃんみたいに可愛くて、しっかりしていれば。危ないときは、お客さんのなかにボディー・ガードもいるし」

「ぼくのこと?」ぼくは、自分の鼻先に指で触れた。
「さあ」と言ってその店員は背中で笑いながら二つの空いたグラスを持ち去った。

 モニターの映像は大柄な男性から躍動感が伝わるミニスカートの女性たちに代わった。彼女たちは踊り、練習の成果を見せていた。だが、彼女たちがいったいどのような10年後を迎えるのか、まったくもって分からなかった。

「はい、就職祝いの手付金」さっきの店員は二つのグラスを満たして持ってきた。だが、無駄口はそこで終わり入り口からはいってきた若い男女を目敏く見つけ、そのひとたちの応対に追われた。

 また画面では大男たちの疾走する姿に変わっていた。その前にすすむという行為はなかなか捗らず一進一退を繰り返していた。
「ひとは自分に向いていることをするべきだね」広美がぽつりという。「彼が、机の前にすわって帳簿を見ている姿が想像できない」
「店長だから、裏ではもちろんそういうこともしているだろう」
「そうなのかな」
「雪代だって、家でしているじゃないか。税金の時期にはとくに」
「そうか」
「そうだよ」
「そろそろ、帰る?」壁にも時計があったが、広美は自分の左の手首を見た。「スーパーに寄って。わたしが今日作るよ」
「そう、じゃあ後で雪代に電話しておく」
「荷物ももってよ」

 ぼくらは外に出た。彼女の大学の受験は多分、来年のいまごろになるのだろう。あの少女が大きくなり東京でひとりで暮らす時期が来るのかもしれない。こっちに残るのかもしれない。どんな未来だって、彼女は乗り越えるだろうというおかしな信念がぼくにはあった。その母も20年も前に同じようにひとりで東京にいた。時間の疾走感にぼくは呑み込まれて窒息するような息苦しさと高揚を覚えていた。

壊れゆくブレイン(67)

2012年05月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(67)

 ぼくは、ある場所で裕紀の兄と偶然に会う。この人生で最も会いたくないひとでもあり、また、こんがらがったぼくらの間をいつかは修正したくも思っていた人物だった。それは、ぼくの一方的な思いであったが。
「なんだ、君も来てたのか」
「ええ、でも知っていたら、来ませんでした」
「そんなに意気込むことないよ。あれから、もう長いことが経った。ぼくもこれで、五十歳に間もなくなる。その間大切なひとを失った。いろいろね。そのすべてを、君のせいにして責任を押し付けるのは、なんだか面倒になった」
「面倒ですか?」

「違うな。フェアじゃないという意味だよ。叔母さんからも君のことを教えてもらった。君も相当悲しんだようだ。ぼくら以上に」
「まあ」
「それで、人生はぼくら人間だけの力、いや力量で片付くようなものでもないことに気付いてきた。君が裕紀を早死にさせるような力は付与されてない。あれは、あいつなりの運命だったのだろう。両親もそうだったのかもしれない。だが、全面的に許す気も不思議だけどない」
「当然です」
「しかし、叔母の一途な信念のようなものが、ぼくの足元を徐々に揺るがせてきた」
「ぼくと裕紀のことをいつも、一番に信頼してくれました」
「そうだね。それに、誰かを憎んだりして自分の後半生を生きることも厭になった」
「まだ、若いのに」
「娘たちに自分の妹のことを訊かれる。彼女は誰かと結婚していたのか? とかね。その時、ぼくは相手の彼のことを恨んで仕方がないとも言えずにいる。死者には平和な境地が訪れるべきなんだよ」
「そうあってほしいですね」

「君にも見せるよ」彼は、財布から写真を撮り出す。「驚くだろう?」
「ええ」ぼくは絶句というものを生まれてはじめて味わったような気がした。
「あのときの裕紀と同じ顔をしている」
「そうですね。瓜二つ」
「ぼくは、娘の顔を見るたび、裕紀から君を責めるのをやめて欲しいと言われているような気がする」
「そうでしたか」
「まあ、急に君と密接な関係も作れない。それに、ぼくらの関係は現在のところ他人であり、これまでも今後もそれが変わることはない」

「ぼくらを結び付ける当事者がいないから」
「そうだ。それに、君も結婚したんだろう? それは叔母からきいた」
「ええ、してます」
「子どもは?」
「妻にひとりの娘がいます」
「じゃあ、なんとなくぼくの気持ちは分かるわけだ」
「そうですね、彼女に対して恥ずかしくないような生き方を選びたい」ぼくは普段どこかで思っていたかもしれない言葉が不意に口に出た。

「ぼくも、死んだ妹の元旦那を憎んでいるなんて、口が裂けてもいいたくない。ひとには思いやりをもてとか、優しく接するようにとか教えているのに。ごめん、長く話しすぎた。君と話したがっているひとが待っている」彼はメモになにか書きつけ、手渡した。「裕紀は、ここにいる。もちろん、それで君のこころが慰められるわけでもないだろうけど、いつか、墓参りでもしてやってくれ。それぐらいがいまのぼくの優しさの限度だ」

「ありがとう、ございます」ぼくはそれを握り、上着のポケットにしまった。

「近藤さん、あの仕事の件ですけど・・・」直ぐに顔見知りの男性が声をかけてきた。ぼくは、いままでの数分が夢のなかの話のような気がしていた。彼はそれでもぼくを恨んでいる。ぼくはその罪過を甘んじて受けることによって、自分は正しい生き方をしているという変な理解の仕方をしていた。彼女は、とにかく三十六歳で死んだのだ。何があっても、そんなことはあってはならなかったのだ。ぼくは、その知人と話し続けながらも、裕紀の兄が見せてくれた娘の写真の印象から離れられずにいた。似ていて当然なわけだが、裕紀のもっていた純粋な優しさは彼女独自のものだと不思議と思い続けたかった。あの少女にそれは受け継がれるべきものでもないのだと思いたかった。「じゃあ、決まり次第、連絡くださいね」と、言って彼は離れた。

 それは、あるパーティーの会場だった。裕紀の兄のまわりにもたくさんのひとがいた。ぼくと彼の関係を知っているひとはいないようだった。ぼくはグラスの中味を飲み干し、新たなグラスを制服を着た女性から貰った。
「ごめんなさい、広美ちゃんの?」
「ああ、君」それは広美のバスケット・ボール部の先輩だった。もう卒業してこのホテルに就職したのだろう。うちにも何度か来てくれた子だった。
「ごめんなさい、仕事中なのに」
「いいよ」
「広美は元気ですか?」
「うん、相変わらず。また、来ると、いいよ」
「はい」と言って彼女はアルコールを望んでいるひとのために銀のトレイを持ち軽やかに歩いて行った。ぼくはこの今日のことを誰かと話したいと思いながらひとりで新たなグラスに口をつけた。それに相応しいのはなぜだか裕紀のような気がしている。君の兄は、君の優しさと同じものを持っているのかもしれない。ぼくには、義理の娘ができてね、その子の友人がぼくのことに気付いた。それは、君がいたらなかった未来だけど、とても悲しいけど、しかし、行き続けるって結局はこういうことなんだろうとも思っているんだ、と独り言のように頭のなかでこだまさせていた。意図的に。答えはなくても。

壊れゆくブレイン(66)

2012年05月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(66)

 そして、ゆり江の両親の家は建ちはじめる。ぼくは仕事の途中にも、車でそこを通りかかるたびに寄った。または、そうする時間がないときは窓を開けて眺めた。それは壊れゆくものではなく、築き上げられ、命を与えられるものの象徴だった。いずれ、ゆり江もそこに住むと言った。彼女には夫と子どもがおり、両親はそこで世代が代わりつつあることを知る。ぼくもそれを知りながらも、彼女がまだ10代で無垢だった時代を記念のメダルのように大切に胸の奥にしまっている。無垢の記念碑。

 その建設が70パーセント近く過ぎたときに差し入れをもちながら、ぼくはそこに出向く。高いところに登り、作業をしている職人たち。彼らの献身的で無欲な感じが伝わってくる。目の前の問題だけに取り組んでいるストイックな表情。ぼくは無心にラグビーボールを前にすすめることだけを考えていた自分をそうしたときに思い出すのだ。実際は野望があり、名声への拘りがあったり、つまらない見栄に包まれていたとしても、普段はそういう無形のものと親友だったとしても、ここだけは違うという信念らしきものが感じられた。多分、考えすぎなのだろうか。そして、ある晴れた日にすべてが完成した。

