果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

大西 誠君の受賞祝賀同窓会  其の一

2010-02-01 21:11:52 | イベント

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皆さん!お久しぶりです。24日に小中学校同窓生の大西 誠君が農水省の「農業技術の匠」受賞と三重県から「三重県の第三25回産業功労者表彰」、農業水産省から「平成21年度 農業技術の匠」を受賞、その祝いを三重県、和歌山県、奈良県の境界に有名な瀞八丁という渓谷が御座いますが、その傍の三重県側の渓谷、入鹿温泉「瀞流荘」で行われました.
出発のコース:
 有田市―有田川町金屋―田辺市龍神村―中辺路―本宮―熊野川宮井橋―入鹿温泉瀞流荘

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帰途コース:途中郷里へ墓参に立ち寄る
瀞流荘―熊野川宮井橋―本宮―中辺路―龍神温泉―高野龍神スカイラインー花園―郷里杉野原―有田川町金屋―有田市

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この機会に是非お話させて頂きたい事:
1.三重県、奈良県、和歌山県を有する紀伊半島は日本国土で最も大きい半島であります。
2.紀伊半島は海に囲まれた広大な面積は山林である事。
3.この少ない農地は気候に恵まれ、柑橘を中心とする果物栽培が多い。                                                                                                                     4
.このような環境の中で大西 誠君がご夫婦で築き上げて来ました農園を数字でご紹介したい。                                                 
5.株式会社金山パイロ ットファーム 代表取締役   柑橘栽培面積 88.4ha(89町)
                    個人経営    柑橘栽培面積  4ha   (4町歩) 
                     合計 栽培面積  92.4ha (93町歩)      
ジュース工場           
株式会社夢工房 (最新設備)         代表取締役
隣接する施設に「熊野倶楽部」(元々金山パイロットファーム敷地)           6.この紀伊半島で最も広大な紀伊半島で最大の農地を持つ農民が大西誠君であります。                                             7.ご夫婦ご家族共に目標を達成すべく苦難の努力中、奥さん地域の弱者の立場を理解し活動されて来た。その結果現在熊野市市議会議員(大西三春)として活躍されています。                                        8.近年、熊野市を含む三重県南牟婁郡が果樹を含む果物栽培が拡大され、和歌山等から移住者も多い。
近年厳しい果樹経営に次の新たなステップを歩む段階!
熊野市を含む南牟婁郡の果樹栽培の歴史を振り返りたい。           簡単に歴史を辿ってみますと75年前(1935)、当時三重県南牟婁郡は三重県の陸の孤島と云われました。県庁所在地津市から熊野に入るルートは         1. 陸上は熊野古道(伊勢路)で旧木本へ
2. 海上はルートは尾鷲港―木本港へ
        当時の国有鉄道の紀勢線
1. 新宮―木本間開通1940年(昭和15年)従って其れまでは新宮から徒歩又は車。
当に陸の孤島であった時代に大西 誠君のご尊父(故大西徳次郎)が青年時代に青年同志と共に熊野の将来を語り合った結果としてこの地方を柑橘の栽培地として適していると結論する。(有田地方の有田ミカンの栽培を研究し目標とされたと考える。)
1.旧神志山村へ柑橘紀南指導所を誘致し、当地の農家の青年達を育成する。  2. 当時、小生の亡父(本多舜二)が長崎県立柑橘指導所初代所長として勤務、農林省立園芸試験場長熊谷八十三・恩師から柑橘紀南指導所赴任の話あり、熊谷場長は情熱的、チャレンジ精神が豊かな方で熊野の皆さんの素晴らしい夢の実現に協力しませんかの要請を受け、亡父自身が村役場と電話での話し合いの上、
慶んでお引き受けする。
3. 長崎からの赴任は 長崎港―神戸港(上海丸)-天王寺―新宮――――神志山村(迎 の荷車で新宮から神志山へ)
4. 指導所の第一期生には大西 豊氏(大西誠君の長兄)、第二期生には今日文通を交わす中門森一氏、和歌山県みかん課課長を務めた屋敷  氏他に南牟婁郡全地域の村から農業の担い手になる優秀な青年達が巣立って行った。
5. 昭和18年になると第二次大戦も戦況が厳しく、村の青年、指導所卒業の青年達が戦地に旅立つ日々が増えて来る。
亡父は陸軍将校で軍人であった事もあり、毎朝6時に国旗掲揚に始まり、朝礼があり、小学一年生であった小生は官舎から亡父の自転車に乗せられ、指導所内での国旗掲揚に立ち会った記憶が思い出されました。
6. 亡父は南牟婁郡在郷軍人会福会長、満蒙開拓の父と云われた加藤寛治が開設した満蒙開拓内原訓練所(茨城県)臨時教員これらの業務の実績が戦後、軍人公職追放。


                                            
 
 
 

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