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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(55)

2012年04月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(55)

 ぼくは仕事で東京に行く。最近では裕紀の叔母と時間があえば会うようになっていた。お互い、共通点をなくしながら、そのことを懸命に捨てないで置こうという意地のようなものもあったが、それは表には出ずさらっとした関係でもあった。

 月日は過ぎ去り、ぼくらはこの瞬間だけは未来を作り出さないようにしたが、実際は亀裂のあるビルのように隙間をとおって現実という雨粒は染み込んできた。

「家族とはどう?」
「ええ、うまく行ってます」
「写真とか持っているの?」
「ありますよ」
「見てもいい?」ぼくは財布から一枚の写真を取り出して、それを手渡した。「女の子、大きくなったのね?」
「でも、友だちが東京に引っ越してしまって、子どもみたいに泣いてました」
「可愛らしい」ぼくは引っ越した子の住所がどのあたりであったかを考えていた。でも、それは仕舞われたタンスの奥の衣類のように容易には見つからなかった。
「裕紀とぼくが最初に会ったのも、それぐらいの年齢です」
「会うべくして会った?」

「さあ、どうなんでしょう。結局、結婚したぐらいですから、そうとも言えますね」

 それから、彼女は自分の夫との長い結婚生活の話をした。起伏があり、紆余曲折があり、最終的には信頼があった。ぼくらはスタートで挫折し、それからエンジンが停まったレーシング・カーのようにリタイアした。とても短く、ぼくは建設途中で頓挫した橋のようなものを思い浮かべる。それは、向う側の岸まで誰も運ばないし渡らない。それには、もう少しの時間が必要だったのだ。それでも、夕焼けに映える鉄骨の群れのように断片的な思い出はそれゆえに美しいものでもあった。

「彼女もひろしさんのようなひとが見つかるといいのにね」写真の中の少女を見て、彼女は言った。そして、それをぼくの手の平に再度のせた。
「ほんとうですか?」
「ほんとうよ。ゆうちゃんは幸せそうだった」
「でも、ぼくは家族と疎外させ、板ばさみにさせた張本人でもあるんですよ」
「そんなことは重要じゃないでしょう。本人にとって。別に悩んでいたり、困ったようにも見えなかった。実際に結婚するときも、そのことを念頭において決断したわけでもないし」
「だと、いいんですけど」ぼくは自分の発した言葉の意味が分からないまま、ただそう言った。

「お仕事は順調?」
「そこそこです。こういう景気になったので、あまり無理な期待もできなくなりましたけど」
「東京にも友人がいるんでしょう?」
「何人かは。その何人かには会って、あとの何人かは足が遠退いている」
「ゆうちゃんの友だちもいた」
「智美というぼくの幼馴染みもいました。昨日、ひさびさに会いましたけど」
「そうなの」

「ぼくは裕紀を傷つけたことがあるんです。さっきの写真の妻と交際するために、裕紀と別れました。そのときにその友だちはぼくのことをずっと許さなかった」
「知ってる。ひろしさんも肩身の狭い思いをしたのね」
「自分が撒いた種ですから」
「いまは仲直りを?」
「もうずっと以前に。そんなに長い間誰かを憎んだり、恨んだりできない性分みたいですから。裕紀はそれに比べて当事者でありながら、まったくそういう感情をもっていないひとでした」
「稀有な子」
「そうですね」ぼくらはいないひとの話を続けていた。現実の世界には存在しないものだが、両者の頭のなかでは絶えず息をして、ぼくらを楽しませたり、いないことで困惑させたりもした。
「夕方の足って、なんで浮腫むのかしらね」叔母は独り言のようにつぶやいた。「そろそろ、帰らないと。これから電車なんでしょう?」ぼくは腕時計のふたつの針を確かめる。それは重ならないところにあった。ぼくと裕紀も重ならない世界にそれぞれがいた。
「そろそろ準備をしないと」
「あまり混んでいなくて、ゆっくりと車内でも足が伸ばせるといいのにね。寛いで、ビールでも飲んで」

「そうですね。でも、この時間、そういう余裕もないんですよ」彼女は自分の足のことにこだわっていた。そして、レシートをつかみレジの方まで歩いて行った。ぼくは彼女の背丈がすこしだけ縮んだような印象をもった。もし、彼女もいなくなれば、この世界はまた裕紀の思い出を減らしていくのだとぼくは考える。彼女の知り合いだったひとを掻き集めて、ぼくはデータの収集をするように裕紀の送り続けた優しさをまとめたかった。無論、そんなことは無理な願いだった。それにもちろんぼくの記憶を持続させるのにも限度があるのだろう。伝承する人間や跡取りがいないひとのようにぼくは途方にくれる。それは裕紀だけの問題でもない。この叔母のもつ自然な明るさもいつかは忘れられる運命にあった。

「じゃあ、元気で」彼女は手を振って別れの挨拶をする。この場合、また会いましょうなどという陳腐な言葉はでてこなかった。ぼくらは裕紀の存在を確かめるかのように再びあって証拠を提出し合うのだ。あのとき、彼女はこうした。こんなことで笑ったというような情報を持ち出すことによって。「広美ちゃんは、東京の友だちに会いに来るの?」

「さあ、どうなんでしょう。若い子の気持ちは入れ替わりやすいですから。長い休みでもあれば来るかもしれません」
「でも、ひろしさんはゆうちゃんのことをずっと思ってくれた」それだけで、彼女はぼくの評価を高いものにする。「東京に来るようなことがあったら会ってみたいな」そこに、裕紀の面影を探すように彼女はいう。ぼくに関連するものは裕紀にもつながるのだということのように。

「そうですね」だが、ぼくはそれを切り出すことを難しく感じている。ぼくの前の妻の親類に会う必要が広美にはあるのかと。それを彼女は承知するのか。ぼくは買っておいた特急のチケットを引っ張り出す。ぼくには帰る家があり、健康な身体があった。それを無償で手に入れているのだ。もし、裕紀とやり直すチケットのようなものがあれば、その代価はどれほどのものなのかつまらない予想を電車を待つホームでしていた。

壊れゆくブレイン(54)

2012年04月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(54)

 子どもというものが、ある一定の年齢に上がるまでは望まないにも関わらず親の環境に左右される。小さな存在で産まれ、生存のことについて学習し、暮らしに役立つノウハウを手に入れ、仕事を見つけ、ひとりで生きられるようになる。そして、またふたりになったり、3人になったり、またひとりになったりもする。

 広美は泣いていた。感情がどこにも出口を見つけられないと女性は泣いた。それは、もう子どものような泣き方でもなかったが、やはり、泣いていることを知ってもらいたい子どもっぽさもどこかに残っていた。
「どうしたの? 何か、あった?」
「瑠美が東京に引っ越すって」
「また、なんで?」
「お父さんの転勤があるから」当然といえば、当然の理由だ。そこに雪代が帰ってきた。
「どうしたの、広美、ひろし君にいじめられた?」

「まさか、瑠美って子が、東京に引っ越すって」ぼくは弁解のような素振りをして、そう言った。
「そうなんだ、残念ね、せっかく友だちになったのに」そう言いながら袋から野菜を取り出し、冷蔵庫に入れた。「でも、もう東京なんて近いのよ」
「親が転勤だって」ぼくは、少ない情報を伝えた。

「サラリーマンの宿命。ひろし君だって、それで東京で暮らしたんだから」ぼくは、そこで裕紀と再会し、もう一度恋をして、結婚した。それも、転勤があってからこそだった。
「まとまった休みになれば、会いに行ったり、来てもらったりすればいいよ」ぼくは、乱暴な解決策しか思いつかなかった。
「そうだよ、広美。ひろし君もむかし、東京にいるわたしにわざわざ会いに来てくれた」
「そんなこともあったね。冴えないラグビーしか知らない男の子が、渋谷や表参道を歩いた」
「東京の男の子にはない野蛮さみたいなものも秘めていたよ」
「ただ、田舎くさかっただけだよ」
「そうとも言えるね」ぼくと雪代は笑ったが、広美はむっつりとした顔のまま座っていた。
「いつも、自分たちの思い出話にすりかえる」

「そうかもね、広美も将来言えるように思い出をたくさん作りなさい。そのために、離れた友だちに会いに行きなさい。道中で彼女のことを考えて。でも、いまは、これを手伝って」雪代は大根を取り出した。それを切るのか、おろすのか分からないが広美の役目に当たるらしかった。

 何日かして、瑠美は家にやって来た。
「東京に行っても、広美と仲良くしてね」雪代はお願いするような口調だった。
「はい」彼女はすがすがしい決意を込めたような表情をしていた。「おばさんも東京で働いていたんでしょう?」
「むかしね。ひろし君も東京のオフィスにいたんだよ」

「聞きました。広美から」どこまで内容を話しているかは教えてくれなかった。そこで、仕事をする上でのチャンスをつかみ、逆に人生としては、いろいろなものを結果として、ぼくは失ってしまった。それも、再生という概念の前では、ある出来事やアクシデントとして認定されるような気もしたが、人間の感情にとっては、そう簡単に解決するものでもなかった。
「向こうでも、演劇するの?」ぼくは彼女の有している才能の片鱗に気付いてしまっていた。
「続けます。好きなんです」
「それが、一番だよ。ぼくも3年間だけで辞めてしまったけど、ラグビーが好きだった。かずやの父は知っている通り、仕事にできたけど」
「わたしも洋服が好きだから、いまでも、している」
「ちょっと、出掛けるね」広美はそう言って、上着を羽織り、瑠美の背中を軽く押した。

 それから、ぼくらは彼女の生の姿を目にしなくなる。広美と手紙のやりとりをして、彼女が出演する劇のパンフレットを見せてもらった。ぼくらは誰かに応援され、また応援した。ぼくのために声をかぎりに声援を送ってくれた何人かのスタンドにいる友人たちをぼくは覚えていた。だが、実際のところはそのパンフレットを見るまでは忘れていた。若い頃のぼくは応援されて当然だと思っている部分があったのだろう。弱かったチームをまとめあげ、その地区で最高に近い段階まで登りつめたのだ。ぼくは、過去の自分に満足し、またそれが自分の元に戻ってこない蓄積された経験のために不満でもあった。

