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樹庵のお気楽ナビ

チビデビル ルックと
天使キャラ セントの日記です。

「100万回生きたねこ」

2009年01月27日 | 絵本

犬飼いがお薦めする、ネコの絵本ですが、
これはもー、誰もがご存知、敢えてご紹介も何もないもんですがね。

でも、ご紹介しましょうかね。
実は、毎日うちのルッくんが逢わないと気が済まないネコちゃんがおりましてね、
彼女は推定20歳のおばあちゃんなんですが、三毛の長毛です。
お顔は…どちらかというとぺちゃんこで、可愛いという言葉は似合わないかもしれません。
まあお年を重ねていることもありますし。

彼女は、大きなお屋敷の庭に棲みついていた由緒正しい野良さんです。
去年このお屋敷が取り壊されてしまい、駐車場になってしまいました。
今は、ねぐらは右隣のお宅の庭で、ご飯は左隣のお宅でいただいています。
左隣のお宅は、お屋敷のご親戚で、ネコちゃんとも20年来の知り合いなので、
おうちに入れようとするのですが、
長い野良暮らしは気が楽なのか、外に行ってしまうのだそうです。
そこのオタクの奥様が、夕方「ミーちゃん、ミーちゃん」と呼ぶと、やってきます。

ルッくんはミーちゃん、いやミーおばあちゃんにとても興味があるらしくて、
ねぐらのオタクを必ずのぞきます。
日向ぼっこをしているミーちゃんに逢った日は満足して帰ります。
ミーちゃんも、母が声をかけると、ミャ、ミャとお返事してくれます。
時には、ボールをくわえて興奮するルッくんを横目で見ながら、
いっしょに歩いてくれたりもします。

あら?これがなんで「100万回生きたねこ」のナビなのかしら?
まあ、こじつければ絵本の主人公のネコ(こちらは彼ですが)に
ミーちゃんが少々似ていることでしょうか。
天真爛漫で喜怒哀楽がすぐわかるワンに比べて、
何を考えているのかじっとうずくまるミーちゃんを見ていると、
ネコは奥が深いのう…と思う母でございます。
まあ、イヌが浅いというわけでもありませんが。()

へへッ僕は天真爛漫!! なに?奥が浅い?いやー、そうですかねぇ。 (ルック)


「わすれられないおくりもの」

2008年08月10日 | 絵本

<ちょっとあらすじ>

みんなが大好きだった、年取ったアナグマ。
かしこくて、困っている友達はきっと助けてあげるアナグマ。
秋が終わる頃、彼が死んだ。
森の仲間達は冬のあいだ悲しみにくれるばかり。
やがて春になり、集まった仲間達は、アナグマの思い出話をするうちに、
彼がみんなに残したたくさんのおくりものに気がつく。

一昨日の夕刊にこの本の記事が載っていて、それを読んですぐにAmazonで注文。
昨日届き、夜読みました。
そして今朝、不思議な夢を見ました。
場所は行ったこともない金沢医大病院、
母がベッドから転がり落ちておなかが痛いと泣いていました…。

21世紀になって、いくつもの身近な死を見てきました。
2000年7月の母の突然の死、2004年10月のテオちゃんのガンによる死、
2004年12月のクリ君のガン死、そして2008年4月のイヴちゃんの、
今思えばガンだったかもしれない死…。

金沢医大病院は、このあいだ読んだ、多田富雄先生が倒れて入院した病院です。
母はくも膜下出血だったので、
おなかが痛くて泣いていたのはたぶんイヴちゃんだったのでしょう。

「長いトンネルのむこうに行くよ さようなら アナグマより」
という手紙を書いたあとアナグマが見た夢が、私には心に残りました。

おどろいたことにアナグマは走っているのです。
目の前には、どこまでもつづく長いトンネル。
足はしっかりと力強く、もう、つえもいりません。
からだはすばやく動くし、トンネルを行けば行くほどどんどんはやく走れます。
とうとう、ふっと地面から、うきあがったような気がしました。
まるで、からだが、なくなってしまったようなのです。
アナグマは、すっかり自由になったと感じました。

看取った母や犬たちがみんな病気で苦しい最後だった
(母はもしかしたらそうでもないかもしれないですが)ので、
アナグマのようにすっかり自由になれることが死であったならば、
楽になってよかったねと思います。

そしてもうひとつ、印象的だったのは最後のページです。
草原に立って「ありがとう、アナグマさん。」
というモグラの上に広がる空にはピンクの雲が流れています。

母が息を引き取ったのは早朝でした。
朝日が南アルプスから昇って少しした頃、弟の運転するクルマに、
前席に父、後席に母を抱いた私が乗って無言のまま病院を出ました。
誰も何もしゃべらなかった。
私は小柄な母を抱いて外を見ました。
その時の空の雲が忘れられない美しいピンクだったのです。
母は生前、自分の戒名に芳雲という文字を入れて欲しいと
お願いしていたことを後で知りました。
あの時の雲は確かに芳雲でした。

そんなことを考えているうちに、また河合先生の言葉を思い出しました。
このブログでも、カテゴリー本と雑誌の「こころの声を聴く」に書きました。

コップが存在するのではなくて、存在がコップしている。
存在が河合やっている。存在が村上やっているというと非常に近寄るものがある

ああ、そうだねと思いました。

存在が母をやっていた。存在がテオ、クリス、イヴをやっていた。
そしてみんな、また存在に戻っていったんだと。
だけど、戻っていったのは存在なんですよね。

実はこれが今日の大発見!!(…遅過ぎかなぁ、また)
存在なんです。無ではない。存在なんですよね。
だから、存在、あるってことなんですよね。

モグラは、なんだか、そばでアナグマが、聞いていてくれるような気がしました。
そうですね…きっとアナグマに…聞こえたにちがいありませんよね。

なんか今日は朝から嬉しいぞ!!
みんなに見守られている気がするぞ!!

