果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

小中学校時代を過ごす熊野市へ行く (その五)

2009-08-10 22:31:16 | インポート
事務長の叫びに何か異様さを感じながら自転車の後を追って我が家へ!
母が迎へ、事務長が話しかける!
「本多所長が進駐軍に捕えられ、津市へ行きました。」
気の弱い母が泣きそうな顔で、事務長に聞き入っていた。
「何故?」
「何時帰りますか?」 と精一杯の言葉だった。
父は陸軍の軍人で柑橘技術者であった。
戦時の末期は食糧難で父の役目は食糧増産であって、柑橘の試験場であったが、田圃(たんぼ)で稲作もしていた。
 在郷軍人会会長や、当時、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所と云って、現在の中国東北部一帯に拡がる未墾の沃野に青少年を送出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊かな農村を築きあげ、日満一体、民族協和の実をあげることにあった。
 ここの臨時教官をも兼務してしていた事が軍人公職追放になった。
父は三が日程で進駐軍のジープで帰って来ました。
最初と違ってジープに近寄る人もなく、送り届けて帰って行きました。
 家庭の一室に家族が集められ、
「お父さんが試験場をやめる事になった。今日から仕事が無くなったが子供達の協力も頂きお父さんは頑張る!・・・。」
 ある日突然の変化! 父は何時も子供達に言った。
「戦争でお父さんを亡くした家庭の事を考えなさい!我が家は本当に幸せなんだと。」
 
 大西村長さんの計らいで、官舎をそのまま使用させて頂き、野菜や花の種、たばこ販売などの商店を開設するにも官舎を増改築の許しをも頂き、大西村長さんへ感謝の言葉を口にしていた。
 村のお盆にお寺で盆踊りがあれば、自分は小学校六年生頃、自転車に「たばこ」を乗せて「たばこ」売りに出かけ、予定の量を売り尽くし、楽しく、両親に褒められた。
 それが縁で、田植え時期になりますと、お百姓さんを目当てに日曜日などに自転車で売って回った。
 ・・・・・が?
 ある時、学校から帰ると、見た事のないおじさんと母が話している様子が・・・・・。
よく聞いていると、専売公社の方が、許可なく、子供が移動販売の違反をしたと・・。
後日、父が呼び出されたが、 父から「移動販売は違反だから止めましょう!でも、タバコ屋を続けられるから安心しなさいね」と励ます父。
当時、お借りした畑でサツマイモ栽培したり、シジミ貝を採ったり、売れるものは何でもお金にする家族労働、今考えれば、家族全員楽しく何の苦しみも感じず楽しさ一杯。
 
父は賀川豊彦牧師(灘生協・日本生活協同組合生みの親)の思想に信奉し、賀川豊彦の著書「死線を越えて」を購入し子供達に読み聞かせてくれたり、
クリスチャンで長崎医大の永井隆教授の原爆病で病みながら「この子を残して」と云う著書なども購入して読んだりしました。
 
父は生き生き・・・・・と、賀川豊彦牧師は戦後焼け野原となった灘でキリスト教会を建て、無料で食料を炊きだしていました。
日本も復興の兆しに、賀川豊彦氏が農民から新鮮な農産物を購入し消費者の立場になって販売して非常に喜ばれていました。
 牧師の友人が時の首相片山哲で首相は紀州田辺出身で東京大学卒で敬虔なクリスチャン。
賀川豊彦が消費者の立場になって販売しているシステムを全国的に展開する事が素晴らしいと理解し、片山哲首相に申し入れた。
「農民の苦労を理解し、消費者の立場で販売するシステム協同組合法」の制定を懇願され、片山哲が賛同して法制化に取組んだニュースを早く知り、父等も全国の友人の先輩同僚などと連絡を取り、「果物の組合を作るべく準備に入った。それが全国的に組織化された果実連合会である。」
 父は早速、三重県南牟婁郡果実連合会の会長として活躍をしていました。
 
そんなある日、和歌山県JAの前身和歌山県果実連合会の役員メンバーの数人が三重県の我が家に来宅、「是非、郷里の和歌山で働いて頂きたいと要請され、戦後の苦労を脱し新天地で働く決意を快く受託する。」
子供心に経済的に進学できなくても、専門学校で電気を学ぶ事が出来ると子供心に内心喜んだ。
 それが、三重県の熊野を離れ、郷里和歌山へ来た理由であった。
 不思議に片山哲のご縁で、小生自身、片山哲が日本の農業と、中小企業の育成、その時中小企業庁を創設し、初代長官に友人で当時京都大学経済学部教授蜷川虎三氏にお願いし受託して頂く、喜びの御礼に片山哲の家宝を贈った。
 後に蜷川虎三氏が戦後の京都復興で仏教伝統文化が無くなろうとする状況で、伝統文化を守ろうとする人々に懇願され、京都府知事として共産党員で無くも、伝統文化を守る組織が共産党であった。                  
                        三重県の熊野市訪問の思い出の記を終えます。