goo blog サービス終了のお知らせ 

爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

壊れゆくブレイン(85)

2012年08月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(85)

 足音をバタバタとさせて朝の用意をする女性は家にはいなくなった。その彼女が発していたエネルギーがなくなると、ぼくらは、ぼくと雪代は何だかとても静かな生き物に思えて来た。お茶碗をコトリと静かに置き、冷蔵庫もそっと開いた。音楽も静かな音量で聴き、テレビ番組もニュースや感動を与えてくれるドキュメンタリー番組を多く見るようになった。だが、どちらも広美の名前をあえて出さなかった。出なくてもふたりのこころの中には大きくいるだろうとは理解できた。そして、そんな気分のときに思い出したかのように電話がかかってきた。

「大人って、手紙を書いてあげて愛情を示してあげられることなのかしら? ね」雪代はそう言った。自分の仕事上の帳簿をつけている最中だった。
「どうしたの、急に?」
「何だか、電話をしても何も残らないと思って」
「何か書いてあげたくなった?」
「そうでもないけど、ふと、手紙の束がたまって、ある日、東京の淋しい夜にでも読み返してもいいのかなって」
「そうだね。やってみれば」
「いやね、交代にだよ」
「ぼくも?」

「そうだよ、急にひとりで母親らしいことをするのも恥ずかしいから。同罪者」
「いいよ。やりなよ」ぼくは思案をした後、そう言った。「でも、最初は雪代だよ」
「うん」彼女はノートに何か書き込んでいる。癖のあるペンの持ち方。「明日、それ用の紙と封筒を買ってくる。切手も買い込む。で、交代に出す」
「コンピューターは駄目?」
「ダメダメ。手書き」

 ぼくは広美が住んでいる家のポストの形状を思い出していた。それは縦長のものだった。そこを彼女がダイアルを合わせ開くと、時折りぼくと雪代からの手紙が入っているのだ。それは好ましい情景に思えた。ぼくは、以前にそんなことをしたこともなかった。また、されたこともなかった。だが、気付かなかったり忘れてしまっただけなのだろうか? でも、自分がするということに少し興奮していた。決意こそが最初の興奮なのだ。

 翌日に宣言どおり雪代は便箋と封筒を買ってきた。それに見合った金額の切手もあった。ぼくらは夕飯を済ませ、そのものをにらむような形で見ていた。言ってはしまったものの何を書くかという段になると自分たちの手持ちの題材はまったくないようにも感じられた。無きに等しい、というのはこういう状態をいうのかと改めてぼくは思った。

「ひろし君が書いたのをわたしは読んでいいことにする?」
「良くないよ」
「なんで?」
「だって、広美に書くんだろう」
「じゃあ、わたしのも見せないから絶対に」彼女はふて腐れた真似をする。
「いいよ」
「夫の悪口も書いてあるよ」
「いいよ。たくさん書けば」
「たくさんはないよ」

 ぼくがシャワーを浴びて出てくると、雪代はペンを握り締め、空を見ていた。その空間に文字と思い出が浮かんでいるかのように。
「ねえ、最初に何を書くの? ヒントだけでも教えて」
「東京での暮らしはどうとか? 大学には慣れたとか、友だち百人できたとか。ぼくと広美が最初にあったとき、君はこうだったとか」
「そういうものか。わたしは病院で産まれたばかりの彼女を抱いた。夫は喜んでいた、無邪気にね。彼はラグビー・ボールを抱くように広美を抱いたっけ」
「島本さん?」
「うん。彼のお母さんも」
「広美は、あのお祖母ちゃんのこと、好きだったよね」
「そう。誰よりも広美に愛情をもっていた」
「じゃあ、そのお祖母ちゃんのことでも書けば?」
「そうだね。自分のことより、ちょっと書きやすいかも。それに、広美も大好きだったから」

 それから一時間ばかり広美はテーブルに向かい、指を動かしていた。そして、最後に「できた」と小さな声で呟き、すかさず封を閉じた。
「完成? フィニッシュ」
「うん。読ませないよ。切手も貼ったし、明日、出勤ついでにポストに入れる」
「何日後かして、彼女は喜ぶ」
「あの子、返事を書くかな?」
「さあ、書かないだろう。照れ臭がって」
「でも、こっちからは書き続け、送り続ける」
「一週間後ぐらいでいいのかな?」
「じゃあ、それぞれ月に2回だ」
「そういう計算だね」
「でも、話題なくならない?」
「何でもいいんじゃないの。月がきれいだったとか、花火を見たとか。何でも彼女はここを懐かしがるだろうから」ぼくも東京にいたときは、そうだった。

「そうだね、じゃあ、次はひろし君。でも、ちょっと読みたいな」雪代は自分の書いた手紙の封をきちんと抑えながらもそう言った。「わたしにも何か書いてくれない?」
「なんで。いっしょにいつもいるじゃないか」

 知り合いになった未来のとある出来事が分かるひとは、手紙の束のようなことを言っていた。それは、このことなのかとぼくは考える。しかし、それは裕紀が書いたものだったかもしれない。いずれにせよ、いつか、広美の部屋に手紙がたまることになる。それは、愛ということを書かなくても愛情のあらわれであり、愛着でもあり、離れても変わることのないつながりのようなものであった。書いて残すことによって、それは耳で伝えることから視線に訴える方法として送り続けられるのだ。その集積が、これからはじまろうとしていた。

壊れゆくブレイン(84)

2012年08月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(84)

 広美の荷物は昨日、引越し屋さんのトラックに積み込まれた。こちらにも大きな休みには戻ってくるので、大人のような完全ながらん堂の部屋になることはなかった。その閑散とした部屋で広美は一晩眠った。

 翌朝、早起きをした彼女は大きめのバックを背負い、特急のチケットを片手に家を出た。ぼくらはここで見送って終わりだった。あとは、彼女の生活だ。友人も荷物の搬入や、簡単な清掃などは手伝ってくれるらしい。ぼくは事前に上田さんや笠原さんに連絡を取り、もし緊急の用件ができたらそこに電話をするように広美にも伝えた。そんなことは当然のことない方が良いが、女性がひとりで淋しく感じる気持ちや度合いなど、相変わらずぼくには分からなかった。

「行っちゃったね」雪代がしみじみとした口調で言った。「なに、考えてるの?」
「ぼくも、ここが好きだった。はっきりいって、ここしか知らない。でも、26のときにここを去った。あの時の気持ちを思い出していた」
「私たちは別れた」
「うん。ぼくは後悔していた。その前に仕事を引き継いでくれる同僚と映画館に行って、雪代と島本さんを見た。いちばん、見たくないことだった」
「でも、あなたは東京に行くべきだったのよ。人生のどこかで。いまの広美と同じように。私も別れたくはなかったのかもしれない」

「崖から突き落とす獅子」
「まあ、そういうことね。でも、またふたりになった」
「今度は娘を手放す」
「もう一人前の女性だよ。そうなってほしいけど。男のひとに甘えることも知らなかったけど、ひろし君には友情のようなものを感じていたみたいね。結局は、お父さんらしくなれなかったけど。それで、良かったんだね」
「ぼくも東京に仕事で行くし、たまに元気な顔も見られるよ」

「あっちで、どんな恋をするのかしら?」
「さあ、雪代は東京でそういう誘いはなかったの?」
「あったかもしれない。だけど、田舎に待っている男の子がいたからね。彼もわたしが知らないところで好きな女の子がいたみたいだから」
「心配だった?」
「とくには。わたしから逃げ出せるなら、逃げ出してみなさいという気持ちもあったから」
「随分と自信があるね」
「自信がない若い女性って、魅力がないでしょう?」

「そうだろうけど」ぼくはある女性のことを知り、空白の期間ができ、そして、いままた共に暮らしている。それは密度を増すことがこれから来るのか、それとも、あまりにも自分たちはいっしょにいることが自然のことのように感じてしまうのか、まだまだ分からなかった。「今日は、なにをする?」

「ちょっと、あの子の部屋、片付けるね」彼女らは毎日、同じように起き、同じ時間を共有していた。それが突然、終わりを告げたのだ。終わることは数日前から、いや数週間前から知っていた。だが、それを実際に味わうとなると気持ちの受け止め方はまた違うのだろう。「夕方は、あの子と行っていたスポーツ・バーにわたしも連れて行って」
「いいよ。その前に散歩でもしてくる」

 ぼくは家を出る。偶然、ぼくはお父さんとまだ小さな女の子が手をつないで歩いているのを見る。ぼくにそういう経験はなかったが、不思議とぼくと広美との関係のようにも思えた。ぼくのこころにもたしかにぽっかりと大きな穴が開いたのだ。まだ小学生だった彼女を運動会で見かけた。ぼくと雪代の交際が真剣なものに発展するには彼女の同意も必要だったのだ。ぼくは雪代を失いたくはなかった。自分が前の妻と死別し、自分の過去とつながるものを必死に求めていた所為かもしれない。ただ、ぼくは雪代との交際がずっと継続したものとならなかったことを後悔していたのかもしれない。そういうもろもろの拘束以上に、娘はよくできた愛らしい女性になった。東京での数年間で、どのように変化するのか、もうその年代の女性のことは自分には理解が不可能のようだった。

「ここね?」ぼくと、広美は休日によく来たが、雪代は店内に入ったことが無きに等しかった。
「お、近藤さん。こちらは、広美ちゃんのママ?」
「そう、こちら店長さん。若い頃、といってもほんのまだ小さかったときにサッカーを教えてあげていた少年」
「もう、ひげも生えてますよ。こんにちは、彼女、行っちゃいましたね。淋しいですか?」
「まあ、少しは」
「休みを何回か過ぎれば、この店でも大っぴらにお酒が飲める年齢になるから、そのときにまた連れて来てくださいよ」
「そのときは、おごってくれる?」と、雪代がたずねた。
「もちろん、お二人に。あとで、近藤さんがひとりのときに回収しますんで」

「それは、困るわね」と、雪代は言ってぼくの手の甲に自分の手の平を乗せた。ぼくはもう片方の手でビールのグラスをつかんで口に近づけた。雪代も背の高いグラスの足を持ち上げた。ぼくらはふたりきりになったのだという実感が確かにこの瞬間に湧いた。ぼくの人生がゴールに近付く途中の休息としてこの場面はしっくりとして安堵を与えてくれるものだった。

