9/24(698回)
先回東別院へお参りに行った折のことです。
本堂には年輩の女性一人が仏前にぬかずいていました。その脇で私は焼香し、お念仏もうしました。
隣の人はのべつ幕なしにブツブツ・・・です。なにをいってるのか聞いてみた。
「今度の・・・の会がうまくいきますよう、口内炎、腰、お尻の痛み直りますよう・・孫の・・がうまくいきますよう、白内障よくなりますよう・・・さんの病が癒えますよう・・・」と、私がお参りして席を立って本堂をでてもなを「・・・がよくなりますよう」のオンパレードでした。
この祈りはどうにも「自分の都合どうりになりますように」というものです。祈られる阿弥陀さまも当惑です。
いくら祈っても、病の苦しみや困ったことはなくなりはしない。 身の苦しみやわが身に都合の悪いことは外からやってくる。これは誰一人免れることはできない。
ただ信心あれば、その苦に自らつけ加える「心の苦しみ」は免れる。病の苦しみにアレコレ不安を乗せてとてつもない不安地獄にうめくことがない。
つまり身の苦しみの「一の矢」は受けるが、自分が自分に放つ、心の苦しみの「二の矢」は受けない・・・ということか。
親鸞の和讃(仏を讃嘆した歌)に・・・
一切の功徳にすぐれたる
南無阿弥陀仏をとなうれば
三世の重障(じゅうしょう)みなながら
かならず転じて軽微(きょうみ)なり
とあります。三世とは現在過去未来。重障とはおもいさまたげ=煩悩。
念仏もうせば重いさまたげ(病・不都合)はなくなりはしないが、自らが生み出す心の苦しみがない分だけでも軽くなる・・・と。
そうかぁ~と思いつつも、実際に当事者になると不安は凶暴になるんですよね。
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