 ぼくは、その日、カギを持ちそこを開ける。後ろには、ゆり江の両親ともちろんゆり江がいる。簡単に家の中を説明し、納得いただきカギを手渡す。彼らは家具を用意し、その業者が家の前で運ぶのを待ち構えていた。ぼくはそのひとりと話し、大体の構造のあらましを言い、あとの設置は任せた。

 そこにゆり江がでてきた。
「ありがとう、素敵な家になった」
「ぼくの力はほぼないけど、でも、その言葉、嬉しいね」
「両親も喜んでた」
「そう。裕紀にもこういう家を建てて上げたかったなと、いましみじみ思った。ゆり江ちゃんだから言うけど」
「その気持ちは分かるよ。家庭的だったしね」
 ぼくらは外からその家を眺める。空は快晴で、少しだけある雲がベランダの横を通りかかる。
「親が段々とこわいものでなくなった寂しさがあるね。いつまでも、自分を叱ってくれるものだと思っていた」
「まだ、元気じゃない」

「でもね、そうだ、記念になにかこの家に向いているものをプレゼントしてくれない」
「ぼくから?」ぼくはなぜか一瞬ためらった。でも、考え直して「ああ、いいよ。なにがいいんだろう」と、付け加えた。
「それは大事なひとだと思って、考えてよ」

 ぼくは車に乗り込み、仕事がひとつ片付いた安堵と、ゆり江が提案した条件に合うものを探した。片方では空白になった脳と、もう片方では思考を繰り返す頭脳があった。それを心地の良いものとそのときは考えていた。ぼくは近かったのでその帰りに実家に寄った。両親は午前中ののんびりとした時間を空虚のようにテレビを見ていた。ぼくはゆり江が接する両親を見て、自分もなにか暖かな言葉をかけたりしたかったが、自分の口からはなにも出てこなかった。ふたりはもう仕事をリタイアして父の店があった商店街の一角は、若者向けの飲食店に化けていた。

「お昼ご飯でも食べていく?」と母が言った。
「そうだね」ぼくは上着をハンガーにかけ、同じようにテレビの画面を見た。母は立ち上がり、台所で手際よくつくりはじめた。

 するとテーブルには料理が並べられた。ぼくは雪代との生活がこのふたりのような期間も続いていくのだろうかとご飯を噛みながら考えている。それに比べると自分は短い時間しかもてないことを知る。互いに二人目の結婚相手であるぼくらは、時間は短いがそれなりに濃密な時間があることも知っていた。それは、ただこのようなテレビを見ていた穏やかさとはまた違っていたようだった。

「そうだ、まだあの絵、まだあったんだっけ?」
 母はそれが何を指すのか知っていた。
「あんたの部屋にあるよ」

 それはぼくがもらった裕紀に似た子の絵だった。ぼくは東京の家を去るときにそれを梱包しいっしょにもってきた。いつのまにか家の倉庫から誰かが引っ張り出し、ぼくが暮らした実家の部屋に飾っていた。それを見た広美の友だちは不審がり、雪代の絵を描いて展覧会に出した。それはいまでもぼくの部屋に飾ってある。
「あれ、貰うよ」
「貰うも、なにも、最初からあなたのじゃない」

「そうか」ぼくは丈夫な紙とガムテープでそれをまたくるんだ。昼も終わり、上着を来て、それを助手席にのせた。ぼくは裕紀とドライブした過去の一日を懐かしく思い出している。
 また、さっきの家のベルを鳴らす。急いでゆり江が駆けつけた。
「なんだ、ガス屋さんかと思った。ひろし君だったの」
「まだ、来てないの?」
「予定の時間は過ぎているのに。どうしたの? 忘れ物」
「いや、こんなものがあって、これを持っているひとはもうぼくじゃない気がする。気に入ったら、家に飾って」
 ゆり江はそれを開ける。
「女のひとの肖像画だ。どこか、裕紀ちゃんに似ている」
「みんな、そういう」
「将来、子どもの部屋になる部屋に飾っておく」
「これ以外にも、なにかプレゼントは別に探すよ」
「いいよ、充分、これだけで」
 話していると、ぼくの後ろでバイクが止まった。「お待たせしました」とヘルメットを脱ぎながら制服を着た男性が現れた。
「じゃあ、これで」ぼくは、代わりに引き上げる。ぼくは裕紀につながる思い出や品物を手放したかったのだろうか? いや、まったくの逆だ。彼女の痕跡を誰かに押し付け、覚え続けていることを無意識に強要しているのだろう。それから、職場にもどり通常の営みにもどった。

壊れゆくブレイン(65)

2012年05月22日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(65)

 ぼくは職場に戻る。同僚はもう図面に手をかけはじめている。ぼくが部屋に入った様子が分かったのか、こちらも見ずに話しかけてきた。
「きれいなひとでしたね?」
「誰が?」
「誰がって、若い奥さんのほうですよ」彼は当然というような表情をして、はじめてこちらを向いた。ぼくは即答せずにコーヒーのカップを黒い液体で満たした。残っている分を彼のそばまで持っていき、彼のカップにも注いだ。「知り合いだったんですか? 以前から」
「ああ、知ってた。前の妻と幼馴染みだったからね」
「すいません」

「いや、謝ることないよ」彼の予測は当たっていた。ぼくらにはそれ以上の関係があったのだ。
「でも、そういう繋がりって、まだ生きてるんですね?」

 ぼくはそのことについてしばし考える。裕紀がのこした遺産というものがあるとしたら、いくつかの人間関係の源流としての意味合いがあるのかもしれない。だが、ぼくとゆり江の関係は、もしかしたら、裕紀にはなにも負っていないのかもしれない。ゆり江は好きだったお姉さんをふった男性を許せなかった。それによってぼくに近付く。だが、ぼくにとってそのことは関係がなかった。関係がないというのは表現として適切ではない。ぼくのこころが進みゆく動機としては影響がなかった。ぼくはその可愛らしい女性のことをただ好きになったのだ。また雪代が入り込まない女性関係というもうひとつの枠組みを必要としていたのだろう。それぐらい、雪代というのはぼくを根底から決定してしまった女性だった。あとは、亜流なのだ。すべてが。

 だからといって亜流が魅力をもっていないわけでもない。美しさもある。その美化された思い出をぼくは人生の道中でいくつも拾い、それを長年大事にあたためてきた。その彼女のお願いであれば、ぼくは望んで引き受けるべく待ち構えるのだった。

「前の妻がいなくなっても、ぼくらだけの接木したような関係もあるんだろうね」
「そうですよね」という頼りない返答を彼はした。それは仕事に集中しているときの彼の癖だった。だからそれ以降、ぼくも口をつぐみ自分の仕事に手をつけはじめた。しかし、横の女性はいままでの会話に関心をもってしまったようで、その人間関係の支流のような話を自分の友だちのエピソードに変えて話しはじめた。

 その友人は離婚した。だが、どういう成り行きだか分からないが、元の夫の母とそれからも親しく交友をつづけ、旅行に行ったり、ちかくに食べ歩いたりするときは必ずその義理の母と行動するそうである。家の電話にかけて元夫が出て自分の母にそれを取り次ぐ。夫婦であったふたりはそこで知らない者同士のように世間話をする。そもそも、自分たちには熱い関係が不向きだったのだと悟るように。
「そういうひといます? 近藤さんにも」自分の話に飽きたのか彼女は最後をそう締めくくった。
「ぼくも、東京に出張に行くと、彼女の叔母に会いに行く。だけど、それは互いの傷を嘗めあうような具合だね。ふたりとも遭難して無人島にたどりついてしまった見知らぬふたりのような表情と戸惑いを浮かべて」
「まだ、愛してる?」
「職場に似合わない言葉だよ。ただ、引き出しの探し物が見つからないだけかも」ぼくは実際にはさみを探していた。「鋏、ある?」

「使っていいですよ、これ」彼女は自分のお腹の部分の引き出しから愛用のものを出した。ぼくは借りてものを切り、10秒後にはもう返していた。
「近藤さん、ぼくが帰ったあとに、なんか家の要望出ましたか?」同僚がまた声をかけた。ぼくは、自分の仕事を一切していないが、またこれも仕事の一部だとあきらめている。
「とくには、なにも」
「何通りか、作りますか?」
「そうしてもらうと、喜ぶと思うよ」