「広美も誰かと、こうするようなことがあるのかしら?」
「あるだろう。それが、大人になるっていうことなんだから」
「ひろし君みたいなひとなら直ぐに認めてあげる」
「ふたりといないよ」だが、ぼくにとって雪代と送った人生もとても大切で、価値の多いものになっていた。そして、これからの数年も数十年も彼女との暮らしを貴重なものにしたいと願っている。でも、起伏がないのも人生であり、波乱が多いのもまた同じように人生だった。選択をするかしないか、そもそも自分に選択をする権利があったのか知りようもなかったのだが。

壊れゆくブレイン(83)

2012年08月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(83)

 東京の大学に行くことを結局は広美も決め、ぼくは連休に彼女の家を探しに東京に来た。仕事柄なのか自分では見ることもせず、ぼくにすべてを任せていた。大学に近い沿線で、友人の瑠美という子の家の2つ手前の駅に妥当なアパートがあった。アパートといってもオートロックがあり、採光も素晴らしく、商店街もそれなりに繁盛していた。ここならば、数年間住むのに困ることはないだろうと思っていた。そこは、場所も良かったが、ぼくにはもうひとつ思い出があった。

 その思い出には裕紀がいた。瑠美という友人と新しいアパートの中間の駅に裕紀はひとりで住んでいた。そもそもは彼女の父が東京に居るときの仕事場だった。いまは誰の名義かも知らない。裕紀の兄が所有しているのだろう。もしかしたら壊されてマンションが立っているのかもしれない。

 ぼくは契約を済ませ、その足で電気屋に寄った。いくつかの品物を予約して配達してもらう手続きも取った。それから、昼ごはんのためにある店に入った。ぼくと裕紀はデートの帰りにそこに入ったことがあった。まだ結婚前でぼくらの間には真剣味がありながらも、一度、ぼくは裕紀を捨てた過去というものを互いから除き取れないころでもあった。それも20年近く前の出来事だった。

 ぼくはビールを頼み、奥で栓抜きの音がした。グラスとビールが運ばれ、ぼくは自分でそれを注いだ。それを運んできたのはある青年だったが、見覚えのある顔だった。この店の前でよく遊んでいた少年だったと思う。彼のその成長の度合いがぼくの過去の長さでもあった。また、裕紀を忘れ去らせることもできなかったぼくの月日の積み重ねでもあった。

 ぼくは、ぼんやりと壁にかかったテレビを見ている。テレビの形もかわった。自分の内面だけがまだじくじくと湿り、変わらないでいるようだった。

 ぼくは、そこからまた歩いた。冬はもう終わりに近づき、空気も緩む気配をみせていた。ぼくは上着のジッパーを下ろし、冷たい爽快な空気を頬や皮膚に感じた。それを何回ぐらい繰り返してきたのだろう。ぼくと裕紀の冬は、いっしょに過ごした冬は10回ぐらいだった。その短さをやはりいまでも残念に思っていた。

 ぼくは、ある坂道の手前でたたずむ。そこは裕紀が住んでいた家の手前にある坂だった。ぼくは再会して交際をやり直した後、よくこの道まで見送りに来た。彼女のこころもぼくに対する信頼を取り戻し、ぼくのことをまた好きになってくれた。いや、彼女のこころでは継続していた問題であったのだ。ぼくの気の多さがただ彼女を遠去けたのだ。ぼくはその坂道の階段の一歩目を踏み出す。忘れていたと思っていた過去の日々がその足の裏を通してぼくの体内をさかのぼり全身で感じられた。彼女の無数の笑顔。悲しんだ顔。涙。疲れた表情。病気を告白したときのあの蒼白な顔。だが、ぼくは棺のなかの彼女を知らない。彼女の家族に敬遠され、そして、自暴自棄になっていた自分はそのことを経験し、通過しなかった。それゆえに、トンネルをくぐり抜けなかった自分は、まだ前に普段どおりの道が続いているという錯覚を抱きしめたままだったのだ。

 半分ほど歩くと、その周辺の変化はまったくないことに気付いた。この隣の駅に広美が住むことになる。広美は裕紀の存在をどう受け止めているのか今更ながら心配になった。義理の父の愛したひとのひとり。そのもうひとりは自分の母だった。広美という独立した存在ながら、ぼくは彼女にも裕紀のその存在の素晴らしさの一部を受け継いで欲しいと思っていた。だが、それは無理な注文だった。

 ぼくは歩き続け、裕紀が住んでいた家の前までたどり着いた。表札には同じ名前が残っていた。やはり、彼女の兄が相続しているのだろう。そもそも、裕紀が住んでいたときから兄のものだったのかもしれない。ぼくはその辺はいつも無頓着であった。裕紀のことだけにしか注意をはらってこなかった。ぼくは後部を振り返り、なつかしい風景を見た。ひとりの女性を愛し続けると宣言したことが思い出された。その思いは相手がいない以上、中断される運命になった。だが、それは相応しいことなのだろうか。見ていないものに信仰を抱くひともいた。だが、ずるい自分は肉体を持つ女性しか愛せないようだった。そういう身体を有した女性と再婚をして、その娘の家を見つけた。

 また階段を逆に降りはじめた。君は、ぼくと会って幸せだったのだろうかと考えている。彼女の兄たちもぼくと裕紀が会ったことによって、命を縮めたと誤解しているようだった。その冷たい関係も、この寒さと同じように緩む段階に入りそうだったが、最初から関係というものが構築されていない以上、どこがゴールかも分からなかった。ただ、無関係のままの状態を継続し、ぼくのことを無闇に思い出さなくなったということで彼らの許しを得られるのだろう。そうなると、その許しは無意味だった。だが、許すとか許さないという関係はいまも過去の裕紀にとっても、無意味のようだとずっと階段の途中でも感じていた。

 その足の運びに乗じた揺れで、新しいアパートのカギがズボンのポケットの中で金属的なこすれた音を発していた。君も同じように東京でひとりで住んでいた。ぼくは、留学先にいると思っていた。だが、どこかで会うようになっていたのだろう。広美も、雪代の娘として生まれ、その10年近く経ったあとに、ぼくと会うようになっていたのかもしれない。ぼくは、階段を降り切り、ふたたび頂上を見るように坂の上の裕紀がいた家を眺めた。プロポーズに応えてくれた彼女のはじめての表情をぼくは思い出し、あの嬉しい感情がよみがえるようだった。

壊れゆくブレイン(82)

2012年07月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(82)

 それから何ヶ月か経って、広美は大学受験を迎える。あの小さかった少女が自分の未来を自分の手で捉まえようとしていた。ぼくは途中から彼女の生活に関与するようになった。愛してしまったひとの娘として。だが、いまではぼくと雪代は出会って恋に落ち、別れて結婚をしたという一連の流れから逃れられなかったように、ぼくと広美との関係もそういう強い絆のようなものが以前からあったような気もしていた。例え、別の男性の子どもであったとしても。

 広美はコートを着て、受験会場に向かう。何校かのひとつだ。ぼくもいつもより早起きして出掛けるのを見送った。彼女がもし失敗しても、ぼくと雪代が彼女に示す愛情は何ら変わらず、きちんと成功したとしても大げさに喜びすぎることはないだろうと思っていた。ただ、毎年花を咲かすのが決まった宿命のように、ぼくらはただ同じ営みを一定につづけていくことだろう。でも、早起きしたという事実が、いつもより入れ込んでいる証拠でもあった。ぼくは顔を洗い、雪代が入れたコーヒーを飲んだ。

「ひろし君が大学に受かったとき、多分、わたしが一番よろこんだ」
「大した自信だね」
「大学生同士の交際は許されるだろうけど、高校生を騙している年上の女性みたいな立場はあまり居心地の良いものじゃなかったからね」
「けっこう、古風だね」
「これでも、古風だよ。あんまり周りからも良く思われていなかったし。それでも、前にすすまない訳にはいかなかった」

 ぼくらはその10代の未熟な経験と感情で将来を見極め判断しようとしていた。もちろん、間違いの入り混じらない人生など決してなく、ぼくもいま思い返しても冷や汗がでそうなことが多々あった。だが、雪代とぼくとのつながりかけた関係は誰にも断絶することはできなかった。だが、ぼくらは何年後かにその関係を意図的か無意識か分からないまま絶ってしまった。それでも、お互いに配偶者をなくした状態で再会した。そして、雪代には広美を守るという立場がうまれていた。その関係に自分も入る以上、ぼくにも同じ問いかけが投げかけられた。あの少女を大人になるまで見守られるのかと? それで、彼女は大人になりかけていた。後は自分の手で好きなものを伸ばし、嫌いなものにもきわめて功利的に対処して成長するのだ。その存在はコートを着て、寒い外を歩き、試験の問題を埋める。

「それで、ぼくは大学に受かった」
「わたしは、陰で祈っていた。いま、娘にもしていないのに」
「それだけ、心配されていた」
「違う。若くて、バカみたいに好きだった」

 お互い、長い時間が経過したことを知っていた。その流れゆく時間に身を任せつづけるだろうということをこれからも楽しもうと思っていた。だが、任せるしか方法はないのだ。ぼくらには激流も、分岐点も与えられていない。あとは、残された大人ふたりが大河に運ばれるような気持ちでゆっくりと自然に身を任す。そして、その状態はとても素晴らしいものに思えた。

「その新聞、そんなに離して読んでいたっけ?」ぼくは新聞をテーブルに置き、コーヒーカップを片手に読んでいた。その距離のことを雪代は訊いた。
「もう18才じゃないからね」
「もう1杯どう?」

「うん、入れて」娘は未知の問題を読み解く。でも、同じような傾向の問題はたくさん解いたはずだ。ぼくらの人生も同じようなものだろう。似たような問題がある。だが、それを実際の自分に当てはめるようなことはしてこなかったかもしれない。ひとは死に、そして、産まれる。ぼくは、裕紀を亡くし、社長を失った。ぼくには子どもができなかった。だが、ぼくを慕ってくれた数々の子どもたちの瞳の輝きを覚えている。最初にあらわれたのは、まゆみだった。彼女はバイト先の店長の娘。なぜ、いま、この朝に思い出したのかは知っている。彼女は大人になり広美の勉強を手伝ってくれたのだ。まだ、レールも定まっていない少女の歩みのことを心配し道筋をつけてくれた。「そうだ、まゆみは、広美が受かったらいちばん喜んでくれるかもしれない」

「そうだろうね。まだ、隣の部屋でふたりが勉強しているかもしれないと思うことがある」
「母になる役目なんて誰も教えてくれないと思うけど、良く頑張ってるね」
 それは、まゆみに対しての言葉だったが、当然、雪代のことも念頭にあった。もちろん、自分の母や妹も。その役割を奪われてしまったゆり江という女性の存在もぼくは同時に思い出していた。彼女は、あのことから立ち直れたのだろうか? そもそも、ぼくも同じような立場である裕紀の死という不幸な事柄を忘れ、立ち直れてきたのだろうか?