 彼女たちの友情がどこまで続くかは分からない。誰にも分からない。時間というふるいにかけられ、もっと大切なひとが出てくるのかもしれない。こころを打ち明けたり、感情の箱を交換するようなタイプの人間が別に現れてくるのかもしれない。だけれども、この刹那だけでも分かり合える友人がいるという事実はいつまでも色褪せることはないのだろう。いや、褪色してもそれがかえって美しさとなるのかもしれない。

 ぼくは、裕紀とそういう関係をもつことは今後できない。カラーの写真もいつしかセピア色のようにぼくのなかで溶けていった。その時間という現実のもつ冷たさと、記憶という甘美な暖かい思い出が等分にぼくのこころのなかで分かたれてきた。あの死というものですら、ぼくにとっては甘いものとなりつつあるのだ。それだけに、あのふたりで過ごした時間はより貴重なものであり、またいまの流れゆく時間をもっと大切にしなければならないと願った。ぼくは、広美が作り上げた友情を通して、人間の出会いと別れという普遍のテーマを再確認したのであった。

「あの子、東京でもっと演劇を学ぶことになるといいのにね」雪代は化粧を落としながらそう呟く。ぼくは無言でいたが、気持ち的には同感であった。

壊れゆくブレイン(53)

2012年04月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(53)

「この前は、見に来てくださってありがとうございます」と、演劇をしている瑠美という子は言った。舞台にたってきつめの化粧をしていれば大人に見えたが、そのままの姿で広美のところに遊びに来た彼女はどうみても10代の半ばの少女だった。

「良かったよ。ぼくは素人だけど、素質があることが分かったから」
「ひろしさんは、かずや君のお父さんのラグビーの先輩でもある」それを確認するように彼女は口にする。
「そう、だいぶ、むかしになった」
「いつか、そのメンバーが全員集まった写真を見せてもらったことがある」
「あそこの家に飾ってあるもんね」

 ぼくらがまだ輝きを手放す前の時期の写真が額のなかにおさまって飾ってある。誰もが若く、誰かの父になるという役目を知らなかった頃。すねや腕にある傷は勲章でもあり、自分が成し遂げたことや成果の過程の実際の証拠であり象徴だった。
「素敵な友情がありそうな写真」
「君らと同じ頃だよ。いまでも掛け替えのない人々」それぞれが結婚をして、そのうちの何人かは離婚をして、ぼくのように再婚したものもいる。子どもの私生活に手を焼いているものもいれば、生活の荒波に追われているものもいる。しかし、あの美しかった日々は消え去るものではないのだろう。簡単には。

「そういうひとにめぐり合えるといいですね」
「ひろし君は、どこかで楽観的で、肯定的だから相談しても駄目だよ」広美はからかうように言う。ぼくは裕紀を失ったときのすべてが悲観的に思え、何事も後ろ向きに考えてしまっていた状態を、この子は忘れているのか知らないのか判断に困った。しかし、その現状から雪代とこの子が救ってくれたのも確かなことだった。
「ひろし君は、いろいろな経験をして楽観的に努めているのよ、ね?」
 雪代が言葉で手助けするように言った。

「知ってる」広美もそう言った。瑠美という子は、相槌してもいいか迷った表情を浮かべた。彼女は何も知らない。将来、たくさんの人間になって振舞うという立場を求めるなら、いくつかの悲劇という情報や経験も彼女には必要であるかもしれなかった。だが、まだ10代の素直そうな子に、そのようなことは決して起こってほしくなかった。

 食事が済むと、彼女たちは部屋に消えた。試験の前でいっしょに勉強をするそうだ。だが、若いふたりの女性が無口でいられるはずもなく、話し声や笑い声がずっと続いていた。
「勉強してるのかね?」ぼくは独り言のように、また雪代に問いかけるようなどっちつかずの言葉を出した。
「勝手におさまるまで待つしかないのよ。自分への危機感でしか、ひとは学べないから」雪代が哲学的なことを口にする。確かにそうなのだろう。ぼくは喪失感というものが、どんなものであるかを身にしみて理解し、雪代もそうだった。そして、幸福を手に入れるとは、どんな心持ちなのかも知っていた。ぼくはテーブルに座り、世界の珍しい生態をもつ動物や昆虫をテレビで見て、奥で娘と友だちの勉強の合間の笑い声をきいている。ぼくは何かを性急に頭に詰め込む必要はなく、明日には忘れてしまうその昆虫のプログラムされた生き様を見ていた。

「雪代のあのころは勉強した?」ぼくは質問しながらも、島本さんと歩いている彼女のむかしの姿を思い出している。
「本気? 店を切り盛りできるぐらいの勉強はした。あとは経験」
「と笑顔」
「ひろし君は体力と、見せかけの誠実さ」
「袖の下とワイロ」
「ほんと?」
「嘘だよ。ラグビーしかできない男の子になりたくなかったから、帰って勉強もした」
「年上のお姉さんに色目も使った」

 そう言って、トレイに載せたカップを雪代は笑い声の静まらない奥の部屋へ運んで行った。
 時間も経ち、娘たちは部屋からでてきた。なぜか顔がふたりとも紅潮していた。瑠美はご馳走になったことについて適切な感謝の言葉を述べ、しわの寄ったスカートを手直しした。
「それじゃ、帰ります」
「広美とひろし君、途中まで送ってあげて」

 瑠美はいったん断りかけたが、楽しかった状態を持続させたい気持ちもあるらしく、その雪代の提案に従った。ふたりは肩を並べてぼくの前を歩き、それを見守る番犬のようにぼくは後ろをのそのそと歩いている。

「じゃあ、ここで」彼女はそう言い自転車に乗った。颯爽と走る後ろ姿が照明の範囲から逸れ、車輪が回転する音もきこえなくなった。
「勉強はかどった?」ぼくは、広美に訊く。
「そこそこ」
「じゃあ、今度のテストも」
「なかなか」
 彼女は先程で話し疲れてしまったように単語しか使わなかった。その後、あくびをした。すると、それにつられてぼくもあくびをした。彼女は余った体力を持て余すかのように急に走り出した。そして、途中で振り返る。ぼくは集合写真の一員であるころを思い出し、同じように走った。しかし、なかなか追いつくことはできず、ずっと娘の背中の動きを見守り、過ぎ去った年月のずっしりとした重みを感じ続けていた。

壊れゆくブレイン(52)

2012年04月05日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(52)

 雪代がテーブルの上で、小さな紙をいじっている。むかしに比べて目と対象のものの距離が離れていることにぼくは気付く。それをいまは言わなかった。
「なに、見てるの?」
「この前、広美の友だちに会った?」
「どの子のことかな。あ、本屋で広美といたな、ひとり」
「その子が、演劇をしていて、それを見ないかってくれた」

 彼女はチケットを手渡す。自分の野蛮だった学生生活をぼくは思い出している。誰かを倒し、誰かに倒され、そして、泥だらけになっていた。きれいな照明が当てられ、華やかな衣装で着飾り、大げさな化粧をした顔立ち。ぼくは、そのようなイメージを勝手に演劇という言葉から印象を作り上げていた。

 彼女はカレンダーを眺め、自分の予定を考えているようだった。
「この日と、あの日なら行ける」彼女はカレンダーのそばまで寄り、ペンで何かを書き足した。違う用事のこともついでに加えていた。「ひろし君もどう?」彼女はテーブルに戻り、チケットをひらひらと揺らせた。
「構わないよ」

 数日経って、ぼくは自分のクローゼットから上等な部類の服を出し、それに袖を通した。そして、自分の人生が義理の娘の生活とその波及するものから影響されていく事実を知る。ぼくの部屋には、広美の友だちが描いた妻の絵が飾られていた。家に来る彼女の友だちが、ぼくに音楽のMDをくれた。外で何人かはぼくに恥ずかしげな会釈をした。

「考え事?」雪代は黙ってとなりで歩いているぼくに声をかけた。
「いやね、広美がいることで、ぼくの生活も知らずに違った領域に足を踏み入れることになってしまったなって」
「良い感化?」
「良いも悪いもないよ。ただ、なんとなく、楽しいから正しいんだろうね」
「流される浮き輪。若い頃のわたしより、もっと影響される?」
「それは、されないよ」

 話していると、時間は短く直ぐに目的地に着いた。ある小さめのホールに同様に着飾った観衆がいた。早目に来ていた広美と何人かの友人たちもすでにいた。だが、直ぐに開演を知らせるベルが鳴り、彼女たちもおしゃべりを止め、室内に消えていった。ぼくらもいくらか後方に2つの空いた座席を見つけ、そこに深々と座った。
「寝てもいいけど、いびきだけはやめてね。恥ずかしいから」と、雪代は笑って忠告した。
「寝ないよ。今日は、遅くまで寝てたから」そう言ったが、暗くなってみると、逆に雪代の首が上下していた。しかし、固い靴で舞台の床を踏み鳴らす音がすると、驚いて目を覚ました。「寝てたよ」
「まだ、はじまったばかりでしょう? ここから、集中する」

 主役である広美の友だちが現れる。彼女がいると、ぼくらはひなびた田舎町にいることを忘れた。その町のもつ許容量からはみだしてしまうような優雅さが彼女には備わっていた。
「どこか、ほかの子と違うんだね、雰囲気が」雪代も小さな声でそう言った。
 ぼくは、それから多少座っている位置をずらしながらも、楽しんでいた。だが、やはり、ぼくは同時期に生活を送るならボールを投げたり蹴ったりしていたほうが性に合っていた。
 薄暗かった場所を抜け、ぼくらはロビーに出る。広美は珍しく、こちらに近寄ってきた。
「いっしょにご飯を食べるので、すこし遅くなる」
「じゃあ、わたしたち、外食して帰ってもいい?」
「いいよ、楽しんで」

 広美と雪代の背丈は、ほぼいっしょだった。その目の位置によるのか、彼女はもう同等の考え方を有しているようにも思えたし、また自立したこころを手に入れているようだった。ぼくは、最初に会った、10歳ぐらいの彼女の身長を思い出そうとしていた。そこには、雪代の付属物としてしか考えていなかったぼくがいた。
「じゃあ、今日はちょっとだけ着飾っているから、それに合った店でご飯でも食べましょうか?」
「いいよ。喉も渇いた」