「そうします」彼はまた口を閉じ、指を動かしている。ぼくもそのような業務に憧れをもった過去があったが、実際はたくさんのひとと会い、たまに感謝の言葉をもらい、失望や非難の声をきいた。その狭間にいることが自分の役目のようだった。だが、ゆり江や家族からがっかりしたことが分かるそのような言葉をもらいたくないのは当然だった。しかし、同僚の頑張りも前面に出ることはなく、その甘い言葉という利益はぼくが存分に受ける立場にあった。

 その一日も終わりに近づく。みな、その分だけの疲労が蓄積された顔をしながらも、これからの週末を楽しむべく余力があった。若い女性社員は喜びというものがみなぎっている表情で会社をあとにした。ぼくは誰もいなくなった室内の照明のスイッチを全部消し、そこを出た。

 新しい家ができる。そこに住み、歴史を築き上げることができる人々。裕紀にはそのような楽しみはもうない。ゆり江やその子どもにはまだたくさんの未来があった。そのための新しい家の完成を望んで暮らすこと。ぼくはその力を頼ることになっている同僚の週末のことも考えてみるが、彼が普段なにをして過ごしているのかほとんどしらないことに気付く。ただ、数時間会社で顔を合わせ、時折り冗談を交わし、たまに昼ごはんをいっしょに食べたりした。そういうひとが多くいることを知る。それに加え、ぼくに多大な影響を与え続けるひとびとも少なからずいた。ゆり江はどちらの範疇に属する人間なのか考えてみる。もちろん、後者だ。ぼくの若いころの思い出のいくつかに彼女は入り込む。少なくない数に。そして、裕紀を忘れるためにぼくは彼女の身体にある日おぼれた。それは代用だったとしても、きちんと血液が流れ、意思をもった身体だった。たまに付き合う程度の人間とは根底的に違う。その彼女の今後の幸福のことを考えているうちに家に着いた。

壊れゆくブレイン(64)

2012年05月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(64)

 保留にされた電話を取ると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「近藤さんは、こういう仕事も扱っているのですかね。うちの両親が家を建て直すことになったの。それで、頼りになるひとを探している」その声はゆり江のものだった。
「そういう部署もあるよ。新築か、リフォームにするか。それに見合った設計図を作って、納得いただいて、ゴーサインを出す。その間に住む家も探してあげられる」
「家は、わたしのところに数ヶ月住めるからいい」
「説明にいくよ。というか大体のプランを訊きに行く」
「ひろし君が?」
「別のものが担当するけど、ぼくが行ってもいい」
「頼りになる」

 ぼくは約束の日時にそこに向かう。ぼくは話を訊き、概要を説明し、実際の実務を担当するものを同行した。部屋にはゆり江の両親と、もちろんゆり江がいた。土地があり、いささか古びた家があった。いずれ、ゆり江もそこに住むことになるだろうと言った。横には、子どもが寝ていた。一時間弱で話はトントン拍子に進み、次回に希望の部屋と間取りを作って、もう一度説明に来る。そのために同僚は先に帰った。早速、戻って仕事に取り掛かる。

「こういう仕事もするんだ?」ゆり江は、興味深そうにたずねた。ぼくらは、その家から離れ、子どもの面倒を見る両親を置き、近くの喫茶店で話していた。

「社長が亡くなって、方向が定まらなくなった。段々と何でもする会社に変更したんだ」
「そう、あの社長が」彼女は悲しそうな表情をする。ぼくは途切れ途切れに20年以上もその表情を見ることになった。「裕紀さんの家族は、相変わらず?」
「ぼくは蚊帳の外。居なかった人間」
「まだ、思い出す?」
「たまにね」ぼくは裕紀の思い出を語れるひとをいまだに探していた。「そうだ、うちの娘にあったんだってね。なんかの遠足とかで」
「ああ、そうだ。会った。可愛い子だった」
「君のことも広美はそう言ってた」
「わたし?」

「そう、いつまでも可愛さのあるひとだって」
「お父さんは言わないのに?」彼女は微笑む。その笑顔もぼくは20数年間忘れることができなかった。
「言えなかった事情がたくさんある」
「責めてないよ」しかし、表情は無いに等しかった。「お父さんの役目はなれた?」
「お父さんらしいことは、なにひとつしてない。ただ、いっしょに暮らすたまに失敗をするお兄さん」
「それで良かったんでしょう?」
「良かった」
「奥さんは優しい?」

「まあ望める程度には優しいよ。ぼくをある時期、救ってくれたし。若いころのぼくのことも知ってるし」
「わたしも知ってる。でも、今日はありがとう。うちの両親、なんだか猜疑心が強くなって、誰かを信頼することを忘れてたみたいだけど、きょうは違ってた」
「そういう安心感のために、ぼくは給料をもらってる」
「わたしもむかし、その安心感にしがみついたっけ」
「いや。裕紀が亡くなったとき、ゆり江ちゃんにも助けてもらった」
「わたしは、裕紀ちゃんを捨てた男の人生を狂わせるはずだったのに、結局は、いまここで感謝されている。この身体も提供して」彼女は笑う。「なんだか下品だね」
「いや、その通り。ぼくは生きている身体や息遣いが必要だった。そこに君がいた」

「あれから何年?」
「7、8年かな」
「家が建つまでまたわたしと関わりができちゃったね」
「嬉しいよ」
「ほんと?」
「うん、最高の仕事にする。君も子どもも将来あそこに住むんだろう?」
「うん、ずっと住む。あの最初のアパート覚えてる?」
「覚えてる」ゆり江が働き出して最初に借りたアパート。その窓から見えた風景をぼくは手に取るように覚えている。彼女の生活がそこにあり、ぼくもそこで時間を過ごした。しかし、ぼくらには確かな未来がなかった。ぼくには雪代との土台のしっかりとした生活が別にあった。そのことに関してゆり江は恨むがましいことを一切口にしなかった。それゆえにぼくはいまだに良心の呵責を感じ、またそれゆえに甘美な思い出ともなっていた。過去の失敗や行き止まりは美しいものであり続けるのだ。
「たまに、あそこの夢を見る。わたしはあの年齢のままなんだけど、子どもがいて、ふたり心細く暮らしている。誰かの帰りをずっと待っているの。童話のなかの主人公のように。目を覚ますと、もちろん夫も子どももいて、わたしもおばさんになったけど、そのことで安心する」

「ぼくの責任みたいだね」
「全然ちがうよ。あの頃の思い出がなかったら、わたしの人生、潤いがなかったなって思うもん。ひろし君の一部もまだあそこにあるのかなと思ったり。でも、本当は、雪代さんのもので、思い出の大半は裕紀ちゃんが占有しているけど」
「でも、ごめんね」
「わたしはたまにこうして確証させる必要があるみたい。あの男性はちょっとでもわたしのことを好きでいてくれたんだろうかなって」

「ちょっとどころじゃない。だいぶ」
「ありがとう。でも、誰にも話せない。近藤ひろしはわたしのことが好きでした、とか」彼女は壁にかかっている時計を見た。「そろそろ、両親も子どもの面倒を億劫がる。あの子やんちゃだから、手に負えない。良いうち作ってね」
「そうするよ」
「そこを通るたびにひろし君はわたしのことを思い出すんだから」

「家がなくったって、思い出すよ」それは本当のことでもあり、また彼女は常に先頭にならないことも知っていた。ぼくは雪代がもっていないものを彼女に見つけ、裕紀を忘れるためにその肉体を利用した。それは代用でもあり、ごまかしでもあった。彼女個人の存在だけを愛してこなかったのかもしれない。しかし、言い訳だがぼくの前に雪代も裕紀もいない世界というものが存在するならば、ぼくはもう少し違った性格を身に着け、その伴侶としてはゆり江がいちばん相応しいのだとも思っていた。

壊れゆくブレイン(63)

2012年05月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(63)

 広美は父を亡くして10数年を経過し、その半分ぐらいの年数にまがいものの父がいた。父というより母の愛したひとだった。だが、本物と偽者の差などいったいどこにあるのだろう。継続すべきものが本物であり、中断するものが偽者である。そう定義するなら、ぼくは、また同じ理由で裕紀の思い出の一部を失い続けていくのだろう。

 ぼくらは、根本的に大切なものを失ったグループの一員だった。もちろん、雪代もそうだった。そういう儀式を済ませるため、ふたりは出かけていた。島本さんもいなければ、彼の母もこの世にいない。まゆみの生まれてきた子どもの代わりに、いなくなるひとも多くなった。ぼくの会社の社長も亡くなり、もちろん、誰よりも大切な存在であった裕紀もいなかった。