「本能なんでしょう、そういうのって」
「たくさんの絵にも写真にもあるからね」
「不変の美。与えられた本能。でも、うるさくて仕方がなかったときも、いまは良い思い出にもなっている」
「東京に行っちゃうかもね」
「ふたりに戻ったら、こういう生活をするって、何か約束をして」雪代は決意を含んだ表情をしていた。ぼくらは力強くあろうとしながらも、どこかで心細かったのかもしれない。運命をつかみにいく立場の人間ではもうなく、そこから追われる人間のように感じていた。ぼくは真っ当な返事をしたかったが、早起きした脳はまだ起きていなかったのかもしれない。

壊れゆくブレイン(81)

2012年07月27日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(81)

「瑠美からチケットが送られて来た」広美が封を開けながら、そう言った。
「そういうのは、郵送でいいんだ?」
「え、なんのこと? ああ、これ。プレゼントとは違うから」彼女は文面を読み、返事もおろそかだった。「その前日に泊まらないかだって」
「どこで?」
「瑠美の家で」
「違うよ。その演劇のことだよ」
「高校の文化祭。何枚か入っているので、ひろし君とママもどうかと」
「何日? わたし、その日は無理だね。ひろし君は、どう都合」と、雪代が言った。

 ぼくはカレンダーを眺める。ぼくは東京の支社の仲間からサッカーの試合のチケットを譲り受けていた。彼は弟の結婚式があるとかでなくなくそのチケットを手放した。ぼくは2枚あったものがまだ机の引き出しに入っていることを思い出していた。できれば、甥を誘おうかとも考えていた。彼も大学受験に向けて勉強をしていたが、ときには息抜きも必要だ。それが前日で翌日は東京の街をぶらつこうと考えてはいた。そもそも、そのふたりはどこかで出会わなければならないのだ。

「前日にサッカーの試合があって外国からチームが来る」
「なら、ちょうどいいじゃない。どこかで待ち合わせて」
「うん、文化祭か」
「どこかで、食事でもおごってもらいなさい。きれいな女の子の特権なんだから」
「そうしてもらう。ねえ、聞いてる?」広美はまたチケットを封にしまった。

 ぼくはあることを思い出していた。まだ、大学生だったのだろう。上田さんの大学でも文化祭があった。そこに出演したある女性がいた。歌がうまく、ステージの上で魅力を放ち、その存在よりおおきく見えた。あとで会ったときに、意外と小さくシャイで引っ込み思案な態度が印象的であった。でも、名前も思い出せない。若いまだ未完の人間が自分の能力に気付き、その才能を生かし、ときには無駄にして、さび付き劣化する過程を考えていた。あの女性はいったいどういう未来を作ったのだろう? ぼくはその女性と瑠美という女性を重ね合わせていた。彼女の未来はぼくの前からなくならないのかもしれない。もし、本当に甥と結婚するようなことになれば、ぼくと甥とのつながりが消えない限り、彼女もぼくの周辺にいることになる。ぼくは、あの言葉を信じているのだろうか? 本当であるか、嘘であるかのどちらの保障もない言葉を。そして、ぼくは誰かが目の前から消えるということをどこかで脅えていた。

 何週間か経って、ぼくと甥はサッカーが行われている試合のスタンドにいた。華麗なパスや的確に狙われたゴールを喝采とともに見た。未来はまだ誰の手元にもあり、それを自分の気分ひとつで変えられる魔法がサッカーにはあった。その未来の瞬時の判断や選択を見誤ると、劣勢でいる立場に甘んじなければならない。ぼくは、頭で考えるより、実際にあのグラウンドで動き回りたかった。でも、それはもう無理だった。歌声を盗られた鳥たちのように。

「腹へったな?」ぼくは、いくらか若やいだ気分になっていた。
「うん、同じく」
「いつも、出張のときに来る店があるんだけど、そこでいいか? お酒がメインの店だけど」
「いいよ、どこでも」甥のかずやは感動と能力の限界を味合わされたひとのようにぼんやりとしていた。

 ぼくはそこで焼酎のロックを飲み、煮付けられた魚を食べた。甥は鳥がていねいに焼かれたものが乗っている丼を食べていた。そこで、勉強の話をしたり、サッカーの話をしたり未来のことも話題に取り上げた。それから歩いて帰れる距離であるビジネス・ホテルに泊まった。いつもはシングルの部屋だが今日は少しだけひろいツインの部屋だった。ぼくはビールを買って甥がシャワーを浴びている間、ベッドの上で足を伸ばしテレビを見ていた。こうしていると、女性がいない気楽さを感じていることに気付く。ぼくはいつも妻と義理の娘のなかで暮らしている。それはもちろん嫌なことではなかったが、自分の振る舞いに注意を払っていることも同時にあったのだろう。

「ひろしさん、明日は?」かずやは大きいタオルで髪の毛を拭いている。
「渋谷にでも行こう。それから娘と会わなければならないんだ。お前も、来るだろう?」
「いいけど」
「高校の文化祭だって。東京の高校ってどういうもんなんだろう」
「さあ。どうぞ、シャワー使って。オレ、眠くなった。テレビ変えてもいい?」

 ぼくがシャワーを浴びて出てくると彼はもう寝ていた。手の平にテレビのリモコンがつかまれていた。ぼくはそれを取りチャンネルを変えたが、直ぐに消した。それから室内の照明も暗くして、ベッドのなかに身体を入れた。

 翌日の夕方、瑠美も含めて4人で夕方、食事をした。それで、満足できないのか、帰りの電車のなかで広美もかずやも弁当を食べていた。

「瑠美って子は、なんだか都会の子の顔付きになったね?」
「なんだか、嫌味に聞こえるよ」広美は、弁当のおかずを口に含み、にやけた顔でそう言った。
「かずやもそう思わない?」
「さあ、とくには」無関心であるように、それが演技でもなく実体のまま彼はそう答えた。ぼくはなんとなく窓の外を見て、ひとつの言葉で運命など作られることはないのだ、と喜ばしいような期待が裏切られたような思いがしていた。しかし、あの女性は裕紀の死を知っていたのだ。それこそが自分にとって重要な宣告だったはずなのだ。

壊れゆくブレイン(80)

2012年07月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(80)

「東京で瑠美という子に会ったよ。これ、預かった」ぼくは小さな荷物を広美に渡す。
「ほんとに行ったんだ。ひろし君の会社は近いとは言ったけど」
「正直な子なんだろう」あの子は、ぼくの甥と将来、結婚することになるとある女性が明確に言った。ぼくはそれが消化不良の食べ物のように体内に残っていることに気付いていた。だが、その不明確な思いは直ぐに解消できるわけでもない。また、傍観をきめこむわけにもいかない。何だか宙ぶらりんな状態にいた。しかし、意識はしている。「ああいう高校生も好きなひとがいて、そのひとのことを思い出して、狂おしい気持ちになったりするのかね?」

「どうしたの、突然?」広美が封を開けた箱から目を離し、こちらを凝視した。「それは、なるでしょう。ロボットじゃないんだから。どう、似合う?」

 それは小さな飾りがついたネックレスだった。雪代の店にもたくさん同じようなものが売っている。ぼくは、そのことを告げた。
「でも、友だちの目を通して選ばれたものを身につけるということが、ここでは大事なんだから」女心が分かっていないとでもいうような表情を彼女はした。そして、胸のまえにあてがっていた状態から、首の後ろに両腕をまわし、器用にそれを着けた。その姿を鏡で見るべく、広美は奥の洗面所に消えた。
「東京でのアパート、ありそうだった?」居なくなったのを合図にしたように雪代が声をかける。
「あ、そうだね。何だか仕事が忙しかったから」
「あら、そうだったの。じゃあ、また来月にでも。来月もやっぱり行くんでしょう、東京に?」

「うん、行くよ」ぼくは、ある人間の未来の選択という問題にこころが奪われていた。広美は大学を選ぶ。そして、受験する。もちろん、運だけじゃないが受かったり、落ちたりする。東京で暮らすことになるのかもしれない。いや、まだこの土地を捨て切れないでいるのかもしれない。もし、東京に行ったら旧友との交流を再開することになるのだろう。どの時点であの女性とぼくの甥はふたたび出会うことになるのだろう。すれ違うというような単純なものではなく、相手に好意を持っているということにどの段階で気付き、どの段階で、当人に言葉や素振りで説明するのだろう。ふたりはともに大切な存在だと理解することになって、喧嘩ややり直す機会をもって、結婚することになるのかもしれない。その一連の行程は遅いようでありながら、また素早く駆け抜けるのかもしれない。それを既に自分は知らされた。やはり、ぼくは知らない方が良かったのだ。そうなると結論として、ぼくは裕紀の突然の死も知らない方が良かったのだということに答えを導かざるを得ない。それで教えてくれなかったということだけで、誰かを恨むということは正当な考えではなかった。

「どうかしたの? ぼんやりしている」
「いやね、東京でひとりで住んだときって不安だった?」
「不安でもしなければいけないという決意みたいな気持ちがあったから。大きかったから。でも、懐かしい。ただ、懐かしい。あのときの東京って、なんだかきれいでエネルギーがあったよね」