 ぼくらは、また少し歩く。全体としては、幼稚な部分が多かったが主役の広美の友だちが出ると場面が一気に変わった。その興奮の余韻のようなものが確かにぼくにはあり、ぼくと雪代の間に居場所を見つけているようだった。それゆえに、会話はいくぶんだかいつもより少なかった。

 それでも、店に入ると、その興奮の余韻が出口を探すようにぼくらはしゃべった。
「あの子、もっと大きな町で真剣に勉強したほうがいいかもね」雪代は、自分の娘よりその子の未来を心配しているようだった。
「そう思うよ。雪代の若いときも、ぼくはそう思っていた。この町では、サイズが小さ過ぎる」
「でも、ここが最終的には安住の地だった」
「それは、ぼくにとっても同じ感覚の場所だよ」
「でも、スタートを切るには似つかわしくないかも。とくに若い子にとって。可能性のある若い子にとって」

 ぼくらには可能性の重量が確実に減っていることを知っているのだ。しかし、あの子にも、また広美にもそれは無限にあり、それを生かすも殺すも自分自身にあるようだった。ぼくらは足を引っ張らないし最大限に何事も応援するだろう。ぼくは、こうして娘から影響されていく日々を楽しんでもいたわけだ。同じように若くて無限の未来をもっていたはずの何人かの顔を思い浮かべ、そのなかから数人は、いや、たったひとりだが、未来のない時間の中に今まさにただよっているのだろう。

壊れゆくブレイン(51)

2012年04月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(51)

 仕事から帰る道すがら、本屋で立ち読みをしていると、学校帰りの広美に会った。となりにいる友人はまた見知らぬ顔だった。それで、ぼくは思春期の女性の気持ちを考慮して、声をかけるのをためらった。しかし、ぼくがレジを済ませようとしていると、横に本がそっと置かれた。

「これも買って。勉強のだから」広美はそう言って笑った。後方で友人である女性もにこやかな顔をしていた。
「いいけど、ずるいな」
「じゃあね」その子は、店を出ると足早に去っていった。いまにも雨がふりそうな予感がしたが、その日は昼からずっとそのような予感を秘めていた。
「見ない子だね」
「新しく仲良くなった。きれいな子でしょう?」
「そうだね。同じバスケ部なのかな、背も高いし」
「違うよ。演劇をしている」
「演劇なんていうのもあるんだ、学校?」
「いまは、いろいろ」
「自分の手足をつかって、何かを表現するのには変わらないけどね」

「ひろし君は、何人かを好きになったことがあるでしょう?」
「どうしたの、突然」
「ただの質問。帰るまでの」
「あるよ、当然。知っての通り、再婚でもあるしね」
「ママや、前のひと以外にも好きなひとっていたんでしょう?」こういう質問のやり取りができるのは、逆に本当の親子ではないからかもしれない。
「いたかな、いたな。また、なんで」
「みんな、どうやって、ひとりに決めたんだろうかなって」
「誰かが、そういう心配をしてるの?」
「さっきの子が、何人かから声をかけられた」
「それで」
「そう、それで」
「でも、このひとじゃなきゃ駄目だというひとが出てくるまで待ったほうがいいよ」
「待ち続ける」

「そんなに待たないよ。若いこころは・・・」ぼくは何人かの女性を頭に浮かべる。彼女らの出現は微妙にずれ、また思いがけないことに重なっている時期も多かった。意に反して。それで、何人かから言い寄られたらしいさっきの女性を考えてみる。彼女は舞台で自分の声を持つ。しかし、それには誰かの脚本があるのだろう。それを通して自分の表現をする。そこに魅力をもつ男の子もいるはずだ。彼はその女性に自分の気持ちを伝える。次の答えは誰かのものではなく、自分の考えしか持ち出してはいけない。
「広美もデートをしたんだろう、この前?」
「したよ。子どもっぽかった」
「どんなところが?」
「全体的に」
「また、会うんだろう?」
「さあ、どうかな。ママとはまた会いたかった? どうしても」
「それが恋の感情だよ。ここにいないかなとか思って、ぼくは街中をあるいていた。その時に、もう雪代は美容院のまえのポスターの写真のなかにいて、ぼくはそれを見つけた」

「嬉しかった?」
「嬉しかったけど、独占という感情からはちょっとずれちゃうね」
「そんな気持ち、ひろし君にもあるんだ?」
「あるよ、普通に」
 家が近付いてきた。そこに雪代がいるはずだ。ぼくは彼女を独占したかったのだろうか? それが出来かねた結果として彼女にはひとりの娘がいた。ぼくはその子と、この会社帰りのひとときをこうして楽しく会話をしながら歩いている。ぼくは、もうひとりの女性である裕紀のことについても考えている。彼女をも独り占めにしたかったのだろうか? 当然、そうだ。それも、病気がそのぼくのこころを踏みにじり安易にそうさせてはくれなかった。ぼくからいとも簡単に全存在を奪ってしまった。
「じゃあ、それを伝えれば?」

「きょう?」
「そう、さっき、あの子の練習を見てから、わたしのこころが少し高揚してるんだね。なにか、誰かに、ものを伝えたいって」
「大人が急にそういうことを持ち出すと、逆に、なにか後ろめたいことがあると勘繰られるんだよ」
「そうなの。面倒くさいね」
「確かに、面倒くさい」
「ママはひろし君に伝える?」
「たまには。広美のことだって、手放しに誉めるじゃない」
「誉めるに値するから」彼女は笑った。それから、本屋からずっと持っていたぼくの荷物を奪い、中から自分のものをとり出した。「ありがとう、これで、勉強する」

「ひとりで、まゆみがいなくても。子ども、あの子、大きくなったかな?」
「今度、写真を送ってもらおう」広美はそう言って玄関のドアを開けた。すると、室内から野菜かなにかを煮込んだ匂いがする。ぼくは、娘と同じ年頃のときのことを考え、また、いまある満ち足りた幸福感のことも考えた。人生はぼくから多くのものを確かに奪い去ってしまったが、また多くのものも与えてくれていたのだ。
「おかえりなさい。あれ、一緒だったの?」
「本屋で会った。それからね、ひろし君、ママに伝えたいことがあるみたいだよ」そう言って、広美は自分の部屋に消えた。
「どうしたの? なにか、あったの?」
 彼女は不安な様子でこちらを見た。ぼくは具体的な解決策を思い浮かべられないひとのようにぼんやりと自分のネクタイを緩めはじめ、どこから説明して良いのか躊躇して、そのネクタイを手の先でもてあそんでいた。

壊れゆくブレイン(50)

2012年03月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(50)

 高校に入っても、広美はバスケットを続けていた。休日には、重そうなバックを抱え練習に出かけ、帰りにはその重さに耐えられなさそうな様子で戻ってきた。

 しかし、その日は練習が休みだと告げていたが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
「広美は?」ぼくは、よれよれの寝巻き代わりのTシャツの姿のままでリビングに行った。雪代はテーブルに座り雑誌のようなものを読んでいた。
「デートをするとか言ってたけど」いくらか投げやりな口調で彼女は言った。
「え、どこ?」
「デートだって」視線を雑誌からそらせてこちらを見た。「そのTシャツ、もう終わりにするべきじゃない?」
「え、早くない?」ぼくは自分の姿を、そう言ってから眺めた。
「時間が? それとも、Tシャツを捨てるのに?」
「違うよ。デートの時期だよ。まだ高校に入ったばかりだよ」

 雪代は、怪訝な顔とうんざりしたのをミックスしたような表情を見せた。それは珍しいというより、ぼくにとっては初めてだった。

「ほんとに? ひろし君、古臭くなったのね、考え方が。わたしたちが会ったのもその頃が最初だよ。わたしは、16歳の泥だらけの男の子を見つけた。学校のグラウンドで。覚えてない?」
「覚えてるけど・・・」
「泥だらけで、輝いていた。いや、違うな。泥だらけだけど、隠されたものを秘めているような輝きがあった」
「あの頃は」
「座って」雪代は椅子を指差した。「わたしはあの日の夕暮れから、ひとりの男の子のことを考えるようになってしまった。つまりは束縛なのね、誰にも求められていなかったけど。幸運にもわたしのことを好きになってくれて、いっしょの大学でちょっとだけ過ごし、また、同じ部屋で暮らした」
「そうだね」

「それから、彼は東京へ。わたしは結婚した。むかしの優しかった魅力的だった男性の幻を思い出すように。しかし、彼は別人のようになっていた。一度の挫折で道が変わってしまったから。スポーツの優等生の陥る魔の領域なのかも。それで、ひろし君も東京で結婚した。わたしには広美ができ、それだけでこの結婚は成功だったと思っている」
「彼女はデートしてる」
「こっちに戻ってきたひろし君も別人のようになっていた。でも、このひとは挫折を乗り越えるだろうと知っていた。またね、そうなってほしかった。どこかにあの16歳の泥だらけの男の子がまだ見えた。わたしのこころを奪ってしまったあの子がね」
「むかしのことも考えるけど、ほぼ、立ち直った」
「広美にもそういう時期がきてるのよ。ひろし君を見つけたわたしと同じような時期が」
「なかなかいないよ」

「ふふ。いるでしょう」雪代は雑誌を閉じた。「何か食べる? 何か飲む?」
「コーヒー。とても濃厚なコーヒー」
 ぼくは窓の外を見た。梅雨に似合わないような快晴の上空。若い男性と女性が恥らいながらお互いを知ろうとしている。些細なきっかけと共通点を見つけ、互いを運命が導き得た相手だと思う。それが一時的な錯覚にすぎないにしろ。

 でも、ぼくの場合は錯覚ではなかった。雪代はさっきまじめな告白をした。だが、あの時に見初めたのはぼくの方であったのだ。だが、自分に見合わない相手だと当初は決め付けていた。いくらか年上でもあるし、憧れのラグビーの先輩の恋人でもあったのだ。ぼくは、それで自分に似合っているという裕紀を見つける。だが、ぼくのこころはふたつに分かれていた。
「はい、入れたよ」テーブルにカップを置く。

「ありがとう」
「あの頃の、初々しい気持ちになれるといいんだけど」
「なれるでしょう」
「これが、最初だという経験ってある? いまになっても。このひとは、こういうタイプのひとだから、この点に気をつけようとか最初からイメージを作り上げて自分の模倣を通して生きている、いつも」
「そうだね。でも、ぼくは知らなかった雪代の表情をさっきはじめて見た」
「どんな?」
「15、6歳の女性がデートに早過ぎるって言ったとき」