 外は雨が降っている。窓は閉めてあったが、湿気は室内にいても感じられた。その重たい雨の気配が過去へとぼくを導くようだった。過去は人間の順番待ちの行列のようにぼくの向こうに並んでいた。生きているひとも死んでいるひとも自分のことを思い出してもらいたがっているように、そこに整然と並んでいた。

 最初にいるのは、病院のベッドで横たわる裕紀。まだ回復が見込まれていた時期だ。ぼくは、直ったらしてあげられそうなことをたくさん発見する。自分の指の指紋のかたちを改めて見つめたように。仕事と仕事の合間に見舞いに行った短い間だったが、それをはっきりと思い出している。その後、ぼくを見送るようになった叔母と連れ添って歩いた。

「ある朝、あるお店で、ひろしさんを発見する」
「なんのことですか?」
「さっき、裕紀ちゃんに聞いたのよ。東京に居るはずのないひとが目の前にいた」
「ああ、ぼくらの出会い。いや、再会ですね」
「そのひとは自分に気付かない。なにかに意識を集中しているようだった」
「東京での生活にも慣れていない時期だったんです。会社もまだ自分に馴染んでいなかった。それで周りのものに関心をもてなかったのかもしれない」

「合図を送ろうとしたかったけど、実際はしなかった。なにかが躊躇させた」
「ぼくは、裕紀を裏切ったことがあるから」
「でも、彼女は結婚すべきひとは、このひとだと思ったんだとか」
「ぼくもです。いや、そうかな? 東京で味方を見つけられたと思ったのかな」
「妻が味方なんて一番じゃない」叔母は微笑んでそう言う。「その再会が、こんな形になってしまったのを彼女は悔いている。慰めてあげたんだけど」
「直ぐ治りますよ。これは一時的な試練だから。ぼくらの一時的な」
「じゃあ、そういうことを言ってあげて」
「言ってますよ」
「じゃあ、もっと言ってあげて。優しい言葉が一番の治療になるから」

 そこで、ぼくは病院の外に出る。タクシーを拾い、次の約束の場所を運転手に告げた。
「お見舞いですか?」
「妻が病気で」
「それは、大変ですね。仕事にも身が入らないでしょう・・・」それから、彼は自分の体験談を話す。病気の妻を自分のタクシーで病院に連れて行ったこと。何よりもそのときの運転が注意とスピードのバランスを保てたこと。「いま、乗ってるお客さんに話すようなことじゃないんですけどね。今日も安全運転ですよ」

 彼にも思い出がある。ぼくは語るべき優しさが含まれている言葉を見つけようとしている。

「うちで働かないか?」

 社長は、そうぼくを誘った。宇宙のはじまりのようにまだ完全なる形となっていなかった会社。ぼくはラグビーで夢を叶えられず、大学の勉強の成果を実際の仕事に向けることができなかった。投げ槍でもなかったが、このひとも魅力のためにいっしょに働いて、形あるものにしたいとも思っていた。それは確かにそうなり、いくつかの支店もできた。ビルやマンションはひとびとを集め、生活をよりよいものにしようという幻想をいくつかは実現した。ぼくは、そのビルのひとつにいる。東京で画廊を営む女性。彼女に向かって賃貸の契約書を取り出す。彼女はそれに同意した。壁には裕紀に似た少女の絵が飾られている。いまは、ぼくの実家になぜだかあった。

「ただいま、疲れた」
 雪代と広美が入ってくる。彼女たちは黒い服装をしている。
「こんな写真があったよ。パパとひろし君がいっしょに写っている」

 広美はぼくに何枚かある写真の一枚を手渡した。そこには10人ほどの男性がラグビーのユニフォームを着て写っていた。まだ10代の半ばのぼくたち。それが、どのようなときに写されたのかはもう覚えていなかった。だが、ぼくらは確かにそのなかにいた。

「覚えてないな。でも、なんかの試合か練習のときだったろうね。みんな、若さに溢れている」
「ママのふたりの結婚相手」
「たまたま同時にそこにいた。普通は大好きになって、別れて、違う場所で新しい恋人を見つけるのに」雪代は自分のもっている恋のイメージを披露する。

「そんなことないよ。広美だって」ぼくは余計な口を挟む。「でも、こんな写真があったんだ」
「わたしもこのふたりから影響を受けた。健康さと、あと、なんだろう?」
 広美はぼくに視線を向ける。ぼくは、その10代をいっしょに暮らした少女にいったい何を示してこれたのだろう? 耐えること。失ったものを一時的に忘れて笑い続けること。それならば、彼女もしてきた。そばにいるものへの愛着。いないものへの憧憬。ぼくは裕紀を失った試練と同等のものを抱えているひとりの女性になりつつ存在を見つけていたのか?

壊れゆくブレイン(62)

2012年05月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(62)

 ぼくは甥っ子のサッカーの試合を見ている。雪代がとなりにいた。彼女は陽を遮るように大きな縁のある帽子を被っていた。横で歓声をあげたり、その合間にコーヒーを飲んでいた。試合は、どこかピリッとしたものに欠け、甥のチームは格下の相手に実力を出せないでいた。

 ぼくらと離れているが左側の前方には広美がいた。横には男性が同じように座っていた。ここからでは背中だけしか見えない。
「あれが、新しいボーイフレンドなんだ?」ぼくは、試合に興味を失いかけ、そう雪代に訊いた。
「そうみたい。最近、長電話している」
「前の子は?」
「さあ」
「さあって?」
「別れたんでしょう。二股とかするような器用な子じゃないので。誰かみたいに・・・」
 ぼくはそれに返事をしないでいる。了承とも呼べそうな、無言の抵抗とでもいうようなタイプの沈黙だった。
「ふたりが並んでいるのを見て、似合っているなとか、なんで、とか、あれ、どういう感じなんだろうね」
「それで、あのふたりは?」
「背中だけだと、やっぱりね。評価に難しい」

「そのひとの友だちの評判もあるし。わたしは、ひろし君のお友達から評判が悪かった」
「むかしの話だよ。それに非難したのは、ぼくの行動に対してだから」
 そうしていると前半が終わった。ゴールを奪えるシーンは何度かあったが、それでも両チームとも無得点のまま時間が過ぎただけだった。広美の横にいる青年が、階段をのぼってきた。最初からここにいることを知らされていたのか、こちらに軽く会釈した。それで、ぼくと雪代も同じように振舞った。
「ハンサム」雪代がただその四語をかみ締めるように言った。
「親子とも外見を重視する」

「どこが?」と雪代は笑いながら言った。すると、両手に紙のコップを持って、先程の青年が階段を降りている。その背中に視線が集中していることを理解している様子があった。雪代はある面では、娘をたまたまいっしょに住んでいる女の子とでも思っているような節があった。それは、途中でぼくがその家族に割り込んだ所為かもしれず、そのまま二人で暮らしつづけていたら、もっと密接な濃度の濃い親子関係が築かれていたかもしれない。反対にもっともっと淡い関係が生まれていたのかもしれない。だが、今の状態が双方にとって居心地の良いものらしく、ときに喧嘩をするにせよ、普段は年の離れた友人のように何事も屈託なく話し合った。

 目の前では後半の試合がはじまった。なにかいままで用事があったのか、それとも、大きくなりすぎた息子の試合など関心がなくなったのか、ぼくの妹がやっととなりに座った。

 妹と雪代は視線だけで簡単な挨拶をした。妹は直ぐに試合に注目することをやめ、周りをざっと見回していた。
「あれ、広美ちゃん?」彼女は、前方を指差した。
「そうだよ」
「となりに男の子がいる」
「いるね」
「似合っている」
「背中だけで分かる?」
「それは、分かるよ」

 そう言うととなりで悲鳴を上げる雪代の声があった。待ち続けた念願のゴールが入った。それを決めたのは甥だった。ぼくと妹はその大切な瞬間を見逃していた。その大きな声に驚いたのか広美がはじめて振り返った。親の声は直ぐに分かるらしい。そこには怪訝さが含まれていた。新しいボーイフレンドを意識してなのか、それともたた単純に恥ずかしかったからなのかは分からない。

「やっと、入った。これを守りきれば」と妹は言う。だが、時間的に守りを固めるには早過ぎた。その考えを知られたのか直ぐに同点になった。遠くで今度は広美が嘆きの声をあげた。親子はどうも似ているらしい。