 ぼくは高校を卒業して直ぐにひとりで雪代に会いにいったことを覚えている。まだ、どの道も、その町も雪代という目の前の存在も踏破していないということから生じる新鮮な驚きの連続と、未体験ゆえの多少の恐れがあった。武者震いにも似た気持ちを抱え、また違った場所にいる雪代の姿を眺められるという期待もあった。あの頃の年代の女性は一日ごとに変わる。また変わることが必然的に求められる職業に雪代はついていた。それで、数週間会わないだけで彼女の印象は変わった。その変化をぼくは見逃したことで後悔を抱き、その雪代を自分の腕のなかに抱くことによって、この日の分はつかまえられたという納得がいった満足を覚えるのだった。この時だけは誰のものでもなくぼくのものであった。彼女の抱擁は甘く、ぼくを大人にしてくれる過程が鮮やかな姿として、いくらかは錯覚とも思いながら、しかし確かに現実でもあった場面が、コマ送りのように自分の脳裏に写っていた。東京での過ぎ去ったある夜。

 それはぼくの視線が対象を見つけ、その視線から派生した一環の流れでぼくの記憶として生き残ったのだ。ぼくの視線が伴っていなければその雪代の姿はとうになく、歴史の渦に消えてしまうかもしれず、第三者の視線によって女性の美とその瞬間が切取られ、記憶されていったのだ。そのようなことが広美にもある将来に起きるかもしれず、瑠美という女性にも訪れるのかもしれない。その瞬間の連鎖を今度は覚えていくのはぼくの甥かもしれなかった。

「ありがとうって、いま、メールした」広美は、首にネックレスをつけたまま、またこちらの部屋に戻ってきた。
「持ってくるのは大変だったけど、返事は簡単だな」
「大変じゃないでしょう、あんな小さい箱なんだから」雪代はその箱を手の平に乗せ計るような仕種をした。
「そういう意味だけじゃないよ。突然、会社に若い子が来れば、みな驚いたりするから」
「そうか、ごめんね」まるで嫌な頼みごとをさせた弟にでも言うような口調で広美は言った。
「別にそういう重いことでもないけど、また友情を東京ではじめられるといいね。メールなんかじゃつまんないよ」ぼくはひととひととの繋がりを、有限ゆえに美しいものだとこのときは感じていた。

壊れゆくブレイン(79)

2012年07月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(79)

 翌朝にぼくはまた遅めの時間に東京の支社に出勤する。午前はそこで予定があったが、昼前には開放され、帰りの電車に乗るために駅に向かおうとしていた。そこで、久々に会うことになるひとを見つける。彼女は不本意ながら未来が分かる。
「久し振りね」
「本当です。あれ、いつもの犬は?」
「あれから、何年経っていると思っているの? 人間にも寿命があれば、犬のはもっと短い」
「そうなんですね。残念です」
「失うって、悲しいものね」
「そうですけど、こればっかりは仕方がない」
「昨日、女の子に会ったんでしょう? 可愛い子」
「それも分かったんですか?」
「違うのよ。ただ、見ただけ。そこの出入り口を通ったところを偶然に。あの子、あなたの人生にも重要になる子なんですよ」
「そうなんだ、それも分かる?」彼女はただうなずく。そのうなずき方のひとつでぼくらが過ぎ去った年月が表現されているようだった。

「はっきり言うと、あの子、あなたの甥と結婚するのよ。その前に、いろいろな試練に遭うけど」
「そういうことを言っちゃうんですか。ぼくの楽しみを取り除くように」
「あなたはわたしが言わなかったことでいまでも恨んでいるから」
「恨んでいませんよ」彼女は、裕紀の若過ぎる死を知っていた。その力で予見していた。だが、当然のようにぼくには告げなかった。もういまでは恨みとも思っていないが、過去の一時期そのことに拘泥した。ぼくは知っていれば、もう少しましな夫にもなれたかもしれなかったのだ。時間を割き、裕紀のためにそれを用い、その愛情を注ぎ。だが、そのチャンスは知らないからこそ棒に振った。責任を誰かにただなすり付ける必要があったのだろう。「恨むのには、もう疲れたし。そうだ、ふたりはまだ互いのことを意識もしていないと思うけど。甥っ子も瑠美という女性も」
「いまはまだ。あなたたちみたいに偶然に東京で再会するのよ。あと何年後かして。そこで互いの気持ちに気付く」
「それは変わることはない?」

「多分。あなたと前の奥さんが会ってしまったように」彼女はある一点を指差すように振舞った。ぼくと裕紀はここからは陰になっているが、あの店で仕事前の朝のひととき見つめあったのだ。
「ぼくは知ってしまったことを、どうすればいいのかな?」
「あなたは、なにもする必要がないでしょう。サイコロは振られ、ルーレットは廻っている。ただ、落ち着く先を知っているだけ」

「しかし、こういうのも困った立場ですね」ぼくは正直な気持ちを伝える。自分の側から理解できる範囲で。
「わたしは、物心ついてからずっとそれと向き合ってきたのよ。いくらかお金は手元にできたけど、ただ虚しかった。利用されることを知ってからは、もっと自分の価値が汚されるような気もしてきた」
「ぼくは甥の未来の一部を知っただけで、こうしてうろたえた」ぼくは自分の身を守るようなことばかりを言っていた。「でも、そのことをなぜいま言ったんです?」

「ひとつは、あなたの恨みを消してほしかったから。わたしが奥さんの未来をすぼめた訳でもない。事実を知ってしまっていただけ。あとは多分だけど、こうして会うのも最後のような気がしている」
「最後?」

「わたしはずっと小さいころから自分が住むべき場所を探していた。母につれられ、誰かの未来を見ているときにも。わたしは無名で狭い路地かなんかで洗濯物がたくさん干され、美しくもないけど、ほっとできる場所を。やっと、その場所が分かったような気持ちになっている。ちょっとばかり遅くなってしまったような感じはしているけど。これから、そこに住む。だから、あなたとも会わない。結果として」

「良かったですね。それに、ぼくにはなにか大きなことが起こるんですかね?」
「ただ、きれいな女性とふたりでしみじみと暮らしている姿が見えている。ふたりともなにかを失ったけど、大切なものを手に入れている表情。それで、充分でしょう?」
「充分ですね」
「前の奥さんはなにかを書くのが好きだった?」
「好きだったと思うけど、なにも残っていないから、そういうものは」
「そう。どこかにあるような気もしている。錯覚かしら」ぼくも同じように考える。彼女の衣類やアクセサリーは処分した。他に残っているものはなかった。裕紀の叔母は手紙をいくつか保管していた。でも、それは普通のひとより好きという範疇にも入らないぐらいの量だった。

 ぼくらは別れる。これで、きっと最後になるという再会だった。そう宣言されたから分かることで、普段はどんなひととも最後になる可能性だってあるのだった。もちろん、裕紀のことを持ち出さなくても、彼女と過ごした時間は突然終わり、短いものになってしまった。ぼくは何人かのひとと再会したいとそのときに切に願った。社長のこと。島本さんにも会って、力ずくで雪代を奪うとでも言ってみたかった。その後、喧嘩になろうともかまわない。ぼくは彼を殴ることもできるのだ。死んだひとには危害も優しさも加えられない。ただそれだけが残念だった。

 ぼくは特急電車に乗り、トンネルの中で暗い窓にうつる自分の姿を見つめた。あの小さかった甥が誰かと結婚することになるとは。甥と姪は裕紀のことが好きだった。その少年が東京で、ぼくと裕紀のようにある女性と再会する。その更新されていく思い出がぼくの顔をほころばせ、より一層悲しい出来事を鮮明にさせた。列車はトンネルを抜け、ぼくの耳はそれによって閉塞感をおぼえた。そのつまった耳に裕紀の声がとつぜん聞こえたような気がした。

壊れゆくブレイン(78)

2012年07月10日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(78)

 ぼくはまた東京に行く特急に乗っている。いまでは月に一度ぐらいの頻度で通っていた。そういう状態になるとたまに見かける顔というものがあった。お互い話すわけでもないが、似たような環境にいるということは理解できた。だが、仕事をするという環境が似ているだけであって、そのひとが妻を大病で失った訳でもないだろう。辛いような出来事もあったかもしれないし、ぼく以上に壮絶な痛みを経験したのかもしれない。だが、いまはこうして少し離れた席で、東京に向かう電車のなかで座っていた。見知らぬもの同士として。

「ねえ、東京で広美が暮らせそうな家を探してきてくれない?」と妻が前日、こっそりと言った。
「やっぱり、離れてもいいんだ。どんな感じのものを?」
「なんとなく落ち着いていて、親しみやすそうな場所で。言いたいこと、分かるでしょう?」
「惣菜なんかが売ってある商店街があって、可愛い子には値引きしてくれて」
「それは、テレビのファンタジー」
「いいよ。考えておく」

 ぼくは特急の列車に揺られ、その雪代の言葉を思い出している。ぼくは再婚してからずっと広美と暮らしてきた。離れて悲しいとかは考えてもなかったが、実際にその状態が近いうちのいつかに来ると思うと、こころは穏やかなものではなかった。だが、いつの間にか眠ってしまい、電車は終点に着いていた。同乗者は消え、ぼくは急いで荷物を掻き集めホームに降りた。

 その日は東京の支店のビルで一日会議をしていた。ぼくはいくつかの提案をもらいそれを具体化させる必要ができた。その途中経過をメールで説明するにせよ一ヵ月後に最終案を見せる。そして、また同じく再来月になるのだった。だが、その日はいつもとその後の予定が変わった。

 受付からぼく宛てに内線がかかってきた。受付嬢という決まった人間がいるわけでもない。それは前の社長が決めたことだがいまでも守られていた。一階のオフィスで手の空いたものが受け持つ。そこからの内線だ。ぼくは自分のデスクも電話もないのでそばの電話を借りて、それに出た。「平川さまという女性がお見えです。ここで、お待ちいただきましょうか?」
「誰か分かんないけど、そうしてもらって。どんなひと?」

