開創通信 第一号
高野山開創千二百年記念大法会
①中門再建進捗
高野山開創に当たってお大師さまがまず仏塔建立を計画された壇上伽藍。その正面に設えられた高大な工事用素屋根内の現場で、十八本の白く輝くヒノキの柱群(高さ四・八㍍)が姿を見せています。伽藍への正門となる中門は、江戸時代後期のものが焼失して以来の再建となります。あと一千日余りに迫った千二百年記念大法会に向けてのメイン事業で、作業に当たる堂宮大工さんたちの士気もますます高まっています。
この柱群は、前面に六本の柱列がずらりと並ぶ中門の下層に当たる部分です。鎌倉期の建長五(一二五三)年に完成して江戸中期まで伽藍を飾った第五期の中門がモデルです。今後、下層の上に組物、さらに上層、組物、屋根と順次造営が進められ、平成二十六年末には東西二十六㍍、南北十五㍍、高さ十六㍍の豪壮な入母屋造りの中門がその全貌を現します。
現場を担う高野山建築協会長で尾上組社長の尾上恵治さんは「鎌倉期の仕事を受け継ぎ、三百年後まで伝える、そのつなぎ役としてのク冥利″をこの仕事中に何度も感じさせていただいています。自然石の礎石に重さ一トン近い柱すべてを一分の狂いなく建てられたことにも感動しております」と。開創法会事務局の近藤本淳局長も「百七十二年ぶりに我々真言僧侶の悲願が達成されるのは誠に喜ばしいことです」と話されました。
今後、世界遺産であり、ご開創から千二百年を迎える高野山にとって「新しい顔」の誕生が待たれます。
②「弘法大師の道」
お大師さまが青年期に歩かれた吉野山から高野山への道を探り、地域振興につなごうというシンポジウムが二月二十六日、奈良県立橿原考古学研究所で開かれました。
お大師さまの著作『性霊集』 (巻九) には「少年ノ日」に吉野から南へ一日、西へ二日ほど山中を歩いて「高野」という「平原ノ幽地」に至ったという記述がみられます。後年、お大師さまが密教の修行と勉学に最適の環境として高野山を開かれたきっかけとなったことは明確であり、この「吉野・高野の道」こそ、高野山開創千二百年の原点と考えます。
約二百人が参加したシンポジウムは「空海を育てた道吉野~高野」をテーマに、総本山金剛峯寺の村上保寿教学部長、金峯山寺の田中利典執行長、同研究所の菅谷文則所長が参加。ルートの復元では、村上部長の試案などに菅谷所長から考古学の視点も加えられ、吉野の比曾寺(現在の世尊寺)辺りを起点に金峯山寺や大天井ケ岳を経て西へ尾根筋をたどり高野山に至るコースが想定されました。
今後、このシンポジュムの主催団体である「弘法大師 吉野・高野の道プロジェクト」実行委員会(村上委員長、事務局奈良県地域振興部南部振興課)が、沿線地域の再生・活性化に向けた具体的な取り組みなどを協議し、実現を目指します。本多碩峯 参与 77001-0042288-000