宗教は、<シ>の実験台となった人類が、実験に気づかぬように
<シ>から吹き込まれたものであるという、
その視点が昔の私にはショックだった。
人の死や、罪や病い、貧困をつかさどるという神は、
多くの民間信仰の中に長い間残っていた。
その多くの土俗の神たちの意味するところはいったいなんだろう?
そして、それらの神たちが、なに故、土俗の神として否定され、
人間たちに忘れられていったのだろうか?
おおーっと、ゾクゾクするほどの謎解きの快感があったことを思い出す。
20年以上(30年?)前に初めて読んだ時の印象だった。
しかし今回、読み直して、
あの時のような快感は残念ながら得られなかった。
なぜか。
話を知っているからではない。
①私は毎朝、仏壇で般若心経を唱えるが、
供養をしているだけで、宗教で救ってもらえると思っているわけではない。
②宇宙外の「何か」だっているかもしれない。
③時はまさにサミットが終わったところで、初めて環境問題が主要課題になったが、
温暖化は人類にとって致命傷になるかもしれない。
④疫病神も貧乏神も、いてもいいじゃないか。(憑かれるのは困るが…)
人類は地球上に現れた時から、破滅への道を歩いている…と言われても、
何千年か先はまあそうかもしれないと思ってしまう。
不幸なことに「百億の昼と千億の夜」が自分の中で、驚きではなくなって来ている。
こちらも年をとって、肉親や愛するものの死に直面したり、
わけのわからない運気の波に呑み込まれたりして感覚が鈍くなってしまった。
それでも「百億の昼と千億の夜」、
これは今でも日本のSFの代表作で、すばらしい作品であることは間違いない。
萩尾望都のコミックは、今回初めて通して読んだ。
これは、萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」だった。
でも、それはそれでよい。
これがなかったら私は原作を読むこともなかっただろうし、
阿修羅に思いをはせることもなかっただろう。
ユダの扱いが、原作とは違っていたが、
これは、萩尾望都のユダへの愛情だったのではないだろうか。
「百億の昼と千億の夜」今回の出会いは、
20年ぶり(30年ぶり?)に再会できた友人のようだった。
私だけが年をとっていた。
相変わらずの相手を見て、感じ方も変わるはずである。
そして、それでいいのである。
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