 そのまま試合は終わってしまった。簡単に勝てそうな相手にもたつき、逆に強そうな相手に最高の実力を見せる。世の中はままならないようにできているらしい。

 そこに広美が歩いてきた。

「ママ、うるさいよ。あ、おばさん、こんにちは。そう、今日、夕飯いらないから。その変わり、ちょっと食事代ちょうだい」
「男の子に出してもらえば?」そう言いながらも雪代は財布を開いている。
「たくさん、稼ぐようになったら、出してもらう。ありがとう」そして、背中を見せて歩いて行った。
「かずや君には、誰か好きな子が?」雪代は財布をしまいながら言う。

「いるんでしょうけど、馬鹿みたいにサッカーばっかりしている。お兄ちゃんとは大違い。そうだ、たまにはうちに来る。あの子、なんだか料理が好きになって」と、姪のことを妹は話した。ぼくらには予定はなく、ちょっと寄り道をしてから行くと伝えた。仕事を離れ外気にあたるのは心地の良いものだった。ぼくは湿ったような空気の匂いを嗅ぎ、むかし、同じように走り回ったころのことを思い出している。それは、広美の背中を見た所為かもしれず、不甲斐ない試合をしたやるせない気持ちを抱いているスポーツに明け暮れる青年たちをみた所為かもしれない。若さは走馬灯のように去り、ぼくは徐々にひろがり根を張っていく人間関係を感じている。幼かった女の子は自分の手で料理を作り始め、それを誰かに披露したいと思っていた。そういうことが生きている証のようだった。ぼくらは雪代の店のそばの評判の良いケーキ屋さんに入り、いくつかチョイスして妹の家に向かった。

壊れゆくブレイン(61)

2012年05月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(61)

 広美はまゆみの家に遊びに行き、帰ってきた。まゆみは夫の仕事の関係上、京都で暮らしていた。まゆみを幼少のころから知り、その無鉄砲さと率直さは、ぼくが抱く京都のイメージとは不釣合いだったが、彼女も大人になり母になり、それらしく変わっていくのだろう。

「まゆみちゃんの子ども、どうだった?」と雪代は関心を隠し切れない態度で訊いた。
「大きくなって、可愛くなってた」
「あなたもお母さんになりたくなった?」
「お母さん?」急に問われた質問に怪訝な様子を示しながら広美は返答する。「まだ、先だよ。順番を踏んでから」
「弟か妹を欲しくなった?」
「なに、急に、気持ち悪いな」

「まあ、可能性の話よ」雪代はそこで口を閉じる。彼女の体内に宿って育つ可能性は確かに減っていた。だが、ぼくは敢えて、そういうものを深いところでは望んでいないのかもしれない。ぼくは、裕紀に与えられなかったものを、今更、誰かと共有して楽しもうという気持ちなど芽生えてこなかった。しかし、結果としてそうなれば、また違った気持ちも生まれてきたのかもしれないが。「ひろし君は自分の遺伝子を残していないから」
「急に難しい話になったね」ぼくは、話題を反らすようにそう言う。それから、まゆみがベビーカーに子どもを乗せ、それを押しながら京都の町を広美といっしょに観光した話を聞く。彼女は中学のときにも修学旅行で行ったはずだが、その印象が今回の旅行ですっかり入れ替わったそうだ。

 広美はバックの中から衣類を取り出し、洗濯機に放り込みスイッチを入れた。それから風呂に入り、早目に自分の部屋に引き上げた。

「ごめん、眠いから干しておいて」と、母に言葉を残した。
 ぼくと雪代はテーブルに向かって座っている。
「京都か」ぼくは溜息混じりに言う。
「あんまり、そっち方面行かないね?」
「関西方面は仕事のテリトリーじゃなかったから」
「建っていくビルやマンション」
「そう、だから無関心だった」
「でも、広美はいっぱいいろいろなところに友だちを作って欲しい」
「仕事でもするようになれば、若い女性も飛び回るような世の中になるよ」
「銀色のスタイリッシュなバックを小脇に抱え」雪代は笑う。「ひろし君は、子どもいいの?」まじめな顔付きで雪代は問いかける。

「いいも、なにも出来ないよ」
「なんで?」
「誰かがそう決めたんだろう」
「そう」
「雪代も、そんなに若くない」
「あら、最近の医学をなめている。でも、広美を育ててるとき、大変だったけど、楽しかったな」
「ぼくは知らない」
「でも、ふたりで楽しい生活があったんでしょう?」
「あった」
「見返りがいらないほど・・・」

「まあ、でも、もうぼくの物語はそこにはないから」そういう言葉を語ったが、実際は別だったかもしれない。ぼくの一部は裕紀との生活をまだ続けているのかもしれなかった。その小さな失われた可能性にスポットを当て、いろいろな角度から思考し、模索していた。結局、答えはないのだが、ぼくは人生の逃避の一部として、そこに逃げ込む時間が確かにあった。

「わたしは、あのひとのこと思い出さない、全然」と、残念そうに雪代は言った。彼の前の夫である島本さんはその言葉を聞いたら、どういう感情を抱くのだろう? 彼なら、「清々する」とでも言いそうだった。ラグビーのユニフォームの襟を立て、そのままどこかに走って消え去りそうだった。「なんでだろう?」

「前向きにできているんだろう」
「ひろし君はときどき後ろ向き」
「失敗から学ぶから」
「違うよ。失敗を愛おしいと思っている。今だから言うけど、全国大会に行けない自分が好きだったでしょう?」
「そんなことないよ。あそこで活躍してそこそこの名声を得て、だいぶ、ちやほやされる」
「わたしが、あんなに愛したのに?」
「まあ、充分だったけど」
「もう、寝る?」
「洗濯物は?」
「あ、そうだ」
「ぼくも手伝うよ」
「じゃあ、このお皿洗って」ぼくは皿を重ね、シンクのなかに入れ、水を出した。スポンジはいささかくたびれ、交代要員を探していた。雪代は窓を開け、ベランダの下部に衣類を干した。風が気持ちよく、夜の匂いを運んできた。それが終わるとまた窓が閉まった。

「スポンジ、古びてる」
「そうだ、買ってあるのよ。明日、出す」
 ぼくは手を拭き、寝室に入る。ベッドに潜り込むと、横に雪代が入って来た。彼女の匂いがぼくを安心させた気持ちにする。
「弟か、妹を広美に造ってあげないと」と、雪代はふざけた口調で口にする。ぼくらは出会い、別れた。そして、お互いの再婚相手としてまた見つけた。その期間がどこかでずれていたら、ぼくは自分の子どもを抱く雪代の姿が見られたのかもしれなかった。ぼくらは若さゆえの強情さと、なにかを撥ね退けたい力とで運命を狂わせた。しかし、ぼくはこの夜に隣に彼女がいることが自分にとってどれほど大切かということに気付かされたのだ。あのときは知らなかった。26歳のぼくは彼女と別れ、ある意味ではその状態に立ち向かおうとしていたのだろう。実際にその力はぼくの内部にきっちりと内包されていたが、その力を失ったぼくの安楽な気持ちは彼女の腰の丸味がいかに魅力的かということにも気付いていたのだ。このベッドで。

壊れゆくブレイン(60)

2012年05月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(60)

 社長がいなくなった会社はどこか別物だった。そして、いなくなったひとの全体像をぼくらはいかに知らないかという実感もまた覚えるのだ。それから、あのひとの残した些細な言葉の真の意味合いを覚ったり、再度発見したりもした。それで、またうろたえた。誰かがいないということだけで。

 ぼくは松田と会う。彼とは幼いころからの友人だったが、ぼくからとは違うルートで彼の会社に仕事を依頼していた。そこには社長が大きく関与し、彼の会社の利益の多くはそこから派生していた。それだけではないが彼も悲しんでいるひとりだった。

「ひろしのことも良く話していたぞ」
 ぼくが知らないところで、自分が話題のうえにあげられていた。ぼくは目上のひとから言われたかった言葉を友人経由で手に入れる。だが、実際に当人から直接言われたら数倍も嬉しかっただろうという内容だった。ぼくらは言葉や感謝を控えすぎているのだろうか? 遠慮しすぎているのだろうか? ぼくも社長に言うべき必要のある言葉が多々あった。それは山脈のように、またはネックレスのように連なっていて消えなかった。

「それで、後釜の担当は?」
 彼は名前を言って、名刺を取り出した。頼りになる女性だった。ぼくは彼女の特徴や好みを伝えた。特徴や趣味? そういったもので人間は構成されているのだろうか?
「ひろしは会社に不満はない?」
「ないこともないけど、そう特別には」
「転職とかは?」
「考えてもいない」