「そう。あの子は、わたしといっしょに暮らしてきたから成長の度合いも知ってるし、手を離してもいい時期が来て欲しいとも思っている。自転車に乗れたときと同じようなことがずっと続いていくのよ」
「そうなんだろうね。ぼくは大人になるのを留めることを期待してるのかな。幼少期を知らないからこそ」
「また、自転車が乗れたときの繰り返しとか言った。だから、あのときのことと同じようだったというイメージの集積で大人は生きてるんだと言いたかったの」
「じゃあ、はじめてのことをしよう、今日は」
「何かあるの?」少し淋しげな表情を雪代はしたが、そこには期待感もいくらかだけあった。臆病な子どもが壁の陰に隠れているように。
「さあ、これから決める」
「着替えるなら、そのTシャツをもう洗濯機に放り込まないで。捨てるから」
「そんなに酷いかな?」ぼくは裾を指先でひっぱり点検する仕草をした。
「そんなに酷い。16歳の少年には似合ってても、大人には不釣合いなものってあるのよ」

「そう。じゃあ、お別れ」ぼくはそれを脱ぐため腕で引っ張りあげ、首を抜いた。襟はのび、いくらかよれていた。それでも、新品にはない手触りの良さがあり、自分のために働いてきた期間の名残りのようなものがあった。それは雪代との生活と同じようなものだ。ぼくらに初々しさがなくなっていくとしても、その代わりにしっくりとしたものを見つけていくのだろう。それは決して手放して良いものでもなかった。

壊れゆくブレイン(49)

2012年03月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(49)

 ぼくは自分の甥が、自分の身体のサイズを追い抜かそうとする時期が来るなど思ってもいなかった。だが、彼の父親はもともとが大きな人間であったし、母であるぼくの妹も決して小柄な方ではないので、結果としてはありえる事実をそう驚くほどのものではなかったのかもしれない。

 そして、よく食べた。ぼくらはテーブルに向かい合って座り、目の前に運ばれた料理を眺めている。それは次第に減っていき、いずれ皿のうえは空になってしまうのだろう。それが、明日の体力となる時期なのだ。

「どうだった、中学生活は?」
「楽しかったよ」と、かずやは口を動かす合間に言った。
「好きな子とかいるのか?」
「まあね」
「別れて生活する羽目になる」
「まあね」
「高校に行けば、高校に行ったで目先が変わる。父親がそこにいるのは気まずいけど」
「ぼくもラグビーを選んでいたら死んでたよ。家でも学校でも父親の支配下で」
「そうだろうな」自立心が芽生える頃に絶えず親の圧迫を受ければ、その未来はいくらかゆがんだものになるだろう。「でも、ひととの出会いって、とても大切なものだぞ」

「知ってるよ」
「知らないよ。多分、人生を左右するような出会いが貴重じゃないもののように不図あらわれてくる」
「そうなんだ」
「そうだよ。ぼくは高校に入って、雪代と出会って、その関係がいまでも、こうして続いているんだから」
「裕紀おばさんにもあった」彼らは頑なにぼくに彼女のことを忘れないようにと要求するようだった。
「彼女にも会った。それも、ぼくの人生を根本的に大きく変えてしまった出会いだった」
「良かった?」

「それは、良かったよ」ぼくは彼女といっしょに行ったもうひとつの彼女の家の内部を思い出している。彼女の初々しさやすがすがしさが、きれいなままの状態でぼくの頭の中に宿っていた。
「どこが?」
「どこがって、懸命に自分を好きになってくれる別のひとの目を通して、自分が見えてくるし。それに見合った、恥ずかしくない自分にもなりたいとか」ぼくは、いろいろ思案する。そう言葉にしたが実際に守ろうとしたか点検も兼ねていた。「そのひとが居るだけで、世間は楽しくなるもんだよ」
「そういうもんか」

 ぼくは、裕紀の名前が出た以上、彼女のことを思い出さない訳にはいかない。ぼくは16歳で彼女に会った。もちろんのことその当時は知らないわけであるが、彼女はそれから20年というちっぽけな歳月しか生きない。ぼくは、それを最初から知っているならば、当然のこと、彼女と別れることなど考えなかったかもしれない。しかし、ぼくには雪代もいた。彼女の放つ魅力もあった。それが、恥ずかしくない生き方だったのか、ぼくには正解が出せないでいた。そして、お詫びのようにぼくは、「君の一瞬、一瞬を今後、見逃さないように、目を寸時も離さないようにしているからね」とこころの中で過去の裕紀に語りかけた。無論、言葉は届かない。しかし、いまはそれでも良かった。何年間かのブランクが作られてしまったとしても。

「そういえば、うちの広美は人気があった?」ぼくは突然、思い出したように言う。現在の生活もぼくには流れている。偶然にも自分の甥と義理の娘は同学年で同じ学校に通っていた。彼らが学校でどう接するのか知りようもない。自分のおじさんと、彼の結婚相手の娘。何の関係もないふたりが、ぼくを媒体にして感情を意識する。

「うん、あったよ。なかなか可愛いとか思われていた」
「そうだよな、彼女の母はきれいだったから」

 あれから、四半世紀も過ぎ、ぼくは自分の過去を甥の生活に当てはめ考えていた。そして、彼はどうしようもない後悔や失敗をするかもしれない。それを躊躇することなく転げてほしいとも思っていた。癒える傷もあれば、どうしようもない後遺症をのこす可能性も人生にはあるのだ。それが生きていく過程でもあり、ぼくは、そうして裕紀を失った。掛け替えのないものを失くしながら、ひたすら生き延びるのだ。風邪にかかれば治したいと思うし、病原菌を退治できた爽快さもある。だが、結果としてはぼくらは昨日と違う。

 食事もすっかり済み、テーブルは片付け始められた。ぼくはささやかな小さな箱を彼に渡した。
「何、これ?」
「プレゼントだよ。15年、きっちりと生きてくれた」それは雪代が用意したものだった。ぼくも実際のところ中味を知らないため、そのような言い淀んだ言葉になった。
「ありがとう、それに、ごちそうさま」
「いいよ、また。ひとりで帰れる?」
 彼は怪訝な顔をする。ぼくは、広美の勉強後、まゆみを送った刹那な時間を懐かしく感じている。
「自転車で来たから、またそれにまたがるだけ」

「そう、気をつけて」ぼくはひとりでそこに留まり、残ったワインを飲み干した。彼には限りない未来があり、ぼくには過去の出会いの思い出があった。それがぼくの人生を左右して、いまのぼくを作り上げた。ラグビー部の先輩に甘えた時間があって、いつか恋人ができた。その子と別れ、再会して結婚した。そして、淡い湯気のような瞬間しかぼくらは生活を共にできなかった。それでも、貴重であり、その短い痕跡のゆえなおいっそう美化されてもいった。微量のダイヤモンドですら高価なものと認識されていくように。

 ぼくは財布を出し会計を終えた。夜空を見上げ、冬の名残をみつけようとした。甥のたくましくなった身体を思い出し、裕紀の痩せていく腕やあごのあたりも同時に思い浮かべていた。

壊れゆくブレイン(48)

2012年03月22日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(48)

 時間は、前後しているのかもしれない。だが、いまというはっきりと定義しえない時間が過去に移り行けば、物事はだいたいのところそうなっていく傾向にあった。

 3月のとある日。広美はこれから通う高校を既に決め、束の間の期間だがのんびりと暮らしている。過去は閉じられつつあり、未来は開かれるのを待ち望んでいる。その頃、ぼくらの家には珍しく赤ん坊がいて、その子の放つ甘い匂いが部屋中に充満していた。

 それを放っているのは、まゆみの子どもだった。結局のところ彼女は、お腹が膨らんでいくのが目立つまであのまま大学に通い、必要な単位を取り、今日、そこを卒業するために地元に戻ってきていた。いまは若々しい服装をして、そこにいることだろう。母という立場を忘れて。それでその間、ぼくらはその小さな存在を預かっていた。

 床に雪代は座り、その子を抱いていた。となりで広美はその子の頬を指の先で軽く突いていた。ぼくは用を終え、家に戻るとそのような姿を目にした。
「なんだ、とても様になっているじゃない」
「これでも、ひとり育てたんだから。とても、可愛かった。いまは、たまに反抗するようになったけど、ね」となりで、広美は鼻をちいさく鳴らすようにふくれた。
「反抗じゃなくて、自分の考えが芽生えたというんだよ」
「そうなの。ひろし君も抱く?」
「やだよ」
「いつも、恐がってる。あんなに産めと言いつづけたのに・・・」
「それとこれとは、話は別」
「いいから、あげる。はい」と言って雪代はその子の身体をぼくに渡そうとする。「誰にも渡さないようにラグビーボールを大切に握っていたくせに。はい」

 ぼくは壊れてしまうものをいくつか考える。グラス。茶碗。皿。瀬戸物。しかし、どれもいまのこの子の存在より重要なものはなかった。
「なんか、温かいな」
「そうでしょう、頑張って、生きてるんだもん。そうだ、このぐらいの時か、もっと先だけど仕事で地元に戻ってきたひろし君に広美も一度だけ抱かれたことあるんだよ」
「知ってる」広美はまじめな顔のままそう言った。
「え? 知ってるはずないじゃん。身体も首もぐにゃぐにゃしてた頃だよ。その感覚がある」ぼくは、いま懐にいる子にどんな言葉をかけていいものやら思案をしながら言った。
「だから、覚えてるって」
「言わなかったじゃない? わたしも、いままでこの話しなかったし」雪代も怪訝そうな顔をした。
「だって、訊かれなかったもん」
「広美は、そういう能力があるの?」
「何にもないよ。だけど、違う匂いのひとに抱かれた記憶がずっとあった」
「ぼくが東京にいた頃、会社の横に未来を予見することができる女性がいた」

「だから、そういうのじゃないよ。気持ち悪いな。恐い話を嫌いなのを知ってるくせに・・・」広美は先程とは違う部類のふて腐れ方をした。「この希美代ちゃんの未来だって、誰にも分からないよ」
「そういうひとがいたの?」逆に雪代がその話題に関心をもった。
「いままで、すっかり忘れていたけど、いたんだよ、実際に」
「何か、言われた?」雪代はぼくの顔をしげしげと見る。