 彼女は小声になる。東京勤務のときに親しくしていた間柄なのだ。「制服を着て、高校生みたい。うんと、若い。誰ですかね?」彼女も逆に質問をする。

「さあ」ぼくは受話器を置き、まわりに挨拶をして帰る仕度をした。エレベーターを待つのもしんどかったのでぼくは非常口の階段をつかった。そこまで降りるとロビーには制服姿の女性がいた。その子はぼくの姿を確認すると安心したかのように顔をほころばせた。

「あ、君か」それは広美の友だちで東京に引っ越した女性だった。ぼくは、情けなくも名前を思い出せずにいる。「ごめんね、名前を忘れちゃった。正直に言うと」
「瑠美です。平川瑠美」
「そうだった。演劇をしていたね。その制服、この近くでもたくさん見るけど」
「学校は直ぐそこです」彼女はそとを指差す。
「そうだよね。でも、会社にあんまり高校生の女の子なんか来ないから、ちょっとびっくりしている。外に出ようか?」ぼくは、彼女の目的を知りたく外に出た。多分、広美が関係していることには間違いがなかった。

 ある店に入り、ぼくはコーヒーを頼み、彼女は変わった名前の飲み物を注文した。それをストローで吸っている。
「いまでも、広美とメールをしていて、誕生日のプレゼントを渡すって約束したのに、それを果たせなくてどうしようかと思っていたら、ああいうものって、どうしても手渡しにするもんですよね? 郵便とかで送るものじゃない。そういうことを言ったら、ひろしさんが、ごめんなさい、広美のクセで、近藤さんが東京の会社に来ているから、いいえ、用事があるから行くので、渡してと言われたので、つい、来てしまいました。学校も近いんで」

「そうなんだ。なら、受け取るよ。ありがとう」ぼくは小さな包みを受け取る。その荷の重さを量るように軽く揺すった。「まだ、仲良くしてるんだ。してくれているんだ」
「わたし、多分ですけど、いままででいちばん気の合った友だちです。引っ越したのが、いまでも、とても残念です」
「君がいなくなったとき、彼女もずっと泣いていた」ぼくはその日の姿を思い出している。
「ほんとうですか? 嬉しいな。いや、淋しいな」
「だけど、彼女も大学は東京のに通いたいって言っているから、もう直き会えるよ」
「きいてます」
「そうだ。いまでも、演劇をしているの?」
「はい」

「どういう練習をするのか、全然、思いつかないね。そうだ、ごめんね、突然。広美は東京のどこに住みたいんだろう? なんか聞いている?」

「とくには。いまの距離に比べたら、どこでも近いですからね。私たちだけの話だとしたらですけど」ぼくはこの瑠美という女性と広美との距離を若い頃の自分と雪代に当てはめている。ぼくらは彼女らと同じ年代だった。ただ、そばに居たいという気持ちが強い年頃でもあった。だが、自分の仕事での成功という確信のもと、雪代は東京で暮らしていた。ぼくは地元の大学に通い、そこでぼくらは互いの都合が良いときに行き来した。女性同士と男女とでの差でどういう違いがあるのか分からなかったが、そこには信頼しあった仲としての希望を含んだ愛情が確かにあるのだろう。

壊れゆくブレイン(77)

2012年07月05日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(77)

 秘密という隠し事の別名の数が増え、それを大事にしまいこんで大人としての生活を送る。たまにばれない程度に思い出し、自分に起こったことではないような気持ちをもった。その量が少なかったさっぱりとした時代のことも考えている。だからといってすべての悩みがなかった時などなかったことを知る。勝ち続けられないぼくらのラグビー・チーム。自分の怪我や不調。外国にまで押し出してしまった初恋に近かったひと。

「そろそろ、勉強をしっかりとまじめにしないと」と、広美が宣言する。ぼくは彼女の秘密の分量を考えてみる。母親に知られたくはないこと。義理の父には見つけられたくはないこと。しかし、秘密ゆえにぼくはその手応えも実際のありかも分からずにいる。

「自分がそういうことに追われていた頃がなつかしいな。世界の宗教のことも一切知らずに地域と年代を覚えたっけ」
「それがテストに受かるってことだから」と雪代が言った。ただの事実というだけで皮肉も含まれていなかった。「お得意さんにはお中元のセールのハガキを出しましょうとか誰も教えてくれなかったしね」彼女はメガネをかけて小さな白い紙に字を書き込んでいた。

 ぼくは広美がひろげていた参考書をパラパラとめくる。英語の例文があり、ふたつの空の升目があり、そこに適当な前置詞だかの用語を入れる。その具体的な活用の場面をぼくは思い出せなかった。裕紀はシアトルに留学した。結婚をしていた間にたくさんの思い出をきいた。それはぼくには日本語で話されていたが、実際は外国語での思い出だったのだ。その差異がどんな影響を与えるのか理解しようとしたが、それも無意味だった。

「勉強って大事だと思う?」机の前で集中することに飽きたのか、広美がぼそっと言う。
「頑張ったな、あのときは、という事実がね。あとは、ぼくは体験重視だから」そもそも集中することを強いていなかった自分は思いついたことを何でも言った。ラグビーでの試合でぶつかった相手の勢いを数式と重量で知ったとしてもぼくには無意味だっただろう。事実の重み。自分が吹き飛ばされたという無様な格好のほうがより一層真実だった。
「大学で楽しい思い出ができるんだから。東京での生活もあるし」
「まだ、決まってないよ」
「わたしは、ひろし君といっしょに子どもに邪魔されずに生活するんだから」
「分かったよ。そのかわりに、きれいな部屋を用意してよ」
「そんなの自分でバイトをしなさいよ」

 ぼくはそれを他人事のように聞いている。親子のみでできる会話。誰も干渉できない関係。ぼくはすることもなくなってひとり外に散歩にでかけた。だからといって、急にすることができるわけもなかった。ふと、ぼくは電車に乗って数駅先まで出かけることにした。映画館の前にひとりぼんやりと立ち、見るべき映画を探した。そこで時間が無為に過ぎていった。主人公が経験する不幸も自分にとってはリアルに響いてこなかった。また歩き、そこに隣接されているファッションビルで本を立ち読みした。世界は成功への渇望で餓えているようで、いやな気持ちになりそこもあとにした。それから近くの店で冷えたビールを飲んだ。

 話す相手もいなかったぼくは笠原さんのことを思い出した。彼女のある一日の思い出にぼくがいる。ぼくのあの日には必ず笠原さんが結びつく。その単純な事実にただ驚いていた。ぼくはさっきの広美の参考書のふたつの空欄に笠原さんの笑顔と自分のむかしの姿を当て嵌めた。それがしっくりきたかといえばそれも違く、彼女のときおり見せる悲しいようなやり切れないような表情のほうがうまくフィットした。

 ぼくは帰りの電車に乗った。そこに裕紀に似た、いや、若かったころの裕紀に似た女性を発見する。あれが、もしかしたら裕紀の姪っ子なのだろうかと思った矢先、ドアが開きその子は友だちと笑い合って群集のなかに消えてしまった。ぼくはそのことが悲しいのか、こうして何度も裕紀の亡霊を思い出し、また、群集のなかでしっかりと掴み切れないことが悲しいのか分からないままそこで瞬間立ち尽くしてしまった。すると、改札に向かっていた野球部員がぼくにぶつかった。同時にその子の持つバットの角がぼくの脛にもぶつかった。彼は丁寧に謝ったが、どちらにしろ悪いのはぼくのほうだった。だが、その痛みはぼくが裕紀を忘れていたことの罰にも思えた。ぼくが彼女のことをどれほどの頻度でなつかしがるのが相応しいのかと改札を抜けても考えていた。ぼくと、その彼女に似た子の接点は、この町のどこかに隠れているのだろうか? いや、実際にはないだろう。ただ数秒のことだけだったのだ。幻としては理想的な数秒だった。

「どこ、行ってたの?」雪代がくつろいだ姿のままたずねた。彼女と広美はテレビに映る映像を見ていた。そこには無数のペンギンがいた。それらには脛の痛みがあるのかぼくは疑問をもった。多分、ないのだろう。
「ただ、ぶらぶらしていた」
「これ見てみて、面白いから」雪代はテレビに視線を戻し、食い入るように見ていた。ぼくはその白と黒のコントラストを無心に眺めた。

壊れゆくブレイン(76)

2012年07月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(76)

「あの日のこと覚えてる?」と、潤んだ目で笠原さんが訊いた。翌日、ぼくは職場の自分の席で資料を作っていた。出来栄えはあまり良いものではなく、さらに時間をかけての手直しが必要だった。ぼくはその問いかけの出来事をもちろん忘れることはなかったが、彼女にとって、そのことは、夏の蚊に刺されたぐらいの印象しか与えていないものだとばかり思ってきた。

 ぼくの返事も待たずに、笠原さんは言葉を付け足していく。
「運動会でヒーローになるためにいっぱい練習したのに、ゴールも勝利もそこまで来たのに、直前で転がって、その失敗自体を認めたくなくて、いや、違うな、気付きもせず、納得もいかずにいるような感じの呆然とした少年がいた」
「それは、ぼくのことを言ってるの?」彼女は黙っていて、というようにただ強く小刻みに頷いただけだった。

「わたしは、そのことに気付いてしまった。そばにいて慰めてあげるしか方法がなかった。愛情かもしれないし、ただの世話をやきたかったおばさんのようなものかもしれない。それがうまくいったのかどうかも分からない。でも、うまくいくってどういうこと?」

 それが質問なのか分からなかったがただ語尾があがってはいた。
「うまくいった。ぼくは無事にまだこちら側の世界にとどまっているし」
「感謝されるようなことでもない、言葉も必要ない。でも、今日みたいに元気そうな顔をもっと早く見られていれば良かったな、とすこし時間が経ちすぎたことを残念に思っている」
「ごめん」

「どうして、あやまるの?」理解ができないというような表情を笠原さんは作っていた。
「ただ、こうして元気だから」君の差し出した肉体がこの世界に留めてくれた。「ぼくは恩も知らずに新たな妻を持ち、若い娘と週末には楽しく酒を飲んでいる。死にそうな人間でも、もうとっくになくなっている」
「それで、良かったのよ」