「最近は人材を買うとか買わないとかでオレのところにも何人か来た」
「そうなんだ。引っ張りだこ?」
「ただの調査だよ。これでも、自分の会社を軌道に乗せてるから、それをどっかで役立てないかとか。ひろしにも声がかかっても良さそうだなと思って」
「ぼくは、社長がいちばん評価してくれてたから」
「実感があるんだ?」
「もう20年も付き合ってきた。学生のバイトをしたときも加算すればそれ以上。妻より長い」
「2人の妻。ごめん、酔ってきた」

「ぜんぜん。2人の妻より長い。事実だよ」それから、ぼくは彼の家族の話をきく。彼の妻は洋服やバックを作り、店の片隅に置いたものが売れ出して、それを主婦たちに教える日常が舞い込んできた。彼女は高校生のときに妊娠してひとりの息子を産んだ。学生時代の少なかった彼女が大人になり、また共同してなにかを始めるという生活に入ったことがぼくは嬉しかった。その息子も20代の半ばになり、交際相手を家に連れてきている。そう急かさずに自分の人生や未来を決めるようにと松田はアドバイスする。自分には誰かがしてくれなかったことだったとしても。

「仕事がいやになったら、これでもコネがあるから、お前をどこかに紹介してやるよ」と、帰り際に酔った松田はそう言った。その言葉をお土産にして、ぼくは帰り道を一人歩いている。10分ほどの帰り道の途中で娘に会った。

「お酒を飲んでたの?」
「学生からの友人とひさびさに会った」ぼくは彼のことをかいつまんで話す。それを誰か第三者に伝えるという経過を通して、そのひとが具体的に生きている形として再発見された。
「ママもその友だちを知ってる?」
「知ってるよ。まだ広美が存在するずっと前。そこの子どもがとても可愛かった。でも、もう20代も半ばになるんだって」
「大人だね」
「大人だよ。嬉しくもあり、すこし気持ちの行き場が気持ち悪い」
「どうして?」
「膝に乗って眠ったあの子のままでいて欲しかったなとか」
「無理だよ」
「そう、無理だよ。大人になって、いつか大人も越えてしまう」

「おじいさんやお婆さんにならないひともいる」
「君のパパや裕紀みたいにね」
「でも、年取ったほうがいい?」
「思い出も増えるし、誰かの成長を見守ることもできる」
「今度の休み、まゆみちゃんの家に泊まりに行くよ」
「そう。大きくなったかな?」それは彼女の子どもを指して使った言葉ということを互いに知っていた。
「見てくる」
「抱いてくる。そう言えば、ぼくが広美を抱いたということを記憶として留めてるって・・・」
「言った。分からないけどある」
「その子も、覚えてくれるかな?」
「さあ、バスケットボールぐらいの重さかな」彼女は日頃、触りなれているものと比較して語った。そのまま、大して話すこともできず家に着いた。

「なんだ、いっしょだったの?」雪代が振り返り言う。料理の仕度をしていた。
「そこで、いっしょになった。ひろし君もうお酒を飲んでるよ。友だちと会ったって」
「そう、誰と?」
「松田と。転職するなら、どこかに紹介してあげるだって」
「するの?」
「しないよ。ただ、路線変更をしたときをイメージしてみただけ」
「社長もいなくなったし」
「松田も世話になったと言ってた」
「奥さん、地区センターでバックなんかを作っているよ」
「なんだ、知ってたの?」
「小さな街だよ」雪代はそう言って作り終えたらしい料理を皿に盛り付け、テーブルに並べた。ぼくはビールを冷蔵庫から取り出し、つまみとしてそれらを食した。
「広美、まゆみちゃんに会いに行くって」ぼくは彼女らのいまの映像ではなく、数年前の印象をあたまに浮かべていた。誰かがそばに寄り沿い、頑なに守る必要がある存在としての。

壊れゆくブレイン(59)

2012年04月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(59)

 そして、社長が亡くなった。彼は、ずっと働き続けたひとだった。ただ、いつものように起きてこない夫を妻が心配し部屋に入ると、意識はなくなっていたらしい。常に慌ただしい彼にとって、不釣合いな幕切れだった。

 ぼくらには、こうしたことに対する準備はなく、ただその状況の対処に追われるだけだった。

 その夜に、ぼくは息子であるラグビー部の先輩だった上田さんと妻である智美と会った。お互い、黒い服を着て、ぼくらはこうした機会にしか会わなくなる自分たちのつながりを悲しいことのように思っている。上田さんは憔悴していた。誰でもがそうだろう。彼は、奥のほうに座りうつむいていた。実際の段取りは会社の面々がしていた。彼はただ失ったものと対峙していた。

 夜も更け、ひとはまばらになる。ぼくは彼ら親子ととても親密にしていた。それで帰るということ自体忘れてしまったようにそこにいた。横にいた智美が口を開く。
「ひろしが、奥さんを失ったときの気持ちが、ほんとうは分かっていなかったのかもしれない。わたしも、彼も」
「なんだよ、今更、急に」
「どんな慰めの言葉も、そのひとを連れ戻してはくれない」上田さんが言った。「オレは大人になってから、親父とあまり時間を作ることに対して努力をしなかった。割けなかった時間を。それをいまは後悔している」
「みんな、それぞれの場所で働いているし」

「お前の方が、ある時から、オレの親父のことを知っている」
「いっしょに働いていたし、ぼくを可愛がってくれましたから。若いときから、目をかけてくれました」
「ありがとう。どう転がるか分からない会社にも賭けてくれた。お前の先を見通す能力は、この面では間違っていなかった」
「その場、その場でたくさんの間違いも繰り返しましたけど」
「許される範囲での間違いだろう? オレは、自分の親の会社にも無関心だった」
「上田さんは、もっと別の方面で能力があったから」
「いまは、すべて言い訳に思える」
「時間がかかりますよ」
「お前は、まだ裕紀ちゃんのことを思い出す?」
「もちろん、たまに一日の間、思い出さない日があって、翌日、罪悪感に駆られます」
「なんで? どうして?」智美が誠実な目をして疑問を挟む。
「ぼくや、彼女の叔母が裕紀のことを忘れてしまったら、一体、誰が彼女が生きていたことを示す証拠を握っているだろうって・・・」

「わたしも、覚えているよ」
「ありがとう。ずっと、覚えていて」ぼくは太古の壁画のようなものを脳裏に浮かべる。誰かが発見するまで、それはそこに存在する。しかし、誰かの目と手と懐中電灯でもって照らさなければ、そこにはないのだ。「きょうは、でも、社長の思い出を語り明かそう」ぼくは、大切なひとびとを失い続けるのだ。記憶ぐらいは自分のものでありつづけたい。そこに、ぼくの携帯電話が鳴る。雪代だった。

「大変だね。帰れそう? あまり、深く考え込まないでね」ぼくは前妻の死から立ち直る方法を知らなかった。ある場所で酔いつぶれ、絡んだ末、雪代に頬をなぐられた。それから、ぼくらは広美を加え、二人三脚のようにすすんできた。あのときの状況に戻るのが恐かった。だが、自分の償いとしては、あの方法しかなかったとも思っている。悲しみから簡単に立ち直れる人間なんか糞喰らえとも思っていた。

「お前、取り敢えずは帰れよ。あのときのようなお前になってもらうとまた困るから。それに、困るひとも増えたから」ぼくは悲しく相槌を打ち、そこを出た。ひっそりとした空はいつものような継続ということしか考えていないようだった。ぼくは自分の悲しみを正当化して何人かの女性とその場だけの関係をもった。失った女性の悲しみのため、その身体を代用として利用した。多分、上田さんはそのような卑怯な真似をしないのだろう。父親と妻という違いもあった。だが、ぼくは瞬く星を見ながら、自分のそのずるさが暴かれるような気持ちを内包していた。

 そこには、ゆり江の優しさがあり、上田さんの会社の後輩の笠原さんの温もりがあった。でも、ぼくはそんなことより裕紀を取り戻したかったのだ。
「大丈夫?」玄関の扉を開けると広美がいた。
「まだ、起きてたの? 大丈夫だよ」
「広美もわたしも心配していた」
「大丈夫だよ」ぼくは、それしか言わない。
「前のこともあるし・・・」
「あのときを経験して、ぼくはいろいろずるく対処することを覚えたんだ」
「そんなに器用な生き方、できないのに・・・」
「広美、寝なよ」ぼくは、話を反らすようにそう言った。