「そうだ、東京にいるのに疲れてこちらに戻ってくるときに、小さな女の子と遊んでいる様子があるとか言ってたな。ぼくは、それを幼いまゆみと過ごしていた時期と重ね合わせていた。それしか自分には印象がないからね。子どもと地元を結びつけるようなものは。だけど、いま考えると、あれは広美のことだね。ぼくとはじめて会ったときの広美のことだったのかも。5、6年前かな」

「なんか、そういう話こわいな」広美は耳をふさぐような真似をした。
「いまにも、ぴったりと合っている」雪代は遠目で、ぼくと小さな女の子を見つけ、そう言った。「わたしを見たら、何か言うのかな?」
「そういう生活に疲れて辞めてしまいたいと言ってた。いろいろ気苦労があるんだろう。ひとと違うって」
「まゆみちゃんも、ちょっとひとと違う生活を迫られた」それを迫ったのはぼくだということが雪代の言葉の奥に隠れているようだった。

「この子の誕生は、広美の勉強が結実した確かな証拠でもある」ぼくは、またその存在を雪代にもどした。だが、直ぐにその温かみはこころの面も含めて消えなかった。「もう、まゆみ先生は必要ない?」ぼくは広美に訊く。
「勉強のコツみたいなものが分かったから、もう大丈夫」
「いつか、この子が大きくなったら、広美が勉強を教えてあげて」雪代は小さな耳に口元を近づけるように、その意図をそこから注ぎ込むようにして語った。
「いいよ。何でも教えてあげる。わたしの持っているものすべて」

 そこで電話が鳴った。手の空いているぼくが近くに寄り受話器を取った。それは甥からだった。彼も中学時代を終える。ぼくは娘がいなかったら、もっと彼と時間を取っていたという不確かな気持ちをずっと持っていた。相談相手になり、遊び相手になり、親からの避難場所にもなっていたのかもしれない。だが、大人になるにつれ、こちらの思いとは別に要求は短絡的なものになった。

「誰から?」
「高校に行く記念に飯をおごれって」
「かずや君?」雪代がはじめてぼくを見たのもその年代のころだったのだ。そのことを改めて思い知る。
「あいつ、学校でもすごい食べた」
「あんたも食べるじゃない?」雪代は希美代にも、そうなってほしい口調だった。
「それは、家ででしょう」若い女性の自己を正当化させる論理にぼくは納得がいかなかった。

壊れゆくブレイン(47)

2012年03月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(47)

 ぼくは自分の勝手な美意識と求めるべき生き様のために、ひとの選ぶ生き方を簡単に間違いだと結論を下しスポイルしようとした。だが、ぼくは裕紀を失ったのだ。それが、結果としてぼくの運転の基準のようなものになっていた。道は平坦ではないけど、ここなら安全なのだという選択を常に追い求めて。

 予測をしていたけど、その所為でいまでも店長と呼んでいたまゆみの父親に呼び出される。ぼくは自分の20歳前後の期間を彼の店であるスポーツ店で働いていた。お互いに20年ほど年を取り、彼の頭には白いものが目立つようになっていた。顔もいくらかしわがあったが、それを手に入れた結果として、より一層そのひとのもつ優しさや人柄がかえってにじみ出るようにもなっていた。

「知ってるんだよな?」店長の発する質問の意味は充分に理解できた。
「ええ。あそこの海に行かせてしまった原因を作ったのは、もとはといえば、ぼくにあります。すみません」
「それは、いいんだよ。若いときは何でも経験だから」彼はしばらくためらった後、「でも、それでも産んだほうがいいと言う」
「ええ。もちろん。理由は、まゆみちゃんにも言いました」
「自分を特殊だと思い過ぎていないか? まゆみにとって、そんな決断はただ重みになるとか考えないのか?」
「店長は?」どのような気持ちを持っているのか訊こうとしたが、それ以上の言葉はでてこなかった。
「オレは、ただ自分の不運を誰かに当たりたいだけなのかも。つまりはお前とかに」
「奥さんは?」
「何だか泣いてばかりいる。ああいう弱い女じゃないんだけど、いつもは」
「まゆみちゃんは?」

「いつもより断然、無口になった。殻にいる卵みたいに。いや、卵は殻か」自分の間違いを正そうとするのか、そのことを思案する表情をして首を傾げた。「オレは、本音を言えば、孫がいてもいい年頃になったなと思ってるんだ。友人にも、そういうヤツがいるし。でも、物事には順番がある。ひろしも分かるだろう? 仕入れをして、値段を決め、店頭に並べるとか」
「もちろん。ビルを建て、家賃を決め、入居者を募集する」
「そう、同じこと。いきなり倉庫からものを盗まれてもな。言い方は悪いけど」
「でも、ぼくは何事があっても阻止したいですね」
「お前のそういう頑固さが恐く、また憧れるべき美点でもあるんだよな。それで、優秀な選手はラグビーをやめ、オレたちの前途にあった淡い希望や期待を打ち消した。そういう淡さって何だか楽しいものなんだぞ」
「すいません」

「いや、謝るべきことじゃないよ。何だか、論点が変わってしまったけど。ちょっと、飲みに付き合うか?」
「そうですね。ゆっくり、話しましょう」
「オレたちが話し合っても、別に、自分の身体は痛まない」
「その代わりに心労があります」
「そんなの何でもないよ」だが、店長の様子は疲れたひとの表情と似ていた。

 ぼくらはある店で瓶ビールを開ける。お互いにお酌をして、結論とその中心から逃げるようにとりとめもない話を続けた。最終的には、ぼくらのお腹の問題ではないのだといういくらか無責任に通じるものがあったのかもしれない。男性は、ただ面子や世間の目を気にして生きているだけなのかもしれないとも思った。それが、ただ微量に少ないか多いのかという違いによって。

 彼は酔う度ごとに声が大きくなった。その音量の設定をきょうは特に気にしてもいないようだった。だが、話している内容は慎重に取り扱うのを要するものでもあった。

「お前は、誰かの成長にずっと関わるようなことをしてこなかっただろう?」
「ええ、そういう機会には恵まれてきませんでした」ぼくはビールをひとくち飲む。「だけど、ラグビー部の後輩の成長を心配し、部下の失敗を取り繕い、成功を陰で喜んだ事実はあります」いくらかムキになってそう言った。
「娘の話だよ。こっちがしているのは」彼は、ぼくの見えない写真や映像があるかのように目をつむった。「ひざを擦りむいて帰ってきたとか、運動会で一等賞をとったとか、その後にいっしょに風呂に入ったとか」
「そうですね。残念ながら」
「そいつが、そいつが、またそういう子どもを産む。そして、オレと同じことを経験する」
「そういうことになりますね」
「あれをさせてあげても悪くないと思っている。でも、順番があるからな。だから、それが許せない。広美ちゃんでもそういう気持ちを抱くだろう?」
「ええ、まあ、当然ですけど。店長の気持ちは」

 そこから、またお互いの若いときの話や、彼が野球を辞めざるを得なかった怪我のことや、ぼくのラグビーの活躍に話は転がっていった。

 そうしながらも、店長は張り詰めていた緊張の糸が急に切れたひとのようにテーブルに突っ伏し、眠ってしまった。20分ぐらいもそうしていただろうか、ぼくは店のひとを相手に少し会話を交わし、ひとりで飲んだ。また彼が我にかえったときに、声をかけた。

「そろそろ、家に戻りましょう。奥さんもまゆみちゃんも心配してますよ」
「心配なんかしてないよ、まゆみの野郎は。誰か見知らぬ男の心配でもしてるんだよ」
「そんなに冷たい子じゃないじゃないですか。ぼくらは知ってますよ」
「ありがとうな、ひろし。今日のお前はただのサンドバッグだ。打たれるのが役目だから。そして、立ち上がれ」

 ぼくは、ある砂ぼこりが舞い立つグラウンドにいる自分を思い出している。そこには、観客も味方も敵もいない。ただ、島本さんと、彼のタックルに足元をすくわれて転がった自分がいるだけだった。そこは前途という輝かしいものと壁というものの両方がきちんとある世界でもあった。ぼくは立ち上がる。島本さんの蔑視を掻い潜りながら。まゆみの夫になるべきひとも、そういう世界にいま居るのだろう。まゆみの子どもの父親になるひと。ぼくは、もうそういう目でまだ未知の男性を理解しようとしていた。

壊れゆくブレイン(46)

2012年03月17日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(46)

 今日も広美の勉強を教え終えたまゆみを送るために夜道を歩いている。街灯はまばらに点在し、その間隔によって表情が読み取れたり、また薄暗い中を言葉だけを頼りにしてお互いが歩いていたりした。

「今日は、あんまり、元気がないんだね」ぼくは普段より口数の少ないまゆみを心配しながら話しかける。
「ええ、ちょっと、どこかに寄ってお話してもいいですか?」
「心配事? 広美の勉強のことかな?」
「ええ。他にもいろいろと」それから、まゆみは殻に閉じこもるように無言になった。
 ぼくらはある店に着き、コーヒーを2つ頼んだ。
「もう、なにを話されても驚かない大人だから、思いのたけを存分にどうぞ」ぼくは、快活を装って言う。
「そう促されても、逆に言い辛くなる」
「どうしたの?」お茶らけた態度をあらためるようにぼくはいくらか自分の口調にシリアスさを帯びさせる。
「わたしの身体が変化してしまった」
「太った? それとも、痩せた? 見た目には分からないけど」
「もっと内面のこと。わたし、できたみたいなんです」
「え、もしかして」
「そう、もしかして」

 ぼくは、コーヒー自体がその身体に有益なのかを先ず考えてしまった。それを恐れる心配のない自分のためと急に訪れた喉の渇きのためにカップを手に取り少し飲んだ。
「お父さんは、分かってる? いや、お父さんになるひとだけど・・・」
「わたし、そんなにふしだらじゃないですよ。それにお父さんになるかは決まっていないし」
「いや。自分に当てはめて言っただけ。男って、そう自分の都合の良い方に考え勝ちだから」
「結論をいつか出さなきゃいけない。産んだほうがいい? それとも、いなくするほうがいいかな」