「もっと早く、そういうことを報告する義務があったのかもしれない」
「わたしの身体は跳び箱みたいに役立ったとか?」彼女は笑う。ぼくが知っているころより数段大人っぽい女性の笑い方だったが、それゆえにそこには相反して、はにかみと清純さも含まれているようだった。「内緒のことがある人生って、つまりはいいことだよ」
「そうかね?」

「お婆ちゃんは孫に囲まれ、ひっそりと自分の過去に訪れた不思議な体験を思い出す」
「でも、ぼくのことは好きなタイプでもなかっただろう? 転がった少年が可哀想であっただけで」
「分かんない。裕紀さんのこともわたしはとっても好きだった。ああいうひとがいなくなることを許すことがわたしもできなかったし、抵抗したかったんだと思う」
「楽しかった夏休みも終わってしまう」
「どういうこと?」

 ぼくは自分の口から出た言葉に自分自身で驚いていた。ぼくと裕紀との関係は夏休みのような儚く楽しい幻影に過ぎなかったのだろうか。九月にでもなれば、これから来る冬のためにまじめに暮らすことだけが必要でもあるというようなものなのか。うつむき、額にしわをよせ、冷たくなる手をこすり合わせ暖めるような努力の要る人生。ぼくはいまそのような状態を歩んでいるのか?
「なんだか楽しかった夏休みも終わり、宿題もなんとなく体裁は整い、明日からはじまる新学期のために、久し振りに引っ張り出したカバンにそれを放り込む。ある日の決別の象徴のように」

「わたしは決別のために、ひろし君と抱き合ったのかな。そうなると」
「決別と再生だよ」だが、そういう関係は笠原さんとだけではなかった。ぼくはゆり江ともそういう象徴的なローソクを灯す行為をした。さらに、別のひととも。そのローソクは弔いのために河口に流れていく。裕紀は、ぼくのそういう浅はかで無残で愚かしい行為を知らない。ただ、いまは、それを無意識に死体にもなった彼女は求めたのかもしれないと考えている。ぼくと叔母の記憶に残るだけでは不服で、ぼくの悲しみを鎧として味方に取り込み、何人かの女性の身体に刺青のように自分の死を刻み付けさせた。それは、ここでぼくと笠原さんがお互いに起こったことを話しながらも、それを裕紀という人物と切り離せないことだと理解しているような状態に無抵抗に甘んじさせることによっても。「裕紀に病気が襲わなかったとしたら、ぼくらはそういうことをしなかっただろうか?」

「分かんない。きっかけを探していたのかもしれない」彼女はバックからハンカチを取り出した。「ごめん、わたし、酔ってる」

 ハンカチを取り出した隙間から携帯電話の振動が伝わってきた。彼女は画面を開き、そこに書かれているだろう文字を読んでいる。
「高井君?」
「うん、そろそろ迎えに来るって。近くのスタンドでガソリンを入れている最中だって」
「秘密の上塗りをした。きょうは」
「また、思い出してね」

 そう、昨日の笠原さんは最後に言った。ぼくは思い出しているし今後の人生でも何回となく、あの日のことも、昨日の再会も思い出すことだろうと事前に知っていた。孫に囲まれている笠原さん。ぼくは裕紀の叔母をなぜだか思い出していた。もし、仮りに彼女の最後の日が来るならば、ぼくは裕紀とそこにいたかったのだと悲しくなった。その悲しみは誰にも裕紀の叔母にも訪れる死のことなのか、それとも、裕紀となにかを新たにはじめることができない無気力さの心痛のためなのか分からなかった。

壊れゆくブレイン(75)

2012年06月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(75)

「まだ、帰らなくていいの?」
 笠原さんはその問いかけに応じて自分の腕時計を見る。

「なんだか、あっという間に時間が過ぎてる。久し振りに会ったのに、以前とそんなに様子が変わっていなくてよかった」
「容姿は変わったけど」
「つまんない。さっき、トイレに行っている間にメールした。帰りにここに迎えに来てくれるって返事があった」
「なら、大丈夫だ。この店、分かるかな」
「うん、知ってた。また、何年も会わなくなるんでしょうね、これから」
「これでも、東京に出張にたまには行くんだ」
「知ってる。智美さんとか上田さんにたまに会ってるとか。それ以外に、いつも会うひととかいるの?」

 ぼくは少し思案して「裕紀のおばさん」と言った。口に出すとそのひとを思い出す。思い出すというからにはそれまで忘れていたという証拠でもあった。だが、まったく消えていたという訳でもない。ぼくと彼女の不思議なつながりがあった。それぞれ自分の大切なものを失ったという事実を介在にして、より一層緊密な関係になっていく。
「会うんだ。それで、なにを話すの?」
「近況とかだよ。彼女はこの前入院した。それも、裕紀が入院してた病院に」
「じゃあ、辛かったでしょう」

「乗り越えなければいけない思い出」しかし、ぼくはそこに寄って見舞っただけなのだ。裕紀の叔母は自分の可愛がっていた人物と同じ病院で寝ていた。どちらの方が辛いかは分からないが、ぼくよりも彼女の方が身に応えただろう。
「生きるって、それでも素敵なことだと思う?」

「もちろん。自分の人生の最後になったら、やはり、オレは生きつづけたいとか叫ぶと思うよ」裕紀は、どうだったのだろう? 看病をしているぼくに申し訳なさそうな態度をしていた。ぼくはもちろん回復すると思って、それにあたっていた。もし、回復しなくてもあの状態ですら続いてほしいと思っている。彼女はまだこの世界にとどまっているという安心感と幸福をぼくに与えてほしかった。しかし、苦しかったのも事実なのだろう。どれほどの痛みが彼女を襲い、それに無抵抗で挑むしかなかった彼女の弱っていく肉体。ぼくに喜びをくれた肉体が痛みに奪われていく。それは虚しいことだった。

「そういう結末がくると知ってても、彼女を選んだ?」
「ぼくらは会ってしまったから。一回、ぼくは無頓着に考えもなしに彼女との縁を切った。しかし、東京でなぜだか再会した。運命がそれを罰したとして、彼女を奪ってしまっても、ぼくは甘んじて受け入れるしかない。でも、もっと簡単な結末にも憧れるよ。童話の終わりのような。それ以来、彼らは寄り添ってふたりで幸せに暮らしましたとさ、という感じにね。君も高井君を選ぶんだろう?」

「多分。でも、いまだに前の彼氏のことを思い出したりもする。なぜ、わたしのことをふったんだろうとか、どこがわたしのいけない部分だったんだろうかとか。そういうことを考える」
「どこも、いけなくないよ」彼女は笑う。

「それは他人だからだよ。裕紀さんのいやな部分だって、当時はあったかもしれないでしょう?」
「多分、あったんだろうけど、それすらも思い出すきっかけの一部分に変化してしまったから、もう何とも言えない」

 ぼくらはやはり友人として性が合っているのか、話しつくすことはなかった。ぼくは、東京にいて、彼女と仕事が終わったあとに会った楽しい日々をなつかしく回想している。ぼくらは笑い、ときには意見が喰い違って多少の口論めいたことはした。ふたりとも、それぞれパートナーがいて幸せで、ぼくから何かが奪われていくという大きな経験もまだしていなかった。そのままの時間が継続していたら、自分はいったいどういう性格になっていたのかと考えている。もっと優しかったのだろうか? 幸運であるということは自分にとって当然で、他人の痛みになど無頓着な横暴さを身につけるようになっていたのだろうか。しかし、いまここにいる自分は違かった。さまざまなものが手の平からこぼれ、それから、もっと前に結んでいた関係を手の平ですくった。義理の娘もできた。痛みはあったにせよ、それなりの、いやそれ以上の幸せにも恵まれてきたのだ。楽しい会話とお酒が、ぼくを前向きな気持ちに変えてくれていた。

 笠原さんはふと口をつぐむ。ずっと気にかかっているようなことを思案している様子だった。ぼくも、それを忘れてはいない。アスファルトを敷き詰めた道が、以前は小石があり、大雨が降れば水たまりができた場所だったということを覚えているように。ぼくの土砂降りの日々。我を忘れ、お酒ですべてを紛らわそうとしていた夕暮れから夜。何人かの女性の肉体を自分の都合の良いように使った。ぼくは不幸で、悲しみの絶頂にいたのだから当然なのだという思い上がった傲慢さがあった。それに優しく同調するように彼女たちはいた。その悲しみをぼくから引き剥がすには、暖かな身体を提供するしか方法がないのだと無意識に感じていたようだった。

 彼女は口を開く。いつか、この言葉を聞くのを待っていたようにぼくの耳はその言葉に馴染む。そして、奥でその言葉を排除するかのように耳鳴りがした。
「あの日のこと覚えてる?」

壊れゆくブレイン(74)

2012年06月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(74)

 ぼくらはうるさくなり過ぎた店を去り、別の店に入った。それまでは横にすわっていた笠原さんだったが、正面に座ることになった。そのちょっとした差でぼくのもっている印象は変わる。過去に向き合うというより現在の彼女と過ごしているという実感が湧いた。しかし、話していることは随分と過去のことも多かった。その過去の縁をたぐり寄せ、未来の手前の現在に導いた。

「その子は、親の結婚に反対しなかったんだ?」
「むかしからぼくのことを知っているように振舞った」ぼくは口にすることによって新たな認識を勝ち取る。だが、それは新しいというより、そこにある壁を塗り直すというような頭の作業だった。「ぼくらは若い頃からの知り合いだったので、地元に戻って産まれたばかりのその子を抱っこした。子どもなんか持ったことないから、ぼくはその抱っこすら恐々とした」

「想像できる」
「もうその広美も大人になって家族で話していると、まだ意識もなかったようなその経験を娘は覚えていると言ったんだ」
「不思議ね。ありえない話」
「それで、ぼくはこうなる運命もあったのかと思った」
「そういう神秘的な話って、もっとずっと多くあるの?」
「ないよ、ただそれだけ。そういう話をすると娘がいちばん恐がる」
「そのときを覚えて置くように、その瞬間だけ大人の意識をもったのかしら」
「さあ、まったく分からない」
「それで反対もされず、障害もなく再婚を果たす」