「分かってる。もう、子どもじゃないよ」彼女は自分の部屋の戸を閉めた。彼女も自分の本当の父を若くして失い、その父の親しかった母、彼女にとって祖母である女性もこの前に亡くした。そのときの悲しみもぼくの範疇外にあるようだった。つまりは、自分の周辺の悲しみに追われることだけで精一杯であり、誰しも利己的に思えてきた。

 ぼくは、シャワーを浴び、ベッドに入った。子どものように雪代にくるまれ、ぼくは泣いた。裕紀を失ったときにぼくはひとりで寝ることになった自分の境遇を思い出していた。自分の身体は、彼女が冬になって冷たくなった足に触れることもできず、小さな寝息を感じることもできないでいた。そのような状況で目だけが冴え、思い出を繰り返しページをめくるように頭のなかで何度も往き来させていたあの夜が、なぜだかとても懐かしかった。

壊れゆくブレイン(58)

2012年04月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(58)

 ぼくがまだ20歳ぐらいのときに、10歳前後の少年たちにサッカーを休日に教えていた。教えていたというよりまだ体力の行き場を求めていたぼくの身体が適度に運動することを望んでいたという方が相応しいだろう。その頃の少年たちも30近くになっていた。なかには、仕事で接するひともいた。ぼくらは小さな町で利益を左右させることしか方法がないのだ。

 ある青年は自分の店を開いていた。スポーツ・バーという形式のもので簡単な軽食とアルコール類と映像を映す大きな画面が壁にいくつかあった。ぼくは広美に誘われ、そこにたまに行った。日曜で、ぼくらは暇で、雪代が仕事をしているような状況でだ。

 そこで、バスケットをする躍動したスポーツ選手を見たり、時期によってはサッカーやラグビーや、それもなければ野球を見た。もちろん、ビールを飲んだ。店の子は、ぼくに恩があるのか、広美にとても優しく接してくれた。その証拠として、彼女には特別な配合のジュースを作ってくれた。ぼくは、そういう関係性を楽しんでいた。ぼくは彼と過去にサッカーをいっしょにした。実際の娘ではない女性と友人のような関係を培っていた。最近では、彼女は自分の母を尊敬していることを隠さなくなった。それで、その女性が選んだ男性は友人になる価値があるひとなのではないか、とそういう認め方をしている気もした。何にせよ、日曜の昼から夕暮れにかけて過ごす時間のやりくりとしては悪くもなく、逆に申し分のないものだった。

 しっかりと見つめ合って意見を交換するわけでもない。時折り、画面から視線をずらし、自分の気持ちや最近起こった、また起こりつつある問題や悩みを話した。ぼくは彼女の生き方を左右する権利もないが、いくらか先輩としてアドバイスする立場を取った。それには、広美と雪代の深い絆のようなつながりがあったから、踏み込めないという事実も多分にあった。

 それと同時にスポーツ選手の活躍や不甲斐なさに悲鳴や声援を送り、勝利者に喝采し、敗者にも暖かい絶叫を与える。敗者がいなければ、どこにも勝利者は存在しないのだ。そういう一喜一憂を共有することにより、ぼくらの関係はある面では理解に及び、深まっていくこともあった。ぼくらは知り合って、それぞれ愛するひとの娘として、向こうは、愛する母の結婚相手に途中からなったひととして6年とか7年という期間が経過した。それぐらいしかぼくらには共に過ごした時間がないのだ。それにしては、まずくない関係のようなものが作られていった。いや、服がなじむように、突拍子もないものではなくなっていったのだ。鏡にうつった新しい服を着た自分がしっくりといくように。

「今日は、なにをしてたの?」雪代が日曜の夜にたずねる。
「スポーツ・バー」
「あのスポーツ・バー」確認するように雪代は言う。「ふたりとも好きね」
「だって、試験で部活はなくて、勉強にも身がはいらないから気分転換」
「ひろし君は広美みたいにスポーツが分かる子と結婚すれば、もっと楽しかったのに」
「雪代だって、ラグビーを見に来てたじゃないか」
「あれは、好きな男の子がそこにいたから。不純な動機」そして、笑った。「広美のことも誰か見ているかもしれない」
「集中してて、試合のときには関係ないよ」つまらなそうに広美は言う。家のテレビの画面ではスポーツニュースが流れていたが、その迫力のなさにも不満なようだった。

「ひろし君は、集中してなかった。きょろきょろしてた」
「あれは、スポーツの性質上、誰がどこにいて、誰が視線のなかにはいり、誰かを見てないふりをしてチャンスを見つけようという作戦のためだよ」
「そんなに難しいことをしてたの。スタンドにいる可愛い子を探すためかと思っていた、わたし」それから、また笑った。多分、季節柄、服の売り上げが良かったのかもしれない。在庫は一掃され、新しいものを陳列する。その繰り返しを雪代は楽しんでいた。

 食事も終わり、広美は部屋で勉強をしているらしい。今日、自分に努力を強いていないのは自分だけのようだった。妻は働き、娘は勉強をしていた。それから、雪代は店を切り盛りする青年を誉めた。ぼくは会社員という責任しかなかったが、自分の裁量でなにかを軌道にのせ、その通常運行を毎日することの大切さを雪代は知っていた。

「あの子、あの店の女性のひとり息子だったよね?」その青年はぼくが東京に行く前によく通っていた飲み屋の店主の息子だった。離婚した女性は、あそこまで大きくなるまで育ててきたのだ。そして、そう遠くない距離で彼らはふたりとも飲食店を開いていた。ある場合には、雪代もそのままひとりで広美を育てることになったのかもしれない。そのことによっても、その青年と母に対する評価は高かった。

「広美と日曜過ごすの楽しい?」
「楽しいというか自然だね。ふたりとも家にいないひとを待っている」ぼくらは大体なにかを待っていたり、待ちわびたりしているものなのだ。多かれ少なかれ。

壊れゆくブレイン(57)

2012年04月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(57)

 広美は学校の旅行に行って、家にはいなかった。いまは沖縄にいる。ぼくは地元にあるあまり大きくもない空港のことを考えていた。そして、自分が若かったときに行ったアメリカの西海岸のことに思いは移っていった。そこは巨大な町をすっぽりと包み込んでしまうような空港だった。ぼくは雪代とそこにいる。まだ、ぼくも学生だった。その空港内で裕紀に似たひとを見かける。あとで、再会して裕紀本人だったことを知った。彼女は、遊びにきていた両親とそこで会い、楽しい思い出を作るはずだった。

 しかし、彼女の両親は現地で事故にあった。そのことも後で知る。ぼくはあそこで例えばトイレから出てきて偶然に近い距離で声をかけざるを得ない状況として逢ったとしたらとか、小さな店でコーヒーを買う順番を待つ者同士で再会していたらとかと考えていた。もし、そうなれば人生の歯車がどこかで入れ代わり、彼女の両親は元気でありつづけられるのだと思おうとした。

 だが、そうなるとぼくと裕紀は東京タワーの近くの店である朝、会うことができなくなるのかもしれない。彼女はシアトルに留まり続けたのかもしれない。そして、その両親はぼくと裕紀が結婚することを許さないのだろう。そのはかない可能性を立脚点としてぼくらは生きていたのだ。

 それから、本人もいなくなった。あの空港で若々しく歩く彼女の姿が不思議と思い出されてならなかった。いまの瞬間はどの思い出より、その声をかけられなかった裕紀についていっそう未練があった。

 昼休みになって外にでた。食事を済ませても時間があったので、本屋に立ち寄った。沖縄のガイドブックが目に付いたので指で棚から引っ張り、ページを開いた。そこには沖縄の澄んだスープの色のそばがあった。となりのページにはハイビスカスがあった。何ページかめくると、いつものようなきれいな海岸線とホテルがあった。広美もそのような景色を見ていることなのだろう。

 となりの棚には外国のガイドブックもあった。アメリカ西海岸と背表紙に印字されているものを交換に取り出した。名物の橋。水族館やアメリカの軍隊の説明もあった。脅威を取り除くものがある場所では脅威となり、平和をつくるものが、平和を脅かした。ぼくにって、平和な状況を根底から覆してしまった裕紀の死というものがなぜかそのガイドブックとつながった。

