壊れゆくブレイン(85)
足音をバタバタとさせて朝の用意をする女性は家にはいなくなった。その彼女が発していたエネルギーがなくなると、ぼくらは、ぼくと雪代は何だかとても静かな生き物に思えて来た。お茶碗をコトリと静かに置き、冷蔵庫もそっと開いた。音楽も静かな音量で聴き、テレビ番組もニュースや感動を与えてくれるドキュメンタリー番組を多く見るようになった。だが、どちらも広美の名前をあえて出さなかった。出なくてもふたりのこころの中には大きくいるだろうとは理解できた。そして、そんな気分のときに思い出したかのように電話がかかってきた。
「大人って、手紙を書いてあげて愛情を示してあげられることなのかしら? ね」雪代はそう言った。自分の仕事上の帳簿をつけている最中だった。
「どうしたの、急に?」
「何だか、電話をしても何も残らないと思って」
「何か書いてあげたくなった?」
「そうでもないけど、ふと、手紙の束がたまって、ある日、東京の淋しい夜にでも読み返してもいいのかなって」
「そうだね。やってみれば」
「いやね、交代にだよ」
「ぼくも?」
「そうだよ、急にひとりで母親らしいことをするのも恥ずかしいから。同罪者」
「いいよ。やりなよ」ぼくは思案をした後、そう言った。「でも、最初は雪代だよ」
「うん」彼女はノートに何か書き込んでいる。癖のあるペンの持ち方。「明日、それ用の紙と封筒を買ってくる。切手も買い込む。で、交代に出す」
「コンピューターは駄目?」
「ダメダメ。手書き」
ぼくは広美が住んでいる家のポストの形状を思い出していた。それは縦長のものだった。そこを彼女がダイアルを合わせ開くと、時折りぼくと雪代からの手紙が入っているのだ。それは好ましい情景に思えた。ぼくは、以前にそんなことをしたこともなかった。また、されたこともなかった。だが、気付かなかったり忘れてしまっただけなのだろうか? でも、自分がするということに少し興奮していた。決意こそが最初の興奮なのだ。
翌日に宣言どおり雪代は便箋と封筒を買ってきた。それに見合った金額の切手もあった。ぼくらは夕飯を済ませ、そのものをにらむような形で見ていた。言ってはしまったものの何を書くかという段になると自分たちの手持ちの題材はまったくないようにも感じられた。無きに等しい、というのはこういう状態をいうのかと改めてぼくは思った。
「ひろし君が書いたのをわたしは読んでいいことにする?」
「良くないよ」
「なんで?」
「だって、広美に書くんだろう」
「じゃあ、わたしのも見せないから絶対に」彼女はふて腐れた真似をする。
「いいよ」
「夫の悪口も書いてあるよ」
「いいよ。たくさん書けば」
「たくさんはないよ」
ぼくがシャワーを浴びて出てくると、雪代はペンを握り締め、空を見ていた。その空間に文字と思い出が浮かんでいるかのように。
「ねえ、最初に何を書くの? ヒントだけでも教えて」
「東京での暮らしはどうとか? 大学には慣れたとか、友だち百人できたとか。ぼくと広美が最初にあったとき、君はこうだったとか」
「そういうものか。わたしは病院で産まれたばかりの彼女を抱いた。夫は喜んでいた、無邪気にね。彼はラグビー・ボールを抱くように広美を抱いたっけ」
「島本さん?」
「うん。彼のお母さんも」
「広美は、あのお祖母ちゃんのこと、好きだったよね」
「そう。誰よりも広美に愛情をもっていた」
「じゃあ、そのお祖母ちゃんのことでも書けば?」
「そうだね。自分のことより、ちょっと書きやすいかも。それに、広美も大好きだったから」
それから一時間ばかり広美はテーブルに向かい、指を動かしていた。そして、最後に「できた」と小さな声で呟き、すかさず封を閉じた。
「完成? フィニッシュ」
「うん。読ませないよ。切手も貼ったし、明日、出勤ついでにポストに入れる」
「何日後かして、彼女は喜ぶ」
「あの子、返事を書くかな?」
「さあ、書かないだろう。照れ臭がって」
「でも、こっちからは書き続け、送り続ける」
「一週間後ぐらいでいいのかな?」
「じゃあ、それぞれ月に2回だ」
「そういう計算だね」
「でも、話題なくならない?」
「何でもいいんじゃないの。月がきれいだったとか、花火を見たとか。何でも彼女はここを懐かしがるだろうから」ぼくも東京にいたときは、そうだった。
「そうだね、じゃあ、次はひろし君。でも、ちょっと読みたいな」雪代は自分の書いた手紙の封をきちんと抑えながらもそう言った。「わたしにも何か書いてくれない?」
「なんで。いっしょにいつもいるじゃないか」
知り合いになった未来のとある出来事が分かるひとは、手紙の束のようなことを言っていた。それは、このことなのかとぼくは考える。しかし、それは裕紀が書いたものだったかもしれない。いずれにせよ、いつか、広美の部屋に手紙がたまることになる。それは、愛ということを書かなくても愛情のあらわれであり、愛着でもあり、離れても変わることのないつながりのようなものであった。書いて残すことによって、それは耳で伝えることから視線に訴える方法として送り続けられるのだ。その集積が、これからはじまろうとしていた。