 ぼくは、意味もなく自分の手の平を見つめる。それが、もっと、もっと小さな手の平をもつ存在をも見出そうとする。

「自分のことしか話せないけど、聞いて。ぼくは、ある日、大切なひとを失ってしまった」それは、まゆみに向かって言っているのか、ただ、自分に言い聞かせるため何度も頭の中で反芻させたものを口に出していただけなのかもしれない。「ぼくは、若いとき勝手な都合でそのひとと別れた。別れてしまっても、楽しい思い出が存在していた以上、未練もあった。だから、いくらぼくを憎もうが、どこかで存在して楽しく生活していて欲しいと思った。その後、思いがけなく再会して、彼女はああいう恵まれた性格だったから、これっぽっちも憎んでいなかったことにぼくは安堵した。それから、まゆみちゃんも知っての通り、ぼくらは結婚した。そして、2度目の本当のお別れが来た。ぼくは、いまでも、彼女がどこかにいて、ぼくを憎みながらでも生きていてほしいと思っている。あの最初のときのように。命の可能性を誰かが、例え病気でも奪うべきじゃないという信念みたいなものが、彼女の死を通して芽生えてしまった。それを、まゆみちゃんがするべきじゃないよ」

「でも、本当の親になったことはないでしょう? 責任をすべてかぶる」
「痛いところを突くね」
「ごめんなさい」
「例えば、例えばだけど、アフリカかどっかで、貧しい少女が鉛筆やノートをもらって勉強したいというテレビを見れば、きみは差し上げたいと思わない?」
「思うよ」

「だから、どんな小さなものだって、可能性を絶っちゃ駄目だよ」
「頭では、分かっている。それならわたしの可能性もある。手垢のついていない可能性」
「ぼくは、子どもは、自分の子どもはいないけど、広美もまゆみちゃんも娘のように大切にしてきた。いや、まゆみちゃんは妹ぐらいかな。子ども産みなよ。おじいちゃんのような役目が必要なら、ぼくがなってあげるから」
「大学もあるし、会社にも入らなければならない」
「そうだよね、もうちょっと冷静になるまで、先送りにしようっか、決断を。それで、相手は?」
「夏、海で働いていたときに」
「そうか。恋をした?」
「まあ」彼女は照れたような様子をした。
「もう、このこと話した?」
「まだ」
「ぼくが会って説明してもいいよ」
「いいよ。でも、ありがとう。本気で心配してくれて」
「もう、大丈夫?」
「少しは」

「出る?」うんというように彼女は頭を下げた。ぼくは立ち上がりながらも、いまだに身体はそこにいて、裕紀がぼくに「赤ちゃんができた」という報告をしているような錯覚をしていた。それは、あっても良かった未来だったが、無論、訪れない過去のある一日の出来事の象徴だった。
 ぼくは喜び、裕紀の手を握る。小さな赤ん坊の衣類をぼくらふたりは楽しく選び、ベビーカーを押す。しかし、可能性は可能性のままで終わってしまった。その反対に裕紀は自分の体内に宿った病気のために病院のベッドで寝ている。
「なに、考えているんですか?」
「いやね、ぼくがある女性から、子どもができたって告げられたときに、どう反応していただろうかというつまらない予測を案じていた」
「裕紀さん?」
「そう」

「まだ、遅くないじゃないですか」
「ぼくは、もう40を過ぎている。広美の子どもを抱くのを待つほうが近くなっているよ」
「さっきは、失礼なことを言いましたね」
「まゆみちゃんは、小さなときから、ぼくに失礼だったよ。これだけは、覚えていたほうがいいよ」

 ぼくは、笑う。彼女も笑う。小さなものは意志もなくいるのか? やはり、世の中に出て来る意志は秘めているのだろうか? それとは逆に、ある病気は、裕紀の存在する動機や意志を消し去るほど強いものを持っていたのだろうか。ぼくは、あらゆることを考えていながら、ただ、その存在がないということにしか意識は集中しなかった。

壊れゆくブレイン(45)

2012年03月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(45)

「あれね、和代が描いたママの絵、地域の賞に入選したんだって」雪代がお風呂でいない時間に広美はぼそっと言った。
「そうなんだ。大した実力なんだね」
「ママも見に行きたいって言ってた」
「どっかに飾られてるの?」
 彼女は場所を告げて、「わたしたちは、もう見てきたけど。それを聞いてママも見たいって」と言った。
「散々、家で見たじゃないか」

 広美は、信じられないという表情をした。最近はたまに大人と寸分変わらない顔付きをした。
「ああいうのは、ああいうきちんと場所に置かれているから、意味があるんじゃない」
「そうか、そうだよな。じゃあ、行ってみるか」すると、雪代が部屋に戻ってきた。
「なに、話してたの?」
「和代ちゃんの絵が飾られているから見に行こうって」
「そうみたいね。付き合う?」
「いいよ。自信過剰にならなければ」
「ああいうのって、そのひとの思い入れがたっぷり入っているから、本人とは別人になるんだよ。あこがれの最大公約数的な大人の女性」

「でも、あれは、まさしくママだったよ。みんなもそう言ってた」
「じゃあ、間違いがないか確認してくる」
 そして順番に広美は奥に消えた。
「広美にとって、きれいなママである雪代は自慢なのかね」
「わたしたち、長く2人で過ごしてきたから。共同体みたいな気持ちがほかの子より多いんでしょう」雪代は鏡の前に座っていたが、振り返ってそう口にした。

 何日か経って仕事がない日が重なった休日、ぼくらは近くの市民センターに出掛けた。各学年ごとに優秀な作品が10点ずつほど選出されており、小学生、中学生、高校生、成人とその上達の度合いが増していって並べられていた。ぼくらは、小さな子どもが描いた絵から順番通り見ていった。そこには稚拙さがあるが何かを表現したいという衝動もあるようだった。両親の絵があり、架空の宇宙のような場所があった。子どもたちが好きな乗り物の絵もあり、将来住むべき町並みを想像して描いた内容のものもあった。どれかは実現されるかもしれず、どれかは空想のまま終わるのかもしれない。

「ひろし君も学生のときは、家の設計図みたいなものよく描いていたね」
「まあ、そういう勉強をしていたからね」
「それを仕事にしたひともいるんでしょう?」
「いるよ」
「なりたかった?」
「さあ。実力も伴なっていなかったし、もっと、ひとと関わりたかったのかもしれないし。いまでは分からないね」
 ぼくらは段々とすすみ、中学生のジャンルに入った。筆力みたいなものも見るからに一段と磨かれていくようだった。
「これじゃ大人が描いたのと変わらないね?」
「そうだね、あ、あった」

 ぼくは、前方を指差す。そこには澄ました女性が座っている。険しさや悩みはまったくなく、いくらか憂いを帯びた表情だったが、そこには自然な健康さも宿っていた。
「やっぱり、家で見ていたのと違う」雪代は率直な感想を言う。
「どう?」
「ある場所に置かれることで、そのものが完成されるというような」
「そうかな? うん、そうだろうね」

「わたし、写真をたくさん撮られて、そのいくつかしか雑誌に載らなかった。でも、紙にきちんときれいに印刷されたものを見ると、やはり、なんか、無造作に選ばれる前のものとは違うと感じたことを思い出した」
「あの子、こんな才能があるんだね。指をバスケットで突き指でもしたら、もったいないね」
「ほんとよね。次のも、見ましょう」

 ぼくらは歩き、最後にまた先程の絵に戻り、ちょっとだけ多く立ち止まり、その絵を堪能した。それから、外に出た。いくつかの絵は直ぐに忘れられてしまう運命にあった。当然のこと、ぼくらはそう多くのものを記憶に留めておかない。だが、ある日の雪代は、こうしてひとりの少女の才能のお陰で刻み付けられていくのだ。

 それから、何ヶ月かしてその絵は作者のもとに戻ってきた。彼女は大きな袋に包み、またそれを我が家に持って来た。
「どっかに飾ってください」と、和代は正当な要求のように、はっきりと言った。
「やだな、自分の絵なんかみて生活するの恥ずかしい」
「じゃあ、ひろしさんの部屋にどうですか?」
「いいよ。飾るよ」ぼくは、それを受け取る。
「いやに、素直なのね?」雪代は不自然な表情で訊く。
「出来栄えも悪くないし、このようにいつもきれいにしていてほしいし」
「絵がライバル?」

「でも、ぼくが貰ってもいいの? 手元に置いておかなくていいの?」
「もっと、もっと上達する予定なんです。そうしたら、またモデルになってもらいます」
「やだ。首も凝るし、あれより老けていくんだもん」

 その言葉は和代にとっては理解できないようだった。彼女らの年の持分はまだ多く、下降気味になるエネルギーなど知らないようだった。
「でも、頼んでみるといいよ」ぼくはひとごとのようにそう言った。
 その夜、ぼくはネタをばらす。母の家に裕紀の絵が飾っており、それを見て和代は少女の純粋さで、ぼくの部屋に雪代のものを飾らせる必要を感じたのだと。
「良かったじゃない。それがエネルギーとなって彼女の才能を刺激したんだから。むかし、アマデウスという映画をいっしょに見たね。ずっと、分からなかったけど、芸術家って、そういう刺激を必要とするひとびとなのかもね」ぼくは、その言葉を飲むように受け入れ、体内でどう反応するか待ったが、それは答えを与えてくれなかった。

壊れゆくブレイン(44)

2012年03月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(44)

「昨日、おばあちゃん家に行った」広美がお菓子を食べながら言った。
「雪代の? それとも、島本さんの?」彼女は怪訝な顔をする。
「ひろし君のお母さん。島本のお祖母ちゃんは、もういないし」ぼくのことを名前で呼ぶが、その母はお祖母ちゃんであるらしい。彼女にとっては。

「それで、なにか用があった?」
「友だちと近くまで行ったから、寄っただけ。でも、お姉ちゃんの部屋に絵が飾ってあった」彼女にとって、お姉ちゃんというのは、ぼくの妹であるらしい。「殺風景だし、閉まっておくのももったいないので出して飾ったんだって」妹も実家に住んでいない。もともと、ぼくと妹が使っていた部屋は、そのままの部分と使わないものを一時的に保管している部分が共存していた。どこにでもあるように。
「どんな絵があるんだろう」ぼくは母の趣味にはない行動だったので、その意図が分からなかった。「絵なんかあったっけ・・・」