「わたしたちも、どこかに行きたくなるね?」と、仕事が終わり、ひさびさにふたりだけで食事をしている最中に雪代は言った。「いままでで、どこが一番、良かった?」
「きょう、アメリカの西海岸について考えていた」
「行ったね。そういえば」
「雪代は?」
「わたし、暖かいところ。バリ島が良かった」
「あの時の写真あるのかな?」
「押入れの奥のどっかにあると思うよ」雪代はその場所を指差しただけだった。「広美にもたくさん思い出を作ってもらいたい」
「雪代は仕事でいろいろなところに行けたから」

「でも、仕事は仕事だよ。そんなに時間にゆとりもなかったから」
「留学させるとか?」ぼくは無意識にそう言ったが、それこそが裕紀が通った道だった。
「あの子みたいに?」
「別にそういう意味じゃないよ」
「彼女のこと言ってもいいよ。ひろし君の何年間かを幸せにしてくれていたんだから。そういう貴重な時期のことなら」
「そうするよ」
「忘れてもいいし、忘れなくてもいい。おかしいね。辛いことは忘れてっていいたかった」

 しかし、辛いことこそ残るような気もした。こころの奥に。いや、それも違うのだろうか、あの若く元気がみなぎっていた空港での裕紀がぼくの思い出の最前列にきょうはいたのだ。ぼくも島本さんのことにもう拘りはなかった。雪代がもしかしたら大切な甘美な思い出を胸に秘めているのかもしれないが、もう現実に踏み込んできてその場を荒らすことはできないのだ。それが過去というものであり、生きていないという事実のようだった。

「もう少し時間が経てば、いろいろなことは変わるかもしれない」
「ひろし君ももう傷つかない」彼女は、ワインのボトルを持ちながらそう言った。「おかわりする?」
「うん」雪代はボトルをまたテーブルに置く。その空になった手の平はぼくの手の甲に置かれた。そのぬくもりこそが生きている証しのようだった。いくら、思い出が鮮明ではっきりとしていたとしても。

「いまごろ、友だちと話しているのかな。お風呂に入って寝るのかな」
「枕を投げたり?」
「いまは、もうそういうことしないんじゃない。そんな大部屋のようなところには泊まらないんじゃないの」
「そうなのか」ぼくは合宿で泊まった旅館のようなものを思い出していた。身体の大きなものが集まって、みなで入浴した。ご飯を勢い良くかき込んで、泥のように眠った。その泥のような眠りのなかに裕紀や雪代が忍び込んできた。朝、快適に目覚め、ぼくはその眠りのなかでしか会うことのできない彼女と、また地元で会うことを望んでいた。そして、一日中駆けずり回り、何日か経って、目の前に裕紀がいた。学校の帰りにぼくは合宿の思い出を話す。またあのような機会が訪れればよいのにと思ってみるものの、もう結局、それは消滅したのだ。どんな強い望みがあったとしても。

「じゃあ、わたしたちもパジャマに着替えて、枕を投げる?」
「その後、タックルする」ぼくらは娘がいないとただ無邪気になった。

壊れゆくブレイン(56)

2012年04月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(56)

 休日だったが、広美が制服姿で帰宅した。ぼくは朝寝坊をしてその格好で出掛けたことを知らなかった。カバンを無造作に床に置き、ソファに身体をこれまた無造作にもたれかけさせた。
「疲れた」
「学校?」
「今日は、ボランティアで子どもたちを遠足に連れて行った」
「そんなこともするんだ」

「するんだよ、最近の学校は」ぼくは冷蔵庫から缶ビールを出した。雪代は仕事からまだ戻ってこない。ついでにパックのジュースをグラスに注ぎ、広美が座っている前に置いた。「ありがとう」
「子どもはじっとしてないから気をつかったでしょう」
「うん」彼女はグラスの半分ぐらいまで一気に飲み干す。「ねえ。ゆり江さんていうひと知ってる?」
「誰?」もう一度ぼくは名前を訊き直す。だが、そうしなくてもぼくはその名前に気付いていた。しかし、広美の口からその名前を聞くとは思っていなかった。
「おばさんの同級生で、ひろし君のことも知っていた」ぼくの妹のことと彼女はゆり江を結びつけた。その子どもがきょうの遠足に参加していたそうだ。遠足といってもそう遠くまでは行かない。近隣のひとびとと近隣の郊外の場所へ。おにぎりやサンドイッチを食べて、水筒のなかのものを飲んで。

「彼女には弟がいて、ぼくはサッカーも教えていた」
「そうなんだ。とっても可愛くて、とっても優しいひとだった」
「40も過ぎているひとに相応しい言葉じゃないと思ってたけど」
「わたしの女性観は、ママでできていると思うんだけど、いろいろなひとと知り合うようになって、いろいろな女性らしさがあるんだなって思った」
「雪代は?」
「ひろし君も知ってるでしょう。いつも、しっかりとして、きりっとして、意志的で」彼女はそこでため息にも似た、また憧れにも似た吐息をする。「ゆり江さんて正反対だった。わたしたちよりある面では子どもっぽく、可愛くて」
「どっちがいい?」

「どっちもいい。別物だから。個性だから」また、グラスに彼女は口をつける。それで中味は空になった。
 ぼくは遠い過去に思いを馳せる。ぼくには雪代がいた。広美がいったとおり彼女は自分の願いを叶えるために努力を惜しまないタイプだった。その成長の過程を苦にもしなかった。それすらも楽しんでいた。ぼくはそのような彼女に惹かれ、また反作用的にそのようなものを持たないゆり江という子を知るようになる。親しくなるというのは自分の情が移ることなのだろう。ぼくらは境界を越えた。だが、それはどこにも行き場のないものだった。彼女は自分の憧れの存在であった裕紀をふった男を許さなかった。それを動機としてぼくに近付いてきた。だが、結果としては、若いこころをもつ男女ふたりが意思を交わすようになれば、憎しみなど直ぐに消え、好意的な感情が芽生えていくものだろう。

 ゆり江は、力強くなかった。ときには弱く思えた。だが、それはぼくにとって居心地のよい瞬間の連続でもあったのだ。その彼女が母になり、自分の子どもがぼくと雪代の娘と遊ぶということになるなど考えてもいなかっただろう。もちろん、ぼくも考えていなかった。

「ああいうひとが前にあらわれて健康な男の子は好きにならない? ねえ、ならない方がおかしいよね」そのきわどい発言は答えを求めているのか分からなかった。
「普通はなるけど、順番もあるし。誰かの彼女には手をださないという暗黙のルールがあるからね」
「ひろし君の口からそういう真っ当な答えが返ってくるんだ」
「そうだよ。ラグビーでちょっと有名になってしまったから、人目も多いし」

「有名人はつらいか」それから彼女は数人の子どもたちの話をした。遊び方や、誰かが勢いよく転んだこと。誰かは泣き、誰かと誰かは喧嘩をした。そして、むりやり仲直りをさせられ、いつの間にか喧嘩したことも忘れ、また遊んでいたことなど。

「どうだった、広美。きょうは?」雪代がドアを開けた途端にたずねた。
「楽しかったよ、疲れたけど」
「可愛かった?」
「まあね」

「まゆみちゃんの子ども、あの子、大きくなったかな」と雪代は独り言のように言った。ぼくは中絶を断固阻止したが、その後は無関係でいた。そういう自分の中途半端な立場を悲しく、かつ不甲斐なく思っていた。口ではなんとでも言えるのだ。その後の長い間の成長の手間は彼女の問題でもあるのだ。しかし、その子は産まれ、ぼくらの話題の端々にのった。それが正解といえば正解のようでもあった。誰かの気持ちの一部を占有することが。

 広美はなぜかゆり江の話題をそれ以降は出さなかった。意図的なのか無意識なのか分からない。雪代は意外と嫉妬深かったことを知ってのためか。彼女のプライドの高さが、自分の立錐の地の狭さに依存しているようだった。誰も追随を許さないというように。

 それもこれも個性だった。ぼくにも個性があり、雪代にもあり、広美の種は日々作られつつあった。まだ柔らかい粘土のようなもので、どのようにも転がる余地があった。だが、今日のぼくはゆり江のことを常より深く考えた。そして、少なからず思い出の分量として表面には出てこないが、彼女と過ごした日々や時間が尊く、ぼくの胸の奥にしまわれていることを知った。その良さの一端を広美も知ってくれたということがなぜだか嬉しかった。

「わたしは、雪代さんから彼を奪えなかった」と夢のなかでゆり江は広美に告げていた。それぐらいぼくの影響下の深くにもたどりついているようだった。