「裕紀がいながらも、いつもぼくのこころの一部には雪代がいたのも正直なところだけどね」
「そういうことは第三者に言わない方がいいと思うけど」
「でも、言っちゃった」ぼくは、そうとう酔ってきたのかもしれなかった。ぼくはむかし、彼女の失恋話を聞く役目だった。それが長い時間が経ったいまでは、ぼくの再婚にいたる経緯を説明することになっていた。「高井君とは喧嘩とかしないの?」
「あまり、しないね。子どもに振り回される時間も多いから。そういう経験もないんでしょう?」
「もう広美は足手まといになるような年齢じゃなかったからね。おもちゃ買ってとか言われたこともないし・・・」
「もっと大きなものをいずれ要求されるかも」

 それは留学ということだったり、結婚ということだったりするのかもしれない。そういう役目をする島本さんをぼくはちょっと想像する。だが、いくら酔いがぼくの想像力を増し加えるにせよ、彼はぼくにとってグラウンドで活躍するスター以上にはなってくれなかった。華をもって生まれてきた人物。その華を抱えたまま歴史に葬られ、忘れ去られていく人物に思えた。そうした生きる上での事務的な活動は、もっと地味な人間がするべきなのだ。例えば、ぼくのように。

「彼女はほんとうの父のお母さんを慕っていた。いまは亡くなってしまったけど、そのときに随分と泣いた」
「そうなんだ。可哀想ね」
「あの泣いている彼女をぼくは抱擁してね、そうするしか慰める方法を見つけられなかった。そのときにぼくらは本当の親子になった実感というかつながりを覚えたんだ。それで、彼女にとって、大切なものが失われたことによって、新たな関係が芽生えたんだと思うよ」
「上田さんのお父さんも亡くなった」

「ぼくは、大人になってからいちばん時間を共有してきた大人だよ。むかし風の考えを捨てられなかったひとだけど、新しいことも直ぐに吸収する勇気をもっていた。そうしないと会社が傾くわけだから当然だけど。ぼくは影響をたくさん受けた。あのひとと会って、そのひとの会社の一員になった訳だから、その恩恵はかなり大きい。いや、ぼくのすべてと言ってもいいかもしれないね」
「ほんとうの子どもみたい」

「確かにね。上田さんより、知ってる部分も多い。だけど、そういう親子みたいな濃さがない分だけ、気楽に接することができたのかもしれないよ」それはぼくと広美にも通じるのかもしれない。ぼくは、彼女がどこに行こうが、誰と添い遂げようが、ただちょっと離れた場所で応援するしか自分にはできないのだとも思っていた。もっと本気でぶつかるような、拳骨を浴びせるような関係は本物の親子にしか味わえないのかもしれない。では、本物の関係性というものはどういうものだろうとぼくは酔った頭で定義を作ろうとした。ぼくと笠原さんの関係は? それは本物なのか。ぼくは死んだ裕紀の代替を探していた。あの一夜は本物なのか? それを受け入れた笠原さんの気持ちは偽者であり、偽りとでも呼べるのだろうか?

「彼も嫉妬をしていた。ひろしはオレの親父と仲が良すぎるって。その反面、安心していた。自分のラグビーの後輩が自分が継ぐべき位置にいてくれることによって。ラグビーって、そんなに魅力のあるものなのかしらね。突然だけど」

 ぼくは上田さんから譲り受けた楕円のものを大切に抱え込み走っている姿をイメージした。そのことを良く思わないでタックルをしに来る相手。それは島本さんのはずだった。だが、いまでは逆に彼もぼくのことを応援しているように思えた。妻と娘の未来を託す相手として。それは夕方のひとときが作り上げた美しすぎる幻想であることに間違いはなかった。

壊れゆくブレイン(73)

2012年06月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(73)

「高井君の友だちは、2回目の結婚をするんだね」
「そうみたい。明日、わたしも行く」彼女はそれに着ていく服装の話をした。ぼくはなんとなくその姿を想像して、あらかじめ見たような気になっていた。黒いドレスの彼女。「2回目ってどんな感じ?」
「まじめな話をすれば、離婚してまだどこかにそのひとがいるのと、ぼくはちょっと違うような気がしている」
「そうなんだ。どういう風に?」
「例えば、あるひとのどこかが、多分、自分の価値観とかか微妙にずれてきて、耐えられないほど嫌気がさしてきて別れるんだろう、普通は」ぼくは溜息にも似たようなものを出す。「いっしょに暮らすのに疲れて」
「まあ、そうでしょうね」
「ぼくはそういうことがまったくなかった。ただ、取り上げられた」
「それも、突然」

「それゆえに引き摺る可能性が大きく、実際に引き摺っている」
「未練がましく」
「そう、未練がましく」
「でも、いまのひとも素敵なひとだって、みんな言ってる」
「それは、もちろんその通り」ぼくはそのふたりを自分の人生で手に入れたかったものだといまでは理解していた。そして、部分的には勝利し、その相手を受け入れている時間は、もちろんのこと片方とは他人であった。
「そのひとの娘と、休みにはここに来ている。似てる? ふたりは」

「似てる部分もあるし、やっぱり別な人間だよ。本当のお父さんも魅力的なひとだったし、運動することに秀でたひとだった。高井君の先輩でもあるから。彼のその才能も確かに広美は受け継いでいるよ」
「じゃあ、スポーツできるんだ」
「バスケットをしている」
「背も高い?」
「高いよ」
「でも、いっしょにいれば周りは本当の親子だと普通は思うわけでしょう?」
「考えてもみないけど、普通はそうだろうね」
「嬉しい?」

 ぼくはその質問の意味が分からなかった。しかし、分からないままでそれを放置し、適当に相槌をうった。ぼくらの前のグラスは何度かかわり、それに揚げ物や軽いつまみも食べた。ぼくは自分の人生に何の責任もなかった時代のようにこの瞬間を楽しんでいた。帰るべき時間も決めず、連絡を待っているひとがいることなども考えたことがなかったように。でも、それも大分前のむかしのことだった。

「こっちはどう?」
「自然が満載。でも、駅の周辺の町並みもきれい。あそこに奥さんのお店もあるんでしょう?」
「あるよ」
「時間ができたら寄ってみようかな」
「売り上げに貢献して」
「わたしに似合うようなものもある?」
「あるよ。幅が広いから。40代から10代の後半の子たちもそこに買いに来る」
「じゃあ、お店のひとも若くいられるんだ」
「働いている子たちも徐々に入れ替わるからね」
「最初からその店を持ってたの?」
「違うよ。若いときに働いて、貯金して、こういう店を作ろうという計画をして、それを果たして、という計画を実行した結果」
「頑張ったんだ」

「頑張った」ぼくはそのプロセスを知っていた。そこに加わることはなかったが、ぼくはとなりでその雪代の頑張りを見てきた。その過去は意外と長いものになり、ぼくの年齢もあがってきたことの証拠となった。
 夕方も遅くなりはじめると、近くの席でもにぎやかな声が聞こえるようになった。店主の知り合いはサッカー仲間も多く、そのひとたちはぼくのことも知っていた。彼らは一様に大人になり、ひげが生え声も低くなった。嬌声をあげ、サッカーボールを追い掛け回していた少年たちもそれぞれの役割を担っているようだ。彼らは運動部の出身らしくぼくのそばまで挨拶にきた。その帰りに必ず、笠原さんの顔を見て帰った。「あれは、誰だろう?」という表情がそれらの顔に浮かんだ。

「あの子たちにもサッカーを?」
「何人かはね。ほんとうに小さな町だよ」
「礼儀正しい」
「笠原さんのことも見たいんだろう」
「わたし?」そして驚いたように彼女は振り返ると、何人かの若い子の視線を浴びた。「ほんと、そうみたいね。ひろしさんといっしょのひとは誰だろう、という顔してた」

 ぼくは背中にその視線を感じる。どう説明するのが妥当なのだろう、この関係性を。上田さんの会社のひと。若き彼女とよくお酒を飲んだ。ぼくは失恋直後の彼女にボーイフレンドを紹介してくれと頼まれ、高井君を見つける。ふたりは意気投合して結婚をする。ぼくはそれを喜んだ裕紀のことを覚えている。彼女は夏のデパートの屋上にいる。青い服。あの日々が永遠につづくと思っていたこと。だが、彼女はいなくなり、破れかぶれの自分は笠原さんの両腕のなかで暖まる。生きた人間の息遣いがどうしてもぼくには必要であり、それがぼくをこの世界に引きとどめる役目を負った。ぼくは利用したのかも知れず、そういう難しい関係を作ることは正しくなかったのかもしれない。すでにその前にひとりの死という問題に自分自身がからまっていた。でも、それ以上大きな難題もなかったわけだから、多少のトラブルの増加など自分にとって意味もなかったのだろう。100が101になるようなものだった。それだからといって笠原さんの腕の中の価値が無になるわけでもない。あれは、あれで甘美な状態でもあったのだ。裕紀の死とは、これは別問題なのであろうか。ぼくはそのふたつのことをいつもくっ付けて考えていたが、これからは分離させる手立ても必要だと考え始めていた。

「あのひと、誰って、うるさいんですよ、あいつら」と、お代わりをもってきた店長が言う。ぼくはその疑問への正しい答えをさっきから探そうとしている。

壊れゆくブレイン(72)

2012年06月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(72)

 高井という男性がいた。彼はぼくがライバル視していた高校のラグビーチームに所属していた。雪代の前の夫の高校だ。ぼくは彼と笠原さんという女性を結びつける役目を担った。ぼくが介在していなくても彼らは出会う運命だったのだろうか? それも、もう分からない。

 彼はむかしの友だちの結婚があるということで、帰省していた。そこに笠原さん(ぼくは、ずっとなぜだか前の苗字で呼んでいる)も同行することになっていた。

 彼はぼくの職場にやってきた。彼は家具を扱う仕事をしていて、ぼくも東京にいるころはお世話になった。その東京での関係はいまでも続いており、この会社とは無縁ではないので来て当然だった。ぼくは何人かに紹介して、彼と奥でお茶を飲む。もちろん、ぼくと彼の今との結びつきは貧弱なもので、仕事の話も直ぐに底をついた。それで、もっと自分たちに深く印象を残したラグビーの話をした。