「裕紀さんというひとの横顔の絵」
「ああ、あれか」ぼくは思い出す。東京にいたときのその部屋の空気感も思い出している。「でも、あれ、彼女の絵じゃないんだよ。よく似てるけど、たまたま、貰った肖像画だから。思い出を壊して悪いけど」
「わたしの思い出でもない。でも、そうなの?」
「あの絵は、ぼくの会社が貸していたビルの画廊にあった。なにかのご褒美にぼくがもらった。結論としては似てたからだけど」
「和代も一緒にいて、彼女、絵がうまいから、あれを見て、とても誉めてた。でもね、お祖母ちゃんが、ひろし君の前の奥さんの横顔といったもんだから、少し憤慨して、わたしがママの絵を描いて上げると言ってた」
「ふうん、それで、広美は厭な気持ちになった?」
「だって、絵だよ。それに、似てるだけだって、いま、聞いたから」

 何日か経って、リビングで雪代は座らされている。表向きは和代という子の宿題の提出のためということになっていた。彼女はその前に何度も断り続けたが、娘の友だちの宿題という理由では折れないわけにはいかなかった。それで、かしこまって座っている。

「なんだ、うちの奥さんはモデルか」
「だって、おばさん若い時には、いっぱい写真に撮られたって」和代という子は絵筆を動かすのを休めて、そう口にした。
「むかし、むかし。大昔。20年も前」彼女は照れたように言う。
「ぼくも美容室のショーウインドウにあったポスターに見入ったっけね」
「それより、きれいに描きます」
「随分と自信があるんだね。でも、真実をうつさないと」広美は絵の採点をするように和代の後方にまわった。感想をいうのかと思っていたが、彼女は無言で感嘆したような表情をしていた。

 ぼくは着替えて、缶ビールを取り出した。
「もう、仕上がりそう?」
「今日は、ここまで。あと2日ぐらいで」
「え、そんなに?」雪代は肩をまわした。その様子はじっとしていることに不慣れな人間の仕草だった。「ご飯、作るね。和代ちゃんも食べて行きなさい。料金は払えないけど」

「完璧なものを目指さないと。それには2日では少なすぎると思うけど」
「完璧じゃなくてもいいのよ。なにかの展覧会にでも出すんじゃないんでしょう?」
「一応、出展はしますけど、選ばれるかは分からない」
「そう。なら、きれいに描いて」彼女は満更でもないようだった。

 料理ができあがり、テーブルにいくつかの皿が並べられた。ぼくと雪代は横に座り、向かい側に広美と和代が並んで座った。
「でも、どうしたの? 急に意気込んで」雪代は会話の隙間にはいってそう訊いた。
「この前、素敵な絵を見たんです。とても、立派だった。わたしも、ああいう絵を記念に描いてみたいと思って」
「そう、どこで?」
「それは、内緒なんです」
「そうなの。いわくありげね」
「でもないんですけどね。この絵、いつか戻ってきたら、どこかに飾ってください」
「自信過剰な女性に思われない? 自分の絵なんか飾っていたら」
「やめときなよ」広美もその状態を思い浮かべたのか、吹き出して、そう軽い口調で言った。
「じゃあ、良くできたら。飾ってください。ひろしさんの部屋にでも」
「ぼくのに? そうするよ」
「ひろし君の部屋に、わたしの?」雪代の言葉に反応して、和代は深く頷いた。

 夜も更け、和代は帰り、広美も自分の部屋に消えた。ぼくと雪代はテーブルに残ったままでとりとめもない話をしている。ぼくはあの絵に隠された意図のネタをばらしてしまおうかと考えていたが、なぜだか躊躇した。いずれ話すだろうけど、いまは、何人かの珍騒動をそのまま傍観していたかった。
「むかしを思い出す? 写真に撮られていたころの」
「あれは、瞬間のことだからね。いまは、首も痛いし、じっとしているのも大変」
「宿題だからね」

「リンカーンやワシントンにしてほしい。歴代大統領とかいって」彼女は笑った。あの裕紀に似た絵は決して笑わなかった。そして、本当の彼女も笑うことはない。笑うということは、未来があり、未来を作れる願望もあるということらしかった。明日の朝も彼女は笑い、ときには怒り、その感情のひとつひとつが生命の結晶でもあるようだった。ぼくは何日か経ったら、実家に帰ってあの絵を再び目にしようと思う。姪でも、自分の娘でもなく、他人の和代という少女のなかにある内面のなにかを突き動かすだけの影響力がそこに含まれているのだろう。それが何かを見極めたいとも思うし、動かされた感情にぼくは些細な嫉妬をしていたのかもしれない。

壊れゆくブレイン(43)

2012年03月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(43)

 うちの社長が入院した。見舞いに行くとベッドに静かに横たわっていた。エネルギッシュなひとなので、その様子が似つかわしくなかったが、思っていたより顔色は良く、心配はいくらか軽減された。だが、ぼくは過去に安心しすぎて失敗もしていたのだ。

「悪いな、近藤」
「いや。全然。それより、顔色も良くって」ぼくは、思ったままを発した。「でも、病院に来るのが、ほんとは好きじゃないんです。正直に言いますと」
「誰でもそうだけどな、特に、お前はそうだろう・・・」自分のことより、彼はいろいろなところに気を遣った。「彼女を亡くしたからか?」
「その通りです」言葉に出したつもりだったが、もしかしたらそうなってはいない心配のため、自分は深くうなずいた。
「いやだろうな、オレでも。思い出したくない」
「ぼくは、逆なんです。いろいろなことを思い出し過ぎます。あと、彼女にしてあげられなかったことが山積されているような不安も起こりますから」

「それは、みんなそういうもんだよ。オレだって、家内にどれほどのことをしてこれたか。それは、持ち回りみたいなもので、できなかった分は、ほかに廻せばいい。娘とか、いまの奥さんとかに」
「頭では、分かっているんですけどね」
「もう随分と経ったよな」
「ええ、かなり」
「向こうの家族は、まだ許してくれない?」
「許すもなにも、接点すらないですから」
「お前に、新しい家族ができたことで、喜んで、敢えて、蒸し返したくないのかも」
「どうなんでしょう。裕紀が喜んでいるなら、話は別ですけど。すいません、自分の話ばっかりして。食事は?」
「あまり、うまくもない。健康で、そとで暴飲暴食の時代が懐かしいよ」

「いつか、また出来ますよ」
「うちの息子より、お前の方が優しくできてるのかな。見舞いにも来ない。付き合った月日も越えただろう?」社長は指折り数える仕草をした。
「同じ会社にいるんですもん。そうなりますよ。彼だって照れ臭いんでしょう」ぼくは腕時計を見る。「そろそろ、仕事に戻ります。社長の入院費ぐらいの売り上げを作らないと」

「保険というものが世の中にはあるんだよ。奥さんにもよろしく。そこにある花、彼女からみたいだから」

 ぼくは、ベッドサイドにあるテーブルを見た。その花の匂いを嗅ぎ、雪代のことを思い出した。ぼくと彼女の若いときの交際はひとから認められなかった。それは、ぼくが裕紀を捨て、彼女とくっ付いたことからの余波だったが、いまでは、ぼくらぐらいぴったりとした関係を築いているひとはいないと誰もが思ってくれていた。

「言っときます」ぼくは自分のカバンを持った。「じゃあ、ゆっくりと休んでくださいね」
「復活するよ。まあ、それほどの大病でもないんだけどな」

 彼は枕に頭を埋めた。ぼくは、もう一度だけ時計を見た。病室のそとの廊下を歩いていると、やはり、また裕紀のことを思い出してしまう。あそこのベッドに寝ているのは彼女なのだ。彼女の叔母が付き添い、心配を解消させるようにたくさん話をしている。ぼくは、彼女が死んでから失った生活と覇気みたいなものを最初から知っていたのだったら、その分を彼女のために前以って作ってあげても良かったのだ。しかし、それはどうやっても取り戻せなかった。そして、その彼女のために雪代は花を贈ったのだとも考えようとした。ぼくの最愛のふたりは、当然のところ、親しくなることもなく、友人になるということも論外だった。だが、ぼくの中では共存していた。裕紀はぼくの幸せのために誰かと生活することを望んでくれただろうか。多分、望んでいたのだろうが、それは彼女が親しかったゆり江という子の名を真っ先に上げるだろう。とにかくは、ひとりで亡くなった自分のことを後ろ向きに考えてばかりいる男性など予想していないはずだ。それならば、雪代と暮らしていることも妥当だろう。父親という役目をさずけられなかった自分を裕紀は悔いていた。ぼくは、いつの間にかある少女の父にもなっていた。責任感からいえば兄ぐらいの役目だったが。それでも変わりはない。

 反対に雪代は、ぼくの前の妻をどう考えているのだろう。ぼくらは、それぞれ別の人間と結婚していた。ふたりとも不意にアクシデントや病気で配偶者を亡くしていた。自分の辛さや楽しかった生活に匹敵するものをぼくが持っていたと過程するならば、それを与えてくれた裕紀のことも嫌いになれるはずがなかった。それは、ぼくがいまごろになって雪代の前の夫である島本さんに抱く感情でもあった。それに広美の持ついくつもの素晴らしい感情やこころの一部も島本さんが負っているという証拠によっても認めていた。

 ぼくは、廊下を歩きながら、さまざまな状況を思い浮かべ、過去と現実を行ったり来たりした。手放せないものや、手放すタイミングが来ているものも考えていた。ぼくは、廊下で立ち止まり、歩いてきた奥の方を振り返り眺めた。そこに裕紀が元気な姿で立っているようなイメージを持つ。

「良かったじゃない。あんなに元気で可愛い子のお父さんになれて」と、彼女は言うような気がする。
「こんな役割、君から見て似合っているかな?」と、その裕紀の幻に、ぼくは問いかけてみたかった。

壊れゆくブレイン(42)

2012年03月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(42)

 ぼくと雪代は体育館にいる。座席は固く、すわり心地の良いものではなかった。だが、それを気にしていたのもはじめのうちだけだった。

 広美のバスケット・ボールの練習試合があるということで、日曜の昼下がり、ぼくらはここにいた。秋の真ん中であり、暑くもなく寒すぎることもなく、大人になった我々にとっては、快適すぎる陽気でもあった。その期間の短い時期を毎年大切にしようと願うも、きちんとその季節は足早に去っていった。