足音をバタバタとさせて朝の用意をする女性は家にはいなくなった。その彼女が発していたエネルギーがなくなると、ぼくらは、ぼくと雪代は何だかとても静かな生き物に思えて来た。お茶碗をコトリと静かに置き、冷蔵庫もそっと開いた。音楽も静かな音量で聴き、テレビ番組もニュースや感動を与えてくれるドキュメンタリー番組を多く見るようになった。だが、どちらも広美の名前をあえて出さなかった。出なくてもふたりのこころの中には大きくいるだろうとは理解できた。そして、そんな気分のときに思い出したかのように電話がかかってきた。
「大人って、手紙を書いてあげて愛情を示してあげられることなのかしら? ね」雪代はそう言った。自分の仕事上の帳簿をつけている最中だった。
「どうしたの、急に?」
「何だか、電話をしても何も残らないと思って」
「何か書いてあげたくなった?」
「そうでもないけど、ふと、手紙の束がたまって、ある日、東京の淋しい夜にでも読み返してもいいのかなって」
「そうだね。やってみれば」
「いやね、交代にだよ」
「ぼくも?」
「そうだよ、急にひとりで母親らしいことをするのも恥ずかしいから。同罪者」
「いいよ。やりなよ」ぼくは思案をした後、そう言った。「でも、最初は雪代だよ」
「うん」彼女はノートに何か書き込んでいる。癖のあるペンの持ち方。「明日、それ用の紙と封筒を買ってくる。切手も買い込む。で、交代に出す」
「コンピューターは駄目?」
「ダメダメ。手書き」
ぼくは広美が住んでいる家のポストの形状を思い出していた。それは縦長のものだった。そこを彼女がダイアルを合わせ開くと、時折りぼくと雪代からの手紙が入っているのだ。それは好ましい情景に思えた。ぼくは、以前にそんなことをしたこともなかった。また、されたこともなかった。だが、気付かなかったり忘れてしまっただけなのだろうか? でも、自分がするということに少し興奮していた。決意こそが最初の興奮なのだ。
翌日に宣言どおり雪代は便箋と封筒を買ってきた。それに見合った金額の切手もあった。ぼくらは夕飯を済ませ、そのものをにらむような形で見ていた。言ってはしまったものの何を書くかという段になると自分たちの手持ちの題材はまったくないようにも感じられた。無きに等しい、というのはこういう状態をいうのかと改めてぼくは思った。
「ひろし君が書いたのをわたしは読んでいいことにする?」
「良くないよ」
「なんで?」
「だって、広美に書くんだろう」
「じゃあ、わたしのも見せないから絶対に」彼女はふて腐れた真似をする。
「いいよ」
「夫の悪口も書いてあるよ」
「いいよ。たくさん書けば」
「たくさんはないよ」
ぼくがシャワーを浴びて出てくると、雪代はペンを握り締め、空を見ていた。その空間に文字と思い出が浮かんでいるかのように。
「ねえ、最初に何を書くの? ヒントだけでも教えて」
「東京での暮らしはどうとか? 大学には慣れたとか、友だち百人できたとか。ぼくと広美が最初にあったとき、君はこうだったとか」
「そういうものか。わたしは病院で産まれたばかりの彼女を抱いた。夫は喜んでいた、無邪気にね。彼はラグビー・ボールを抱くように広美を抱いたっけ」
「島本さん?」
「うん。彼のお母さんも」
「広美は、あのお祖母ちゃんのこと、好きだったよね」
「そう。誰よりも広美に愛情をもっていた」
「じゃあ、そのお祖母ちゃんのことでも書けば?」
「そうだね。自分のことより、ちょっと書きやすいかも。それに、広美も大好きだったから」
それから一時間ばかり広美はテーブルに向かい、指を動かしていた。そして、最後に「できた」と小さな声で呟き、すかさず封を閉じた。
「完成? フィニッシュ」
「うん。読ませないよ。切手も貼ったし、明日、出勤ついでにポストに入れる」
「何日後かして、彼女は喜ぶ」
「あの子、返事を書くかな?」
「さあ、書かないだろう。照れ臭がって」
「でも、こっちからは書き続け、送り続ける」
「一週間後ぐらいでいいのかな?」
「じゃあ、それぞれ月に2回だ」
「そういう計算だね」
「でも、話題なくならない?」
「何でもいいんじゃないの。月がきれいだったとか、花火を見たとか。何でも彼女はここを懐かしがるだろうから」ぼくも東京にいたときは、そうだった。
「そうだね、じゃあ、次はひろし君。でも、ちょっと読みたいな」雪代は自分の書いた手紙の封をきちんと抑えながらもそう言った。「わたしにも何か書いてくれない?」
「なんで。いっしょにいつもいるじゃないか」
知り合いになった未来のとある出来事が分かるひとは、手紙の束のようなことを言っていた。それは、このことなのかとぼくは考える。しかし、それは裕紀が書いたものだったかもしれない。いずれにせよ、いつか、広美の部屋に手紙がたまることになる。それは、愛ということを書かなくても愛情のあらわれであり、愛着でもあり、離れても変わることのないつながりのようなものであった。書いて残すことによって、それは耳で伝えることから視線に訴える方法として送り続けられるのだ。その集積が、これからはじまろうとしていた。