…………

ルック君より一言
今朝も昨日の女の子(はなちゃん)に会ったよ。
はなちゃんは僕の前でリラックスしてのびのびしてくれた。
はなちゃんのお父さんも撫でてくれたよ。
いい子でしょ。


「OUTSIDE OVER THERE」

2007年07月30日 | 絵本

はい、今夜もまた、不気味な絵本の時間になりました。

今までにお伝えした樹庵の絵本では、
かいじゅう、小鬼などが登場しました。
それ以外には、わんこさんと、うんち探しのもぐら君でしたね。

今夜登場するのは、ゴブリン!!
…まあ、小鬼みたいなもんです。

なんでしょうか、樹庵の本棚は不気味ちゃんが多いのかもしれないですね。
こういう絵本を
子供に与えないお母様方もいらっしゃるようですが、
子供の世界にはなんでもありです。

私は、子供の頃は
ガイコツさんが非常に怖かった記憶があり、
「家庭の医学」を夕方、見るのは怖かったぁー。
…ならば見なければよいのに、そうっとのぞくんです。
それが決まって、裸電球がまぶしい夕方だった。
でも、今じゃガイコツさんだって、何かの絵本に堂々登場していたような…。

モーリスセンダックは、
「かいじゅうたちのいるところ」でもご紹介しましたが、
あの絵本と、この絵本では、絵がまったく違います。
表紙だけご紹介しますが、違うでしょう。

ゴブリンも、
黒いフードのマントをかぶった、子供のように小さいものたちで表現されています。
手足は子供なんですが、
顔のあるはずのフードの中は真っ黒で、そこが不気味です。

<あらすじ>

パパは船に乗って出かけてしまい、
残ったのはママとイーダと、赤ん坊の妹。
ある日、ゴブリンが妹をさらっていったのです。
ゴブリンの花嫁にするために。
怒ったイーダは、妹を探しに魔法の旅に出ます。


「うんちしたのはだれよ!」

2007年07月05日 | 絵本

<ちょっとあらすじ>

地面に顔を出した、もぐらくんのあたまにうんちが!

「うんちしたのはだれよ!」うんちを載せたまま、
もぐらくんの犯人さがしがはじまります。

ハトに聞くと、「あたしだったら、こうするわ」…ピシャッ!
ウマは「ぼくだったら、こうするさ」…ボトン ボトン!

そのたびに、もぐらくんは驚いたり感心したり。

ウサギ、ヤギ、ウシ、ブタ。
みんなうんちが違います。いったい犯人は誰だ?

<樹庵の感想>

アッハハッ。うんちって実は子供は好きなんだよ。
ウワーッと逃げながらも興味津々。

それに、ウマ、ウサギ、ヤギ、ウシ、ブタのうんちなんて、
大人のあなた、知ってますか?

ハエがうんちでおしょくじちゅうとか、
ギャーッと思うようなことが、ほのぼの描かれてます。

あッでも、今お食事中でしたか?そりゃ失礼。


「悲しい本」

2007年06月27日 | 絵本

この絵本は、はっきり言ってタイトル勝ち。

「悲しい本」ですよ。
こんなタイトルの絵本があったら、絶対に目に止まるし、手に取る。
実際、生協のカタログの、表紙の写真とタイトルだけで買ってしまった。

世にも情けない顔をしたおじさんが登場する。
彼は息子を亡くしたばかり。
悲しみを分かち合う家族は誰もいない。

彼は、息子を思い出しながら街を歩きまわる。
大声で叫んだり、物を壊したり、人にひどいこともした。
みんな悲しみのせいだ。

悲しみなんてほかの人にだってあると思ってみたり、
毎日、得意なことをしてみようと思ったり、
何か楽しいことをしてみようと思ったりする。
悲しみについて書いているうちに、死にたくなる。

…しかし、やがて自分がいろいろなものをみつめていることに気がつく。
窓辺の人々、クレーン、いっぱい人を乗せて走る電車…。
ふたたび息子の思い出に浸る。

あの子の誕生日。みんな楽しそうだった。
…そしてろうそく。…ろうそくがなくてはね。
ろうそくの炎が男の顔をあたたかく照らす。

…………

作者が、彼自身の悲しみを紛らわすために作ったと思われるこの絵本。
この本が出来上がる頃、彼は、悲しみから開放されていたと思う。

自分の悲しみからは、自分がもがき苦しまないと抜け出せない。

もし、私に悲しいことがあった直後に、
この本を誰かがくれたとしても、癒しにはならない。

同じ意味で、「千の風になって」も私には癒しにならなかった。
風になる?とんでもない。ちゃんと私のそばにいて!と思っただけだ。

「悲しい本」も「千の風になって」も、
自分の悲しみにけりがついて初めて、じんわりとしみこんでくる。