 ぼくは、こうして動く誰かを若いときから見てきた。もちろん、ある一時期は向う側にいて、それを誰かに見てもらっていた。となりにいる雪代は頼もしい応援者だった。ぼくは彼女の前で誇らしい気持ちを抱いたこともあった。また、同時に不甲斐ない場面を見られたこともあった。しかし、それは副産物で、やっている当人は第三者の視線を忘れた境地に入ることが多々あった。それぐらいでないと決して自分自身に満足できず、合格点を与えられるようなこともできていなかった。

 広美はこちらを見なかった。ベンチにいる補欠らしい子は、きょろきょろしていた。こちらにぼくらがいることを広美に教えているようだったが、それでも、彼女は見なかった。その補欠の子は、広美のところによく遊びに来ていた。気が利く才気のあるような子で、雪代とも対等に大人同士並みの会話をしていた。何かの商売をしている家の娘だったと思う。世間に出るというのは、そういう自分に役立ちそうな能力を見極めることなのだろうか。

「あの子、選手というより、みんなをまとめる役に向いているような気がするね」
「和代ちゃん? 試合より、そんなところ見ているのね。広美も活躍しているのに」
「そっちも見てるよ」広美が活躍する姿を目の当たりにする度、ぼくは島本さんという彼女の本当の父親を思い出さないわけにはいかなかった。その遺伝子は確実に引き継がれ、ぼくはラグビー場で憧れをもって眺めていた島本さんの残像を思い出し、自分が無力であったころを強くこころの奥で感じた。そして、自分が境界のそとにいることも意識させられるような気もしていた。

 試合は終わり、多くの子たちは裏に消えた。試合に出ることのなかった和代という女の子は、いまだにきょろきょろと好奇心が溢れた視線をあちらこちらに送っていた。ぼくらも、外に出ようとするときに彼女の横を通りかかった。

「残念ね、和代ちゃん。また、練習頑張れば、うまくなって出られると思うよ」
 雪代は彼女の肩を優しく叩きながら、そう言った。
「ありがとうございます。それにしても、おばさん、今日も素敵な格好」
「ありがとう。似合っているかしら?」
「とっても」
 そして、彼女は手を振り、ぼくらを見送った。
「あの子、いつも大人みたいだよね。挨拶もきちんとしているし」
「そうよね、時に広美が子どもっぽく見えることがある。あの子といると」
「いまは、それでいいよ」
「お腹すかせてあの子が帰ってくる前にちょっと休みましょう。せっかくの日曜なんだから」
 ぼくらはいつもの喫茶店に向かう。そこは気持ちの良い音量で音楽が流れている。そこに座って小さな声でたわいもない会話をしているときが最近の幸せになっていた。

 ぼくは名前も知らないピアニストの音楽を耳にする。それは無名性であるべきなのだとも考えている。誰かの活躍によってチームは勝利するというスポーツを今日、見たからかもしれなかった。声援や喝采も受けないある音楽スタジオで譜面を前にピアニストは楽器を弾いている。そこには孤独の陰があり、名声への渇望というものがいくらか薄いような気もした。実際はどうか分からないが、いまはコーヒーを飲みながらそんな気分でいる。

「広美が活躍しているのを見ると、ひろし君はなぜか戸惑ったような顔をしているよ」ふと、雪代はそういう言葉を口にした。
「正直に言うと、島本さんを思い出すから」
「やっぱりね。わたしもそう思う。わたしの能力じゃないもんね、あれ。それで、嫌いになる?」
「何を?」
「いろいろなこと。わたしとか、島本君とか」
「ならないよ。もう彼は憧れの境地に舞い戻っている。10代の終わりで、なにもかも輝いていた魔法をもっていたひと」
「わたしのことは?」
「ならないよ。ずっと、そばにいるべきひとだからね」
「そう。広美もいつか大きくなって、家を離れる。東京に行っちゃうかもしれない」
「ふたりだけで暮らせばいいよ。まだ、先になるだろうけど」
「そうね。でも、お腹空いたと言って帰ってくるんだろうな。買い物行こうか?」

「そうだね」ぼくらは店主に別れを告げ、店をあとにする。ぼくのラグビーの活躍を目にして、グラウンドの外で待ってくれていた雪代と会ったのも、このような夕暮れ時であった。ぼくは流した汗が冷えるのを感じながらも、こころのなかの高まった気持ちはなかなか消えなかったことを思い出している。それはスポーツの喜びや興奮であったのか、意中の女性に頑張りを認めてもらえたという充足感であったのか、それだけは思い出しようもない。

 何年も経ったが、横にそのときの女性がいた。それは悪くない事実だった。広美も誰かに認められ、また誰かを探し出しているのか考えようとした。だが、和代というこの健気さが邪魔をしてその思いは別のものになった。

壊れゆくブレイン(41)

2012年02月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(41)

 秋になる前のそれでもまだ暑い時期にまゆみはひと夏バイトをして過ごした海から戻ってきた。女性にとって似つかわしい表現かは分からないが精悍な顔つきをしていた。それでいながら、女性らしさも膨らませていった。

 訊きたいことは山ほどあったが、ぼくらがお互いもてる自由な時間など少ないものだ。また広美の勉強を教えるために彼女はうちに通うようになった。その帰り道やいっしょに食事をする際に、彼女の思い出話を小出しにきいた。

 若い女性は大体が短期間でありながらも恋をするものだ。彼女はそれを直接に口には出さなかったが雰囲気から感じ取れた。それが女性らしさが溢れ出ている証拠でもあり原因のようにも思えた。ぼくは訊かないながらもそれを想像する。最初は打ち解けなかったふたりが簡単な会話を交わし、徐々にその存在を意識し始める。それが絶えず念頭にでてきて、自分を苦しめたり、また陽気にさせたりする。

 離れてしまえば、その感情は揺らぎ、また別の面では確固たるものにもなったりするのだろう。ぼくは自分の経験と照らしあわす。雪代はある時期、東京にいた。ぼくは地元で大学に通っていた。休みになると、ぼくは都会に行き、雪代の仕事が空けば、彼女はこちらに戻ってきた。まだ、恋は新鮮な状態であり、それだからこそ、お互いの一言一句に感動したり、ときには誤解したりもした。まゆみも同じ状態にあるのか分からないが、それを経験するのも乗り越えるのも正直にいえば当人だけの問題でもあった。

 ぼくは久々に彼女の両親に会う。ぼくの若いときのバイト先の店長。玄関先であったので、部屋に入るようすすめられた。椅子に座るとビールが出た。彼はしばらく前からはじめていたらしく赤い顔をしていた。
「最初は心配したんだけど、やっぱり若い女の子だからね、でも、可愛い子には旅をさせろだよなって。ひろしもそう思うか?」
「良い経験ができたみたいだから結果からみれば」
「自分の子にもさせるか?」
「させるでしょうね。雪代が最終的に判断するでしょうけど」
「まだ、遠慮がある?」
「いや、もうないです」

 それからは過去の思い出話をする。ぼくらは未来より、自分が過ごしてきた生活の情報が増えすぎた。それを咀嚼したり吐き出さないことには未来もやってこないようだった。その間、まゆみは自分の部屋に入り、出て来なかった。そして、ぼくらは大きな声に変化しているのにも気付かず話し続けた。

 また何日か経って、広美の勉強も終え、食事をして彼女は友だちと電話するために奥に消えていた。笑い声がしたり、ひそひそと話す様子があった。まゆみはまだテーブルにいた。
「そろそろ就職のことを考えないと・・・」
「何か、迷ってることがあるの?」雪代は優しく訊く。
「東京で見つけようか、地元で探そうかと」
「取り敢えず、東京でチャレンジしてみたら。それで合わなかったら、戻ってくればいいし。ひろし君もわたしもそうしたのよ。ね?」

「ぼくは、自分の意思じゃなく、ただの転勤だったけど。でも、良い思い出もたくさんできた。掛け替えのない経験にいまはなったと思っている」しかし、そこで失ったものもあったのは自分がいちばん知っている。だが、未来を探そうと懸命になっている若い人間に一体、自分はどうアドバイスができ、どう退けられる方法を教えられるのかなど、まったくもって分からなかった。
「それより、良さそうなのはあるの?」雪代が興味をもちはじめた表情をする。「電話、長くない?」と、突然に奥の広美にきこえるような音量で声をだした。

「ひとつ、あることにはあるんです」
「この前、店長も旅をさせるのも悪くないと言ってたよ。酔ってたから、あれは本心なんだろう」
「会ったの?」
「この前、送ったときに久々に家にあがった。その時に、いろいろなことを話した。なんだかんだ、お互い娘の成長を心配する役目がまわってきたから」
「長電話もやめないし」
「ぼくらも、ああいう風に話したよ」
「思い出がずっと残っていて、いいですね」

「これでも、お互い再婚なんだよ」雪代は照れ臭くなったのか、そう言った。ぼくらには10年間の疎遠な時期があった。それは別の人間との熱烈な期間があったことの裏返しのようにも感じられた。しかし、このように納まったのだ。若い女性の未来をふたりで心配して、娘の止められない長電話を片耳できいている。それから、まゆみの地元に残った場合の仕事の条件をきいた。あまり旨みがないようにも思われた。大型化し過ぎた経済は座礁した自分の運には盲目であろうとし、いままで通りを見せかけていたが、その裏側にはきちんとした亀裂があるようだった。それを若いときから経験しなければならない彼女たちの未来を呪わしいものと定義する自分もいた。だが、彼女は健康で海からもらった成果をまだ体内にとどめていた。ぼくらは、それぞれ自分の若さを手放さなければならない年代に入ってきていた。しかし、経済と同じようにぼくらも盲目であったようだ。

 広美は電話を終えて何事もなかったようにジュースを注ぎ、テーブルに着いた。
「広美は、大人になったら仕事なにする?」
「怪我をしないスポーツ選手」その返事の言葉についてぼくは考えている。頭痛がない大学教授。髪を掻き乱さない悩める科学者。子どもと接するのが苦手な保育士。しかし、敢えて訂正することも出来そうになかった。