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ワシントン・ポトマック河岸に植えられた桜苗木を育てた 熊谷八十三閣下

2010-01-16 14:16:55 | 先祖を訪ねて

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徳島新聞に子弟の黒上泰治氏が掲載された「風車」から
先ごろ九十五歳の老衰のために湘南南茅ヶ崎の自邸で亡くなった元農林省園芸試験場長・熊谷八十三翁は、明治生まれのひたむきな子弟愛と、曇りなき精廉さとに生きぬいた典型的な人物であった。
 熊谷翁の生前の仕事の一つに今でもアメリカ・ワシントン市のポトマック河畔にらんまんの春を飾っている桜苗木の育成事業がある。
明治四十年ごろアメリカ大統領タフト夫妻が日本を訪問した際、東京市は記念としてその希望に沿いサクラの苗木二千本を商人から買い入れて送ったが、付着している病害虫のため全部上陸港で焼却せられ、せっかくの希望を果たすことができなかった。
 当時、果樹の優良優良苗木の育成主任だった熊谷翁は、尾崎行雄東京市長の懇請を受け入れ、サクラの専門学者である三好学博士の指導で、染井吉野を主とし、八重桜、匂い桜、黄桜など十品種を、サクラの名所荒川堤からつぎ穂をとって山桜の実生台木につぎ、病害虫におかされていない六千本の苗木を見事に育成してワシントン、ニューヨークの両市に夫々三千本を寄贈する事に成功した。
 このサクラは数年ののち満開ごとに多くの観衆を呼び、市の花やかな行事の一つとして現在でも全米の人気を集めている。
 熊谷翁の最も大きい関心は、年々全国各府県から園芸の実際技術を習得するため試験場に入場する見習生の健全な育成にそそがれていた。それらの見習生は、各府県の農学校のトップクラスの卒業生のうちから毎年十数人ずつ厳選して許可されていたが、学校の性質上語学に弱いものが多かった。熊谷翁は場内の小山の上に建てられた官舎から休日を除いて毎朝七時には講義室に姿を現し、アメリカの果樹栽培に関する原典をテキストとして懇切な講義を行ったが、これはその後場長の職を退いたのちもある期間引き続いて止めなかった。実習時間には見習生と共に畑に入って接ぎ木の技術を競い、夜間は自宅に彼らを招いて生活の知恵をさずけ、悩みを解きほぐしてやった。見習生の修了者で組織せられ、各府県で園芸指導の重要な位置にある何千人かの桜会会員から、真実の親の様に敬愛されていたのはゆえなしとしない。
 翁の在職中、休暇などで帰省する見習生から、郷里の名産である陶器、漆器など数々のものが手土産にとして贈られる事が多かった。翁はそれらの土産物のうち保存がきくものは全部一定の場所に収納しておき、歳末や年頭に場員や見習生を自宅に招待して会食して出席者に分け与えることを常としていた。一切に筋を通し、わずかなものも私しない心の現れがこのような形を取ってしょりせられたものであろう。
 晩年の翁ははだしく耳が遠くなり、たまにたずねて行く弟子たちも翁と対話に声をからしたという。しかし、清く美しい翁の精神は、多くの子弟の胸裏に深く継承されて、その実生活のゆるぎなき指針となっている。 合掌
亡父と尊師熊谷八十三先生との書簡
先生愛用の楊枝の材料クロモジを亡父が贈っていたのですが、実は亡父は先生から教えられたのですね。 亡父もクロモジの枝から楊枝を作っていましたね。

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亡父は最後の奉職・和歌山県果樹園芸試験場紀北分場長時代、小生は高校2年
亡父が終戦時軍人公職追放で職を無くし、大学進学を残念し、好きな電気工学の道を進むべく、県立和歌山工業高校へ進学するも、父から大学に行きなさいと許可を得て進学受験の準備に入る頃。

この試験場は「生産日本一を誇る柿・桃」の試験場。

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恩師熊谷八十三先生からの賀状

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何時も簡単な文章ですが、非常に愛を感じます。

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富士山の絵ハガキ

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恩師熊谷八十三先生の愛弟子達。

前列向って左端が亡父舜二

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恩師熊谷八十三先生からの書簡

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