「そのひとりが結婚することになりまして」
「遅くない?」
「2回目です。で、2回目の祝儀」
「そんなに親しいんだ」
「あるヤツの娘がもう結婚しているのに、新婚もなにもないんですけど」彼は自分のことのように照れ臭そうに言った。
「そんな年だね」
「近藤さんはどうですか? 順調ですか」ぼくはその質問がなにを指しているのか直ぐに理解できなかった。それがぼくと雪代との関係を示していることを2回目という繋がりで思い出した。
「そうだ、君たちに正式に伝えてこなかったかもしれないね。あんなに親しかった笠原さんにも・・・」
「あいつも来てるんですよ。会ってもらえます?」ぼくらは当人がいないところで、勝手に予定を決めた。その日に高井君は別の用事で親とどこかに行く予定があって、暇にしても悪いと思い、以前に親しかったぼくと彼女を会わせることを考えたらしい。彼女が会うことに同意しているならばぼくが断る理由などなかった。あれから、数年が経っていたとしても。

「ひろしさん、今日は広美ちゃんとじゃないんですね。これまた、きれいなひとと・・・」待ち合わせの場所であるスポーツ・バーに入るといつもの店長がそう言った。
「広美ちゃんって?」と、笠原さんが訊く。
「娘だよ。義理の」
「いっしょに来るんだ。もうお酒が飲めるぐらい大きいの?」
「まだ、高校生。17才かな」
「付き合ってくれるんだ?」
「妻は仕事の関係で日曜も働いているから、暇だったり、大きなスポーツのイベントがあったりするとここで時間を潰す。彼女はお小遣いを減らす必要もないし、友人みたいな関係だよ」
「むかし、わたしの話も同じように聞いてくれたね」
「失恋して自信をなくした笠原さん。なつかしいな」
「はい、注文の品」店長はぼくらの前にグラスを置いた。「どういったご関係なんですか? ふたりは」
「東京時代の知り合い。上田さんの会社のひとだよ」
「社長の息子さんの?」
「そう。夫がこっちのひとだから」とぼくは説明する。すると納得したように彼は離れる。その情報はどこかにインプットされ彼の頭のなかで分類されていくのだろう。

「よく来てるんだ? とても、親しそう」
「子ども時代の彼にサッカーを教えていたから」
「そういうこともしてたんだ」
「ものになった子もいれば、ほかの才能を有している子もいる。淘汰されるって残酷なことだけど、自分の違う魅力を発見できたと思えば、なんでもないね」
「奥さんも魅力的なひとなんでしょう? 上田さんからもたまに聞く」
「ぼくらは離れられない運命だったんだろうね、大げさに言えば。いま、仕事のとき、子どもはどうしてるの?」
「預けてる、その間。もう大きくなったし、そう心配もいらない」
「君がお母さんだもんね」
「誰でもなるよ、時間が来れば」
「誰でもね」ぼくは言葉を発し、受け止めるたびに誰かを思い出す。彼女は決して母という存在にならなかった。それゆえに彼女は気高い印象をぼくに残し続け、手の平から零れ落ちた偶像として刻みつけられていた。

「ならないひともいたって、考えたでしょう」
「いたね。おかわりでも飲む?」笠原さんはうなずく。ぼくらは何年も会っていなかった。裕紀がなくなったあとに会って以来だったと思う。でも、その期間は直ぐに消え去り、ぼくらは以前の友人関係に戻っていた。
「娘さんは進学するの?」
「東京の大学に行きたいと思ってるようだけど・・・」
「じゃあ、そうなったら可愛がってあげる」
「そうしてもらえたら、嬉しいよ」
「悪い人につかまらないように監視してあげる」彼女は笑う。その笑顔はむかしのままだった。
「たまには悪いこともするでしょう、若いんだから」
「悪いことが、ずっと思い出として生き残ったりするからね」

「哲学的」ぼくは自分に起こったそのような状態を思い出している。悪いか悪くないかと決めつけたくもないが、どれも印象に残っているということは正しいようだった。雪代と付き合うために裕紀を手放し、ゆり江との黄昏的な関係のため雪代には黙っていた。そして、自分が死と向き合うことを放棄し、立ち直りたいという気持ちもあきらめるために複数の女性と関係をもった。そのなかに笠原さんとの一日も含まれていた。彼女は、それを意識した上での発言だったのだろうか。

「ひろしさんが、でも、新しい生活を見つけられて嬉しいな」
「自分も死にそうだったからね」
「生き残って、サッカーを教えていた子の店でお酒を飲んでいる」
「きれいな子と」
「客商売としてのお世辞」彼女は店長の働く後ろ姿を見た。

壊れゆくブレイン(71)

2012年06月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(71)

 耐えられないほどの生活の重みはぼくにはなかった。ただコンクリートの壁にひびが入っていくように、自分の体内の奥に疲労が蓄積されていった。それでいて大きな不満がある訳でもなかった。目覚めとともに喜びと快活な気持ちがあった若さは消え去りつつあり、日常の繰り返しを要求される大人な日々があった。つまりはそれが40代の半ばを迎えるということなのだろう。

 自分が若いときに将来どういうような生活を望んでいたのかは思い出せないが、結果としては充分ぼくに恩恵を与えてくれているようだった。もちろん、大切なひとを何人も失ってきたし、望みどおりにいかないこともままあった。だが、家には雪代と娘もいた。自分自身の子どもを持つことはできなかったが、本質的にそれを望んでこなかったようにも思える。自分の分身を恐れていたのだろうか。しかし、本当のことはそれすらも分からないというのが事実だった。

 まゆみが実家に帰省していた。ぼくは母になった彼女と子どもを見て、そういう感慨を深めたのかもしれない。ぼくが彼女を知ったのは、まだ大学生のころだったのだ。ぼくは大学で勉強をして、スポーツ・ショップでバイトをしてから、雪代と暮らしている家に帰った。まだ10代の後半だった。

「ひろしがさ、子どもは絶対産むべきだと言いつづけてくれたお陰で、オレは孫の面倒を見るという大切な役目を楽しむことができている」
 店長はそう言い、いやがる孫を執拗にそばに寄せ付け、自分に訪れた役柄を楽しんでいるようだった。
「最初は、反対していたのに」と、まゆみが照れたように言った。
「父親というのは、娘の選択に反対するために存在しているようなもんだから」と店長は自分をそう正当化した。
「ひろし君も?」まゆみが尋ねる。
「ぼくは何も反対しない。ただ応援するだけ、陰ながらね」
「広美ちゃんは元気?」
「元気だよ。あとでうちに来なよ。おじいちゃんに世話は任せて」
「お前からおじいちゃんと言われたくないね。それにお前だって、いずれ遠からずそういう役目がくるんだから覚悟しておけよ」ぼくとまゆみは笑う。

 ぼくはゆり江の両親のことを考えていた。彼らは突然、その役目を失った。ぼくは彼らの新築の家のことを考えていた。そこに若く華やいだ声があり、みなの笑い声がこだましてこそ家の歴史が作られていくのだ。だが、そこが大人たちの悲しみの集積の場になってしまう危険があった。それを許してしまうのか、払い除けることができるのかそれぞれの我慢が試された。ぼくは裕紀を失い、そのガランとした空虚な家を振り返っている。それはぼくのこころの中の象徴でもあった。それを払拭するべき、ぼくは無駄に酒を飲み、人生を破滅させようとしていた。それから、地元にもどり、雪代と会った。彼女はぼくのその甘かった時期を許そうとはしなかった。建て直しの期間が設けられ、そこには広美の無邪気さも役立ったのだろう。そして、あれから随分と時間が経ち、ぼくの体内には淀んだワインの底のオリのような疲労が残っていたのだ。

 思い立ったことを直ぐに行動するようにまゆみはぼくの家に向かった。結局、子どもも連れて来た。
「お客さんを連れてきたよ」と、ぼくは快活に言う。
「誰? あ、まゆみちゃん」と雪代が言うと奥から駆けつけてくる広美の足音が聞こえた。「ちょっと、行儀良く歩きなさいよ。狭い家なんだから」そういうと雪代は荷物を預かるように子どもを抱いた。
「もう、重いでしょう?」
「そうね」
「ずるい。わたしも」と広美が言った。

 それからまゆみたちも家で食事をすることになった。やはり、家には子どもの声があると華やぐようでいつもの家庭とは違った雰囲気があった。それは喜ばしい変化で、みなの顔が笑顔に向かおうとしていることが反応として理解できた。

 ぼくらの普段は静かに本を読んだり、音楽を聴いたりする時間が自然とできていたが、その日だけはその日常が覆されても誰も文句を言わなかった。まゆみたちが喜びと快活さという軽やかな荷物を運んできたのだ。

「広美ちゃん、勉強は?」過去の教え子が気にかかるようでまゆみは質問する。
「してるよ。大学にも行きたいし」
「東京の?」
「多分ね」
「そうなんだ」雪代は驚いたふりをして聞いた。
「心配ですか?」まゆみは自分の質問が波風を立ててしまうことを心配したかのように言った。
「ぜんぜん。わたしたち、ふたりだけの新婚時代がまったくなかったので、それを今からやり直すので、ね?」
「気持ち悪いよ」広美がわざと憎まれ口を言った。
「だったら、広美ちゃんもっと勉強して、絶対に東京の大学に行かないと」

「だったら、そうする」ぼくらは自然と笑う。誰かが家庭にいることによって、ぼくらは普段口にしないような隙間の会話をそこで補填することができるようだった。ぼくらは薄々知っているようなことでも、会話として口に出し成立させる必要があるようだった。その役目をまゆみたちが補ってくれたのだろう。

 すべてが終わり、ぼくはまたまゆみを家まで送る。彼女が広美の家庭教師をしてくれたときによくそうしたものだった。ぼくは小学生に通い始める前の彼女を知り、大学生だった彼女を知っていた。いまは母になり、順番として広美もその後を追うのだろう。ぼくの失った若さもそれで埋め合わせがつくのだろうと無心に考えていた。